今日、ふらふらと駅を歩いておりました。
アニメならば、「とぼとぼ」という効果音が付くような。理由はねむすぎてです。ですから、「ふらふら」のほうがやはり適切のようで御座います。
そして電車に乗りました。徒然と考え事をしている間に電車は目的地につきます。目的地につかない電車はなく、電車のない駅もありません。でも、駅のない町はあるし、目的地に着かない人生だってありますけれど。
駅におりました。夜の23時を回っていたでしょうか。世間の人々は少々くたびれた時間帯です。しかも月曜日。だれだってテンションが下がり気味です。タカ派だってひよっちゃう時間帯。言うならば。
そこで、ある紳士が。そう。まさに紳士と形容せざるを得ないような御仁。
ハットにちょびひげ。そしてアランミクリの眼鏡(想像)。濃紺のスーツ、ストライプ入り。これでステッキさえあれば、と思ったものです。もっともこれは後で思い返したことなのですが。
そこで、彼は電車に飛び乗ろうとしました。私は電車から降りましたゆえに、彼は逆のほうから向かってきた、とお考え下さいませ。
世の中にある「タイミング」という魔が存在しまして、彼は急がないと電車に乗られない状況です。「電車しまりまーす」と駅長さんがおっしゃっている頃合だとお考えくださいませい。ドアが「プシュウゥ」と擬音語を上げる頃合です。
そこで、彼は何か所用があったのか、少し駆け足になりました。紳士なので走ることはしません。しかし、急いで電車に向かいました。うまくいけば間に合う。そんなタイミングです。
そこで事件が起こりました。
突然、柱から飛び出してきた男の方がいました。その方に紳士の方はぶつかりそうになりました。軽くぶつかったのかも知れません。
しかし、それでも、そのまま電車に飛び乗れば乗れるタイミングでした。だって、あと1メートルの距離だったのですから。
しかし彼はそうしませんでした。そのぶつかった人に向き直り、ちゃんと顔を見て「すいませんでした」と延べました。急がず、抑揚の効いた声で(ここは若干、原田の遠めからの創作が入ってますが)。ともあれ、確かに彼はいちいち体を逆に向けて、その男の人に謝りました。両足をそろえて。
彼は悪くなかったのです。いや、よしんば折半としましょう。急に出てきた男の人も悪かったのです。
しかし案の定、電車がいってしまいました。彼が走りながら謝っていれば間に合ったでしょう。でも、彼はまず謝ることを選んでしまいました。眼前でしまるドアを見て、彼は、少し目線を落とし、ふぅとため息をつきました。そしてハットを少し触りました。
それだけのことです。
でも、私は、そこに何か人生を感じ取らずには居られませんでした。「人生ってば、やっぱりそうなんだよなぁ」と。
急ぐのもよし、金を稼ぐことや、キャリアアップや、あるいは目的に向かって邁進することはよいことです。でも、それによって、ぶつかった相手に謝ることができないのは、とても悲しいよな、と思ってしまったのです。彼は、恋人の元に急いでいたのか、あるいは、トイレに行きたかったのか理由はわかりません。
でも、人への礼を失してまで急ぐほどの用事は、彼にはなかったのでしょう。彼にとっては、何かしら、小さな守るべきものがあって、それを大切にして生きていくことが大切だったのだろうか、と私は想像します。想像するしかないのですが、でも、彼の所作から、そう想像してしまったので御座います。
人生何するもよし。失うもよし。笑うもよし。泣くもよし。しかし、紳士の所作を忘れないで起きたいなぁ、と思うのです。いくらえせであろうとも。
今夜の出来事はまさしくそのことをじんわり思い返させてくれた出来事でした。
#川上弘美風を目指したけど、どこかで間違った文体になってしまった。誰の文体だろう、これ。急に出てきた。
いつの頃からか電車の中で
ちょっとした電車のお話。
私は生涯、電車通勤をしたことがなかった。小学校と中学校は歩いて。高校と大学と社会人の初期は自転車で。
最近はよく電車に乗る。
電車に乗ると、本を読む以外の選択肢がなかった。以前、本好きの友人と話していたのだけれど、「もし本を持たずに電車に乗ってしまったら、キオスクで何でもいいから活字買うよね」と言われて、強く同意した覚えがある。
