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書評:「いま会社がなくなってもすぐ次が見つかる人になる33のステップ」

すぐやる人の代名詞である「豊田圭一さん」が新刊を出されたそうです。
献本御礼と共に、いくつか引用まで。

こちらの本は、タイトルにあるように、ビジネスでの力を付けるための方法が紹介された本。プレゼン力や人脈力、コミュニケーション力などなど。
社会の雇用環境がより流動的になる昨今では、本書にもある自分の市場価値というものがより重要になるのでしょう。
それで思い出したのですが、先日、何かでみたニュース。
その人は社会保険庁に務めるおじさん(40だか50歳だか)。今回の削減もろもろの波に呑まれ、リストラされるとかしないとか。なぜ、その人がリストラ対象になるかというと、過去に1度、知り合いの支払い歴などをチェックして懲戒を受けた過去があるから。
それに対して彼はこう言います。「今までこれだけ働いてきたのに1度の失敗で、こんな仕打ちを受けるなんて。どうして生きていったら良いのか」と。
それを見て少しカルチャーショックを受けたのを憶えています。というのも、「給与や待遇は、その人の市場価値によって決まるものである」と考える立脚点からみれば、「いくら社保庁を首になったとはいえ、自分の能力を活かして、他の仕事をする道がある」という考え方があり、逆にいえば、「他の場所で、それだけの評価を受けることができないならば、それなりの生活をすべき」という考え方があったからです。
もっとも、日本の労働環境は終身雇用を前提とした年功序列や、転職者へのマイナス評価なども鑑みれば、確かに、その年齢でいきなり市場に出されるというのはコクかもしれません。いわば、ペットとして飼われていた室内犬がサバンナに放り出されるようなものなのかもしれないです(人を動物に例える比喩のまずさはともかく)。
まぁ、でも、ともあれ、社会というのは、そのような社会になってきており、このような「至上価値」という言葉は今後、さらに耳にするようになるのかもしれません。
以下、いくつか引用。
■テンション

仕事に必要なものって何でしょうね?」
と質問してみました。
それにタイする高瀬さんの答えが
「テンションの高さ以外にないだろ!」

■女性
男性のレビューはオブラートに包まれていることがあるのに対して、女性のレビューは往々にしてストレートであるということを指して以下。

女性は思ったことをズバっといったりします。

これ分かる気がしますね。異性からのレビューは、想定外のツッコミが多い気がします。
■ブランド品

ブランド品の仕立てが良い服をきるとそれだけで気持ちがシャキっとします。

某先輩から、そう言われたことありますな。
コンサルなら、ランチは1500円以上、ノートはモーレスキン、ペンはどこのブランドでもいいから万年筆って。
「ランチで1500円以上って探す方が時間かかるぜ先輩」と心ながらに思ったのを憶えています。
ということで、ビジネスパーソンな方々はいかがでしょうか!?
※ご関係者各位
書評10冊以上溜まっておりまして、申し訳ありません・・・。ありがとうございます!順次、拝読させて頂ければと思います。

1Q84(基本ネタバレなし)

ブログのコメントでで村上春樹の1Q84に関するリクエストを頂いたので、それについて。僭越ながら。

1Q84 BOOK 1
1Q84 BOOK 1

posted with amazlet at 09.07.12
村上 春樹
新潮社
売り上げランキング: 8
おすすめ度の平均: 4.0

4 わかる、わからない、わからない、わかる、、、
5 わかりやすいしおもしろい
3 トカトントン
3 面白いが好きになれない。もっと説明すべきでは?
4 いい作品。でもカタルシス1点減点

