投稿者「admin」のアーカイブ

何が人の心に残るのか

ちょとした調べ物をしていて、たまたま、とあるドラマに行き当たった。
ライツ関係あれなので、リンクは張りませんが某Tubeで。
なんのドラマかというと東京ラブストーリー。何かのランキングで「もう1度みたいドラマ」の1位に選ばれていたような。
で、これの最後10分くらいだけ再読したのだけど、やはり素晴らしいですね。いや、まぁそりゃ小田氏のBGMも凄いし、いろんな意味で鈴木氏も懐かしいからぐっとくるという要素はあるものの、やはりこの最後のストーリの切なさがなんというか、インパクトある。
※というか、自分の思春期と重なっていたから印象深いという可能性もありますが・・・。
で、最後は悲しい終わり方なのですが、だからこそ、なんというか、なんとも言いしれようのない感情が残るのが、ずっと人の心に残るのではないかと。
他に悲劇周りのドラマを思い出してみると、ノジマ先生の「高校教師」、あるいは「未成年」、あ、ドラマあんまり見ないのでそれしか出ないな。ひとつ屋根の下とかはハッピーエンドか。むー。ドラマ24の1の最後とかそれじゃね。
他、映画だとやはりタイタニックがそれに該当するのではなかろうか。戦場のピアニストとか、パーフェクトワールドもそうか。頭の中の消しゴムは悲劇とはいえんかね。「今あいにいきます」も一応悲劇かなー。
それ以外でも、シェークスピアの悲劇4部作だとか、ファイナルファンタジー10、サンクチュアリだとかも悲劇といえば悲劇か(怪しいけど)。漫画の悲劇ってあんまり思い浮かばないな。
小説だと何だろうか。Xの悲劇は悲劇だけど悲劇じゃないし(今更ですが、これは必読小説かと!)。もう大分忘れたけど、東野さんの「秘密」は悲劇だったような気が。違う?伊坂さんの「アヒルと鴨のコインロッカー」も最後は大変ぎみだった気が。あと、アルジャーノンも?浅田次郎は悲劇は多いけど、悲劇じゃなく見せてるからなぁ。
ということで、悲劇の物語はそれほど数は多くないものの、インパクトのあるものが多い気がする。
この救われない感がいいのだろうか。それだと人類の過半数はマゾヒストということなのか。うーむ、それとも自分で解釈しようとするから(むりくりハッピーに)、それが印象に残っているのだろうか。
で、ふとそれをネットに応用しようと考えてしまう職業病だが、「あなたの悲劇教えて下さい!」というようなウェブサイトだったら、2chにありそうだ。とりあえず悲壮感ただようサイトになります。リグレットが少し近いのか。
悲しいことは人の共感を呼ぶからか。たしかに自慢されると人は抵抗(心理的に)したり、あるいは自分がハッピーでない時は、ハッピーな物語を読むと、よけいストレスたまるのかもしれない。
人は人を見て不幸を定義づけるのかしら。せちがらい生き物ですね。
あ、あと最近では、改めてMattの新しいのみたけど余裕で涙した。

これにぐっとくる人とこない人がいると思うのだけど、僕はこのような群像劇に弱いので(元気玉とか)、やられるのだ。最初のバージョンよりも大分パンチ力が増加している。最近はカードのCMにも出てたとか?
Visa(こっちは教えてもろた)