別段、活字中毒というわけでなく、単純に、手ぶらで電車に乗れないのだろうと思う。自分の場合は。貧乏性だ。さらに、間違って携帯電話でも手慰みにいじろうならば、自己嫌悪することしきり。
以前誰かと(覚えているけど)、それで論争をしたこともある気がする。「電車の中で携帯電話をいじるのはやめてくれ」と。
いまや電車の中で、携帯電話を触っていない人がいれば、その人はDSを触っていて。何かしら非常に物悲しくなってくる。誰かはそのシーンを「美しくない」と一刀両断していた。しかりしかり。
電車の中で誰もがipodを聞きながら電話に親指をすべらせている光景は誰が見たって(この場合の誰が見たってという論拠は主観なので、実は、これはeverybody is nobodyのレトリックだがともあれ煽りの文脈ではそれは一時的には有効)、美しくない。
ともあれ、「時間を効率的に使っているんだよ」と反論されてぐうの音もでなかった覚えもあるけれど(効率性至上主義を公言している身としては)。でも、時には、効率性よりも美意識の方が上位概念、だろっ(決め台詞風)。
で、何をするかというと、本を読む。
本は電車の中で読むものだ、というくらい、電車の中のほかの過ごし方を知らなかった。
しかし、ここ最近、電車の中で本を読んでいない。もってはいるのだけど。
代わりに、電車の中の人々や風景を眺めることが多くなった。ぼんやりと物憂げな考え事をしたままに。そして、ふと思った。
世界は、みなに対して平等の世界。だけれども、それをどう見るかは個人個人によって違うのだ、と。
つまり、電車の中の風景。中に乗っている人たちにとっては、まったく同じ風景が見えているわけです。寸分の違いもない。もちろんセクハラしている人とかいれば、まぁ、その思惑の分だけ電車内はカルカチュアライズ(あれ、なんか違う)されているけど。
でも、その同じ風景を見ていても、感じ取る思いってのは人それぞれ違って。
もっとも、これは当たり前の話だし、今更言うものでもないけれども、まぁ待って。
その感じ取る思いの違いは一つは歴史(経験)の違い。たとえば、林檎が落ちたのを見たからって誰しもが重力の発見に気付かないように、それに気付くには、それ相応の知識量がいる。それを時に人は経験や歴史と呼ぶのだけれど。
そしてもう1つは志向性。つまり、何を考えているかで、その人が見える世界は変わってくる。たとえば、明日のプレゼンテーションの企画案を考えている人にとっては電車内で見た傘がきっかけで新しい企画を思い浮かぶかも知れない。あるいは、受験生だったら、電車の中の大学生を見て、見果てぬ夢を追うのかも知れない。
ともあれ、外界を見て、私たちが違う世界を見るのはざっくり言って(あくまでもざっくり言ってという前提つき)上記の2点による違いが大きいのだと思われる。
これは、故人が「人間は見たいものを見る」という1文で指摘した認知心理学の根幹を成すものだけれども。
でも、時に、何気ない風景が、ある人にとっては歴史を変えるほどの事実をアフォーダンスしている。「ほら、ここにいるよ」と呼びかけている。あたかも、ジプリの世界にざわめくフェアリーテイルのごとく。
いわゆるこれは、コリンウィルソンの言う「アウトサイダー」が見る世界にも繋がるかも知れない。確か、彼が喝破したのは「アウトサイダーとは、見えない世界が見える人々のことだ」と言っていた。
この本は、なかなかおすすめですよ。昔はやった本だけど色あせないと思う。もっとも8年くらい前に読んだきりだから今読むと詰まらないのかも。でも、今まで覚えているくらいだからやっぱり面白かったのだろう。
集英社 (1988/02)
売り上げランキング: 351412
ともあれ、そのように、「みなと同じ風景を見ているのに違うものを見てしまう人々」がいる。
私のもっとも愛する誌から引用するならば下記に該当する。
四角い穴に丸い杭を打ち込むように
物事をまるで違う目で見る人たち
彼らは、四角い穴に丸い杭を打ち込むのだ。世界がまったく別のものに見えている。
そんなことを電車に乗りながら考えていた。そして、僕が見ているこの風景も時に人にとっては冥府へのいざないとなり、あるいは天国への架け橋になるのでせう、と。メタファーでもなく、1つの眼前たる事実として。