いやはや、ここ10日以内にも4人くらいと1Q84の話が出た記憶があり、やはり、まだある種の書籍は「話題の共通のマテリアル」としての価値を持っているんだなぁ、と改めて感じる。
そういう意味では、ドラゴンクエストの最新作やiPhoneなども、ある種のクラスターにおいては、十分の共通のマテリアル性があるのだろう。ニッチかもしれないし、あるいは、かなり限定された条件下においてかもしれないけれど。
さて、感想として、ネタバレをするかしないかで、書ける内容が非常に限定されるのだけれど、敢えてネタバレしない形で、あたり障りのない範囲で、うまく書いてみようと思う。ただ、全く事前情報知りたくない人はご注意(その箇所は※以後危険と記載しておきます)。書き終えてから見直しましたが、一応、未読の方でも問題ない構成にしたつもり。
結論から言えば、面白かった。それは、「村上春樹らしさが存分に出ている」という点において、という意味だけど。つまり、神の子やカフカあたりからの系譜とは少し異なった本流に少し回帰したという点では面白かったのではなかろうか。ただ、それではこの本が「ピンボール」や「ノルウェイ」のように、引っ越し先にも持って行きたい一冊かというと、結構悩むかもしれない。それこそポールオースターのムーンパレス(リヴァイアサンは永久書庫確定済み)か伊坂幸太郎の「死神(砂漠は永久書庫確定済み)」と同程度の良さだったように思う。むしろ、「走るときについて・・・」の方が再読可能性は高いような木はするけれど、それは私がマラソン好きだからだろう。
あ、あと他の人の話やWeb上の話でも出ているけど、これに続編があるとかないとか(ある方の可能性の方が高そうではあるけれど)。「1q84 続編 – Google 検索」などを見ると、さもありなん、とは思うけれど、個人的には、これはこれで完結していてもいいんじゃないのかなぁ、と思う。ただ、続きがあってもそれはそれで良いけど、なくてもまぁ、悪くないのではないか、と。理由としては、「続編<新刊」という指向性があるからというだけ。
ただ、残念ながら昔のように「熱狂」はできなかったのも事実である。ただ、それは物語の本質とは関係なく、私が年をとった(という表現で表すところの社会性だとか環境の変化)からであろうと思う。愛と幻想のファシズムのように翌日、何も手が着かなくなるということはないし「夜の果てまで」のように、読了後、誰かに電話をしたいという衝動に駆られることはないし、「ぼくは勉強ができない」のように翌日、学校への歩む速度が変わることもない。でも、それはそれでそういうものだ、と思うしかない種類のもので、きっとそれは1Q84は何も悪くない。
さて、やっと本題。
まず、小説をメタ分析してしまう1人としては、「過去の宗教関係者へのインタビューがこんな形で物語りになるのね」という意識だった。いや、彼が過去にオウム周りで取材をしている時に「これが血肉となった。時間はかかるが、いつか小説に云々」という話を大分前(7、8年近く前?)にしていたので「おお、こいう形でよみがえるのね」と参考になった。というのも、ブログを書いていて思うのだけれどこんな話を考える。たとえば、一緒の出来事を共有した人がいる。その人がブログでそれを書くとする。他の人もそれを書くする。自分がさらに書くとする。そうすると、当然ながら物語は3つ登場する。テーマは一緒だけれど、主観が異なれば、まったく違った文脈がそこに表れる。
それは勉強会などではある程度どこかに収斂するけれど、出来事やイベント/旅行といったかなり独自性(ないし、個人の指向性)が反映されるアクティビティにおいては、それらの見方はまったく異なる。そういう意味で、物語の再現性(正確にいうと、リメイク兼言語化)は、興味深いと思うのだ。他の小説家でもたとえば911事件を人それぞれに描いていたり、あるいは村上氏自身も神戸大震災をテーマに異なった物語をいくつも紡ぐように、人の立場が変われば、同じ出来事はまったく違う意味を持つ。以前、友人とお酒を飲んだ時に、「私が感じであろう視点で書く」という離れ業をしておられたことがあって、つまりは、相手は原田がどう感じたか?