あの遠藤さんが、いよいよ東京都多摩市長選に出馬されましたよ(現:多摩青年会議所副理事長)!!!
参考:遠藤千尋氏が出馬表明 多摩市長選 – MSN産経ニュース
こりゃもう万難排してチャレンジを応援するしかないでせう。
ご関係者の方々は当然ながら、生きとし生けるものは是非、以下をご覧頂ければと。
» 多摩市長立候補者 遠藤ちひろオフィシャルホームページ ~多摩の明日を考える会~
寄付!
そして、寄付ですよ寄付。サイトから献金も出来ます。当然、原田も十二指腸を売って2億ガバスくらい献金しましたので、是非、ご興味ある方は以下からどうぞ。
» http://www.e-chihiro.com/donation.html
■遠藤さんの肖像
遠藤さんと初めて合ったのは、2002年くらいの早稲田学園祭だった気がします(参考)
そこから朝生やら、ユニストやら、長野の選挙やら、謎のテレビ番組などで色々楽しい時間を頂きました。そして、学費のために会社を創業して経営をしていた遠藤さんには色々学ばせてもらいました。
遠藤さんのおもしろエピソードはキリがないのですが、色々支障があるといけないので自重いたします。
走る男
毎週、決まった曜日に走る人がいた。
そして、毎回きっかり同じ距離を走る。5キロ程度を30分くらいで流す。距離はわからない。コースが一定、というだけだ。
かれこれ10年近くになる。
昔はタイムを付けていた。すると風邪を引いている時でも、体調がいい時でも時間は3分以内の違いに止まった。雨であろうと、真夏であろうと3分以内の誤差だった。
ある習慣化された出来事というのは、その行為者のコンディションや環境に左右されず、愚直に邁進していくものだ、という哲学を彼はひっそりと心に閉まった。きっとそれを口に出して言えば、反証や例外が出されて、彼が持つささやかな走る哲学は少し濁ったものになってしまう。
自分の哲学というのは信じるために存在するものだ。それは一種の信仰にも近い。学問としての哲学は議論によって洗練を身にまとうが個人の哲学は真冬の指先を温めるアンカのように、ひっそりと存在すべきものなのだ。
その曜日に彼は走ることを欠かすことはなかった。雨の日は音楽再生機をタオルに巻いて走った。スニーカーは3度代わったけれど、それも彼のタイムを変えることはなかった。
走り終えると、定期的なエクササイズを行う。20パターンのストレッチと腕立て・腹筋・背筋の20回を3セット。きっかり行う。これを終えないと走るという行事は終わったことにならない。正月におみくじが欠かせないように、走るという行為には適切なエクササイズが欠かせないのだ、というのも彼の信仰の1つだった。
「痩せてるね」と言われることがあるかもしれない。でも彼は「走っているから」とは言わない。「そう?」と返す。走るという行為は彼の聖なる儀式であり、それと体系や体調と切り離して考えているからだ。
雨の日やクリスマスに誰かが言うかもしれない。
「雨の日くらい休んで、明日、走れば?」と。
あるいは「クリスマスなんだから振り返れば」と。
「そうね」と彼は応えるかもしれない。でも、黙って走りに行く。いつも通り、音楽再生機を右手に、左手に鍵を。
「そういうことじゃない」と彼は自分に呟く。「この曜日に走る」と決めたら、走れる限りは走ろうと思う。もちろん天災や外部要因によっては走れないこともあるかもしれない。でも、走れるうちは走るのだ、と決めている。
「やるところまでやって、だめだったらその時考える」という別の信仰を彼は持っていた。とりあえず走れるなら走るのだ。
もっともその曜日に海外に居たり、仕事の都合でどうしても走れない時は、すぱっと彼は走るのを辞める。ただ、走れるならば、とことん走るのだ。
コーヒーを飲む時も彼は信条を持っていた。
1杯目は、入れ立てのコーヒーをブラックで飲むというものだ。ポイントは「入れ立て」という点だ。
それは、どれだけ熱くても入って1分以内に彼はそれに口をつける。「アツッ」と決まった台詞のように彼は呟く。
しかし、そろそろと彼は熱いコーヒーを口に運ぶ。
「さましてのんだら」と誰かが言うかもしれない。でも、彼は「そういうことじゃない」と独りごちる。これはもはや、コーヒーとの対峙なのだ。コーヒーが熱くあるならば、彼はそれを受け入れようと思う。