で、ここまでは、まぁ当たり前といえば当たり前のことを考えていたんだけど、何が言いたいかというと、そんな時に本は読めなくなってしまった、という話。
なんとなく。
本はプッシュをしてくれるけど、やはり人にとってはプルが大切なんじゃないかなぁと(ここは比ゆ的な意味でのプッシュ/プル、テクニカな意味ではない)。そう思った。
本で得る知識も大切だし、時に携帯電話で繋がるコミュニケーションは大切だろう。あるいは電車の刹那の会話も有意義なこともあるだろう。でも、時に、電車の空間に浮かぶ泡沫たる思いを慰めるのも一興なんじゃないかな、と。
いつの頃からか電車の中でそう思い始めた。
ちょっとした疎外感の略称。言わば暫定的
なんだかとてもとても深く深く潜っていた。長い眠りだった。
夢を記憶していたのは今年に入って初めてのことだった。とても嫌な夢だった。地引網に引っかかって足が取れなくて、とろうとしてさらに腕が絡まって。そんなあり地獄のような。結局、毛布に絡まった足が暖房の熱気に晒され汗ばんでいた。夢と現実はそうそう大差ない。
自分を蝶と勘違いした傲慢な男は孟子だったな荘氏だったか。いずれにせよ、人生は長いなんていうのは一つの形容詞であって、なんら事実でもないし、新しい発見でもない。寧ろ、厳密に言うならば人生とは時間の積み重ねであり、それは即ち、今、目の前にしている1分1分が積み重なったものでしかなくて。だから、この空虚かあるいは混雑した1分が引き伸ばされたんものが即ち人生と。勿論、量は質を転化させるのだから、一概には言えないけれど原則としてはそうなるのだ。原理主義はクラップだけど、でもやっぱり原則は大切だ。憲法なき刑法はない。前文のない憲法はあるけれど、多分。
いつか友達の友達の話を聞いた。その彼は一度聞いた物事を忘れない。まるでGoogle先生がリアルで歩いているような人間だ。何か過去にあった雑学は全て奇麗に記憶されている。すてきな脳だな、と思った。そんな脳が自分は持っていたらどうするだろう、と思った。けど、やはり持っていないわけで考えるだけ無駄と思って口笛を吹いた。春の小川はさらさら。その友達も小学校で最初に習ったひらがなを覚えていた。「つ」だそうだ。ふーん、と思った。
曰く記憶力が良くない、という人の話を聞いた。7割のことを忘れてしまう。その人は幸せなのだろうか、不幸せなのだろうか。多分、前者なのかしら?と思った。傍目から見れば、ということだけれども。
シーシュポスの神話が好きだ。
シシュポスは罰として、タルタロスで巨大な岩を山頂まで上げるよう命じられた。岩はゼウスが姿を変えたときのものと同じ大きさといわれる。シシュポスがあと少しで山頂に届くというところまで岩を上げたところで、岩はその重みで底まで転がり落ちてしまうのである。これが永遠に繰り返されている。
つまり山の上に岩を転がして持ち上げるように命じられたシジフォス。でも、頂上に上ったところで岩の置く場所はない。また転がって落ちていってしまう。エンドレスなアップサイドダウン。インサイドアウト。
カミュはこれを是としたのかあるいはどう解釈したのか。また読み直さなきゃな、と思った。実家の本棚、多分、遠藤周作の横に直してある。遠藤・周作。
晩御飯に豆腐を2丁食べて見た。思いつきの挑戦だった。そのお陰で、今、猛烈な腹痛におそわれている。肥満化した豆腐腹。鈍痛。豆腐の仕返し。醤油くらいかけてあげればよかった。でも、ただ真っ白な豆腐をただ真っ白なボールにぶちまけたときの気持ちよさを誰が止められるだろうか。醤油なんてお呼びじゃない。多分。
駅でとても印象的な人を見て。かっこいいとか、奇麗とかそんなんじゃなくて。何かしらを超越した容貌。まるで初めて太陽の塔を見た時のような。確か、大江戸線の六本木ですれ違ったんだと思う。あの黒い円柱のすぐ横で。思わず息を呑んで。確か、その時、丁度ipodでは、Daydream Believerがかかっていて。
The six o’clock alarm would never ring.
But it rings and I rise,
でも、現実には何も変わらなくて。流砂に流れ行く朝6時過ぎの慟哭とでもいうような。そして、また結局、長い長い六本木の大江戸線を上っていくことになりのだけれど。クラップ。say Crap!