でちょっと調べたんだけど、これVisaだけじゃなくて、Yahoo!を筆頭として大分、企業とコラボしているんですね。こんなビジネスがありえるのか。凄い世界だ。
» あのWhere the hell is Matt?がVisaカードのCMに登場しちゃてるぜぃ。 | 広告大臣
あとMattのプレゼンもあった。2000人以上の人と世界中で踊ったらしいが、どうやったのかという話。ユニークなイラストのプレゼン資料がいい(子供にはお金やったらあかん。先生にやるんだ!とか)。
» YouTube – How the Hell Did Matt Get People to Dance With Him?
とまれ、悲劇でも喜劇でもないのに泣かせるというのは、本当に素晴らしいなぁ。
昨今、エモーショナルマーケティングだとか、感性のUI云々とかよくみるし、今日もロボットの人から感性工学(感情と技術の融合)とかも聞いて、ふむふむとか思っていたのだけど、こういう感性に訴えかけるのは、一様でない点が、それの妙味たる妙味というか。
以前、なんかの本だかで「セザンヌのリンゴを生でみて、号泣した」という話を読んで、期待しながらロンドンでセザンヌをみたのだけど、それは私が未熟でぐっとこなかった。
ただ、似たような話では、初めてミュージカルをみた時にストーリー云々でなく最高傑作の踊りというものに涙した憶えがある。自分でもびっくりしたけど(ハッピーな物語だったから)。
そういえば、自社の話になるのだけど、べにぢょがメインでやってくれているサイト「パンドラ」も、一部から評価を頂いており嬉しい。「こういう感性で繋がるサイトというのは増えてくるのでしょうか?」と取材みたいなされた。そういえば、である。
ふーむ。感性感性。奥が深いなぁ。
最近、みなさんは何に心動かされましたか?というようなフレーズをふと口にしてみる今日この頃。そして、自分のソーシャルブックマークの「いい話」タグから、以下あたりを抜粋しておき筆をおく。
» 10年後の素敵なエンディング
» 命かけ住民守った13秒:ぁゃιぃ(*゚ー゚)NEWS 2nd
» 嫁が謝ったのを憶えていない
» この地上には愛すべき事が実に多い、急げ – もしもし
» 俺、いま幸せだよ コピペ新聞
» 国際時事新聞: 3.8億円の宝くじ当選、1年近く熟慮の末受け取る
» この前妻に先立たれたんですよ コピペ新聞
» On Off and Beyond: 書評:How Starbucks Saved My Life(全米が泣いた!)

ふとした変化の気づき

なんてことはない。髪型の話である。
一般論として、女性は髪の毛に力を注ぐ傾向にある。たまに髪型を変える。カットならまだしも、パーマにカラーリング、梳くなどなどもある。場合によっては「洗ってもらってきた」という場合さえある。
そして、一般論として、男性はそのような変化に気づかない(生物学上で相対的に)。というか、気づかないというか、認識していない。
この話は世の中、いたるところに転がっており、村上春樹の「ノルウェイの森」でも、一つのエピソードとして語られる。ある友人以上恋人未満の2人で、女性が大きく髪型を変えたのに男性が気づかず絶縁されるというような。
いや、これは男性の注意力緩慢さや嗜好性の違いといった性差を強調するつもりはないのだけど、なんというか、しびれる。世の中の声を聞いても、このような気づきの見落としによる諍いを少なからず聞くことがあり、なんか世の中は罠だらけだ。
ただ、自己PRとしてここ一週間前後で4人ほどの髪型の変化に気づいた。会った人数から考えるともの凄い確率のチェンジである。その確率を考えるに、もはや会う人全てに「髪型変わったね」とタモリメソッドを使った方がいいのではないかと思うほどだけど、そんなことをしていると「変わってへんよ。適当やな」と、今度は注意力散漫から適当の烙印を押されるので、それはそれでしびれる。
また逆に言えば、気づいたのがその数で、おそらくその裏には気づかなかった数も多分にあるわけで、なんというかしびれる。成功した企業の裏には数百、数千の失敗した企業がなかなか目につかないのと同じ論理だ。
悩ましい。しかも、明らかに変わっている場合はよいとして、「55%くらいの確率で変わったか?」と思う場合、「髪型変わった?」と聞くのは、「2年ぶりに再会した人の名前をうろ覚えでしゃべってみる」というくらい度胸のいるもので、間違った場合のリスクは前者の方が低いものの、なんというか、心境的にはそれくらい怖い。
で、何が言いたいかというと、変化の兆候は事前の会話から読み取れ、ってなことでした。

