2010年面白かった小説10冊

さて、年末なので今年読んだ本のおさらい。

バックナンバーは以下。

母数として、今年読んだ小説は100物語、前後。移動が多かったので(海外/大阪等)、その時に5~10冊をまとめ読み、みたいな感じでした。

以下、記憶に残っている「面白かった」ものを並べてみました(記憶から墜ちているのも多そうだけど・・・)。傾向としてはやはり「青春系」「文章上手系(構成よりも)」に惹かれる模様。

10位:石田 衣良:愛がいない部屋

愛がいない部屋 (集英社文庫)
石田 衣良
集英社
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私の中で「恋愛小説を読みたい時に手に取ってしまう作家」の位置づけである石田さん(辻仁成氏からリプレイス。女性版は山田詠美氏)。

これはマンションをベースにした短編集。

他にも今年は、40、オトナの片思い(アンソロジー)など相変わらず手に取ってしまう石田さんの本。

なお、上記は「マンション」を軸にしているけれど、吉田さんの「初恋温泉 (集英社文庫)」は温泉軸。

温泉がテーマの小説は珍しく、楽しく読めた。

9位:グロテスク:桐野 夏生

グロテスク〈上〉 (文春文庫)
桐野 夏生
文藝春秋
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桐野さんの本は、いつも「読むの重い・・・」と思いながらも手を取らずに得られないという不思議な魅力を持っている。

内容も暗くてヘビーなのに、ぐいぐい読んでしまう。これはお嬢様校出身の女のコの堕落論的な物語。

正確に言えば、過去に話題になった東電OK事件を元にしている一冊。これが面白かったら会わせて「東電OL殺人事件 (新潮文庫)」を読まれることもオススメします。

なお、他にミステリーとしては「冷たい校舎の時は止まる (上) (講談社ノベルズ)」は楽しく読んだ。似たミステリーとしては「イニシエーション・ラブ (文春文庫)」もそれなりに面白かった。

8位:ザ・ドロップアウト:高崎 ケン

ザ・ドロップアウト (アルファポリス文庫)
高崎 ケン
アルファポリス
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小説というか自伝。概要を引用すると

一流大学を卒業し、一流企業に就職。絵に描いたように順風満帆な人生…のはずだったのに、現実はどうだろう。金のために、夢や自由を捨てて、意に沿わない仕事に従事する日々。本当のオレはこんなじゃない!がつんと上司に退職願いを叩きつけ、新たな一歩を踏み出したものの、待っていたのは厳しい下流生活だった!ホスト、AV男優、テレビAD、バーテン、そして派遣社員としての地獄のような毎日…勢いに任せ退社した男が歩んだ屈辱と再生の道。―これは、もう一人のあなたの青春物語。

な感じ。高橋歩氏を少し髣髴させる(ベクトルが違うのであくまでも少しだけだけど)。

7位:虐殺器官:伊藤 計劃

虐殺器官 (ハヤカワ文庫JA)
伊藤 計劃
早川書房
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けんすうに教えてもらって読んだ一冊。

今は文庫化?され平積みになってますね。

SF小説で、ガンダム/エヴァ+ミッションインポッシブル/メタルギアソリッド的な。マッチョな一冊。

ただ、散髪屋のお姉さんに「おすすめ本は?」と聞かれて紹介したところ、それなりに楽しんで読んだそうなので、女性も好きな人はいるかも知れない(大きいくくりでは西尾維新に近い?)

ただ、夭折されてしまったそうで悲しい限り。

6位:アッコちゃんの時代:林 真理子

アッコちゃんの時代
アッコちゃんの時代

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林 真理子
新潮社
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田口さんの記事きっかけで読む。

バブル期の女性が主人公(実在の話をベースに)。古き良き時代の六本木等の話も多く、なんだか切なく読んだ。

関連(六本木繋がり?)としては甘粕さんの「みちたりた痛み 」や家田さんの「縄張り―死の六本木抗争 (祥伝社文庫)」なんかも面白かった。

5位:月曜の朝、ぼくたちは:井伏 洋介

月曜の朝、ぼくたちは (幻冬舎文庫)
井伏 洋介
幻冬舎
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青春モノ。学生時代の友人たちが30前後?になった時の物語。

転職あり、結婚あり、起業ありなどなど。自分との年齢の親和性からか面白く読んだ。

この作者の本は初めて。他何か有名なのあるのかな?

