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乾杯

かつて、とある人たちとお酒を飲む機会があって。
その時に乾杯を「サルー」と言う人がいて。
「スペイン語だ」というと「常識だ」と仰る。
「イタリア語と英語は?」と聞くと「cin cin, Cheers」と言う。
「凄いやん」というと「常識だ」と仰る。
よく聞いてみたら、六本木の高級飲食店でサーブをしているそうだ。
得心した。ネタを明かせば枯れ尾花。
それで、乾杯に関するコネタを思い出した。
ドイツ語で乾杯は2種類ある(3種という人もいる)
「Prost」「Zum Wohl」の2つ。で、ニュアンスももちろん違う。
そこでこのエピソード。
ある日本人の女性とドイツ人の男性がいた。Webで出会った2人で、ドイツ人は初めて日本にきた。観光だ。
リアルで初めてであった彼と彼女はいい感じで交流した。しかし、お互い、お互いの気持ちはわからない。
帰り際、最後の晩餐でドイツ人と彼女は乾杯をした。
ドイツ人は「Zum Wohl」といった。乾杯は「Prost」だと思っていた彼女は「何が違うの?」と訪ねた。
彼は回答しなかった。
ドイツ人が帰った。彼女はその意味をわからなかった。
しかし、その後、彼女は教えて!gooで違いを知る。
以下のような違いを。

PROSIT は豪快な感じなんです。
大きなビアジョッキをカツーンとぶつけあって太ったドイツのおじさんやおばさんがガハガハと笑いなが
ら陽気に飲み合う感じ。
しかし、灯りを少し落としたムーディな場所でステキな異性とのデートのような時にはおいしい白ワインでしんみりと恋を語りたいものですからそうした場合にはZum Wohl  なんです。
この場合は、チン!とグラスを鳴らしあった後、かならず相手の目を見詰め合って(恋人や異性でなくても)にっこりと微笑むのがマナーです。

乾杯の言葉の違いで、ちょっとした思いを伝えるってのが小粋だと思ったわけですが。
なお、こちらの挿話はここで見かけたネタを脚色してアレンジさせてもらいました。
ポイントは「乾杯の言葉の違いが見方の違い」って面白いわね、と思った。
ちょうど、「男性が自分に対して興味があるかどうかをアンパイに調べる方法」という命題を2件ほど別々で耳にしたことがあるので、こういうことをふと思い出しましたとさ。
あと、そういえば、先日、満員電車の「記事」を書いた後で、「男性が痴漢のえん罪に」というネタを耳にした(映画にもなったよね)。
で、現状、男性がもし疑惑をかけられた場合、自己の潔白を証明する方法は第三者の証言以外はほとんど難しい。
で、そこで「何かないのかな?」と考えていたところ、こういうことを思いついたのですがどうでしょうか。
痴漢をしている人は性的興奮を覚えていると仮定する。
そして性的興奮を覚えている人は平常時と異なった何かがあるとする(それが前後3分くらいは継続すると仮定)。
ならば、「痴漢です!」と言われた人で、黒の場合とシロの場合で、その差分をチェックすればいいんじゃなかろうか。
たとえば「ドーパミン」とか(可視化できなさそうだけど)。もっと分かりやすい方法もあるけどうやむやにして終わらせる。