東京タワーが好きな理由は

tw.gif
どうして東京タワーのことが好きなの?と聞かれたことがある。
どうしてだろう、と考える。理由はいくらでも思いつくし、あるいは東京タワーにとって160個以上の展望シーンを述べることだってできる。
でも、本当に東京タワーが好きな理由を一言でのべよ、と言われると言葉に窮してしまうかもしれない。エレベーターピッチで事業内容を述べることができても、あるいは時にイスラエルに入国する目的を答えられたとしても、もっと平易なはずの東京タワーを好きな理由は、色々悩んでしまうかもしれない。
それとの出会いは2004年の頃に話はさかのぼる。大学2年生から3年生になるころで、海外旅行から帰ってきたころ。大学が近かったということもあるけれど、なぜか東京タワーが好きで、東京タワーの近くに部屋を借りた。走りながら見る東京タワーはとても綺麗で、いくら走っても飽きなかった。そして今でも飽きることはない。
マンションから見上げる東京タワーは美しく、さながら東京タワーに住んでいるような気分、とジョジョの鉄塔に住むスタンドを思い出した。今のオフィスからだって東京タワーは見える。夜中に左手にヒルズ、右手にタワーを見上げると、もはやタワーの良さはすべて込みな世界で、そこに理由を改めて問うても、何かしらの強い求心力がなせるわざ?と冬のジョナサンで考える。
赤いタワーは時を彩る。魚銀行からの景色ではピンク色のタワーとピンク色のクリームが調和するし、あまおうが彩るタワーの景色はビターな質問と混ざり合い綺麗な音色を奏でる。
いつかどこかでみた花火と同じ感慨を東京タワーは思い浮かばせる。タワーの光が持つはかなさと花火が持つ短命なる情緒は、その淡い時間が持つ限られた時間ゆえにその美しさを増すこととなる。さながら蝋燭が持つ陰影がその蝋燭を見る者の心を反映するように。
もしかするとエッフェル塔やドバイタワーでさえも、その東京タワーの魅力を持つのかもしれない。しかし、それでも東京タワーが持つ魅力は相対的や類似的なものではなく絶対的なもので。同時に東京タワーは夜にこそ光の美しさを表すもので、時にはその闇が欠かせないのかもしれない。
これらを全部ひっくるめて東京タワーが好きな理由なのかもしれないけれど、とても一言で表せそうにないのは間違いない。

可能性だけは腐るほどあるキミに

荘太さんのメルマガで、以下のコピーを読んだ。

「可能性だけは腐るほどあるキミに」

雑誌KING(休刊)の創刊コピーだそうだ。
ふむ、と思った。
この言葉を見て学生たちを思った。なぜならわかいからだ。わかいというのは時間があるということであり、時間があるということは可能性があることと相関関係にあるケースが多いからだ。
もちろん、自負としては自分は歳をとって可能性が減ったとは思わないけれど、まぁ一般論としてはよく言われるように
「小学生のころは、なんにでもなれた」というような言葉があって。
つまりケーキ屋さんでも、パイロットでも、科学者でも、博士でも大臣でも。
でも歳を取るにつれて、それらの選択肢は良い意味でも悪い意味でも、集中されフォーカスされ、淘汰され、そして、それを人は成熟するという。
で、まぁ学生たちにたまにお会いする。別に彼らだけが可能性に溢れているわけではないけれど、やはりそこには社会人とは違った可能性への生き方があって、それはそれはなんだか眩しい。
石田君とか関君とかわせプロの太田さんとか飯沼君とか、アイセックの高木さんとかアルカーナでも手伝ってくれている藤井君とか山本君とかとか(いろんな理由でこのあたりで記載とめましたがご容赦をば)。
でも負けずに、可能性への飽くなき探求はいつまでもポケットに忍ばせておきたいなぁ、とか思って。
いずれにせよ、でもやはり「歳を取るだけ可能性が広がった」という生き方の方が、愉快な気もしていて(良いか悪いかはわからない)。

会話をしない日

知らぬ間に週末が終わって。気づけば、今日は何も言葉を発しない一日だった。
ほぅ、と自分につぶやいた。自分への対話はアンカウンタブルとして。スタバの店員さんへの一方向での発生やメッセンジャーでの対話はあったとしても、対話はしていないことに気づいた。
そういう日は世の中には溢れているのかな、と考えた。あることもあるだろう。一人暮らしで、個人で仕事などをしているとそういうケースはあるかもしれない。個人的には社会人になってからは、土日で仕事がある日も少なくないし、何かしらがあって、あまりないような気がしたけど、気のせいかもしれない。とりあえず世界の数値を肌感覚よりもファクトをとろうと思って、メッセにいた何人かに聞いてみた。とはいえN数は3。
2人くらいは