4位:夜は短し歩けよ乙女:森見 登美彦

夜は短し歩けよ乙女 (角川文庫)
森見 登美彦
角川グループパブリッシング
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森見 登美彦氏は、2007年に「水曜の朝、午前三時」をピックアップして以来。

森見ワールド的な世界観と癖のある文章(パクチー的な)は、ハマルと楽しい。
※個人的には「四畳半神話大系」 はピンと来ず。

また、蛇足だけど、「歩く関連」としては、恩田さんの夜のピクニック (新潮文庫)、奥田さんの「真夜中のマーチ (集英社文庫)」はピンとこなかった。

なお、似た作風として揚げられることが多い万城目氏ですが、鴨川ホルモー (角川文庫)は個人な趣味ではなかったのだけど、話のネタにはちらちら出た一冊。映画化の関係かな?あとインパクトのあるタイトル。

なお、森見さんと舞台も文体もなんか似てると思ったらホゲホゲという話を聞く。

3位:ストーリーセラー

Story Seller (新潮文庫)
Story Seller (新潮文庫)

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新潮社
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アンソロジーを選ぶことは滅多にないのですが、この一冊は印象に残っているため。

というか具体的には有川さんの「ストーリーセラー」が傑出。あと米澤穂信氏「玉野五十鈴の誉れ」 、ストーリーセラー2の「伊坂幸太郎の合コンの話」の3編が白眉。

2位:不毛地帯

不毛地帯 (第1巻) (新潮文庫 (や-5-40))
山崎 豊子
新潮社
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テレビ化された影響で読む(ドラマは見てないから解らない)。高度経済成長期の商社の話。

この影響で山崎氏の「沈まぬ太陽」「白い巨塔」「華麗なる一族」も読んだが、全てレベル高くて驚愕。

さすが元記者。ドキュメンタリーとして読める。今まで喰わず嫌いだったのを猛省。

1位:水滸伝:北方謙三

水滸伝 1 曙光の章 (集英社文庫 き 3-44)
北方 謙三
集英社
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ぶっちぎりの面白さで貪り読んだ。全19巻。

中国の「水滸伝」を下敷きにしてふくらませた一冊。ストーリーの面白さに加え、北方節が全快でぐいぐい読ませる。

氏の三国志も面白いが、水滸伝は三国志よりも自由に書いており、また三国志の経験を踏まえた文章が力強く、こちらがマッチベター。

梁山泊というと日本だと社名を思い浮かべる人もいるかもしれませんが、これとそれは全く関係なし。慣用句でたまにでる「水滸伝」の元ですね。

ストーリーはWikipediaによると

時代は北宋末期、汚職官吏や不正がはびこる世の中。様々な事情で世間からはじき出された好漢(英雄)たちが、大小の戦いを経て梁山泊と呼ばれる自然の要塞に集結する。彼らはやがて、「悪徳官吏を打倒し、国を救う」事を目指すようになる。

108人が結集していく様子は、ギリシア神話からドラゴンボールなどにも流れている英雄奇譚的な骨子。

なお続編の楊令伝も最近、完了したとか。その後はさらに第三部もあるという長編。

トマトはドM

トマトはドMだそうである。

どういうことかというと、トマトは厳しい環境下で育てた方が、よりしっかり育つそうだ。

そんな話を聞いて、厳しい調教を受けているトマトを想像する。

村上春樹の小説で「明治屋の野菜は、夜中、調教を受けている」というようなフレーズがあった。実際、明治屋の野菜価格プレミアムは、そのような特殊な技能による価値なのかもしれない。

そもそもトマトの赤みが猥雑ささえも持っているように誤認してしまう。そしてあのキッチュな赤色とあの卑猥な曲線との組み合わせは、アールヌーボーとポップアートの邂逅かとまで勘ぐってしまう。嘘だけれど。

いずれにせよトマトはもっと評価されてしかるべき食べ物である。

たとえばカプレーゼ。あのトマトのシンプルかつパンチの効いた効用は、トマトでしか果たせない大役である。そして何よりモッツァレラとの絶妙なる色の配合は最早、自然の神秘とでも言えよう、とか云々。