音楽に泣くということ。

昔、音楽を聞いて、涙を流した人がいた。
それは歌詞の力だった。初めて聞く曲なのだから。
でも、それを見て「音楽は力を持っている」と思った。
またある時。車に乗っていた。
週末の六本木通りだった。ラジオから音楽が流れた。
Day Dream Believerだった。個人的にとても好きな曲だった。
横に座っている人がそれを口ずさんだ。
なんだか今度は自分が涙腺が刺激された。
別の話。
坂本龍一が若い頃は、邦楽をほとんど聞かなかった。
でも、ある時、北海道だかどこかに仕事にいってゲームセンターにいる時のこと。
音楽が流れ出した。それを聞いた坂本龍一は涙した(確か)。
中島みゆきの曲だったそうだ(うろ覚え)。
音楽は、記憶を揺さぶる。
それは時に歌詞によって。あるいは、海馬に埋め込まれていたメロディによって。はたまた、遺伝子に組み込まれたリズムへの同調によって。
その時、僕はモロッコのカサブランカにいた。
宿で出会った人が英語を学ぶモロッコ人の女優だった。彼女に連れられて、同行者と「その人の師匠」がいるホテルに遊びにいった。
上海の浦江飯店のような伝統と古さがこびりついたホテルだった。フロントの前には、大きなフロアがあり、そこがバーになっていた。
ピアノの生演奏があった。そこから、Let it Beが流れてきた。
遠く異国で聞くその曲は、それはそれでいつもと違うシナプスを刺激した。
またアフリカのガーナにあるケープ・コーストという場所にいた。
エビが美味しい街だった。海辺だった。奴隷時代の面影を残した街だった。
そこで、夜、マラリア蚊を気にしながら道を歩いていた。
すると、道ばたで踊っている人たちがいた。
道にウーファーを出して、がんがんに音楽をかけて、渾身の笑みで彼らは踊っていた。巨体を揺らしながら、そして太鼓を叩きながら。
村上春樹のスプートニクの恋人に出てくる太鼓はこんなリズムだったんじゃないかと思えるほど誘われるような響きだった。
遠目に長めながら、私はその光景を7年後の今思い返す。
小説でいえば、伊坂幸太郎の小説に「ボブディラン」のBlowin’ In The Windが使われていたものがあった。
その曲を一時期、帰宅途中に集中的に聞いていた。今でもこの曲を聴くと、六本木一丁目から六本木に抜ける坂道を思い出す。
アメリカにいる時に同級生に台湾の方がいた。
その日は初夏の気持ち良い日で、カリフォルニアの光が教室に差し込んでいた。控えめにいっても、とても気持ち良い午前だった。
卓上には、カフェテリアでいれたコーヒーと、幅の広いルーズリーフが置かれていた。先生を待っていた。
突然、彼女が「夏の思い出」を歌い出した。
夏が来れば思い出す遙かな尾瀬遠い空、と。
なんだと混乱しながら、その素朴なメロディが頭にこびりついて、今でも離れない。
音楽って素敵だわね、と思う。

本の紹介:やる気の大学

千葉さんが新刊だされたそうですよ!

やる気の大学
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 本書では、「やる気」をコントロールすることで、
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●普通のサラリーマンでも、「やる気」があればこれくらいはできます
 筆者は、世間的に忙しさで有名な企業に勤める普通のサラリーマン。
 ですが、書籍を出版したり、本を年間200冊読んだり、映画を1カ月に10本見たり、
 週刊連載を2本もっていたり、ブログを書いたり、200人規模のイベントを何度も
 主催したり、セミナー講師をやったり、セミナーを主催したり、
 メールマガジンを発行したり、サッカーをやったり、トライアスロンで死にかけたり……
 と、とにかくいろんなことをやっています。
 「普通のサラリーマン」でありながら、そのワクを遙かに超えた筆者だからこそ書けた、
 サラリーマンのための「読むだけで元気になるやる気術」を本邦初公開です!
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 「やる気」をコントロールすると、
  ・とにかく楽しくなって、
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●本書では、生い立ちや性格に関係なく、だれでも使える
 「やる気をコントロールするテクニック47+3」を紹介します!
□目次
 第1章 やる気とは何か
 第2章 ココロガソリン
 第3章 ヒトガソリン
 第4章 モノガソリン
 終 章 「やる気」高速道路を走ろう