熱がるのはこちらの都合で、コーヒーが熱いのは当たり前だ、と思う。
「ミルクを入れたら」という人もいるかもしれない。
「そうじゃないんだな」と思う。ただ「できだけのコーヒーを熱いうちに飲む」という哲学は、多分そういうことではないのだ。
※この物語はフィクションであり、かつ寓話であろうとする話です。
内在する戦争
以下のニュースを見かけた。
» 「あけおめ!」イランがイスラエルに新年挨拶メールを誤送信 イスラエル側も返信「ことよろ!」:アルファルファモザイク
いい話だ、と「後で」思ったが、その前に「そういうこともあるのか」と思った。
というのも、イスラエルとイランだからだ。説明するまでもなく、深い深い溝を持った国同士。幾多の血が流れてきた歴史を持つ国。
戦争というのは、現代の日本においては、「海の向こうの話」という意識が強いから、どうしても希薄になるのだけれど、戦場は現代にも存在する。
私の拙い経験でも、やはり中央アジアや東アフリカ、イスラエルなどでは戦争があった。それが戦争という言葉で表現できるものか、あるいは、内戦という言葉で隠匿されているものかなどの違いはあれ。
血は止めどなく流れるし、死というものが日常にある。
蛇足だが、以下の村上龍氏の「海の向こうで戦争が始まる」というタイトルは秀逸だ。村上龍氏はネーミングセンスが素晴らしい。
講談社
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全てが淡々と並列
神経にピリピリくる描写にしびれる
技巧的には作者のキャリア・ハイか。
ビジョン
水墨画と詩人
そして、戦争という言葉で思い出す。
経営とは戦争だよ
という言葉。これは古来から言われているし、また、何人かの先輩からも耳にする。
実際、これは、戦争の定義をどうとらえるかによるけれど、戦は戦であろう。
ただ、それよりも問題は、今、日本に内在する見えない戦争である。
上記の「経営は戦争だ」という理論を国に当てはめてみれば、当然「経済戦争」という現実は、不適当な例えではない。
国を挙げて、経済の総力戦で各国が争っている。
戦争といえば、武器があり、主権同士の闘いがあり、または血が流れる。そのようなイメージとは違うから、気づきにくいけれども、日常で、国同士の戦いは常に生まれ、そしてどんどん進捗していく。
帝国主義時代のように領土をとられることはないけれど、お金を生命線ととらえるならば、そのお金が外に出て行き、また、戦力のKPIである頭数が減っているという現状は、戦争のメタファーから考えるにやぶさかではない。
ただ、これは今更言うまでもないことだし、日本の栄光の10年からその戦争問題は繰り返し議論されてきた(車の貿易戦争やタイムズスクエアを筆頭とする企業の買収戦争等など)。
しかし、ポイントは「そのような経済戦争は問題として正しいのか?」という思いである。
個人的に、国同士の闘いの正当性がいまいちわからない。政治学を学んだ1人として国の存在価値や、その「国民の利益を最大化するという理念」から考えれば、国をよりどころとする人々が、その帰属意識を高揚させるのは理にもかなったことである。
しかし、同時に国というのは、生まれながらに付与されてしまう所与条件であり、そのような先天的な条件をベースに戦をするというのは、なんだかフェアではないような気がする。
少なくとも個人のイデオロギーが国の総論でない以上、いくら前提条件が民主主義の制度によって国の総意が国民の総意と同義されていても、実質問題としては、建前でしかない。つまり、ベストプラクティスとしては、「人は自分のイデオロギーに沿って、自分の帰属を決定できるべき」という選択肢がある以上、上記の建前は、ベストエフォートでしかない。
つまり、「たまたま日本に生まれた」からといって、その国をベースに、経済戦争を闘うというよりどころがイマイチわからない。
スポーツを考えてみると、「チーム」は、自分の意思で決めることができるものであり(大枠は)、生まれながらにチームに所属するものではない。
とかくで、私は「国をつくる」という夢を叫ぶに至っている(端的にいえば、後天的に選択できる国籍による、帰属意識のポートフォリオ分散)。同時に私のライフワークであるブランド国家論も上記の経済戦争の問題をヘッジする方法の1つとしてしているに至る。まぁこれも別問題。これらは理論であって、現実問題はそれはそれとして別で考えなければいけない。
