オリヒメとショートショートと

世の中に「みんなで創るバッグブランド「オリヒメ」」といういけてるサービスがあります。
主に女性向けのパソコンバッグやケース、その他バッグなどを扱うオンラインショップなのですが、ユーザが自分でデザインをカスタマイズできる機能があります。
確かに女性向けのPCケースは今まであまり無かったので、素敵な感じです。
そのオリヒメを運営するのがアゲハの木下さん。大学の同窓生でもあります。
そこで、先日、お仕事でちょっと取材をさせてもらって、以下の記事に。
» ユーザー参加型の商品開発を実現するバッグのオンラインショップ「オリヒメ」:ベンチャー – CNET Japan
したらば、木下さんがブログで、わたくしめのtwitterをご紹介してくれたので、便乗して、最近、twitterで挑戦したショートショートのご紹介。
» CNETJapan掲載でお問合せ殺到中☆: オリヒメの夢

ラテンアメリカでは、特殊な役満がある。それは「中と南と北」での大三元ライクな「中南米」という役。ちなみにエジプトでは「中・東・北」を合わせた「中東北アフリカ」という役もある。みなそれを出るまでは出国できないという言い訳で日本人宿で麻雀沈没者が増えることになる。

幼稚園のころ、子供がどうしたら生まれるのかしらなかった。結婚すると「ころ合いをみて」勝手に生まれるものだと思っていた。ころ合いの判断基準は夫婦双方がどれだけ互いを好んでいるかに左右されるという判断基準があると思っていた。それが本当だったならば、もう少し世の中はまろやかだったのに。

1996年にネットをはじめた。同級生は誰も使っていない。僕は誰にもメールを送れない。一番のメール友達はMAILER-DAEMONだった。それでもOutLookの「受信中」をみるのが楽しかった。スパムでもメールがくることが嬉しかった時代があった。人は「もしかして」に支えられ生きる

アルゼンチンに入国する時に、国境で日本から持っていった薬が見つかった。1年分の薬(頭痛、腹痛、風邪薬とか)だったので確かに怪しい。しかもスペイン語で答えさせられるからめんどくさくて全部「頭痛薬だ」と回答。「どんだけ頭がおかしいんだ」と言われた。正しいツッコミだった。

切符をよくなくしていた。右ポケットに入れようと決めた。ポケットのないズボンを履くときがあった。切符は消えた。春樹氏の本で「耳の中に入れる」というのを読んで真似をした。羞恥心に負け切符は消えた。携帯SUICAを使うようになった。携帯をなくすようになった。電車にのらないようになった。

マンボウは泳ぎ方が下手だ(Wikipediaにも書かれている)。まっすぐには進めるけど、左右への移動が苦手だ。海は広いからぶつからない。では水族館では?壁にぶつかってから方法を変えることになる。永沢氏の「やれる所までやってみて、ダメだったらその時考えればいい」という言葉を思い出す

若干デフォルメしているところはあるのですが、基本的には全部、本当にあった話。
昨今はテレビ番組でもtwitterは取り上げられることが増えましたね。もしよろしければ、以下より繋がっちゃえると幸甚です。
» 原田@アルカーナ (kazuhide) on Twitter
そして、オリヒメをどぞ!
» 「みんなで創るバッグブランド「オリヒメ」