「直す」ことの良さを考えてみたのだ

先日、ベルトのバックルが外れた。
それで修理に出そうと思い調べたら、近所に修繕に強いお店があることがわかった。
その名は「スピカ(Spica*)」。なんだか響きがいい、と思い、この店で訪ねてみることになった。
電話をすると「現物をみないとわからない」ということなので、伺うことに。自転車で3分くらいの距離だ。
フードマガジンの横の細い通路をさらに元麻布側に入ったところにそこはあった。
商店街からすぐなのに、とても静かで(そしてわかりにくい→けど、それがまた情緒があっていい)場所にその店はあった。
建物からして雰囲気に溢れていたが、中に入るとさらに雰囲気が溢れていた。
4.gif
↑ このような店内
靴の裏を修理していた女性が出てきてくれた。
「このベルトを直せますか?」と聞いたら「ちょっとまってください」と奥に消えた。
私は本を読んで待つか、店を眺めて待つか、という選択肢で後者を選んだ。
修理された靴が展示されており、靴の年季性になんだか、もののあはれを感じていた。
数分たって「治りましたよ」と女性がベルトを届けてくれた。
お代はいらない、という。渡そうと試みたものの、あまりだと野暮なので、今度、また何か修理にもっていこう、と思った。
修理っていいな、と思う。
それは単に、資本主義経済の副作用「消費社会」に嫌気が差しているわけではなく、たんに「直す」ということがなんだか良かった。エコやリサイクルのコンセプト抜きで。
そういえば、ある方がtwitterでYシャツのボタンの修理の話をツイートしていたことを思い出す。その人はYシャツで取れたボタンがあり、そのボタンの代わりがなかったため、全てのボタンを付け替えた。ちょっと小粋なボタンで(想像)。
また、「100回泣くこと」でも、バイクを修理するエピソードがあり、それが物語の骨子ともなっている。
また、祖母の形見の着物をリメイクして、ハンカチなどにする人もいた。
形が変わっても、受け継がれるもの、というのは、何だか良い気がする。
というのも、「物に物語性を」というコンセプトの事業を一時期考えていたことがあった。
いまは物は量産され、画一化されている。ゆえに、物を売る時の差異化は「値段」がベースになる(アフターケア/位置/郵送などもあるが)。
それは寂しい。
そこで、各物に、物語を付与することによって、画一物質の復権が可能ではないか、なんてことを妄想していた。
ただR不動産だってその1つとも言える。一部では著名なこの企業は、お気に入りの不動産だけを詳細な物語つきで説明してくれている。
それによって今まで「間取り」などの客観的情報が全てであった不動産情報になんと奥行きがでることか。
最近、龍吾のツイートでみかけた「リノベーション,デザイナーズマンション」のサイトも凄くいい。そのままだがリノベーションされた物件を物語りとして見せてくれる。
徒然なるままに思考を続ける。
最近、世界で注目をあびている「Etsy 」は、ハンドメイドの商品のECサイトだ。これも「画一商品」のアンチテーゼとも言えるかもしれない。
無料公開された「五木寛之「親鸞」」だって、一種のリノベーションだ。
過去の物語を現代に焼き直す。そして、そこに流れるコンセプトは代わらない。これは、吉川英治の三国志、そして北方謙三の三国志だって、そう言える。
このように「直すって良いな」と思う。
ここで終わらせるのも可だが、せっかくなので「なぜ良いと思うのか?」を考えてみた。
物は万事、朽ちていく定めにある。
森羅万象の万物流転、諸行無常である。国破れて山河あり。
でも、その朽ちることに対する抗い。つまり、時というものに対峙する姿勢が良いのかもしれない。
あるいは、朽ちるのが「当たり前」だからこそ、その当たり前を打破する動きというのが反骨的で良いのかもしれない。ある意味ロックだ。
あるいは、前述のように「物語」がそこにうまれるから良いのかもしれない。
物語は良い。なぜなら、そこには語られることを待つものがあるからだ。
一角獣たちの頭蓋骨が語られるべき夢を持つ続けるように。
だから、直すってことに見える物語に心が動かされるのかもしんない。