たまにあるかも

な感じのご返信。もう1人の方は

ない・・・・
さみしがりやだから。。

という回答。
ふむ。さすがにサンプル数3ではなんとも言えない。
ただ、メッセンジャーやメール、ショートメッセージのような会話を必要としないメディアができたお陰で、声を出してコミュニケーションを取る機会はかなり少なくなったことは間違いないように思う。こうして会話をしなければ人は言葉をしゃべられなくなるんじゃないか、なんてことを思ったりするけど、まぁそれは別の話。
それよりも回答にあった「寂しいからない」という言葉が、ほうほう、と思った。
対話は人の寂しさを紛らわせる効用がある、ということが読み取れて。確かに、肌感覚的には、それは理解しえるけれども、ただ、なぜ対話によって寂しさが紛らわされるのかは一考に価する。
それは言葉を交わす行為自体に価値があるのか、話を聞くことに価値があるのか、あるいは話をすること自体にあるのか、となるとなんとも言えない。ただ、後者2つはメッセンジャーで代替もできるので、強いインパクトはないのかもしれない。ロジックとしては弱いけれど。
そう考えると、「生」の声を交わすということが重要だとするならば、それはそれで非常に興味ぶかい。
つまり、視覚は聴覚を代替しない、ということになって、耳に何かを入れるという行為自体が、何かしらの価値を持つと考えられる。しかしは聞くだけならばラジオでもテレビでもできる。ただ対話の相手が1人か多数かでの区分も必要でテレビでは代替されないと考えると、その場合、対話が独自性を持つのは「個人に話しかけられる言葉」か「話すということと連動した行為の聞くこと」という2点に集約される。で、これを論証するには、「話をする」だけで寂しさは解決されるのか?という点を考えればいい。人は悩みを話すことによって解決されるという話も聞くし、2ちゃんねるの人気はそのようなところにある。ただ、話を吐露するだけで寂しさが紛れるならば、それは独り言をしゃべっていればいいということになる。しかしそれでは寂しさは解決されない。
つまりは対話の魅力というのは、「話すことと聞くこと」が連動していることに価値があり、場合によっては「個人に話しかけられる言葉・ないし・個人に話をする言葉」に価値があるというように思える。ただ、これは寂しいという人の価値観に依ることも多いのでなんともいえないけど、まぁなんだっていいや。
で、結論として、なんというか会話って実は破廉恥な行為ではないかと思った。理由は推し量ること宜し。
※結局、最後に電話によって会話をしない日broken

激動の時代と文化と

Image.aspx.jpeg
以下の記事を読んだ。
【ウェブ立志篇】米ミューズ・アソシエイツ社長 梅田望夫 – MSN産経ニュース
不景気で大変だけど日常を生きなくちゃいけなくて。24時間サバイバルすることはできなくて。そして以下、という文脈。

だからこそ文化や芸術が大切だということである。

確かに、と。文化とは、もちろん好景気の時も、人気を博すわけだけど、本領を発揮するのは、このような不景気の時ではないかと。
そして歴史という洗礼を受けた文化は、多くの不況や不景気、災害を受けた時代をこえ人々を救ってきた。
それは歌であり、言葉であり、踊りであり、あるいは建築物かもしれない。たった一冊の本に救われたという話はどこにでも転がっているし、上原隆さんの本では、そのような「ヘビィ」な状況を超える人々の話が盛りだくさん。
そうなんだな、と。
文化は人を時に救うのだ、と思った。そして、救われることを望むのは、まさに不景気の時代。それゆえに三段論法として文化は不景気の時にこそ求められる。とはいえバブリーな時代に咲いた文化(バロックを見よ!)もあるので簡単には言えないかもしれないけど。
リバーフェニックスは、

人を救うのは家族や恋人、友人など身近な人たちのたった一言だったりするんだ

と行っていた気がするけど、それも真なりだけど、同時に、その一言は文化が代替する。文化とは、身近な人の言葉の現身であるのだらうか。
と、ここまで数週間ほど下書きで放置していた記事を、なんとなく追記して公開。
人はツライ時に何に助けを求めるのだろう、と思った。人、という話はよく聞く話で。たとえば恋人とのいざこざやあるいは会社の愚痴、ないし泣き言を言いたいときは人は、その言葉の受け皿を人に求める。時には、それは不特定多数のネットかもしれないし、あるいは、犬や猫のヒト科以外の生き物かもしれないけど、いずれにせよ、人は生きていくと、色々な澱みを抱え、それをはき出す先を必要とする。それを誰かは「澱(おり)」と表したけれども。
ただそれはアウトプットでありインプットとは少し異なる。もちろん人の言葉やリアクションは大きなインプットとなる場合もあるだろう。たとえば公共広告機構のコピーで