書評:「いま会社がなくなってもすぐ次が見つかる人になる33のステップ」

すぐやる人の代名詞である「豊田圭一さん」が新刊を出されたそうです。
献本御礼と共に、いくつか引用まで。

こちらの本は、タイトルにあるように、ビジネスでの力を付けるための方法が紹介された本。プレゼン力や人脈力、コミュニケーション力などなど。
社会の雇用環境がより流動的になる昨今では、本書にもある自分の市場価値というものがより重要になるのでしょう。
それで思い出したのですが、先日、何かでみたニュース。
その人は社会保険庁に務めるおじさん(40だか50歳だか)。今回の削減もろもろの波に呑まれ、リストラされるとかしないとか。なぜ、その人がリストラ対象になるかというと、過去に1度、知り合いの支払い歴などをチェックして懲戒を受けた過去があるから。
それに対して彼はこう言います。「今までこれだけ働いてきたのに1度の失敗で、こんな仕打ちを受けるなんて。どうして生きていったら良いのか」と。
それを見て少しカルチャーショックを受けたのを憶えています。というのも、「給与や待遇は、その人の市場価値によって決まるものである」と考える立脚点からみれば、「いくら社保庁を首になったとはいえ、自分の能力を活かして、他の仕事をする道がある」という考え方があり、逆にいえば、「他の場所で、それだけの評価を受けることができないならば、それなりの生活をすべき」という考え方があったからです。
もっとも、日本の労働環境は終身雇用を前提とした年功序列や、転職者へのマイナス評価なども鑑みれば、確かに、その年齢でいきなり市場に出されるというのはコクかもしれません。いわば、ペットとして飼われていた室内犬がサバンナに放り出されるようなものなのかもしれないです(人を動物に例える比喩のまずさはともかく)。
まぁ、でも、ともあれ、社会というのは、そのような社会になってきており、このような「至上価値」という言葉は今後、さらに耳にするようになるのかもしれません。
以下、いくつか引用。
■テンション

仕事に必要なものって何でしょうね?」
と質問してみました。
それにタイする高瀬さんの答えが
「テンションの高さ以外にないだろ!」

■女性
男性のレビューはオブラートに包まれていることがあるのに対して、女性のレビューは往々にしてストレートであるということを指して以下。

女性は思ったことをズバっといったりします。

これ分かる気がしますね。異性からのレビューは、想定外のツッコミが多い気がします。
■ブランド品

ブランド品の仕立てが良い服をきるとそれだけで気持ちがシャキっとします。

某先輩から、そう言われたことありますな。
コンサルなら、ランチは1500円以上、ノートはモーレスキン、ペンはどこのブランドでもいいから万年筆って。
「ランチで1500円以上って探す方が時間かかるぜ先輩」と心ながらに思ったのを憶えています。
ということで、ビジネスパーソンな方々はいかがでしょうか!?
※ご関係者各位
書評10冊以上溜まっておりまして、申し訳ありません・・・。ありがとうございます!順次、拝読させて頂ければと思います。

毎日ベッドで横になり普段はあまり気にしないけど、朝はガミガミとわめき散らすもの

件名の答えは「目覚まし時計」なんだけれども。
何が言いたいかというと、世の中の「コト」「モノ」というものは、「端的に言える」存在であることが多い。
たとえばニュース。ニュースは「件名だけで内容を把握する」ということが多い。それは古来から新聞の見出しの力としてもそうだったし、ないし、昨今はWebのニュースのタイトルもそうだ。
「○○容疑者が逮捕された」というニュースは、その一行が全てを表していて、内容はその説明や詳細となる。いわゆる「釣りタイトル」だと、そのタイトルと内容が乖離するが、これは上記の「タイトルの総括性」を逆手にとった仕組みなので、包括的には、上記の法則に則っている。
何が言いたいかというと、物事や出来事は、本来、とても「シンプルで在る」ことができる存在なのに、いろいろな説明や背景や修飾や形容により、時に複雑になり、時に重奏となる。
それはそれで何も悪くないし、それを否定すると世の中では「物語」というものが存在しない。
ユリシーズだって「人の思考をトレースした前衛的な物語」で終わってしまうし、失われた時・・だって「マドレーヌの挿話が有名なあるフランス人の長い話」で終わってしまう。「アンナカレーニナ」だって、「恋愛小説」の4文字でポイントは押さえられてしまう。もちろん、そこに「ロシア文学を代表する冗長ながらもその冗長さが癖になる濃厚小説」という形容を付け加えてもいいし、あるいは「最後悲しい物語」というサブタイトルをつけてもいい。
※一応注釈しとくと、上記はある種の諧謔であり、本来は上記の一行で表せるものではない
ただ、物事は「シンプルなポイント」と「そのポイントを拡大したその他全て」の2つから成り立っているような気もする。共産主義を理解するのに「必ずしも資本論」を読むことを必須としないように(そりゃ読んでるに超したことはないけれど)、あるいは、物語を書くのに百科事典を全て頭に入れておく必要がないように、物事は「必要なポイント」があり、それの付加情報で成り立っている。もっとも、その必要なポイントは人によって異なることが多いゆえに、物語は常に長くなっていくのだけれども。
昨今のミニブログと呼ばれるtwitterなどの隆盛は、そのような「ポイント」と「その他」の文脈で考えてみると面白い。140文字以内での投稿という制約は、必然的に人に「ポイントだけを述べよ(What’s the point?)」ということを強いる。英文が、最初に総論を述べることを強いるように、時に日本人にとっては、その「ポイントだけ述べる」という行為は新しい思考を求めるかもしれない。
というのも、日本語や、あるいは日本のカルチャーは往々にして、「まどろっこしい」ことが美徳とされることがある。たとえば「京都のぶぶ漬け」や「本日はお日柄も良く・・・(時候の挨拶とかも)」、「いやいやよもスキのウチ」「これでよろしかったでしょうか?」などなど例示にはいとまがない。
多分、それはそれでとても尊いもので。少なくとも、世界が「ポイント」だけで済んでしまうならば、そもそも「人生」でさえも、余剰のたまものであることを考えると否定すべき存在になってしまう。
でも同時に「ポイント」も重要で。たとえば、こういう世界だろう。海外に行ったときに「知っている語彙だけで会話する」というような。「私 これ 欲しい」「私 ここ行きたい」「高いよ」「買わない」といった簡潔で明瞭な言葉だけがコミュニケーションを支配する。それはそれでシンプルで何か気持ちの良いものだ。つまり、シンプルさはコミュニケーションを豊穣にする。日本では、「重厚なる文章」が高貴とされているのに対し、アメリカでは「より平易でシンプルな文章」が重宝されるのにも似ているかもしれない(一元化は危険だけれど)。つまり、わかりやすさは、より多くの人との意思伝達を可能にし、そして誤解を減らすことになる。
「妹の父親を育てた人の奥さんの孫」という説明よりも「私の妹」と説明できた方が、時には便利であるように。