豆腐の怒りが収まらない。oh daddy
そして気付いた。あと半年で夏だ。夏だったよ、諸氏。思わず飲めないビールを冷蔵庫から出してきて口につける。そして、夏のDVD。今年の夏はどんな夏だろうか。夏は年ごとに顔を変える。時に易しく、時に切なく。まるで、人が「夏」ということを聞いて、思い出す単語が異なるように。蚊取り線香や花火や、麦わら帽子や。サザンの唄で思い出した。一番好きな歌「素敵な夢を叶えましょう」。エピソードはこうだ。昔、少し携わっていた夜のお仕事。そのお店で先輩がこれを歌った。ちょうどアルバム「さくら」が出たところだった。難波の夜明け、朝4時に聞こえる寂しげな歌声。なんだかとても印象深くで。夏の終わりだった。その歌詞にこういうものがある。
南十字に戯れる星空に願いを
ジンバブエで初めて見た南十字星を思い出した。本当に十字、だった。ジンバブエの怒号と狂騒が入り混じってまさに、願いを祈りたくなるような星だった。日本からずっとずっと遠いアフリカの大地はとても熱く。
それを人は夢と呼ぶんだぜ、maybe。
【お知らせ】学生さんとかを激烈募集中の巻
突然ですが。龍吾と「あることしよう!」ということになったのですが、せっかくならば沢山の人でやった方が面白いので、突然ですが学生さんを激烈募集です、尋常じゃなく。学生さんじゃなくても良いのですがやはり時間ある学生さんの方が良いかなと思う次第。無尽蔵に募集していますので、ご興味のある方は原田までメールくれると嬉しいです。花びら回転出血大入り大サービスです。メールアドレスは、 info@kazuhide.com です。物で釣るという方法も駆使しようと今、思いつきましたのでメールくれた人には拙著「SNSほげほげ」あげます。「自腹で買った」奴が3冊ほどあるので3冊分くらいは。これでメールこなかったら寂しいので、誰か付き合いでメール下さい。オトナへの階段です。興味本位でちょこっと参加するだけでもありです。あ、何をするかは一切書いてないのは、特に他意はないのですがメールくれたらお伝えしますです。でメールみて詰まんなさそうなら辞めちゃいましょう。Comeonjoinusです。物凄いゆるゆるですいません。よろ
家入さんの「こんな僕でも社長になれた」を読んだ
いやー。2回泣いた。しかも電車の中で。さらには電車乗り過ごした。赤羽橋で降りなくちゃいけないのに、大門まで行ってしまった。
ご存知ペパボの大社長、家入さんの本。
わたくしめ、こういった立志伝を読むのはとても好きなのだけれど、その中でも、本書は非常に独特の雰囲気を持った一冊でした。そもそもビジネスの項と前半の項の割合からして独特。
ではいつもどおり、少々引用させて頂いてご紹介。
絵本を読んでもらっていた幼きころの家入さん。しかし、毎回同じなので飽きてきた。そこで・・・
より新しい面白さを求めて、今度は同じ絵本を後ろからさかさまに読んでもらうのだ。
の下りには素直に感動した。この発想すごい、とか。
これはきっと人類が正常位にあきてバックをはじめたのと同じ原理だな(動物的にはバックが基本で正常位がイレギュラーだとしても)。そうして文化は発達していくのだ、多分。
そんなわけで、気がついた時には僕は電車に飛び乗っていた。とにかく遠くへ行けば何とかなると思ったのだ。
ここは共感した。僕も高校生にもなってしていた気がする。授業に嫌気がさすと大阪城にいって寝てた。。そういえば山田詠美の「僕は勉強ができない」の最後らへんにもこういうシーンなかったっけ。電車に揺られて遠くまでいくの。なんか、そういうのには、何かしらのイデアがあるのかも知れない。
そう思い立った瞬間の僕には、実行する以外の選択肢はなかったのだ。
先日読んだ水曜の朝、午前三時で引用されていたキルケゴールのセリフを思い出した。
人間は選択した瞬間に飛躍する。
これですよ。はらくくった時に人間は生まれ変わるのですよ。多分。
考えれば考えるほど絶望的な状況だった。下手すれば巻き添えを食ってペパボまで倒産、なんてことになりかねない事態。
(・・・落ち着け、落ち着かなくちゃ)
僕は一旦深呼吸をして、椅子に深く座りなおした。
このシーンがとても好きだった。
人生、いきてたらこういうシーンってばよく直面して。まさに口がからからになる、というような。そんなことを追体験してしまったシーンでした。
ゲシュタルト崩壊しない範囲で自分の記憶を思い返すならば、うーん、、、、アメリカで事故った時とか?