そういえば、最近、トマトに関する本を読んだ。

確か、ブラッディマリーに関する物語だ。

ブラッディマリーは、ご存じカクテルの一種。ウォッカとトマトジュースの配合で、タバスコをプラスアルファ。

そのカクテル名「ブラッディマリー」に関する物語。

そうそう。Story Seller〈2〉 (新潮文庫)だ。この中の沢木さんの物語。

蛇足だけど、このSutory sellerの1を友人から進めてもらって読んだのだが、めっぽう面白かった。

有名作家の中編集だが、どれもパンチが効いている。その中でも、有川浩の「ストーリー・セラー」 がオススメと伺ったのだが、これがまた何とも秀逸。是非、ご一読下さい。

話を戻すと、そのブラッディマリーの名前には、ブラッディ(血)のメタファーがトマトに使われている。いわば、トマトは血を表すのである。

だからこそトマトは何かしら妖艶さを持っているのかもしれない。

よく考えると料理にトマトってよく散在しているような気がする。

オムライス(ケチャップ)、カレー(生トマト)、パスタ(トマトベース)、ピザ(ソース)etcetc。

ああ、イタリアンや洋モノには活躍するってことか。そういえば、世界三大祭りといえば、リオのカーニバル、岸和田のだんじり祭り(嘘)、スペインのトマト祭りですが、そう考えると、まだトマト祭りだけ参加できておらず、一生のToDoに入っています まる

あとフルーツトマト。あれは最早、トマトの領域を凌駕して、次世代トマト領域に入ったのではないだろうかと日々考えている。

野菜なのにフルーツという二律背反を違和感なく両立させてしまうハレンチさは、トマトだけが許される横暴なんではないだろうか。

とかなんとか阿呆なこといってないで寝よう。よきトマトライフを。

めんどくささの美学

最近になって「めんどくささの美学」とでも言うようなものを理解できるようになった。少しづつだけれど。

どういうことかというと、人は元来めんどくさがりやである。あらゆるものは理路整然と綺麗に効率的に並べられている方が好まれる。オペレーションエクサレンス。ロジスティクス最適化。