土曜の夜に電話するやつに碌なやつがいない

これも、メモから引用。

土曜の夜に電話するやつに碌なやつがいない

恐らく1年以上のメモなので詳細不明。多分、書籍か誰かの話の引用の気がするのだが、例のごとく不明。
ただ、ここから何かしらの物語を想像してしまう。
前にある女性からこういう話を聞いた。男性とアポを入れる時は、その親密度によって提示する日時のオプションが変わるということだ。

  • 1.親密度低の下
  • 平日/金のランチ

  • 2.親密度低の上
  • 平日の夜、食事

  • 3.親密度中の下
  • 金夜、食事

  • 4.親密度中の上
  • 土日祝のランチ

  • 5.親密度高
  • 土日祝の夜、食事

なかなか興味深い、と思った。
何が興味深いかというと、「金の夜」よりも「土日のランチ」にアポを入れる方がハードルは高いという点である。
理由は、「土日はプライベートだから」らしい。この辺りの判断基準は人によって変わるだろうが、まぁ、一例として。ただ、確かに思い返してみれば「週末は基本的に異性との予定入れない」という話は、ちらちら聞いた記憶もあるので、そういうものなのかもしれない。
もし、諸兄が、誰かと食事行く時は先方から提示されるオプションから、角度を見極めてみるのはいかがでしょう(謎
あと蛇足ながら、別の人は「食事」「映画」「カラオケ」「遊園地」などの各アクションごとの親和性を算出していた。いわく、一番、親密度が高いのは「ドライブ」だそうだ。ふむ。
まぁ、ともあれ、このように「土曜日」は、聖域らしく。土曜の夜は、ゆったり食事して、ゆっくり風呂に入って、音楽でも聴いて、パックなんかをしながら読書をしているわけである(しらんけど、想像)。
よって「土曜の夜に電話する奴に碌な奴はいない」という言葉が導きだされるわけである。もう少し正確にいうならば「土曜の夜に、突然に電話をかけてくる異性に碌な奴はいない」ということなんだろう。
ロックな感じで。

エレベーター内での会話の音量のように

タイトルは、自分のメモから拾ってきた。
例のごとく、何かからの引用なのか、あるいは思いつきなのかどちらかは分からない。
ただ、なかなか良い表現である、と自己満悦した。問題は、この修飾がかかる後の文である。