という点を推測して、同時にそこに自分を内包しながら再構成するという離れ業をしておられた。それは「立脚する視点に自分を含有するが、その立脚する主体も自分(つまり、相手の視点にたつ場合、相手の視点は自分の所作がどうであるか?という点の分析となるが、その分析対象が自分であるという点では、自分がどう思ったか?という点が含有されている)、という不確定性定理(先日の講演で久しぶりに聞いた)にも似た興味深い行為となるが、それはまた別のお話。さらに蛇足で言えば、最近読んだ「イニシエーション・ラブ (文春文庫)」の視点のズレを活用したトリックはそれで面白かったけど、かなり関係のない話。
いずれにせよ、そのような「出来事の文章化」は過去にも書いた「日常を非日常化」する行為でもある。つまり自分にとっては、「ありきたりの陳腐な日常」であっても、それを言語化し、そして、リメイクすれば、それは「非日常」として生まれ変わる。それはある種の儀式のようにも見えるし、ある種の精神安定効用でもある可能性だってある。
そのようなことを1q84を読みながら最初に感じた。あと、そのようなテクニックで言えば、「最初に暗示を提示して物語をすすめる」というテクニックも、わかりやすくて参考となった。つまり、違う例で言えば、最初に「僕は死んだ」といって始まる「ほたるの墓」のように、あるいは、タイタニックの「船に投げるネックレス」から始まる物語と同じように、最初に出したテーマに沿って伏線を回収しながら物語をすすめていくという流れは、(構造主義的観点から言えばベタかもしれないけれど)、やはり吸引力があるよな、と思う。
あとはサブカルチャーの使い方も素敵だった(蛇足続きだけど、ノルウェイで出てきたキュウリに海苔を巻いて醤油を付けて食べるという食べ物には感銘を受けて、学生時代、よく食べてた)。もう一つは、小説の作り方として「今のリアルの現実を少しずらした世界」の価値というものを改めて感じた一作だった。というのも、もしあなたが小説を書こうとする場合、どのようなものを書くだろうか?おそらく、自分の過去の延長や、あるいは、自分が夢見た世界あたりが多くなるのではなかろうか(推測なので違うかもしれない)。ただ、もう一つの虚構の作り方としては「現実でない世界をいかに創るか?」ということが重要であるようにも思う。というのも、上記の「日常を非日常化する」という点とも対となるのだが、「非日常を日常とする世界」がそこには生まれるからである。たとえば「魔法が使える世界(ハリーポッター)」「かかしがしゃべる世界(オーデュポンの祈り)」「人の心が読める(家族八景)」など、少しずれた世界(現実にはあり得ない設定)を書き出すことが、小説の新しい世界観を生み、それが小説としての礎となりうるからだ。そういう点では、この世界観は非常に参考になるものだった。
さて、本題に入ったつもりが、これっぽっちも本題に入ってなかったので、改めて本題に再突入する。
(※以後一応注意)
ポイントとしては、月である。この小説を彩る道具の一つだ。この月に関して書く。無鉄砲に書く。
先日、七夕だった。とあるお店(一応注釈:変なところではない)の人が「満月の七夕って19年に一回って知ってました?」と言った。へえ、と思った。なぜ「へえ」と思ったかというと、「何気ない七夕なのに19年に一度」という設定が付与されるだけで、とても価値のあるような日に思えるからだ。まぁ、これは今のマーケティングでは当たり前だけど、それでも、ふと知り合いの口から聞くと、何だか、その七夕の日がとても高尚のようなものに思える(とはいえ、何もしなかったけど、それはそれで別のお話)。
というのも、そのついその少し前の日、あまりにもくたびれて深夜前、過去の上司(近所にいると想定)に「お酒!」とメールをすると「珍しい。満月だからか」的に返事が返ってきて(他意はないと思われる)、「おお、月というのは、そういう力があるのかしら」と思った。どうでもいい補足情報だけど、文脈の説明をすると、実際、私はお酒が苦手なので自分から唐突にお酒を飲みに行こうということは、かなり稀。確かに、満月の日は犯罪が増えると聞くし、物語でも、狼男の話もご存じの通り。月は、何かしら人を左右するものなんだなぁ、と感じておった。