たとえば、机から手の届く範囲に本棚があると便利だし、システムキッチンな合理性、ないし、帰社時にあるコンビニの便利さ、とかとか。

で、個人的にも従来は、そのような効率性原理主義でした。

でも、最近、ふと「めんどくさい(遠回り/手を煩わせる)」ということが大切な時もあるような気もしないでもない、と思う時がある。

たとえば。わかりやすい例で言えば収納。

机の周りに全てをおいておけば便利である。しかし、そうすると机の周りがモノだらけになる。

あまり使わないものは、戸棚へ。あるいは収納へ納めておく必要がある。

あるいは靴。靴をメンテする人がいる。

汚れを落として、ワックスを塗って、ブラシで磨いて。

これって、使い捨ての靴には必要ない。メンテはめんどくさい。でも、このメンテが楽しかったりもする。

あるいは、手巻きの腕時計。毎日まかなければいけない。非常にめんどくさい。

でも、その巻くことが自分にリズムを造り、ロイヤリティを高める。

このような「手を煩わせる感」というのが、味があるというかなんというか。

これってば、心理学的に言えば、恋愛にだって(わがままを評価する)、買い物にだって(手に入らないものほど欲しい)起こりうる。

もちろん物語(映画/小説などなど)だってそうだ。障害がある方が盛り上がる。

料理だって、「手の込んだ」という前提が、味という本質よりも価値を持つ場合があるし旅行の「行くのが大変」というプロセスに重視をおく人もいる。

こうかけば当たり前で、だから?となるのだけど、効率性原理主義者としては、実はこういうことが「なるほど」という発見だったわけです。

A地点からB地点までをタクシーと自転車でどっちが早いかを考えるよりも、時には散歩することの方が価値がある、ということにやっと気づくような(誇張あるけど)。

もっと言い換えるならば、不便性の美学というか。

たとえば、モノって多くを持っている方がいいわね、と考える価値観が戦後とかはあったかもしれない。

でも、これだけモノが溢れる現代では「モノがない」ということの方が、実は尊いんじゃないか、なんてことを思ったりする。

たとえば、どこまでモノを減らせられるか、というような。あるいは出来るだけ少ないモノで効率的に多くの用途を満たせるかというような(例:十徳ナイフ)。

そんなことを思いながらモノをどんどん減らしていったりする。本ってないのは不便だけど、iPadで代用できるならば、そっちを取るというか。

カロリーだってそうだよね。陳腐な例だけど、平安時代などはふくよかな方が美しいとされていた(最近までだっけ?)。でも、過食(手垢にまみれた表現)の現代においては、逆にカロリーコントロールできた方が素敵な感じとされることも多い。

つまり、「めんどくささを除外すること」に文明が進んでいるからこそに、その逆行の方が尊いという見方もあるというか。

なーんてことを思って、今日はトランクを捨てた。

安上がりの幸せ

今日、靴下を干すハンガーを新調した。
元々はプラスチックのものだった。引っ越しした時に、とりあえずで買った一品だ。色もイマイチだったがリニューアルまで至らなかった。
しかし、先日、太陽の光を存分に浴びたソレは、いつしか朽ちていった。パラパラとつまむところが落ちていった。
こりゃいかん、と新調した。
ステンレスのシルバーの一品。雨にも強いし、色も、タオルハンガーと同じだ。気持ち良い。
これで靴下を干すのが少し楽しくなった。
小さな幸せ。
村上春樹は「小確幸」という概念を提唱していた。
「小さな、確実な、幸せ」ということで、例示として「早朝のまだ誰もはいっていない、静かなプールで泳ぎだす一瞬」などを上げていた。
そのような小さな幸せは、時に静かに人生を色付ける。
大きくはないし、イベントではないし、人と共有するものでもない幸せなのだけれど、そういうものたちが人生を結局のところ彩るのだ。
毎日結婚式が行われるわけではなし、毎週運命の出会いがあるわけではなし、毎年家を買うわけではなし。
そうではなく、日々に埋もれる小さな出来事の総体を人は人生と呼ぶ。
たとえば、個人的には(前も書いたかもしれないけれど)、休日に朝シャワーを浴びて、外に出ると、初夏の風が吹いていて、そして太陽がまだ強く差さないけれど暖かく降り注ぐ頃の光を浴びるということが好きで。
あるいは、ブランチのコーヒーの匂いや土曜日夜のカウントダウンTV(最近は見ることもなくなってしまったけれど)や、映画の予告編やそんなものが小さな幸せだけれど、欠かせない幸せだったりする。
そして、どれだけそのような小さな幸せをかき集めることができるかが、モチベーション管理にも繋がるのではないかなぁ、と思ったりする。
宝クジで1億円をあてる幸せを願うより、朝食べるフルーツトマトの冷たさに幸せを感じる方がなんだか健全だ。
よく考えれば、私がマラソンを続けているのも、終わった後に飲む水のうまさのお陰かもしんない。

乾杯

かつて、とある人たちとお酒を飲む機会があって。
その時に乾杯を「サルー」と言う人がいて。
「スペイン語だ」というと「常識だ」と仰る。
「イタリア語と英語は?」と聞くと「cin cin, Cheers」と言う。
「凄いやん」というと「常識だ」と仰る。
よく聞いてみたら、六本木の高級飲食店でサーブをしているそうだ。
得心した。ネタを明かせば枯れ尾花。
それで、乾杯に関するコネタを思い出した。
ドイツ語で乾杯は2種類ある(3種という人もいる)
「Prost」「Zum Wohl」の2つ。で、ニュアンスももちろん違う。
そこでこのエピソード。
ある日本人の女性とドイツ人の男性がいた。Webで出会った2人で、ドイツ人は初めて日本にきた。観光だ。
リアルで初めてであった彼と彼女はいい感じで交流した。しかし、お互い、お互いの気持ちはわからない。
帰り際、最後の晩餐でドイツ人と彼女は乾杯をした。
ドイツ人は「Zum Wohl」といった。乾杯は「Prost」だと思っていた彼女は「何が違うの?」と訪ねた。
彼は回答しなかった。
ドイツ人が帰った。彼女はその意味をわからなかった。
しかし、その後、彼女は教えて!gooで違いを知る。
以下のような違いを。