命は大切だ。命を大切に。 そんなこと、何千何万回言われるより、 「あなたが大切だ」 誰かがそう言ってくれたら、 それだけで生きていける。


という有名なものがあるが、まぁそういうことだろう。
人にも頼るが、同時に人は文化に寄る。人はパンのみで生きるにあらず。
それは宮澤賢治の詩かもしれないし、風の声を聞く歌かもしれないし、Juergen Tellerのポートレイトかもしれないし、ファンキーな映画かもしれないし、いずれにせよ、それは何かを求める人に、場合によっては何かを提示する。間違った正解かもしれないし、正しい誤解の時もあるけれど、人はそこから何かをくみ取る。まるで身近な人からの助言のように。
ということで、最後に、あんまり脈絡なく「花咲く旅路」おいていきますね。激動の時代における、以下の言葉を何かの代弁として。

世の中は ああ 世の中は
なぜ こんなに急いてと流れてく

最近の色々

■アポロン
先日、apolon.jp – 仕事と才能を結びつける、クラウドソーシングサービス アポロンというサービスをリリースしました。
これは「才能を売買できる場」というようなサービスで、仕事の受託・委託をB2B、B2C、C2Cで無料で行うことができます。クラウドソーシングの一環という試みです。
個人のエンパワーメントという理念を実現させるためのサービスの1つと位置づけています。
思いとしては「世の中にはビジネスにはしにくいけど、凄い才能がある」「そういう才能はビジネスになればもっと素敵そうだ」というような流れがあります。たとえばもの凄いニッチ分野の知識とか技巧とか。あとC2Cの市場が今後広がることを願い。
詳細は以下です。もしよろしければご登録頂けると末代まで喜び、庭かけめぐります。
» クラウドソーシングというトレンドに関して: SNS,ソーシャルネットワーキング.jp
■大恐慌勉強会
フリーエージェントs.jpで先日「大恐慌ってどーよ」勉強会が開催されたので参加しましたよ。
今後のトレンドとか、不況にいけてるビジネスとかを議論。一番参考になるのは、やはり、「生の声」で議論できる点でしょうか。評論家や教授などの話ではなく、この市況のまっただ中に居る人たちのぴりぴりした声というのは、とても参考になります。しかも、おのおのの分野における肌感覚というようなもの。
■質問会議を体験してきたよ!
先日のエントリでも紹介しましたが質問会議という書籍があります。
» 会議と読書とはあちゅうと(本レビュー) (いけいけどんどん)
こちらはアクションラーニングの世界の一環(でいいのかしら?)で、会議の手法が紹介されています。質問しかしちゃいけないという手法なのですが、それを実際に体験してきました。
詳細は千葉さんの以下のエントリに詳しいです。
» スーパーブランド人 大集合!『質問会議』スペシャルセッション|出逢いの大学
で、この質問しかしちゃいけないというのがどれほどの利点があるのか、自分なりに感じたところとしては、
・消極的な人でも発言できる(疑問を言うというものは、意見を言うよりも言いやすい)
・間違いがないので質問しやすい(質問には正解も間違いもない)
・ダメだしをする人は頭をひねる必要があり、単なるダメだしでも生産的になる(相手のマズイところを突こうとしても、それを質問形態に変えて局部を突く必要があり、いわゆる「質問力」が問われる)
・意見が流動的になるので、会議を進行しやすい
・いちいち意見に回答するのではなく質問に回答するため、なんか回答者がやりやすい
などなどでした。早速、会社でもやってみようかしらん。
古屋さんありがとうございました!
■お詫び
メールがしこたまたまっていて返せて居ません。不義理を本当に嘆くばかりです。がんばります。

苦笑いの日常をサバイブせよ

タイトルに別段意味はなくて。
単にiPhoneで「苦笑いする日々をなんちゃら」という歌を聞いた時に、「終わりなき日常を生きろ」という秀逸タイトルが組み合わさって、出てきただけ。
別段、個人的には苦笑いに対して、なんの思い入れもないけれど、なんか世の中を見回した時に、苦笑いという言葉が何かしら世相というか、風潮を表しているような気がした。
というか滑稽な話が多いような気がした。リアリティを欠いた現実というか。で、ふと喜劇・悲劇に関する名言を調べてみたら色々あることがわかった。
アドリアン・ルビンスキー