いま、我々が生きるのは現実であり、建前や理論の世界ではないからだ。
そこで、話を戻すと、「経済戦争が起こっている」という点は事実で正しいとする。そして、それの是非を議論するのは、別問題なので(価値観の闘争は神々の闘いに回帰するといったヴェーバー先生の箴言の通りに)、それも所与条件とする。
その上で出すべき問いは「戦争の相手は他の国なのか」あるいは「それ以外なのか?」という点である。
つまり、日本が経済で勝負しているのは、仮想敵国としては中国やアメリカをベンチマークしているような気がするけれど、それは正しいのか?という点である。もちろんこの前提に異論もあるだろうけど、大枠はそのような流れのような気がする。この辺りになってくるとマクロ経済学なので私の専門領域を超えてしまうのでツッコまれどころが増えるのだけれど、確か、国際経済は必ずしもトレードオフの力学ではなかった記憶があるが、そうならば、必ずしも敵国を想定する必要はないはずで、いわば奪いあうべきパイはかつては領土だったゆえに、排他性を持っていたけれど、経済や豊かさ、幸せなどは、不思議なことに、排他性を持っていない。もちろんある程度の排他性のメカニズムは働くけれど、それはもはや心理学の分野なので、ブータンのGNHを参考にすべし、という言葉で逃げる。
元来、アメリカは、仮想敵国をベースに成長してきた。たとえば、「フロンティア」であったり、「石油」であったり、あるいは「経済戦争」であったりした。またハリウッド映画でお約束の宇宙人や災害も、「外敵」を作ることに力を入れてきた。でないと、アメリカという人種のサラダボールはまとまらないからだ。そして、昨今は「エコ」を掲げ、「そのようなもの」に対する取り組みを国家プロジェクトで行うことで国民の共同幻想を作り出してきたし、また、それによる経済進捗を生んできた。
こんな馬車馬のような国は敵を必要とするのはわかるのだけれど、日本は、従来、農業で自分の食い物を育ててきた民族だ。ゆえに、必ずしも、戦争相手を外部に設定する必要はないのではなかろうか。もちろん、競争や相対化は学習の基本的なインセンティブのため、設定した方がイノベーションは生まれやすいから、それを否定するつもりはないけれど、もっと別の座標軸を持った方が日本らしいのではないか、と思う。
思い切り、脱線するけれど、昔から気になっているのが「お金の源泉とは何か?」という問題がある。
つまり、古来は「食べ物」がお金の変わりだった。それに貯蔵の技術が生まれ、そして、代替性として貨幣が生まれた。ここまではイメージしやすい。お金の源泉とは、農業である。
しかし、昨今は、食事をするだけならば、かなり低いコストで生きていくことができる。そう考えると、お金の源泉は農業ではない。
つまり、何を言いたいかというと、今、バイトを探せば何かはみつかるだろう(選ばなければ)。それで800円だかをもらうことはできるだろう。しかし、その800円の仕事を10億人がしたい、とすれば、その800円の仕事はなくなる。
つまり、800円の仕事の総和は限られている。では、800円の仕事の総和を増やすにはどうしたら良いか?800円の仕事をより増やすしかない。それをするには、資本家からの視点でみれば、800円の投資が800円以上のリターンを生む公式が成り立っていればよい。
よって、800円の仕事を1増やすには、800円以上の仕事を1増やす必要がある(もちろん、赤字を出す場合もあるから、実際問題は違う時もあるが、原則論はこうでないと経済が成り立たない。経済は合理的人間を前提に考える学問だ!)。
そうすると、800円以上の仕事1を増やすには・・・とエンドレスでそれは続く。よって、経済は、常に膨張を求める(ないし、労働人口の減少を必要とする)。エントロピー増大の法則みたいだ。まぁフーバーダムから言われていることだけど。
そう考えると、経済の源泉というのは「消費を創り出すこと」になるわけで、消費ってのは、競争力なんだっけ?(つまり、それは武器の代替品となるものなんだっけ?)という話に行き着く。