PROSIT は豪快な感じなんです。
大きなビアジョッキをカツーンとぶつけあって太ったドイツのおじさんやおばさんがガハガハと笑いなが
ら陽気に飲み合う感じ。
しかし、灯りを少し落としたムーディな場所でステキな異性とのデートのような時にはおいしい白ワインでしんみりと恋を語りたいものですからそうした場合にはZum Wohl  なんです。
この場合は、チン!とグラスを鳴らしあった後、かならず相手の目を見詰め合って(恋人や異性でなくても)にっこりと微笑むのがマナーです。

乾杯の言葉の違いで、ちょっとした思いを伝えるってのが小粋だと思ったわけですが。
なお、こちらの挿話はここで見かけたネタを脚色してアレンジさせてもらいました。
ポイントは「乾杯の言葉の違いが見方の違い」って面白いわね、と思った。
ちょうど、「男性が自分に対して興味があるかどうかをアンパイに調べる方法」という命題を2件ほど別々で耳にしたことがあるので、こういうことをふと思い出しましたとさ。
あと、そういえば、先日、満員電車の「記事」を書いた後で、「男性が痴漢のえん罪に」というネタを耳にした(映画にもなったよね)。
で、現状、男性がもし疑惑をかけられた場合、自己の潔白を証明する方法は第三者の証言以外はほとんど難しい。
で、そこで「何かないのかな?」と考えていたところ、こういうことを思いついたのですがどうでしょうか。
痴漢をしている人は性的興奮を覚えていると仮定する。
そして性的興奮を覚えている人は平常時と異なった何かがあるとする(それが前後3分くらいは継続すると仮定)。
ならば、「痴漢です!」と言われた人で、黒の場合とシロの場合で、その差分をチェックすればいいんじゃなかろうか。
たとえば「ドーパミン」とか(可視化できなさそうだけど)。もっと分かりやすい方法もあるけどうやむやにして終わらせる。

音楽に泣くということ。

昔、音楽を聞いて、涙を流した人がいた。
それは歌詞の力だった。初めて聞く曲なのだから。
でも、それを見て「音楽は力を持っている」と思った。
またある時。車に乗っていた。
週末の六本木通りだった。ラジオから音楽が流れた。
Day Dream Believerだった。個人的にとても好きな曲だった。
横に座っている人がそれを口ずさんだ。
なんだか今度は自分が涙腺が刺激された。
別の話。
坂本龍一が若い頃は、邦楽をほとんど聞かなかった。
でも、ある時、北海道だかどこかに仕事にいってゲームセンターにいる時のこと。
音楽が流れ出した。それを聞いた坂本龍一は涙した(確か)。
中島みゆきの曲だったそうだ(うろ覚え)。
音楽は、記憶を揺さぶる。
それは時に歌詞によって。あるいは、海馬に埋め込まれていたメロディによって。はたまた、遺伝子に組み込まれたリズムへの同調によって。
その時、僕はモロッコのカサブランカにいた。
宿で出会った人が英語を学ぶモロッコ人の女優だった。彼女に連れられて、同行者と「その人の師匠」がいるホテルに遊びにいった。
上海の浦江飯店のような伝統と古さがこびりついたホテルだった。フロントの前には、大きなフロアがあり、そこがバーになっていた。
ピアノの生演奏があった。そこから、Let it Beが流れてきた。
遠く異国で聞くその曲は、それはそれでいつもと違うシナプスを刺激した。
またアフリカのガーナにあるケープ・コーストという場所にいた。
エビが美味しい街だった。海辺だった。奴隷時代の面影を残した街だった。
そこで、夜、マラリア蚊を気にしながら道を歩いていた。
すると、道ばたで踊っている人たちがいた。
道にウーファーを出して、がんがんに音楽をかけて、渾身の笑みで彼らは踊っていた。巨体を揺らしながら、そして太鼓を叩きながら。
村上春樹のスプートニクの恋人に出てくる太鼓はこんなリズムだったんじゃないかと思えるほど誘われるような響きだった。
遠目に長めながら、私はその光景を7年後の今思い返す。
小説でいえば、伊坂幸太郎の小説に「ボブディラン」のBlowin’ In The Windが使われていたものがあった。
その曲を一時期、帰宅途中に集中的に聞いていた。今でもこの曲を聴くと、六本木一丁目から六本木に抜ける坂道を思い出す。
アメリカにいる時に同級生に台湾の方がいた。
その日は初夏の気持ち良い日で、カリフォルニアの光が教室に差し込んでいた。控えめにいっても、とても気持ち良い午前だった。
卓上には、カフェテリアでいれたコーヒーと、幅の広いルーズリーフが置かれていた。先生を待っていた。
突然、彼女が「夏の思い出」を歌い出した。
夏が来れば思い出す遙かな尾瀬遠い空、と。
なんだと混乱しながら、その素朴なメロディが頭にこびりついて、今でも離れない。
音楽って素敵だわね、と思う。