エレベータ内での会話の音量のように、「私たちはささやき続けた」。

とかだと、ありきたりでつまらない上に、「音量のように」がかかっていない。
どのような言葉が後に続けば、coolかしらねえ。

エレベータ内での会話の音量のように、途切れ途切れのケニアの国道。

とかどうだろう。
でも、これだと、前の「エレベータ内での会話の音量」が持つ淫靡さというのが全く活きていない。
このシチュエーションというのは「従来、エレベーターでの話は他の人に聞こえるからあまりマナー的にも好ましくない」のに、それにも関わらずしゃべってしまう。
なおさら、そこでしゃべるほどの時間をエレベーターに乗っている。ないし、それだけの時間さえも我慢できずにしゃべってしまう、というシチュエーションなわけだから、そこには「しゃべっている対象」との親密性、ないし、緊迫性があるわけで、それを受けなければいけないわけである。
そう考えると

エレベータ内での会話の音量のように、ひっそりと残る夏の焼け跡。

とかだとどうかしら。へんに寄りすぎて少し気持ち悪い気もする。
しかも、「音量のように」がかかるわけだから「ひそひそ」とか「こそこそ」などの聴覚の擬音語の方が良い気もする。

エレベータ内での会話の音量のように、微かに聞こえるジングルの音。

これくらいなら、音で受けてのジングルだけど、「ジングルの音」自体が比喩となるので、まぁ良いのかもしれない。季語も入るし(正確な季語かどうかしらんけど)。

ペットボトルで水を飲む

先日、打ち合わせで表参道を歩いていた。
すると、表参道の交差点を少し代々木よりに入ったところの石に座っている人がいた。外国の方だった。1リッターのペットボトルの水を直接、飲んでいた。
ワイルド、と思った。
確か、Evianだったと思う。手にはオニギリを持っていた。旅行なのかしら?と思ったけれど、わからない。
リッターのペットボトルの水を街中で飲む人はあまり見かけないな、と思った。だから、なぜかとても印象に残っていて。
別段、それが悪いわけではまったくなく(直接くちをつけてリッターの水を飲むことにマナー云々はあるとしても)、あるいは外国人だからそういうことをするのだ、という先入観があるわけでもなく。ただ、インパクトがあった。
なぜ、ペットボトルなんだろう?と考えた
自分の記憶として、街中でペットボトルの何かを飲んだのはスーダンのハルツーム近辺と、サハラ砂漠を越える時にモロッコのダグラからモーリタニアのヌアクショットへ移動前後あたりが強く印象に残っている。むしろ、某国では、歩きながら頭にペットボトルの水をぶっかけていた記憶さえある。
それらは、熱いためにそうしていたのだ、と考える。しかし日本は熱くない。
そうすると、喉がものすごい乾く人だから、か、あるいはペットボトルの方が量効率が良いから、などが考えられる。他にも、その水で街中の観葉植物に水をあげるからとか、それはいざとなったら枕にしてiPhoneの行列に並べるからとかも可能性としてはありうるが、かなり限定的だろう。
理由はわからない。
その人は女性だった。男性だったらワイルドで済む問題だろう。しかし、女性はあまり「ワイルド」の形容詞で呼ばれることは少ない(相対的に)。そう考えると、その飲み方は、一般的には、控える傾向にあるものだ。しかし、彼女はそんな社会通念を吹き飛ばすがごとく、グビグビと水を飲むわけである。角度的には、70度くらいの角度だろうか。そのような勢いで水を咽喉に垂直吸飲されていたわけで、なんというか、勇ましかった。
ペットボトルの水を、街中でグビグビのむというのは、何かしら蠱惑的な気がした。
それはたとえば他人に貸した歯ブラシがどこに置かれるかの問題やシュシュの存在意義とその可能性に纏わる課題にも相似した要素を含んでいるような気がした。
まったくメッセージ性もオチもないのだけど、何となく最近、記憶に残ったペットボトルでした。