よって、ここでも経済戦争の問題って、何すれば誰が嬉しいの?という哲学的な問題にたどり着く。それは別段、「経済成長って善なんだっけ?アフリカの民族みたいな暮らしをしていた方がよかったんじゃね?」という牧歌的な問いかけではなく、競争力のコアって何だったけ?という素朴な疑問である。
企業でいうとコアコンピタンスだのの言葉で言われるコアな部分は定められているけれど、国レベルではそのようなものは設定されていない(国のグランドデザイン云々はあるものの、明文化はされていないし、原則的に、そんなアジテーションは企業の合理性と結びついた時にだけ有効なのであって、だからこそ政府と企業の癒着が起こるのは必然である)。
そもそも論でいえば、日本の国益さえも確か定義されていない。国の存在意義が「国益を守ること」なのに、「国益ってなーに?」とお子様に尋ねられると、日本人は誰も答えられないのだ。決まっていないんだもの。
よって結論としては、「日本の経済の敵ってなんだっけ?」「そもそも競争力の源泉ってどこに軸があるんだっけ?」というのが、最近、定義づけた質問でした。
質問が正しければ、回答はおのずと決まるという大江健三郎氏の名言に従うと答えは出ていない以上、質問の問いが悪いのかしら。ただ少なくとも1つの解は「国をつくる」のつもりだけれども。
そんなこんなをふと考える新春でした(いつぞやか「国つくる」の話をする機会があったので、ふと思い立って、一筆書きで書いてみました)。
2009年に読んだ小説 12冊。
さて。個人的に毎年行っている「その年に読んで面白かった小説」まとめ。5年目ー。
昨年は、ビジネス系の書籍に偏りまくったので、小説は30~40冊くらいしか読めていない気がします。ちなみに小説を読むのは、ほぼ電車の中のみ。
ともあれ、過去のは以下。あと今回も12冊ではないですが、12冊なのは仕様。それと、敢えてマニアックなチョイスにしてみました。
- 2005年、原田の脳髄を刺激した小説12冊
- 2006年、原田の眉間を刺激した小説12冊 (いけいけどんどん)
- 2007年、劇的に楽しませてもらった小説12作 (いけいけどんどん)
- 最強の現代青春小説 12冊
- 2008年の12冊 (いけいけどんどん)
他の本に関しては以下もご参考まで。
» 読んだ本
6位:血と骨
幻冬舎
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金俊平 一人の男して憧れる
頭が下がります
凄まじい小説
身内にいたら嫌!・・・だけど憧れる自分がいる(苦)
読む者を圧倒する骨太の骨と、熱い血
映画化もされたので有名ですが。パワーみなぎる一冊。読んだの一昨年だっけな。
あと、以下も非常に勉強になりました。
» 闇の子供たち (読んだ本)
5位:眠らない女
幻冬舎
売り上げランキング: 27496
風俗嬢の来し方行く末
いやあ、勉強になります
ふたつの世界を生きる女性たちのお話
ノンフィクション。ドキュメンタリールポ。
酒井さんの本は面白い。大枠では似たジャンルの家田荘子氏の本も良いのではないかと。たとえば以下。あと「出張ホスト」とか。
» バブルと寝た女たち (読んだ本)
4位:無間地獄
幻冬舎
売り上げランキング: 242622
暗黒ストーリー展開の妙。
金金金ば窶セい
これだけ真っ黒な暗黒小説も珍しい
スゴイ
劇画のような面白さ
ダークでダーク。裏社会系小説。
最近、小説ではこのような自分の知らない世界系やドキュメンタリ系の本を手に取ってしまう。上記の酒井さんの本とか、下記の歴史モノだとか。
他、似た系列では以下。
» 金王~池袋アンダーグラウンドの「光」と「闇 (読んだ本)
» 闇金ウシジマくん (読んだ本)
3位:浅田次郎
講談社
売り上げランキング: 840
近代中国をここまで面白く書けるとは。
浅田作品の最高峰!
こんなに夢中にさせてくれた作品は久し振りです。
後半が残念
時間を忘れます。
読み応えのある一冊。この人は文章がいい。そして、同時にたぐいまれなる人間味溢れたストーリーテラー。
お涙頂戴小説が有名だけど、歴史モノにも強し。
2位:1Q84
新潮社
売り上げランキング: 64
中身があるような、ないような・・・
BOOK1の感想
構造的
「書きっぱなし」に対して
面白い方だと思います!