もう血の味が口に充満するわけですよね。ピンポンじゃないけど「鉄の味」って奴。あーやだやだ。精神衛生上にそんな記憶を思い出すのは良くない。
どんな困難にも真っ向から立ち向かうことがよしとされる世の中でとにかくひたすら、逃げ続けることに全力を注いできた。
この逃亡で思い出したのはフロムでも、ハリソンフォードでもなくこちら。
「逃げる」っつーことは良いことだ。
私は、逃避または逃亡を多くの場合良しとする。
~中略~
すべてを引き受ける覚悟を決めてさあ逃げよう。
逃げて逃げて。。逃げまくった先には青い空。
とりあえず熱いコーヒーでも飲んで、
明日の朝の目覚ましでもかけようか。
この文章読んだ時、かなり衝撃を受けた覚えがあり。なんつー超越した哲学だと。何があったんだと。壮。それを思い出しました。こういった価値観、つまり、一般的に「マイノリティ」とする価値観を自分のものにするには、相当のプロセスを経る必要があるのではないか疑惑があり、そもそも、本質的にマイノリティの価値観があった人でも、世間体というものからそれとの違和感を感じて、それがコンプレックス(精神の複雑性)をうんでいるという前提があり、それにより時にはアイロニックになったり、自我の崩壊にも直面するわけで、そのため、それを持っているだけでもそのような副作用があるのに、あまつさえそれを自分のものにするには、適切なプロセスを踏まないと自我と社会との軋轢を生んで齟齬が生み、その違和感がいつしかホメオスタシスを破壊するのではないかと思うわけで、その適切なプロセスとはまぁ経験であったり、あるいは超越した意志やあるいは宗教なのだろうけど、ともあれこんなことを僭越ながら僕が邪推しても何も生まないわけで、、こうマイノリティの価値観を是とできるということはかっこよいなぁ、と思う次第。
というように、色んなことを考えてしまった一冊でした。
週末は本を読んでいましたよ
先週末は、またも引きこもって本棚片づけまくっていた。
で、ひややかに本のメモ用のブログがあるんだが、片付けるついでにポストしていった。2日間で50冊ほどレビューできて充実。そのままダンボールにつめて7箱は大阪に旅立った。ということで、せっかくなので、本多さんの「Finedays」レビューを。
ちなみにこのFINEDAYSも短編集だったのだが、おすすめの一冊。MISSINGとこれがおすすめ。
僕は50音で埋まっていた原稿用紙をひっくり返し、
裏に「反省文」というタイトルをつけて「すごくしてます」と書いた。
それだけではいくら何でも愛想がないような気がして、
少し考え、付け足した。「本当です」
なんかいいよね。このどこにもたどり着けない感が。しいて言うならば、薬局でロシア語を使って煙草を値切る、という風景が思い浮かぶよ。ピロシキもったロシア人。すげーツバ飛ばすの(イメージです)。で、薬局のおばあちゃん苦笑い。
ともあれ。反省文ねえ。中学校の時1回あったかなぁ。どうせ遠足にポカリもっていったから、とかいうメタ牧歌的。まるで、地獄の黙示録の前の静けさを現すほど平和な時代だったよ。
まさか安井がそんなことをするとは思っていなかったけど責任というものは結果にともなうものあって、意志に伴うものではない。
はい、これインポルタンテ。復唱はい。責任は意志に伴うのではなく結果に伴う。はい。
これが何を意味するかというと、「手を出すつもりじゃなかったんだよ!」という言い訳を全否定することに使えますね。
「でも、やったんだろ!」みたいな。ありがち。
非常に深い。結婚式で読み上げたい一句ですね。
次、大学の教授と助手(女)の会話。
「ツトム。すらっと背が高くて、育ちのいいハムスターみたいな顔をした男の子」
「覚えていませんね」
「ほら、いつもゼミのとき、教室の片隅で便秘気味のパリサイ派みたいな顔で座っている」
お通じに悩む厳格なユダヤ教徒みたいな顔をした育ちのいいハムスター。
私の想像力を超えていた。
「いたかもしれませんね」と私は面倒臭くなって妥協した
これずるいよ。本多さん、明らかに狙ってるのに笑ってしまった。パリサイ派とか、凄いところついてくるし。微妙に知っているけど、日常では絶対つかえへん、みたいな。うまいなぁ。
あと最後の1行好き。
「めんどくさくなって妥協」。こういう妥協が人生を彩るよね。何事も、「鈍すれば通ズ」ってのは詰まらん。妥協がいいというわけじゃないけれど。
で、話の続き。ツトム君を心配する教授。
「ゼミに友達がいないみたいなんだよ、彼」
「趣味がいいんでしょう」
なんて素晴しい返しなんだと。
これこそが宮田君の電光石火のカウンターですよ。これは人生の色々なシーンで活用することができます。
それではごきげんよう。
「リスクを読む」ということとHIV検査」に関する相関関係
週末はどうしても一気に書いてしまう。今日4本目?