本の紹介:やる気の大学

千葉さんが新刊だされたそうですよ!

やる気の大学
やる気の大学

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千葉 智之
東洋経済新報社
売り上げランキング: 28951

21日発売予定で、まだ拝読しておらず恐縮ですが、ご紹介まで!

□概要
●ホントはみんな知っている
 試験に受かるには?→必死で勉強すればいい
 今より5キロやせるには?→食事を控えて運動すればいい
 仕事で成果を出すには?→人より深く考えて、すぐに実行すればいい
 「成功」するために何をすればいいのか、ホントはあなたも知っているはず。
 そう、だから問題なのは、「何をすればいいのかわからない」ことではなく、
 「わかっているけどできない」ことなんです。
 本書では、「やる気」をコントロールすることで、
 「わかってるけどできない」から卒業する方法を、あますところなく解説します。
●普通のサラリーマンでも、「やる気」があればこれくらいはできます
 筆者は、世間的に忙しさで有名な企業に勤める普通のサラリーマン。
 ですが、書籍を出版したり、本を年間200冊読んだり、映画を1カ月に10本見たり、
 週刊連載を2本もっていたり、ブログを書いたり、200人規模のイベントを何度も
 主催したり、セミナー講師をやったり、セミナーを主催したり、
 メールマガジンを発行したり、サッカーをやったり、トライアスロンで死にかけたり……
 と、とにかくいろんなことをやっています。
 「普通のサラリーマン」でありながら、そのワクを遙かに超えた筆者だからこそ書けた、
 サラリーマンのための「読むだけで元気になるやる気術」を本邦初公開です!
●気づいたら「デキるビジネスパーソン」になっています
 「やる気」をコントロールすると、
  ・とにかく楽しくなって、
  ・とにかく成果を出せる人になって、
  ・とにかく魅力的な人が集まってくるようになって、
  ・気づくと「デキるビジネスパーソン」の仲間入りをしています。
●本書では、生い立ちや性格に関係なく、だれでも使える
 「やる気をコントロールするテクニック47+3」を紹介します!
□目次
 第1章 やる気とは何か
 第2章 ココロガソリン
 第3章 ヒトガソリン
 第4章 モノガソリン
 終 章 「やる気」高速道路を走ろう