自己完結の全力疾走は祈りにも似ている

一番最後に全力疾走した時のことを覚えているだろうか。
高校の体育の時間?面接に遅刻しそうになって?マラソンのラストスパートで?
人生において、全力疾走をする機会はあまりない。
そんな時、「全力疾走」という言葉で思い出すのは、友がみな我よりえらく見える日は という書籍の中の1ストーリー。
うろ覚えだが、このような話だった。彼は1度、小説の賞をとったことのある作家だった。しかし、彼は商業作家というよりも、哲学者的な作家だった。ロシア文学のような全てを包括するような物語に挑んでいた。そして、挫折していた。
食い扶持に困り、奥さんは出て行った。子供を連れて出て行った。
彼はコンビニの弁当をあさりながらも、家で小説を書き続けている。日の目を浴びる機会が失われた後も。
そして、彼は時に、分かれた子供のことを思い出す。叫びだしたくなる。
そんな時は、近くの川べりに行って、叫びながら、草をむしって意識を紛らわせる。
そんなエピソードがあった。
全力疾走という言葉を聞くと、この川辺で草をむしっているディオゲネスにも似た小説家を思い出す。
たしか、学生時代、京都のR氏と話していた時だったか、水泳(マラソン)の一番の良い点は「泳いでいる時は何も考えないで、済むからだ」という共通認識を得た記憶がある。
また、前回、ブログに登場した別のR氏も走る人間。彼はランニングの最後のスパートを全力疾走するという話をしていた(もう7年くらい前の話になるからうろ覚え)。
走り続けた最後の数メートルを、体力が尽きるまで全力で疾走する。
全力疾走。
それは、言葉で言うとシンプルだが、生を脅かし、また生を鼓舞する力を持っている。
走り出した時はまだ身体にはエネルギーが溢れ、足は軽やかに地面を蹴る。思ったよりも早く回転する足と、遠くに飛べるつま先の跳ね具合に自分でも驚くほどだ。
横を走る車よりも速い気分になり、フォレストガンプの全力疾走を想起する。
そして、足首がぶれてくる。足と脳が乖離していく。足が空回りしているようにも感じてくる。足の感覚は鈍くなり、地面をつかむ感覚が薄れていく。
そして、肺が悲鳴を上げ出す。口から取り込める酸素量の限界を超え、体中の細胞が酸素を欲し出す。
首が上を向くようになり、前傾した身体が垂直になっていく。しかし、それでも必死で腕を振り、足を出し、身体を倒す。
肺が焼け付くようになり、喉に痛さえ感じる。脳がきしむような気がして、足は最早かってに動いている。
もう無理だ、止まれという信号を無理矢理押さえつけながら腕を振り続ける。それに呼応するように足が連動する。
そして、砂時計の砂が落ちきる瞬間のように、いつかプツンとエネルギーが切れる。
慣性と惰性で身体は前に動き続け、肺は悲鳴を止めない。倒れるか倒れないかのギリギリのラインで、マンションの扉にたどり着く。
走っている間は何も考えらない。身体は一瞬だが限界というものに近づいていることを感じる。生というものを少しつかめそうな気がする。そして走り終わると、何かが抜けていることに気づく。たとえば。
それが全力疾走、というものなのだ。
悩んでいる暇があれば、全力疾走しろ、と僕はメロスから教わった。

マラソンする人に悪い人はいない

いつだか「マラソンをする人に悪い人はいない」という言説を耳にした。
そういう見方もあるかもしれない、と思った。
それは恐らく、「その人の周りでマラソンをしている人に悪い人がいない」という帰納的な判断と、もう1つは「あんな苦しいことを好きでやるなんて、おかしい。よって悪い人ではないかもしれない」という演繹的な判断があるのではないか。
もちろん、万事には例外があるもので、たとえ、ユナボマーがマラソンをしていても、別段、驚きはしない。
ただ、人は、人を判断するにあたり「絶対性」を求めるのではなく「仮定性」を求めるものである。
つまり、相手がどんな人なんかなんて、究極的には一切、わかるはずがない。自分でさえも分からないのだから。
よって、人の見立ては「いろいろな要素を組み合わせて、その人がどうである」と同定していくしかなく、そして、それは流動的に変化するものになる。いわゆる「いい人だと思っていたけど違った」というようなものや「悪い人だったけど、こういう面もあったんだ」的な話である。
同じ話は、マラソンに限らず「血液型」「話方」「表情」「目つき」「年齢」「出身地」「勤め先」「趣味」「学歴」「好きな音楽」「休日のToDo」「好きなブランド」「体系」などなどあらゆる要素で、人は、その人を判断する要素とする。
よく聞く例としては「新潟美人」「AB型だから変わり者」「食べるのが早い人だから、○○も早い」「アムステルダムとイスラエル、ラオスにいってるからあの人は○○だ」「携帯で絵文字を使いすぎる人は○○だ」「目が3つあるから邪眼だ」のように、人は「クラスターの傾向」を利用して、人を判断する。これは、良い悪いなく、そういうものだ。
個人的には「水族館(特にクラゲ)」「ロシア文学」「ヒューグラント」「パッカー(特に山)」「深爪」「自転車」あたりの属性を持つ人は「いい人評価」をしてしまう傾向にあります(当方バイアスによると)。
そして、「ビッグイシュー」をホームレスの方から買う見知らぬ人を表参道交差点で見かけて「へえ」と思ってしまうのです。良かれ悪しかれ。