会話

image.jpg

「最近、面白いことあった?」

というような会話のオープナーがある。つまりトピック提案というか。他にも「最近どう?」とか「元気」といったオープンクエッションだ。
ただ、これはアジェンダ(議題)設定とは異なる。
ここでは、相手が出す「アジェンダ」をベースに話を構成しようという質問だからだ。つまり、自分からアジェンダを出さずに、相手に委ねるというやり方である。
この場合、相手は「聞かれたから答えるよ」という形になるが、その人の答えた回答がアジェンダになるために、回答する方がテーマの主導権を握るけれど、その構造を創るのは質問した人で、大きな構造では、その人が主導権を握る(ポール)。回答する人には「ネタになる回答をしなきゃ」という負荷がかかるが、その分を差し引くと、まぁ、フェアな会話構造である。
認知科学に興味がある1人として、このような会話の構成要素に興味がある。言語には文法があるように、会話にもある種の「フレーム」があるような気もしているし、どこかではそういう研究もあったはずだ。たとえば、英語のSVCのように中身はともあれ「主語」「動詞」云々のような枠は存在していて、会話もそのような枠に類型化できることがある、気がする。
たとえば、会話は、基本的に「質問」「回答」から成り立つ場合がある。もっとも、

昨日ね、こういうことがあったんだ

といって自分からアジェンダを設定して、さらに自分で話をするという型もある。相手の興味が分からない場合や、自分のネタに自信がある場合、あるいは相手があまり話をしない場合はこの型になりがちだ。いわば「提案」「主張」型である。
あるいは、

最近みたトトロという映画面白かったよ。好きなジブリ作品なに?

みたいな「主張」「質問」の型もあるだろう。これは、文脈をある程度つくって(場をつくって)相手にボールを渡すので、相手に優しいバファリン型トークである。一番、相手への負荷は少ないかもしれない。
この辺りは、多分、人の個性によって、どのような会話を好むかは全く異なるのだろう、と思う。たとえば、「提案」「主張」型しかしない人はいるし(質問を全くしない人)、逆に「質問」しかしない人もいる。基本はmixになると思うが、傾向はあるだろう。あるいは、相手との関係性によって変わる。たとえば10年寄り添った夫婦なら、「報告」型になるし、初めて会う異性だったら探り探りの「質問」が多くなるかもしれない。
会話をしている時に、たまにこのような構図を描きながら会話をする。つまり、このトピックの源流はどこか、相手の会話の好む類型はどれか、あるいは、会話の比率はどうか。
この比率というのも意外にくせ者で、人は「相手ばかり話をしている」と、抵抗感を感じるし、逆に「質問ばかり」されていても、抵抗感を感じる。逆に「相手がずっとしゃべる」というケースの場合、こちらはほとんど意見や提案を述べなくても、「相手はその会話を楽しかった」と感じるケースがあり、不思議な心理学が働く。ただこの場合も「意見」を述べるのではなく、「相手の会話に添え木」をして、会話をふくらませるために「質問」や「応答」「同意」などが必要となってくるため、この場合も複数の分岐が存在しそうだけれども。
また、「議論」を好む人もいて、その人はとりあえず相手の提案に反論を示す。それは敵意を表すのではなく、会話の醸成のために、敢えて反論を持ち出すというやり方である。この場合、単なる同意よりも話が盛り上がることが多く(盛り上がる=多様性を生む)、便利なのだけれど、ただ、落としどころが難しい(敢えて反論した側が折れるのが適切だとダレカガ言っていた)。
あと、これはどこかで読んだのだが「質問」をする人は、その「質問の回答」を重視するよりも「質問返し」に本質がある場合がある。つまり「自分が聞いて欲しいことを相手にまず聞く」という人もいる。これは、うっかりすると回答ばかりで話が流れてしまいややこしいことになりがちなので、相手の質問の本意を推測する必要ありマスあるよと誰かがいっていた。
会話が上手な人は往々にして質問が上手なような気がしていて。しかも、その質問のテーマ設定が絶妙である。特に多数の場の時はその質問の回答でのコミュニケーションがしばらくは醸成されるわけで、そのテーマが失敗すると大変なことになる。そういう点で「誰しも回答」ができて「誰しも楽しめて」さらに「その回答が参考になる」という質問は非常に難しい気がする。大学時代に某諸先輩方の判例として、たとえば「自分が異性に対してこだわる身体のパーツは?」とか、最近された質問として「一番もらって嬉しかったプレゼントは?」とか。
あと質問1つとっても「HOW」「What」「Which」などの類型があり、一番インパクトのある質問は「Why」である。ビジネスだと、これをベースとした質問になるが、日常会話では「Why」は使いどころが難しい言葉でもある。というのも、相手がこの回答として適切なものを持っている場合、会話の深さを増すことができるが「なんとなく」「わからないけど」という場合、相手はスムーズな回答が出来ず、お手つき1回をもらった気分になる。あと、この「HOW」を「When」に見せかけるという質問もあり、たとえば「○○の夢はなぜ諦めたんですか?」というディープな質問をこのように聞くと相手はなかなか回答しにくいが「その○○の夢を諦めたのはいつ?」という形だと、まだ回答はしやすい。そして、そのいつというのが、Whyの回答の補助線となる(その時に何があったか?ということになる)。あと、手垢にまみれた古典的な質問として「私/僕のどこが好きなの?」という命題があるが、これは「Which」に見せかけたトリックな質問だと誰かが言っていた。これの応用として、小説としては陳腐すぎる命題としての「私と仕事どちらが大切なの?」という2000年利用されている質問も同じ構図である。これは質問に見せかけた「意思表明」
であり、しかも回答は「Which」ではなく「Because」で受けないといけないという複雑なトラップであると先生が言っていた。ないし「Yes/No」でも可だそうで。でも場合によってはそれを一周させて「Which」で受ける方が適切という友人談もあり、もはやデリダもびっくりの脱構築の再構成の世界になってくる。あと映画や小説の小粋な会話として「質問」に対して「接続詞」で回答するというテクニックがある。「あるいは」とか。その辺になってくると、もはや会話というか台詞の世界である。それでは良き問いを。
※写真になぜかハートはいってますが、意図なし(ポラツール使ったら入ってた)