これもまぁお約束。
詳細は以下。
» 1Q84(基本ネタバレなし) (いけいけどんどん)
1位:三国志
講談社
売り上げランキング: 2136
全8巻の読破もあっという間
入門者には不向き
三国志に神を見た
諸葛孔明
三国志には詩がある
正確には今年読んだのではなく、2008年の暮れ。読み終えるとしばらくは、三国志の比喩が抜けない。
諸葛孔明を知るならこの一冊。
そんな感じでした。
なぜあの人は別れたのだろう?という問いに対する答え方
たとえば、友人Aと食事に行く。すると、共通の友人Bの話になる。友人Bは、最近、恋人と別れたばかりだ。
そこでたとえばこのような問いがでる。
どうしてBは分かれてしまったんだろうね
と。
この問いに対して、回答する人の傾向は2種類に分かれる。
1つは、「理由は○だよ」と明確な回答を答えたがる人。
もう1つは「理由は○○なんじゃない」と推論を重視する人。
もちろん前者は回答を知らないと出来ない回答だから、回答比率として推測が多くなるのは当然なのだけれど、傾向としては、前者の方が多い気がする。
つまり「本人がいたら聞く人」と「聞く前に仮説を立てる人」のような。
他にもたとえばこういうこと。
友人と食事をしているとする。その店の利益を知りたくなったとする。
その場合、推測が始まるわけだが、その個々の要素(賃料/人件費/回転率/顧客単価/収容人数/原価などなど)の「本当の数字」を知りたい人と「仮説を置いて推測したい」人の2種類いるような。
こういうたとえ話を聞いたことがある(前にも書いたかなー)
あるパーティでテーブルの上にのったワイングラスが倒れた。とある推理小説家は、「そのワインがなぜ倒れたかを推測」する。しかし、あるSF作家は「そのワインがどう倒れたら面白いか」という着眼点で考える。
つまり、何が言いたいかというと、会話で「ファクト(事実)」を求める人と「プロセス」を楽しむ人のようなくくりでわかれるのではないかと。
一般的に、会話において、男性は「結論」を求め、女性は「プロセス」を重視するという。そのため、女性のとりとめもない会話に男性は辟易することになり、女性は男性の剛直な結論への意思に飽き飽きするという(伝聞推定)。
いずれにせよ、この会話の嗜好性はけっこう重要な差な気がしていて。この指向性が違うと、会話で色々ミスマッチが起こりそうな気がしないでもない。
シンプルさと寒さ
書くネタがなかったので、とりあえず時候のネタをピックアップしてみた。
クリスマスねえ。なんかあるかな。そうだ。
中学生の頃のクリスマスのお話。
その頃は学生で。学生は平日も祝日も関係がないから、クリスマスは平日であろうと祝日であろうと、セレブレートされるべき存在だった。
1年生の頃だっただろうか。友人たちとクリスマスに出かけることになった。いわゆるグループで、そこには女性もいて。
1人は男勝りな人で、もう1人は勉強が出来た女性だった。
大阪に出来た南港というモールのようなところに行った憶えがある。学校がどうだったのか憶えていないが、朝早くから出かけたと思う。朝の寒さだけがうっすらと記憶に残っている。多分、8時なんかに家を出たハズだ。
休みの日に8時からどこかに出かけるなんて、若さゆえだろう。10時以降がデフォになって大きな年月が過ぎてしまった。
いずれにせよ、男性3人、女性2人のそのメンバーで、南港をぶらぶらした。中学生が、モールなんざいってもすることはない。それに今思い返すと、なぜ「3対2」という組み合わせなのかイマイチよくわからない。その辺の法則さえも無視するような頃合いだったんだろう。
写真を撮るのを楽しんで(使い捨てカメラだったように思う。その頃は、プリントに出すという伝統的な文化が重宝されていた時期だ)。そして食事をしてゲームセンターをいって、もしかすると映画くらいは見たのかもしれない。天使にラブソングはその頃だったろうか。
そして、帰宅してメンバーの1人の家でわいわい話をした。その頃、事件が起こった。
とある発言により女性が怒り、家を飛び出してしまった。
私がその人を追いかけることになった。中学生らしからぬ、思いやりである。
自転車で出かけたその人は家の外にはいなくなっていた。その頃の自転車と今の自転車は多分、自転車の持つ意味合いが違うような気がしないでもない。その頃の自転車はいわばジュディーアンドマリーの曲にある自転車だったのだ。