で、リスクの話をちょっと。
ふと思ったのです。たとえば、家の扉を鍵かけずにたまに家を出る人ってどれくらい居るのだろう?と。ちょっとコンビニ、とか、ちょっとゴミだしにとか。
で、私はつい、それってばリスクとりすぎじゃない?と思うのでございます。たとえ空き巣に入られる可能性が1万日に1回の確率しかなかったとしてもね。現実的には「非現実」な可能性だとしても、それはやっぱり、個人的には取れないリスクなのですよ。
どういうことかというと計算するとそうなるから。
たとえばこうしよう。空き巣に入られた時のダメージが、1万ダメージだとする。それに比例してサイフ落とすとかは100ダメージとかね。空き巣をここまで高く見積もっているのは、単純に私のPCが織り込まれているからというだけにすぎないのだけど。あと外付けHDDとか。まぁ、印鑑とか通帳とかはまぁどうでもいいとして。
で、そう考えると、中学生でもならった計算。密度と量の物理学になるわけです。
つまり起こる可能性が1万分の1。で、起こった時のダメージが1万。掛け合われると1。このリスクは1なわけですよ。これって何っていうんだったっけ?期待値?忘れた。で、相対的に、風邪をひくとかが100日に1日でダメージが10とかで、リスク期待値が0.1。留年する可能性が10分の1でダメージが-100で期待値が-10とかね。で、相対的に部屋のかぎかけるリスクが高いから、それはとりあえずヘッジするようになる、と。
まぁ、いいや。で、リスクを見積もるってことはそういうことだと原田は認識しているだがどうだろうか。
あるいはシュレッダーでもいいや。いちいちシュレッダーに通して書類を捨てるわけですよ。そんなんが悪用される可能性はほぼないとしても万が一起こった時のダメージと掛け合わせると、それだけのヘッジをする方が「利益がある」わけです。
だってさー、空き巣もそうだけど、鍵をかけるのは10秒とかでしょう。毎日でも3600秒。1時間ですよ。で、期待値1のダメージをどう時間に変換するかだけど、まぁ、個人的価値観から言えば、1時間よりもダメージが大きいから常に鍵をかけるわけです。
そして、常にエイズ検査にいくわけですよ。そりゃ、エイズになる可能性は「超単純に」どんぶり勘定したら、んと、「10万人/1億人」で千分の1か。なわけです。
でもエイズになった時のダメージは2億くらいなわけですよ。そう考えるとゴムするか検査いくか(この場合は性病検査。エイズになるのは性病になっていると感染確率が跳ね上がる。ゆえに、性病検査に定期的にいくことはエイズの感染を避けることにも繋がる)をしていくのは、ちゃんと理にかなったヘッジ方法なんです。
僕、つねにさー、合う人合う人みんなに「検査いけー」「検査いけー」と叫んでいるのだけど、まったく声が届いてないのだがどういうことだ。3人くらいはいってくれた気がするけど。みな「そんなん大丈夫」とかいうけど、背景の計算にはこういう見積もりがあるわけですよね。
で、リスクを取るっていうのは、つまり、無茶するとか、バカするということではまったくないわけです。個人的にはね、これ全部。一般的なリスク論とは別。
つまり、なんかをする時に、期待値さえ出せば良いわけでしょ。いわゆるハイリスクハイリターンの法則ですわな。で、それまで僕ってば触れ幅だと思っていたのですよ。
つまりすっゲーあたるか、すっげー失敗するかどうかがハイリスクハイリターンだと思っていた。最近、ちょっと違う認識がある。ハイリスクハイリターンってのは、成功する確率は低いけど、あたったときの効用が非常に大きいケースもそれに当たるのではないかとふと思ってみた。そう考えると、ローリスクハイリターンはありえる気がする。どういうことかというと、その新しい定義によると、マイナスが生まれるかどうかは別問題だから。
たとえばー、そうだねー。恋愛とかそうじゃない?たとえば高嶺の花。落とせる確率は低い。でも落とせるとむちゃくちゃハッピー。で、この場合、失敗しても何も失わない。完璧なローリスクハイリターンの世界じゃないですか。と、これはそういえば中学校の頃から力説していた覚えがあるけど、高木君覚えてくれているかしら?ただ、最近は、失うものが色々できたので、こんな無茶できなくなったという弁明はしておかなければならないだろう。
まぁうん。
で、リスク見積もりには、その数値的に出す方法ともう1つあると思っていて。それが一番大きいマイナスが生じた場合に、それを引き受ける覚悟があるかどうか、という点。
つまりさ、リスクを取るってのは、バカするわけじゃないのですよ。何か、それをした時に「最悪の事態」が生じても、腹をくくってそれを受け入れられるか。それをリスクを取るっていうんじゃないかなぁ、と思うのです。で、次が大事なんだけど、これを認識してこそ、リスクヘッジができる。
リスクヘッジも色々な見方があるけど、原田の見方では、ということですが。つまり、ドルの一点買いじゃなくて、ユーロを買うのもリスクヘッジだけど、人生においては、もう少し別のヘッジになるんじゃないかなぁ。あるいは、まぁ、ポートフォリオを組むとも言うのかも知れないけど。