「直す」ことの良さを考えてみたのだ

先日、ベルトのバックルが外れた。
それで修理に出そうと思い調べたら、近所に修繕に強いお店があることがわかった。
その名は「スピカ(Spica*)」。なんだか響きがいい、と思い、この店で訪ねてみることになった。
電話をすると「現物をみないとわからない」ということなので、伺うことに。自転車で3分くらいの距離だ。
フードマガジンの横の細い通路をさらに元麻布側に入ったところにそこはあった。
商店街からすぐなのに、とても静かで(そしてわかりにくい→けど、それがまた情緒があっていい)場所にその店はあった。
建物からして雰囲気に溢れていたが、中に入るとさらに雰囲気が溢れていた。
4.gif
↑ このような店内
靴の裏を修理していた女性が出てきてくれた。
「このベルトを直せますか?」と聞いたら「ちょっとまってください」と奥に消えた。
私は本を読んで待つか、店を眺めて待つか、という選択肢で後者を選んだ。
修理された靴が展示されており、靴の年季性になんだか、もののあはれを感じていた。
数分たって「治りましたよ」と女性がベルトを届けてくれた。
お代はいらない、という。渡そうと試みたものの、あまりだと野暮なので、今度、また何か修理にもっていこう、と思った。
修理っていいな、と思う。
それは単に、資本主義経済の副作用「消費社会」に嫌気が差しているわけではなく、たんに「直す」ということがなんだか良かった。エコやリサイクルのコンセプト抜きで。
そういえば、ある方がtwitterでYシャツのボタンの修理の話をツイートしていたことを思い出す。その人はYシャツで取れたボタンがあり、そのボタンの代わりがなかったため、全てのボタンを付け替えた。ちょっと小粋なボタンで(想像)。
また、「100回泣くこと」でも、バイクを修理するエピソードがあり、それが物語の骨子ともなっている。
また、祖母の形見の着物をリメイクして、ハンカチなどにする人もいた。
形が変わっても、受け継がれるもの、というのは、何だか良い気がする。
というのも、「物に物語性を」というコンセプトの事業を一時期考えていたことがあった。
いまは物は量産され、画一化されている。ゆえに、物を売る時の差異化は「値段」がベースになる(アフターケア/位置/郵送などもあるが)。
それは寂しい。
そこで、各物に、物語を付与することによって、画一物質の復権が可能ではないか、なんてことを妄想していた。
ただR不動産だってその1つとも言える。一部では著名なこの企業は、お気に入りの不動産だけを詳細な物語つきで説明してくれている。
それによって今まで「間取り」などの客観的情報が全てであった不動産情報になんと奥行きがでることか。
最近、龍吾のツイートでみかけた「リノベーション,デザイナーズマンション」のサイトも凄くいい。そのままだがリノベーションされた物件を物語りとして見せてくれる。
徒然なるままに思考を続ける。
最近、世界で注目をあびている「Etsy 」は、ハンドメイドの商品のECサイトだ。これも「画一商品」のアンチテーゼとも言えるかもしれない。
無料公開された「五木寛之「親鸞」」だって、一種のリノベーションだ。
過去の物語を現代に焼き直す。そして、そこに流れるコンセプトは代わらない。これは、吉川英治の三国志、そして北方謙三の三国志だって、そう言える。
このように「直すって良いな」と思う。
ここで終わらせるのも可だが、せっかくなので「なぜ良いと思うのか?」を考えてみた。
物は万事、朽ちていく定めにある。
森羅万象の万物流転、諸行無常である。国破れて山河あり。
でも、その朽ちることに対する抗い。つまり、時というものに対峙する姿勢が良いのかもしれない。
あるいは、朽ちるのが「当たり前」だからこそ、その当たり前を打破する動きというのが反骨的で良いのかもしれない。ある意味ロックだ。
あるいは、前述のように「物語」がそこにうまれるから良いのかもしれない。
物語は良い。なぜなら、そこには語られることを待つものがあるからだ。
一角獣たちの頭蓋骨が語られるべき夢を持つ続けるように。
だから、直すってことに見える物語に心が動かされるのかもしんない。