いずれにせよ。
そして、私も歩いてそこかしらを探した。結局、見つけられなかった。多分5時間くらいは探しただろうと思う。
いる確率が1%を切っている場所を延々と探すのは、なかなかタフな仕事だった。ただ、その「行為」が恐らく大切だと感じていた私は、徒労という言葉を踏みつぶして歩いていた。寒い1日だった。
部屋に残された友人と女性はしらけて、適当に散会したようだ。携帯電話もない時代で、連絡も取れず、ひどいクリスマスだったように憶えている。
全てが回りくどく、厄介で、4文字熟語である「紆余曲折」という言葉を邁進するような出来事だった。
その女性がなぜ怒ってでていったのか、今でもイマイチ理解できないし、理解する努力もしていないのだが、多分、それは、そういう時期だったんだと思う。
村上氏の言葉でいう「台風がきたら、じっとして通り過ぎるまで待つんだ」というような。
でも、その頃は村上氏の書籍はしらなかったし、そもそも、世の中が複雑だなんて知るよしもなかった。
その頃に比べて物事は幾分シンプルになったような気がするけれど、この時期の寒さだけはずっと変わらぬまま年をとっていく。
オリヒメとショートショートと
世の中に「みんなで創るバッグブランド「オリヒメ」」といういけてるサービスがあります。
主に女性向けのパソコンバッグやケース、その他バッグなどを扱うオンラインショップなのですが、ユーザが自分でデザインをカスタマイズできる機能があります。
確かに女性向けのPCケースは今まであまり無かったので、素敵な感じです。
そのオリヒメを運営するのがアゲハの木下さん。大学の同窓生でもあります。
そこで、先日、お仕事でちょっと取材をさせてもらって、以下の記事に。
» ユーザー参加型の商品開発を実現するバッグのオンラインショップ「オリヒメ」:ベンチャー – CNET Japan
したらば、木下さんがブログで、わたくしめのtwitterをご紹介してくれたので、便乗して、最近、twitterで挑戦したショートショートのご紹介。
» CNETJapan掲載でお問合せ殺到中☆: オリヒメの夢
ラテンアメリカでは、特殊な役満がある。それは「中と南と北」での大三元ライクな「中南米」という役。ちなみにエジプトでは「中・東・北」を合わせた「中東北アフリカ」という役もある。みなそれを出るまでは出国できないという言い訳で日本人宿で麻雀沈没者が増えることになる。
幼稚園のころ、子供がどうしたら生まれるのかしらなかった。結婚すると「ころ合いをみて」勝手に生まれるものだと思っていた。ころ合いの判断基準は夫婦双方がどれだけ互いを好んでいるかに左右されるという判断基準があると思っていた。それが本当だったならば、もう少し世の中はまろやかだったのに。
1996年にネットをはじめた。同級生は誰も使っていない。僕は誰にもメールを送れない。一番のメール友達はMAILER-DAEMONだった。それでもOutLookの「受信中」をみるのが楽しかった。スパムでもメールがくることが嬉しかった時代があった。人は「もしかして」に支えられ生きる
アルゼンチンに入国する時に、国境で日本から持っていった薬が見つかった。1年分の薬(頭痛、腹痛、風邪薬とか)だったので確かに怪しい。しかもスペイン語で答えさせられるからめんどくさくて全部「頭痛薬だ」と回答。「どんだけ頭がおかしいんだ」と言われた。正しいツッコミだった。
切符をよくなくしていた。右ポケットに入れようと決めた。ポケットのないズボンを履くときがあった。切符は消えた。春樹氏の本で「耳の中に入れる」というのを読んで真似をした。羞恥心に負け切符は消えた。携帯SUICAを使うようになった。携帯をなくすようになった。電車にのらないようになった。
マンボウは泳ぎ方が下手だ(Wikipediaにも書かれている)。まっすぐには進めるけど、左右への移動が苦手だ。海は広いからぶつからない。では水族館では?壁にぶつかってから方法を変えることになる。永沢氏の「やれる所までやってみて、ダメだったらその時考えればいい」という言葉を思い出す
若干デフォルメしているところはあるのですが、基本的には全部、本当にあった話。
昨今はテレビ番組でもtwitterは取り上げられることが増えましたね。もしよろしければ、以下より繋がっちゃえると幸甚です。
» 原田@アルカーナ (kazuhide) on Twitter
そして、オリヒメをどぞ!