どういうことかというと、たとえば、そうねー。就職浪人の話とかだとわかりやすいかしら。普通に就職できたかも知れないけど、いいところにいこうとして浪人する人いますよね。これはリスク取っているのか、ただのピーターパンなのかは本人次第で判断できません。でも、リスクを見積もるならば「うまく行く確率」×「うまく言った時の効用」と、現状のままのリスクを比較さえすれば答えはでる。で、もう1つのみつもりとして「浪人してもどこにもいけなかった場合」ということに対して、その恐怖に打ち勝てるか。その状況を受け入れられるか、を決めなくちゃいけない。で、これができると、もしどこにも受からなかった場合、ではどうするか?と打ち手を考えられるわけですよね、多分。それはたとえば、資格の勉強かも知れないし、あるいは親に先に言っておいて「2回浪人させてくれ」と交渉するとか、あるいは大学の先生に体売って、別のところ押さえておくとか。このヘッジができていないと、もろに最大限のダメージを食らうことになってアベシってなるわけですよ。ふぅ。
よく言われるように、「リスクをとらないのが1番のリスクだ」という人もいる。これってば、実は失敗したときに、それが糧になる効用とかを織り込んだ数字だと個人的には思っている。それを除くと、一概にこういうことは言えないとおもう。数字的に。
たとえば大企業いっている人がさ、「このままいるのはリスクが大きい」と起業して成功する確率と効用を考えると、居座っていた方が期待値は大きい気がする。客観的に考えて。ただ、でも、そうだ。よく思うのが、「いけいけ」な人って、いけいけなほど、がんがんまだ進もうとしているよね。具体的に言えば、そうだねー。英語できる人ほど、さらにブラッシュアップしようと、Podキャスティングで英語きいたりCNN見たり。あるいは、金持ほど、ビジネスの本やセミナーに投資している。そう考えるとさ、「何もしていない人」と「いけいけ」な人の差ってのは乗数的に開いていくみたいですね。だからどうって言う話じゃないんだけど、最近、数字的に理解したというか。、ああ、これは前に時間の記事で書いたことか。ここに書いてました。
で、まぁ何が言いたいかというと、エイズ検査いけってことだ。
これでリスク三部作(今、命名)終了。
追伸:
で、あそうだ、HIV検査の件。なんで、こういつも言うかというと言わなきゃかわんないわけですよ。ほっといたら、誰も検査なんていかない。そうすると、ネットワーク効果でどんどんキャリアは増えていく。逆に、こうやって叫び続けていけば少しの人はいってくれる。で、その人たちはまた周りに「いけ」っていってくれる。そうすると今は行っていないマイノリティの人たちがいつしか逆転する。そうすると逆カスケード効果で、一気にキャリアは減る。
個人的には性病云々とかよりもさ、やっぱり普通に考えてそういう死をつかさどる病に悩む人が多い国って良くないと思うわけですよ。で、よくないと思うなら声に出さなくちゃいけないわけで。行動しなくちゃいけないわけで。だから、いけいけいっているわけです。下記参照。
(業務連絡的)コメント欄のお詫びとコメント考
いや失礼!
頂いていた10件以上のコメントがスパムフィルターにかかってた!ずっと気付かなかった。ごめんなさい。
さっき自分でコメントして反映されないのでチェックしてたら、えらいことになっていた。ご迷惑おかけしました。全部スパムから開放して、レスさせて頂きましたで候。
ブログリニューアルしてから、うまくいかんなぁ。とりあえずフィルターのハードルを下げた。一般的なコメントは全てOKになっているはず。しょうがないからちょっとこれからプラグインでも入れよう(自分用メモ)。
話変わるけど、ブログって、やってて手ごたえが意外とないんだよね。そりゃトラックバックもらえば解かるけど、こういう私事ばっかりかいてりゃTBはレアで。
アクセス解析すれば、ある程度の人の動きは見えるけど、それってば匿名の人々で。
そう考えるとコメントって、ブログやってて、唯一、コミュニケーションが取れる場な気がする。長くブログしてはる人は共感してくれると思うけど。コメントってとても嬉しいよね?それだけが、やっぱりある程度の、反応を見れる、みたいな。
SNSに比べてインターフェイスとかの問題があるしね、コメントはブログだとどうしても難しい側面があるのだけれど。なんか、もっとよいUIないのかね。ブログにおいて。
あと、オフラインでブログの話が出ることがたまーにあるので、それくらい?そう考えると、ブログって、なんだかさばくに水を上げている気分。だからコメントは荒野に咲いた一輪の花、と改めて御礼を申す次第。
コメントくださいます方、本当にありがとうございます。
【ゴミ】びっくりするくらいどうでも良いこと
ふとメッセンジャーのコンタクトリストを見ていて気付いた。
名前のイニシャルを「M」にする人がとてつもなく多いということに。いや、まぁ名前がMなケースなのだろうけど。
オンラインのMの人含めるとここからさらに4人+。累計18人もMの人がいるわけですよ。おかしくね?