いつかどこかで待ち合わせ

わたくしめ、待ち合わせには強い人間でして。自分で言うのはアレですが、自分しか言ってくれる人がいないので言いますと、多分、待ち合わせの遅れる率の少なさ偏差値は67くらいあるのではないかと思っております(とはいえ、否応なく遅れることもありますが平均値として)。
だって、「待っている時の時間」って、「楽しみにしていた映画の、本編が始まる前のCM」に似て、非常に貴重で尊ぶべきものだと思うわけです。
逆に遅れて急いでいくと、そのPreciousな価値が台無しで。
遅れることに対して、特に感情はまったく抱かないのだけど(主観ですが、世の中の8割くらいの人は、待ち合わせ時間に遅れることがマナーとさえも思っているのではないかと思うふしがある)、その「まつ時間」を知らないのは、勿体ないと思っている。
もちろん、手持ち無沙汰だと、待つということは唾棄すべき対象なんだけど、本が一冊あるだけで、待つという守りの行為は攻めの体制になることができるわけです。「人がくるまでにどこまで読めるか」的な。ゆえに、待つということは、基本的には苦手ではない(好きかキライかといわれると、程度によると答えるが)。
で、これが前フリ。
ちょうど、打ち合わせから帰り。最寄り駅でおりて改札を出ると、誰かを待っている女性がいた。
たまたま、私の背後あたりに、待ち人がいたらしく、その人の待っている時の顔が「待ち人を見つけた時の顔」に変わった。
ただ、面白いのは、その後、さらにもう一度「クールな顔」に戻った。
それは恐らく、心理を想像するに
1.待ち人を待っている。くるかどうかの一抹の不安を抱えながら待っている
2.待ち人発見。無意識に嬉しくて、顔がほころぶ
3.でも、嬉しそうな顔をするのが悔しいのでクールダウンさせる
というようなものなんではないかと、勝手に邪推した。いずれにせよ、それほど、表情が変わった(一瞬しかみえなかったけど)。
「待ちあわせをして人がくる」というのは、おおむね当たり前のことなのに。もちろん来ないことはあるけど、少なくとも、ホセカルデンのフリースローの成功率ほどには来るはずで。
そんな「きて当然」の世界の中で、「来るということに喜ぶ」という人がいるという事実を目にして、「おお、人は待ち合わせをすることで、社会の幸せの総和を増やしているんじゃないか」とさえも思った。
また、待ち合わせの場所でも情緒は違うような気がしていて。たとえば、本屋で待ち合わせをして、後から着いた場合、先にきた人が本を眺めているのをみるのは、あるいは、何の本を見ているかを見るのは、それはそれで味がある気がしないでもない。もちろん、ツタヤのDVDでも、六本木ドンキの熱帯魚でもいいのかもしれない。たとえば、だけど。
個人的に印象深い待ち合わせとしては、オーストリアでの盟友R氏との待ち合わせだ。
私は旅行の最中で、彼も欧州を回る旅に出るタイミングだった。事前にメールで日程と時間、場所をあわせた。ウィーンのステファン寺院の前、というアバウトな待ち合わせだった。
2人とも、そんな場所にいったことがないのだから、勘で落ち合うしかない。で、想像したよりもステファン寺院はでかかった。
そして、待ち時間に30分たっても落ち合うことができない。そして、最終的に一時間後、彼が座っている私を見つけてくれた。彼も近くのベンチで座り、私もベンチで座っていた。
観光客が通り、ハトが飛んでいた。なんてことはない待ち合わせだけど、異国で、そして、半年以上ぶりに知り合いにあうということがとても嬉しくて。
ということで、なんか待ち合わせって、もう少し社会的に評価されてもいいような気がした駅の改札出口でした。