» 「みんなで創るバッグブランド「オリヒメ」
書評:「いま会社がなくなってもすぐ次が見つかる人になる33のステップ」
すぐやる人の代名詞である「豊田圭一さん」が新刊を出されたそうです。
献本御礼と共に、いくつか引用まで。
学習研究社
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こちらの本は、タイトルにあるように、ビジネスでの力を付けるための方法が紹介された本。プレゼン力や人脈力、コミュニケーション力などなど。
社会の雇用環境がより流動的になる昨今では、本書にもある自分の市場価値というものがより重要になるのでしょう。
それで思い出したのですが、先日、何かでみたニュース。
その人は社会保険庁に務めるおじさん(40だか50歳だか)。今回の削減もろもろの波に呑まれ、リストラされるとかしないとか。なぜ、その人がリストラ対象になるかというと、過去に1度、知り合いの支払い歴などをチェックして懲戒を受けた過去があるから。
それに対して彼はこう言います。「今までこれだけ働いてきたのに1度の失敗で、こんな仕打ちを受けるなんて。どうして生きていったら良いのか」と。
それを見て少しカルチャーショックを受けたのを憶えています。というのも、「給与や待遇は、その人の市場価値によって決まるものである」と考える立脚点からみれば、「いくら社保庁を首になったとはいえ、自分の能力を活かして、他の仕事をする道がある」という考え方があり、逆にいえば、「他の場所で、それだけの評価を受けることができないならば、それなりの生活をすべき」という考え方があったからです。
もっとも、日本の労働環境は終身雇用を前提とした年功序列や、転職者へのマイナス評価なども鑑みれば、確かに、その年齢でいきなり市場に出されるというのはコクかもしれません。いわば、ペットとして飼われていた室内犬がサバンナに放り出されるようなものなのかもしれないです(人を動物に例える比喩のまずさはともかく)。
まぁ、でも、ともあれ、社会というのは、そのような社会になってきており、このような「至上価値」という言葉は今後、さらに耳にするようになるのかもしれません。
以下、いくつか引用。
■テンション
仕事に必要なものって何でしょうね?」
と質問してみました。
それにタイする高瀬さんの答えが
「テンションの高さ以外にないだろ!」
■女性
男性のレビューはオブラートに包まれていることがあるのに対して、女性のレビューは往々にしてストレートであるということを指して以下。
女性は思ったことをズバっといったりします。
これ分かる気がしますね。異性からのレビューは、想定外のツッコミが多い気がします。
■ブランド品
ブランド品の仕立てが良い服をきるとそれだけで気持ちがシャキっとします。
某先輩から、そう言われたことありますな。
コンサルなら、ランチは1500円以上、ノートはモーレスキン、ペンはどこのブランドでもいいから万年筆って。
「ランチで1500円以上って探す方が時間かかるぜ先輩」と心ながらに思ったのを憶えています。
ということで、ビジネスパーソンな方々はいかがでしょうか!?
※ご関係者各位
書評10冊以上溜まっておりまして、申し訳ありません・・・。ありがとうございます!順次、拝読させて頂ければと思います。
毎日ベッドで横になり普段はあまり気にしないけど、朝はガミガミとわめき散らすもの
件名の答えは「目覚まし時計」なんだけれども。
何が言いたいかというと、世の中の「コト」「モノ」というものは、「端的に言える」存在であることが多い。
たとえばニュース。ニュースは「件名だけで内容を把握する」ということが多い。それは古来から新聞の見出しの力としてもそうだったし、ないし、昨今はWebのニュースのタイトルもそうだ。
「○○容疑者が逮捕された」というニュースは、その一行が全てを表していて、内容はその説明や詳細となる。いわゆる「釣りタイトル」だと、そのタイトルと内容が乖離するが、これは上記の「タイトルの総括性」を逆手にとった仕組みなので、包括的には、上記の法則に則っている。
何が言いたいかというと、物事や出来事は、本来、とても「シンプルで在る」ことができる存在なのに、いろいろな説明や背景や修飾や形容により、時に複雑になり、時に重奏となる。
それはそれで何も悪くないし、それを否定すると世の中では「物語」というものが存在しない。