自己完結の全力疾走は祈りにも似ている

一番最後に全力疾走した時のことを覚えているだろうか。
高校の体育の時間?面接に遅刻しそうになって?マラソンのラストスパートで?
人生において、全力疾走をする機会はあまりない。
そんな時、「全力疾走」という言葉で思い出すのは、友がみな我よりえらく見える日は という書籍の中の1ストーリー。
うろ覚えだが、このような話だった。彼は1度、小説の賞をとったことのある作家だった。しかし、彼は商業作家というよりも、哲学者的な作家だった。ロシア文学のような全てを包括するような物語に挑んでいた。そして、挫折していた。
食い扶持に困り、奥さんは出て行った。子供を連れて出て行った。
彼はコンビニの弁当をあさりながらも、家で小説を書き続けている。日の目を浴びる機会が失われた後も。
そして、彼は時に、分かれた子供のことを思い出す。叫びだしたくなる。
そんな時は、近くの川べりに行って、叫びながら、草をむしって意識を紛らわせる。
そんなエピソードがあった。
全力疾走という言葉を聞くと、この川辺で草をむしっているディオゲネスにも似た小説家を思い出す。
たしか、学生時代、京都のR氏と話していた時だったか、水泳(マラソン)の一番の良い点は「泳いでいる時は何も考えないで、済むからだ」という共通認識を得た記憶がある。
また、前回、ブログに登場した別のR氏も走る人間。彼はランニングの最後のスパートを全力疾走するという話をしていた(もう7年くらい前の話になるからうろ覚え)。
走り続けた最後の数メートルを、体力が尽きるまで全力で疾走する。
全力疾走。
それは、言葉で言うとシンプルだが、生を脅かし、また生を鼓舞する力を持っている。
走り出した時はまだ身体にはエネルギーが溢れ、足は軽やかに地面を蹴る。思ったよりも早く回転する足と、遠くに飛べるつま先の跳ね具合に自分でも驚くほどだ。
横を走る車よりも速い気分になり、フォレストガンプの全力疾走を想起する。
そして、足首がぶれてくる。足と脳が乖離していく。足が空回りしているようにも感じてくる。足の感覚は鈍くなり、地面をつかむ感覚が薄れていく。
そして、肺が悲鳴を上げ出す。口から取り込める酸素量の限界を超え、体中の細胞が酸素を欲し出す。
首が上を向くようになり、前傾した身体が垂直になっていく。しかし、それでも必死で腕を振り、足を出し、身体を倒す。
肺が焼け付くようになり、喉に痛さえ感じる。脳がきしむような気がして、足は最早かってに動いている。
もう無理だ、止まれという信号を無理矢理押さえつけながら腕を振り続ける。それに呼応するように足が連動する。
そして、砂時計の砂が落ちきる瞬間のように、いつかプツンとエネルギーが切れる。
慣性と惰性で身体は前に動き続け、肺は悲鳴を止めない。倒れるか倒れないかのギリギリのラインで、マンションの扉にたどり着く。
走っている間は何も考えらない。身体は一瞬だが限界というものに近づいていることを感じる。生というものを少しつかめそうな気がする。そして走り終わると、何かが抜けていることに気づく。たとえば。
それが全力疾走、というものなのだ。
悩んでいる暇があれば、全力疾走しろ、と僕はメロスから教わった。

マラソンする人に悪い人はいない

いつだか「マラソンをする人に悪い人はいない」という言説を耳にした。
そういう見方もあるかもしれない、と思った。
それは恐らく、「その人の周りでマラソンをしている人に悪い人がいない」という帰納的な判断と、もう1つは「あんな苦しいことを好きでやるなんて、おかしい。よって悪い人ではないかもしれない」という演繹的な判断があるのではないか。
もちろん、万事には例外があるもので、たとえ、ユナボマーがマラソンをしていても、別段、驚きはしない。
ただ、人は、人を判断するにあたり「絶対性」を求めるのではなく「仮定性」を求めるものである。
つまり、相手がどんな人なんかなんて、究極的には一切、わかるはずがない。自分でさえも分からないのだから。
よって、人の見立ては「いろいろな要素を組み合わせて、その人がどうである」と同定していくしかなく、そして、それは流動的に変化するものになる。いわゆる「いい人だと思っていたけど違った」というようなものや「悪い人だったけど、こういう面もあったんだ」的な話である。
同じ話は、マラソンに限らず「血液型」「話方」「表情」「目つき」「年齢」「出身地」「勤め先」「趣味」「学歴」「好きな音楽」「休日のToDo」「好きなブランド」「体系」などなどあらゆる要素で、人は、その人を判断する要素とする。
よく聞く例としては「新潟美人」「AB型だから変わり者」「食べるのが早い人だから、○○も早い」「アムステルダムとイスラエル、ラオスにいってるからあの人は○○だ」「携帯で絵文字を使いすぎる人は○○だ」「目が3つあるから邪眼だ」のように、人は「クラスターの傾向」を利用して、人を判断する。これは、良い悪いなく、そういうものだ。
個人的には「水族館(特にクラゲ)」「ロシア文学」「ヒューグラント」「パッカー(特に山)」「深爪」「自転車」あたりの属性を持つ人は「いい人評価」をしてしまう傾向にあります(当方バイアスによると)。
そして、「ビッグイシュー」をホームレスの方から買う見知らぬ人を表参道交差点で見かけて「へえ」と思ってしまうのです。良かれ悪しかれ。