満員電車ってなんなのあれ

いや、ちょっと聞いて下さいよ。
先日、久しぶりに満員電車に乗ったんですよ。
なにあのハレンチ。
あんなに身体密着するって、色々おかしいんちゃうの?
対人距離によると密着距離でさえも50センチ前後は離れているのに、満員電車だと、くっついてますよ?
しかも、知らない人と。さらに言えば、電車ごと、前後左右にシェイクされて、なんでしょう、あれ。卑猥すぎる。
あんな乗り物に世の中の方、毎日のってるの?社会的に、あれは許されるの?
モザイクとかの前に、ああいう満員電車規制すべきだよ。
ああ、だから女性車両できたのか。
でも、男性を好きな男性の方にとってはどうなるんだろうか。
いや、でもよくないよ。あれは。
え、なんで皆すました顔でくっついてるの。また、本とか携帯までいじっちゃって。身体が浮くくらいの満員度でも?
身体くっついているのに「さもくっついていません。気のせいです、私は固形物です」みたいな素知らぬ顔していて。なにこれ怖い。
海外だと、あんなことになったら、もはや暴動ですよ。というか猥褻すぎる。
なんなんだ、あれは。
あれはいかん。あれは子供への教育上よくない。
はうあー。
ってことを、改めて思った。

ニースのマクドナルドで待ち合わせ

日常で生きていると、街で知り合いに会うことがある。
それは渋谷の歩道橋かもしれないし、数寄屋橋の交差点かもしれないし、はたまた青山の地下道かも知れない。
偶然の邂逅。
そして、それは日本に限らずとも、世界でも起こりえるかもしれない話。もちろん確率は数万倍以下になるのだろうけれど。
2003年のことだ。その秋に私はパリにいた。
そこからシャガール美術館に行きたくて、電車でニースに向かった。
南仏らしく太陽の日差しはパリと違い地中海の照り返す光が暖かく、秋でもTシャツで歩いていた。
朝着いて、お腹が空いていた。メイン通りを歩いていると、マクドナルドが見つかった。いつも通り、オレオのバニラスムージーを頼むために、そこに入った。
並んでいると、「カズ君じゃん」と声をかけられた。
おお、と思ったら、パリで再会した友人だった。パリで再会、という説明を詳しくしたい(過去に描いたことあったらごめん)。
彼とはジンバブエで出会った。
ジンバブエとは南アフリカ共和国の少し北にある国で、アフリカで言えば南アフリカ地域に属する。
そこで、パームロックビラというドミトリーに泊まった。その部屋に相部屋だったのが、彼だった。
しかも、話をすると、同じ大学の同じ学年で、彼も休学中だった。そのような縁から、私は、それまでのアフリカの疲れが癒えるまで、ジンバブエのハラレで過ごすことになった。
全部で10日ほどいただろうか。彼とはビリヤードをし、マーケットに買い物にいき、過ごした。
そして、分かれた後、彼と再会したのは、ハンガリーだった。
ブダベストの宿に私が訪れると彼がそこにいた。話を聞くと、マラリアに感染し、ヘリコブターでハンガリーまで輸送されたとのことだった。そこでの再会を楽しみながら、すぐに旅立つ必要があった私は、そのブダベストを後にした。その後、アムステルダムで再会し、さらにパリでも落ち合った。
それから、偶然のニースでの再会に繋がることになる。
そんなニースの話を、一昔前に友人にした。
すると、なんと、その人もニースのマクドナルドで友人と再会したことがある、ということだった。
へえ、と思った。
友人と海外で偶然再会することはあれど(特に日本人パッカーはルートがあるので、会いやすい)、同じ場所で再会したという話を聞くのは珍しい体験だった。
そして、ニースの遠さを思った。そのマクドナルドで今も生まれているかもしれない再会を思った。