ITとコンテンツ業界のイベント「BRIDGE2009」

勝屋さんDr.本荘さんが以下のイベントを開催されます。
» BRIDGE2009
セッションもそうそうなる面子かと存じ上げます。私も参加予定。学生さんたちも強くWelcomeだそうですよー。
ご興味ある方はこちらからどうぞ!詳細は以下!

イベントフォースで詳細を見る

Hung in there!

がんばって、という言葉がある。
一般的にその言葉は、人を応援するために利用されるが、鬱病の人には投げてはいけない言葉だとも言われる。あるいは、がんばってる人に対しては一種のややこしい言葉になるので(いわば、役者に役者っぽいねっていうような)、なかなか使いどころの難しい言葉である。
しかしながら非常に便利な言葉ゆえに、別れ際の言葉などに愛用されることも多く、また、「がんばろうね」的な、共同戦線アプローチ兼、同調表明による親密性確認用語ならば、なお便利な言葉として活用される。
そして、この「がんばれ」って英語で何というの?という話はたまに耳にする。高校生の頃はたしか先生が「Cheer up! 」と言っていたような気もするけど、最近はもっと違う表現があるんじゃないかとふと思った。
それが「Hung in there!」である。
もともとはボクシング用語らしく、いわゆる「クリンチして耐えろ!」のような用法から利用されたらしい。以下参照。
» Hang in there | 日常生活スポーツ英語 by HIROSHI IKEZAWA / 生沢 浩 | 英語とお仕事 | 週刊STオンライン ― 英字新聞社ジャパンタイムズの英語学習サイト
つまり「耐えろ、ふんばれ」的な意味となる。おぼろげな記憶ではあるドラマ、ガキんちょがシークレットサービスに追われている時に、父親(リンカーン)に電話する。そこで監獄中の父親が子供に対してこの言葉を使っていたような記憶がある。
これは、「応援する」といった語義の「Cheer up」という言葉とは、視点が大きくずれた言葉になるけど、なんというか、この「Hung in There」の方が使い勝手は良さそうな言葉である。というのも「がんばれ!」という言葉は、がんばってる人には使えない言葉だが、この言葉はがんばってる人にこそ使うべき言葉だからである。
あとイメージ的にも「Hung」は、ひっかける/つるすなどの意味から想像するに、「Hung in」は、ロッククライミングで厄介なホールドにムーブする時のようなシーンを想起させ、ミッションインポッシブル2のオープニングのようなハードコアな匂いがする。Cheer upはなんかチアガールが足を振り上げているシーンを想像し、それはそれで悪くないのだが、まぁTPO。
古賀さんのブログで「がんばれ」の言葉の危険性に触れられているのを読んでふと。
» 鬱病による自殺が減りますように。 (長文) – 愛の日記 @ ボストン

