マラソンする人に悪い人はいない

いつだか「マラソンをする人に悪い人はいない」という言説を耳にした。
そういう見方もあるかもしれない、と思った。
それは恐らく、「その人の周りでマラソンをしている人に悪い人がいない」という帰納的な判断と、もう1つは「あんな苦しいことを好きでやるなんて、おかしい。よって悪い人ではないかもしれない」という演繹的な判断があるのではないか。
もちろん、万事には例外があるもので、たとえ、ユナボマーがマラソンをしていても、別段、驚きはしない。
ただ、人は、人を判断するにあたり「絶対性」を求めるのではなく「仮定性」を求めるものである。
つまり、相手がどんな人なんかなんて、究極的には一切、わかるはずがない。自分でさえも分からないのだから。
よって、人の見立ては「いろいろな要素を組み合わせて、その人がどうである」と同定していくしかなく、そして、それは流動的に変化するものになる。いわゆる「いい人だと思っていたけど違った」というようなものや「悪い人だったけど、こういう面もあったんだ」的な話である。
同じ話は、マラソンに限らず「血液型」「話方」「表情」「目つき」「年齢」「出身地」「勤め先」「趣味」「学歴」「好きな音楽」「休日のToDo」「好きなブランド」「体系」などなどあらゆる要素で、人は、その人を判断する要素とする。
よく聞く例としては「新潟美人」「AB型だから変わり者」「食べるのが早い人だから、○○も早い」「アムステルダムとイスラエル、ラオスにいってるからあの人は○○だ」「携帯で絵文字を使いすぎる人は○○だ」「目が3つあるから邪眼だ」のように、人は「クラスターの傾向」を利用して、人を判断する。これは、良い悪いなく、そういうものだ。
個人的には「水族館(特にクラゲ)」「ロシア文学」「ヒューグラント」「パッカー(特に山)」「深爪」「自転車」あたりの属性を持つ人は「いい人評価」をしてしまう傾向にあります(当方バイアスによると)。
そして、「ビッグイシュー」をホームレスの方から買う見知らぬ人を表参道交差点で見かけて「へえ」と思ってしまうのです。良かれ悪しかれ。

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