これには何らかしら神々の紋章が刻まれているのではないかと分析。
まず「M」が何を意味するかというと、これは紛れもなくマゾですよ。すれっからしのマゾ。純度99.99%。水に沈む。
つまり、世の中にはマゾが溢れ返っているという示唆ですね。これファクト1。いわばMの歩行者天国。
次に、Mといえば、M&M。チョコレートか。いまいちだなぁ。次。
MaxのMでありMinimamのM。つまり両極端ということを示唆しているわけだな。世の中の女性はすべからく両面を持っていると。それがS極でありM極であり、世の中は須らくマグネットであると。
他、どんなファインディングがありますかね。
昔、聴いたはなしで、「浮気するなら、相手の呼び名は名前で呼ぶのではなく、一定の呼称で呼べ」というアドバイスを誰かに聞いたことがある。つまり、まぁ相手の名前を呼び間違えても良いようになんだろうね。かなりどうでも良い話だけど、
で、何がいいたいかというと、このMは「My○○」の略称なのではないかと。つまり、「MySweetie」とか「MyLove」とか「MrGentle」とか。なんか、そういうニックネーム。それにより、浮気のミスリーディングによるアービットラージを仕掛けているに違いない。謎
もうびっくりするくらいどうでもいいことを書いてしまった。自分で呆れる。
ラブソングとブルーハーツ
p>ちょいとブルーハーツを改めて聴く機会があって。
で、「リンダリンダ」で思い出したのが、「代表的ラブソング」って何だろう、てなことをふと考えた。
で、選曲基準は同世代の人が「10人中8~9人が知っている曲」という縛りで考えてみた。で、まぁベタベタな曲ってことだけど。あと邦楽。で男性がうたってるやつ。
そうすると「いとしのエリー」もまぁ外せないだろう。レイチャールズがカバーするくらいだから許してあげてください。
で、あとは難しいなぁ、とか思った。てか、リンダとエリーと名前で選んだっていうのもあり。結婚式で歌われる曲として考えると、フジイフミヤのTRUE LOVEが手堅いところか。でも個人的にあんまり知らないのでパス。
で、ああ、売れた曲で言えば尾崎豊の「OH MY LITTLE GIRL」も記録的なヒットだった気がする。あと、有名どころで言えば、ミスターチルドさんか。ラブソングって何だったんだろう?個人的な記憶で言えばやはり「CROSS ROAD」か。
他にも色々ありそうやけどなぁ。Bzとか?でもBzの唄あんまりしらんからなぁ。小町エンジェルうんぬんかんぬん?知らないのでパス。あと1曲くらい出したいところ。んーんーんー。あースピッツとか?わからんなぁでもどれが良いラブソングなのか。あの時代って他に誰いたかなぁ。しゃらんきゅーとか?でも謎だなぁ。なんかあった気がするけど、思い出せないなぁ。んーんーんーんー。まぁいいや。以上。
リンダリンダ:ブルーハーツ
サザンオールスターズ:いとしのエリー
尾崎豊:OH MY LITTLE GIRL
MrChildren:CROSS ROAD
で、ブルーハーツをちょっと調べていた。
で、下記エピソードに笑った。
司会の古舘伊知郎から「インディーズから突然メジャーになった心境は?」の問いに、「インド人のことはあんまりわかんないです」と適当に答えるヒロト。
ブルーハーツ最近、人気復活しているみたいね。で、たまーに話に出るのがブルーハーツのベストは何か?というまぁ誰も傷つかない四方山話。TRAIN=TRAINは根強い人気。他に挙がるのは女性だったら「キスしてほしい」がよく出る気がする。あと、満遍なく人気なのはやはり「情熱のバラ」「終わらない歌」「人にやさしく」とか?マニアックで「僕の右手」。
#今日、スピードブログってのを個人的に試していたのだけどやっぱり1エントリー頑張っても20分くらいはかかるなぁ。書きたいのが色々あるのだけれどもごもご。まぁでも大分かけたから良しとしよう。