さすれば、ちょうど、その前後の日に「ムーンパレス」の話を聞いて、おお、月だ、と思った。説明しておくとムーンパレスは、ポールオースター巨匠を代表する(と原田が考える)一冊で、青春小説。このムーンパレスという名称はマンハッタンにある中華料理を指していて、直接、月の話はあまり出なかった気がするけれど、冒頭では、初めて人間が月に立ったというエピソードが重ねられており、やはり月の話が散らされて「何か」のモチーフとなっていた。
まず一回、月の話を置く。
次に、この物語の中で、「いつかどこかでその人と、ばったり町角で出会うかもしれない」という人がいた。つまり、過去に会ったことのある人がいて、その人はいまどこで何をしているかもわからない。調べようと思えば調べられたとしても、探さない。いわゆる「偶然の邂逅」を望んでいる。
いい話だ、と思った。
どこがいいかというと、「神様とダンス」している感じが良い感じだ。ここで言う神様というのは、「存在しないけれど、存在すると人が共同幻想を持つことが重要な意味を持つあがめ奉られる対象」である。
もしかすると会うかもしれない。会わないかもしれない。それがどうなるかは神様のさじ加減一つ。ただ、自分からアクションを起こす必要はない。失敗して傷つくこともない。ただ、会ったら自分に何かが起こるだろう、と心境を置く。つまりは、「世界が変わるかもしれない」というトリガーを日常に紛れさせておく。それによって日々が彩られるかもしれないし、あるいは、「いつかどこかで」物語が始まるのを待つことができるだろう。
個人的にも、便宜的には、偶発性に意味づけを付与することがあり、それは現代の処世術として非常に有効だ(だからこそ、スピリチュアルや宗教は常に存在する)。そして、その偶発性を事前に設定することは、上記の前提として、同時に有効である。
そこで考えた。
「自分がいつか再会したい」と思う人はいるだろうか、と。
もちろん、いるのはいるけれど、連絡先がわかる人だったり、あるいは、会うことがあるだろう、とわかっている人がメインだ。いまやSNSやGoogle先生を使えば、大抵のことは調べられる。
ただ、「いまその人がどこで何をしているか」を知らなくて「友人やツールなどを使ってもたどれない人」というのは、かなり少ない気がする。あるいは旅行先で出会った人などは、その範疇に入るかもしれない。いまでこそメールアドレスの交換はできるけれど、それでも旅先でメールアドレスを交換するのは、そうそうたやすくない。NYに留学している時に出会った友人の何人かは、もはや一生コンタクトができないだろう。そして名前を思いだそうにも、ファーストネームしか憶えていなかったり。そういう人と、いつか街角で再会するかも、と考えるのは、なかなか楽しい。
いつかどこかの街角で、というような。
というこの偶発性の物語。これが月の存在と絡まり、「偶発性を偶発性ではなくする物語」がそこに生まれている。そもそも、小説というものは恣意性があるだけでなく、「偶然が起こらなかった時の出来事は物語化されないのだから、物語化されている物語は全て偶発性が必然に起こる」というテーゼも内包され、そして、その偶発性が、「しかるべき設定」で説得力を持つことが重要となり、その点で、これは月と偶発性が綺麗に絡まり合った物語だな、と感じた。
そして、何より、この二つのテーマを出したのは、この二つが自分の世界とも絡み合っていたからだった。小説というものを娯楽とみるか、なにかの指針とみるかでその意味づけは異なるけれど、後者となった場合、この物語は「私にとってどのような価値があったか?」という基準で図られなければならない。そのような点で、この二つは非常に有意義な価値を持つことになる。
そして、何より、この本をこのようにブログのコンテンツ化できる、という点でも、この本は読む価値がある一冊だといえる。