「喜劇的な事を悲劇的に演じ、悲劇的な事を喜劇的に演じるのが道化だ。」

奥田英明

「悲劇と喜劇は表裏一体だ。どちらか一方だけで人間を描くのは、表現者として公正さを欠く。」

ウォルポール

世の中は考える人たちにとっては喜劇であり、感じる人たちにとっては悲劇である

ソクラテス

懐疑は無限の探求にほかならず。真の悲劇家は真の喜劇家なり

チャップリン

人生はクローズアップして見ると悲劇だが、引いて見ると喜劇である。

バーナードショー

人生の二通りの悲劇がある。一つは願望がないことであり、もう一つは願望を持つことである。

ベートーベン最後の言葉

「諸君。喝采を。喜劇は終った。」

ラ・ブリュイエール

人生はそれを感ずる人間にとっては悲劇であり、 考える人間にとっては喜劇である。

まぁ、そういうことで。そして悲劇を喜劇に変えるのが上記のようなウィットネスであったりする。そして、このような言葉の妙味というのは「劇」という言葉が持つ客観性と装置的ニュアンスであり、もしこの悲劇を「不幸」、喜劇を「幸せ」なんて置き換えてしまえば、その言葉が持つ魅力は半減するように思える。
あくまでも喜劇や悲劇は外部の対象として見るものであり、それは自分の人生とて、そのような機構に組み入れてそれを中から見るというメタ演劇的演劇とでもいうべきもので、それは故人の「人生は舞台だ」という喝破より脈々と流れる演劇が持つ力の表れなのかもしれない。
そしてその言葉は「男も女もその役者にすぎない」という言葉を受けるのだが、日常を生きる我々は、そのまさに時代に合わせたロールプレイで苦い笑いを笑顔に変える。
なんてことを、なぜか「ルージュの伝言」を聞きながら階段を駆け上がり思った。

この星を継ぐ我々

srara.gif
友人のブログのタイトルで「台風の去った沖縄では、夏がまだ続いていた」というものを見かけて。
その「○○では、○○だった」というフレーズが素敵。なんかキュンと来た。応用を考えた。
「あっという間に秋を通り越して、冬服を用意しなくちゃいけない時期になっても、港区のある一角ではまだ夏が続いていた」とか「金融大恐慌と言われていても、ロリータでチョコラータを飲む彼女の日々は夏に満ちていた」みたいな。
なんだかいい。
さらに応用を考えた。
「大学生が眩しく見える年頃になって、友人が買った結婚指輪の値段を耳にするころになっても、まだ私の心は青春で満ちていた」とか「夢見るころを過ぎても、彼の未来は永遠だった」とか「日本の政治家に希望を持てないという人が増えたとしても、まだシリコンバレーの空は真っ青で、カリブ海では貿易風が吹いている」みたいな。
で、ふと思い出したのが、こちらのブログで拝見した

青天井の未来予想。

というフレーズと

「実現したいことを遠慮なく想像している」

というフレーズがとても好きで。
ドリーミングに成りすぎても世の中は回らないのはわかるのだけれど、でも、少なくとも、私たちには未来を無限と想像する義務があって。不況、不況と言われていても、それでも日々を生き抜く人たちがいて、そして生き抜かなくちゃなんなくて。
故人の歌にもあるように、「涙を流し 瞼を腫らし祈るほかないのか? 」なんて泣き言は言ってられなくて。
あるいは、最近、よく聞くのが「日本をどうよ」というような話で。
つまりは、前提としての「少子化やシュリンクするマーケット、政治的プレゼンスが弱くなっている日本」に向かって、あなたはどうするのか?という設問で。「アジアに出る」「海外に向けた市場を作る」「海外へ行く」という声を聞くと同時に「日本においては、自分がなにができるのか?」という自答を聞く機会も増えて。
これは一種の自浄作用とも取れるし、あるいは、反骨精神の現れかもあるいは、最後のなんとか屁というものかもしれないけれども、議論は侃々諤々、栄光に向かって走るあの列車に乗るわけで。寝言は寝てから言え、と言われても、それでも、人が持つ最大の価値は「希望」というもので。
そこで、恩師の言葉を思い出す。私自身、日本のブランドを10年来、研究していることもあり、少子化の課題がずっと頭にあって。そこで、2001年、認知心理学の恩師に聞いてみた。「少子化をどうとらえるのか?」と。そこで氏がいったのは