不確実な世界へようこそ

先日、「明日の予定なんだっけかな?」と考えた時にふと思った。
「不確実性の魔力」というものに。
世の中には「確実なもの」と「不確実なもの」がある。たとえばサイコロを振って「何かの目がでる」というのは(ほぼ)確実だが、「3の目がでる」というのは不確実である。
仕事にもこの2区分がある。「明日のすべきことは今日と一緒」という場合と「明日のすることは初めて」という場合。
資産運用もそうだ。「銀行に預ける金利」と「株の変動」のような。専門家はそれを「リスクとリターン」の程度で表すけれど。
で、人の性癖として「確実性」を好むものと「不確実性」を好む人がいる。
リスク志向性といってもいいかもしれない。しかし、平均値をとると「不確実性」に人は楽しみを憶えるのではないだろうか(行動経済学でもそんな感じだった気がするけどうろ覚え)。
一例が宝クジである。
財団法人日本宝くじ協会によると、7割以上の人が宝クジを購入したことがある。
1度キリの人や付き合いの人もいるので、このデータをベースにするのは危険だが、これを少し補助線とする。
宝クジというのは基本的に「損をする賭け」である。しかし、人はそこに「もしかしたら」を夢見て購入する。
パチンコだって、株だって、競馬だって、トトカルチョだって、カジノだって何でもいい。周りを思い返せば、それらにハマル人は少なくない(1回始めると、熱くなる程度の意)。
海外旅行に行く人が多いのも「知らない土地だから」「スノビッシュだから」「ショッピング楽しいから」といった理由は数あれど、もしかすると、そこには「日本とは違った知らない世界があるから」の期待に人は引き寄せられるのかもしれない。
昨今のソーシャルゲームだって「不確実性」がユーザをはまらせる。ポーカーゲームや牧場のくじ引きや、マフィアウォー的なバトルや。
負けたら「次は勝つ」として勝負をかける。そして、人がそこに熱くなるのは「不確実性」があるからだ。たとえば「勝つ」と分かっているゲームは人は恐らく楽しめないだろう。たとえば「一人でする桃太郎電鉄(CPUがゼロ)」や「1人でする人生ゲーム」のように。
昨今の「婚活事情」だって、このメタファーで語れるのかもしれない(適切かどうかは別としても)。「いつか白馬に乗った王子様が」という不確実性に期待をして人は生きる。
そう、人は「不確実性」を楽しむだけでなく、時にその「不確実性」が生きる糧となる。
「もしかすると、がんばっていればいいことがあるかもしれない」というふたしかな未来に思いを託して人は今日をやり過ごす、という人もいる。
あるいはキリスト教的な「がんばれば救われる」、仏教の「生まれ変わる」といった不確実な未来への期待と考えてもいい。
もし、自分の人生が全て見えていれば、多くの人は自殺してしまうほどなのかもしれない、とふと思う。というのも故人がいった「死に至る病」とは「絶望」だからだ。
「絶望」とは望をたたれる、と書く。そして、逆は「望を持つ」ということだ。そして「望みを持つ」ということは言い換えれば「期待をする」ということで、この論旨でいう「不確実性に賭ける」というものである。
イマジン。
「そこそこ幸せだけど、何が起こるか全てが分かっている人生」と「平均値はそこそこ幸せだけど、失敗も成功も振れ幅が大きい人生」のどちらを選ぶだろうか、というような。
ただ、反証も考えよう。
よく云われる「公務員」を選ぶ人は「リスク志向性」がひくそうに見えるが、仮に「空き時間が何もない公務員」だった場合はどうだろう。「公務員」は空き時間が大きく、そこに人生の余暇をいれれるから、楽しいのであって、時間がなければ公務員の安定性の人気は別のものになるんじゃないかしら、とも思う。
あるいは「ゴルゴ13」的な物語は大筋は決まっている。「最後は勝つ」のだ。それでも人は楽しむ。それは「不確実性」への楽しみとは別のものではないか?とも考えられる。それはその通りで、それは「物語」を楽しんでいるからである。これは「構造主義」を引っ張れば、「世の中の大抵の物語の骨子はギリシア神話時代に出ている」という話を考えるだに難しくない。そもそもゴルゴ13が死ぬようなことがあると、単純に連載が続かないのだ。それは構造的に困る。
よって「構造的に許される中で、不確実性の最大化」がポイントなのかもしれない。たとえばドラゴンボールの「生き返り」やワンピースの「裏切り」のような。
何が言いたかったかというと、「不確実性」を提示することが、1つの面白さになるんではないかな、ということです。
それはサービスにおいても、人生においても、はたまた物語においても。