ユリシーズだって「人の思考をトレースした前衛的な物語」で終わってしまうし、失われた時・・だって「マドレーヌの挿話が有名なあるフランス人の長い話」で終わってしまう。「アンナカレーニナ」だって、「恋愛小説」の4文字でポイントは押さえられてしまう。もちろん、そこに「ロシア文学を代表する冗長ながらもその冗長さが癖になる濃厚小説」という形容を付け加えてもいいし、あるいは「最後悲しい物語」というサブタイトルをつけてもいい。
※一応注釈しとくと、上記はある種の諧謔であり、本来は上記の一行で表せるものではない
ただ、物事は「シンプルなポイント」と「そのポイントを拡大したその他全て」の2つから成り立っているような気もする。共産主義を理解するのに「必ずしも資本論」を読むことを必須としないように(そりゃ読んでるに超したことはないけれど)、あるいは、物語を書くのに百科事典を全て頭に入れておく必要がないように、物事は「必要なポイント」があり、それの付加情報で成り立っている。もっとも、その必要なポイントは人によって異なることが多いゆえに、物語は常に長くなっていくのだけれども。
昨今のミニブログと呼ばれるtwitterなどの隆盛は、そのような「ポイント」と「その他」の文脈で考えてみると面白い。140文字以内での投稿という制約は、必然的に人に「ポイントだけを述べよ(What’s the point?)」ということを強いる。英文が、最初に総論を述べることを強いるように、時に日本人にとっては、その「ポイントだけ述べる」という行為は新しい思考を求めるかもしれない。
というのも、日本語や、あるいは日本のカルチャーは往々にして、「まどろっこしい」ことが美徳とされることがある。たとえば「京都のぶぶ漬け」や「本日はお日柄も良く・・・(時候の挨拶とかも)」、「いやいやよもスキのウチ」「これでよろしかったでしょうか?」などなど例示にはいとまがない。
多分、それはそれでとても尊いもので。少なくとも、世界が「ポイント」だけで済んでしまうならば、そもそも「人生」でさえも、余剰のたまものであることを考えると否定すべき存在になってしまう。
でも同時に「ポイント」も重要で。たとえば、こういう世界だろう。海外に行ったときに「知っている語彙だけで会話する」というような。「私 これ 欲しい」「私 ここ行きたい」「高いよ」「買わない」といった簡潔で明瞭な言葉だけがコミュニケーションを支配する。それはそれでシンプルで何か気持ちの良いものだ。つまり、シンプルさはコミュニケーションを豊穣にする。日本では、「重厚なる文章」が高貴とされているのに対し、アメリカでは「より平易でシンプルな文章」が重宝されるのにも似ているかもしれない(一元化は危険だけれど)。つまり、わかりやすさは、より多くの人との意思伝達を可能にし、そして誤解を減らすことになる。
「妹の父親を育てた人の奥さんの孫」という説明よりも「私の妹」と説明できた方が、時には便利であるように。
土曜の夜に電話するやつに碌なやつがいない
これも、メモから引用。
土曜の夜に電話するやつに碌なやつがいない
恐らく1年以上のメモなので詳細不明。多分、書籍か誰かの話の引用の気がするのだが、例のごとく不明。
ただ、ここから何かしらの物語を想像してしまう。
前にある女性からこういう話を聞いた。男性とアポを入れる時は、その親密度によって提示する日時のオプションが変わるということだ。
- 1.親密度低の下
- 2.親密度低の上
- 3.親密度中の下
- 4.親密度中の上
- 5.親密度高
平日/金のランチ
平日の夜、食事
金夜、食事
土日祝のランチ
土日祝の夜、食事
なかなか興味深い、と思った。
何が興味深いかというと、「金の夜」よりも「土日のランチ」にアポを入れる方がハードルは高いという点である。
理由は、「土日はプライベートだから」らしい。この辺りの判断基準は人によって変わるだろうが、まぁ、一例として。ただ、確かに思い返してみれば「週末は基本的に異性との予定入れない」という話は、ちらちら聞いた記憶もあるので、そういうものなのかもしれない。
もし、諸兄が、誰かと食事行く時は先方から提示されるオプションから、角度を見極めてみるのはいかがでしょう(謎
あと蛇足ながら、別の人は「食事」「映画」「カラオケ」「遊園地」などの各アクションごとの親和性を算出していた。いわく、一番、親密度が高いのは「ドライブ」だそうだ。ふむ。
まぁ、ともあれ、このように「土曜日」は、聖域らしく。土曜の夜は、ゆったり食事して、ゆっくり風呂に入って、音楽でも聴いて、パックなんかをしながら読書をしているわけである(しらんけど、想像)。
よって「土曜の夜に電話する奴に碌な奴はいない」という言葉が導きだされるわけである。もう少し正確にいうならば「土曜の夜に、突然に電話をかけてくる異性に碌な奴はいない」ということなんだろう。
ロックな感じで。