「波だよ。いつか戻る」

との言葉だった。本当かどうかはわからないけれど、若かりし頃の私は、何かその言葉に「そういうものか」と納得した憶えがあるのだけど。波は株価に表れるものかどうか分からないけれど、それでも波の上に魔術師はいるし、「歴史は二度繰り返えす。ー度目は悲劇として、二度目は喜劇として」とマルクス先生は仰っているし、ポリュビオスさんの言も引くまでもなくて。
そりゃ、相対的に考えれば、マイナスかプラスへの移動平均線はあるけれども、結局、それっていえば、尺度をどう見るかというもので、第一、その尺度の度数をなににとるかでも違っていて。
少なくともこの地球という「星を継ぐものとして現代に生きる我々としては、この時代も継ぐ者なわけで。
そして、それを故人は「陽はまた昇る」と喝破したんだよ、多分ね。

お風呂つれづれ

off.gif
昔々のお話。

「なんでお風呂に、桶を置いていないの?」

と聞いた私に

「かっこわるいから」

と返され。おお、そういう見方もある、と思った。世の中で物事に対する見方は一律じゃないのだ、当然ながら。
そういう価値観のお話を書こうと思ったけど、どうも最近、そのようなぬるっこい真綿でなんとやらな文章が多くて不評なので、今回はお風呂の話にしよう。
風呂の話で一番最初に思い浮かぶのはトゥーサンの「浴室 (集英社文庫)」である。内容はもはや忘れたが、お風呂に入ってやすらぐ男のシーンだけを思い出すことができる。もっとも自分で想像したシーンだけど。良い作品だった、印象論として。確か、山田詠美もほめていたのではなかったか。
あと、上海ベイビーでも、お風呂のシーンがあった記憶があるけど、勘違いかもしれない。むしろ、上海ベイビーの作者のほかの本を翻訳なさっている方のおうちのお風呂が素敵だった(日光がそのまま風呂に入るガラスの壁)という記憶間違いかもしれない。
思い返せば、風呂のシーンがある小説って以外に少ないだろうか?「酒井 あゆみ」さんの本では多いけど、それはまた別のお話。あ、思い出した。「痴人の愛」だ。これは僕の話ではないが「ナオミゴッコをしよう」と言われて、なんのことかと思えば、お風呂で体を洗わせるという話で、うまいこというなぁ、という「友人の話」を聞いたことがある。
そうか。お風呂で何かが起こらない限り、小説ではお風呂のシーンは必要シーンとして登場しないのか。映画だと、「サービス」の意味で、そのようなシーンは無駄に多いけど(特にアメリカ)。昨今の映画でも「チャーリー・ウィルソンズ・ウォー」「最高の人生の見つけ方」「ベガスの恋に勝つルール」あたりでも当然のごとくあった気がすると友達が言っていた(電文推定)。
あ、「千と千尋の神隠し」では舞台でしたね。でも特筆すべきことはなし。映画でバスのシーンで印象的なのは「プリティウーマン」のシーンかしら。誰かが言っていたのか、どっかで読んだのかわすれたけど、そのバスタブのシーンで、ジュリアロバーツが長い脚で、リチャードギアを云々というシーン(これ)が記憶に残っている。あとはサスペンスではよく風呂場で人がやられますね。お約束。特にシャワールーム。
まぁいいや。そういえば自分を思いかえせば、世界中のお風呂に入ってきた(メタファー的なまずい意味ではなく)。逆に欧州のは入ったことないけど(全部野宿だったから。でも駅にシャワーがあった)。
それで印象的なのは、ガーナの「水しかでないシャワー」やハンガリーの「同性愛者専用の公衆浴場」、エジプトの「バケツシャワー」、モロッコの「なぜか10畳くらいある馬鹿でかい風呂場」などが記憶に残っている。日本では川のお風呂や雪見風呂、アクシデンタルな貸切風呂などよく考えたら、お風呂っていろいろ記憶があることに気づいた。
過去で「人から聞いたお風呂の話」エピソードとしては以下のようなものが記憶によみがえってきた(男女・伝聞問わず)。

「毒素がたまったらお風呂で抜く。頭までざぶんと使って、ふなふなになるまで入る」

「お風呂ではひたすら本を読む。ページがしわしわになるまで」

「お風呂には青いものしか置かない。」

「お風呂では、桶は斜めにおかないとカビが生えるから斜めにおくこと」

なんてことを思い返しながらお風呂に入ろうと思った。人はそれぞれのマナーと思いでお風呂に入るのだなぁ、と。
※この記事は消す可能性あり