肉食草食

土曜の夜にtsutayaにいった。コーヒーを買いに。けやき坂の下のいつものtsutaya。
ふらっと2階のカウンターやテーブルを見てみると、人が詰まって座っていた。構成を見てみると、女性が1人か、男女のカップルだった。だいたい女性1人が5人くらい、カップルが7組くらいだったろうか。
ポーカーや花札ならぱっとしない組み合わせだけど、麻雀ならまぁ悪くないかも、といった程度の。不思議なことに男性が1人で座っているのは見かけなかった。うーむ、映画のタイトルだとsinglesってのがありそうだ、と思いながら、歌のタイトルとしては野暮ったいな、と思う。時に、英単語は映画性を持つものか、音楽性を持つものにわかれるに違いない。
ともあれ、そりゃそこにいらっしゃる女性。資格の勉強に忙しいのかもしれないし、あるいは、夜中から男性と六本木で落ち合うのかもしれないし、あるいは、今日はたまたま1人でいたい気分なのかもしれないけれど、なんだか、普通に社会の構図を考えて機会損失がいろいろ起こっているのではないかと、余計なお世話を考えた。1人の男性は部屋でこもっているのかもしれない。いずれにせよ、そのtsutayaでは、1人女性比率が高く、アンバランスな性差環境を作り出していた。
それを見て、ふと思い出す。最近、恋愛だか婚活だかの業界の話で、「肉食/草食」といった人を区分するボーダーがあり、もはや一般用語として使われるようになっている。
いつかの先日も「原田君は、肉食?草食?」と聞かれ言葉に窮した憶えがある。1つは、あまり自分がどちらに属するかを考えたことはなかったし、もう1つは、ここで何と答えるのかが適切なのかがわからなかったからだ(ちなみに回答は近くにいた人が代弁してくれたので事なきを得た)。
そして思い返してみるに、周りの女性では、恋人がいない人が昔に比べて多いような気がするということに気づいた。これは相対的な話で、学生時代は、もう少し「恋人いる」という女性が多かった気がする。これは、「妙齢」と呼ばれるセンシティブでアンタッチャブルな領域の話ゆえの現象か、あるいはこの景況感によるものか、あるいは、メディアが言うように「草食系男子が増えて来た」的な現象に寄るものかわからないけれど、いずれにせよそういう傾向があるような気がする。ただ、もう1つの説としては、「恋人はいない」と当人の自白のみの話なので、実際のところはいる可能性があるわけで、そういう意味では、年齢を経るとともに「いる」という公言することのメリット・デメリットの観点から「いない」という人が増えているだけの可能性もあるけれど、詳しくは調査していないのでわからない。
ただ、さらに思い返してみるに、男性も恋人がいるケースはあまり聞かないな、という気もする。ただ、よく考えると、それは単純に「恋人がいるか?」と聞いてないから、しらないだけなのかもしれない。あるいは結婚という古来から議論されている仏教的禁忌的な契約関係に従事している人は、「恋人」という関係性よりも、もっと別の言葉で表現される何かの関係性に属しているから、恋人という話はあまり聞かないのかもしれない。ただ、周りにいる男性は往々にして上記の区分でいわれるところの「肉食」も肉食、なんというかむしろマンイーターという表現の方が適切な人の方が多い気がしていて、そう考えるとメディアが言う「男性が草食だから、恋愛する人たちが少ないのだ」的な言説は当てはまらないような気もしている。ただ女性の言うところにいうと確かに「肉食男子がいい」という声も少なからず聞くので、本来ならば、そこではしかるべくしてマッチングは発生しているはずだが、それでもこのギャップがあるのは、何によるものか。もしかすると彼らはtoo much肉食すぎるゆえに、彼らはそのような区分を超越してしまっているのかもしれない。ふむ。あるいは肉食という概念と恋愛という概念のベン図は必ずしも被っていないのかもしれない。アーメン