アットアグラ

その町を人はアグラ、と呼んだ。日本語では胡座を連想してしまうかもしれないけれど、そのメタファーを使うなら、さしずめそのアグラは夏がチャンチャンコを着てちゃんぽんを食べているような力士がアグラをかいているような町だった。つまりはひたすら暑かった。でもこれは今思い返せば暑かったのであって、当時はあまり暑くなかったのかもしれない。私はすぐ後からの知識や会話で記憶を上書きしてしまう。
そのホテルは、アグラでいうならば中級くらいだろうか。他のホテルと同様に1日10時間以上は断水していたけれど、それでも、3階の窓から差し込む風はなかなか気持ち良かったように思う。部屋には大きなベッドが真ん中に1つあり、その上には私の洗濯物を干す洗濯紐がぶら下がり、そして壁にはよくわからない穴が空いていた。穴から何が出てきたっておかしくないけれど結局出たのはため息だけだった。
確か衣類を入れる心ばかりのクローゼットがあって、そして重鎮な机が一つだけあった。窓が大きいのだけが取り柄だった。映らないテレビも、どことなく哀愁があり嫌いじゃなかった。
夕方から町を散歩した。散歩しながら、道ばたで売られているトウモロコシを買った。30円だか50円だかの焼かれたトウモロコシは、他の町よりも少しそっけなく、少し甘かった。トウモロコシが一番うまいのはジンバブエだ。これは憶えておくといつか役に立つこともあるかもしれない。しかも物価も一番安いのだ。そりゃ8本買ってきてルームメイトにあげても誰も批難しないだろうと思う。でも、実際は批難されたのだけれど。「こんなもん晩飯になるか!」と。
たまにネットカフェにいった。Windows95だった記憶がある。ブラウザは当然IEで、ダイアルアップ接続だった。20分くらいに1回、回線がきれたけれど、そういう時はドアの外からアグラの町を眺めていた。みな何となく歩いていた。何となくあるく人は東京ではあまり見ないな、と思う。何かしらの指向性と節度を保った歩き方は近代化に必要だったものなんだろう。当時はHotmailを開いて、旅行人という旅行者用のBBSを眺めて。いくつかメールを書いて、いくつかCGIの掲示板スクリプトに日記を書いて。
中華料理をよく食べていた。近かったし、夜、ちゃんとテーブルで食事をするにはあまりにも他の選択肢がなかったのだ。もう少し町の方にいけば良かったのだろうけど、そこはネパールでいうマウンテンビューのようなところで(なんとも説明にならない例えだ)、つまりは控えめに言うところの「落ち着いた地域」、率直に言うところの「何もない場所」だったのだ。でも、そんな場所のホテルを撮ってしまうほど、身体はくたびれていたし、そもそも町でホテルをとる利点がレストラン以外に思いつかなかったのだ。

キュートでクラッシュなジーパンでデジャヴュ

ザイーガで以下の動画をみかけて。

まぁ動画はなんだっていいのだけど、音楽が耳について思わずiTunesで買ってしまい、耳にこびりついてしまいました。歌詞がえらく青春ノスタルジック。
「フレッシュでクールでキュートでクラッシュなジーパン」と聞くと、脳内で色々タグ検索が行われ「ナウでヤングなサーバー」とか「ボデコンでモーレツ」とか「オイニーがゴイスー」とか「狸穴パラダイスにキサナドゥ」とか出てきてシッチャカメッチャカ。
どうでもいい話をすいません。

2008年の12冊

さて。個人的に毎年行っている「その年に読んで面白かった小説」まとめ。
四年目になりますやろか。この「読んだ本」に自分の本メモを入れているんだけど、去年は100冊ちょっとしか読めておらず。どうしてもビジネス系が多いので小説は半分以下だろうか。ということで6位までにしました。タイトルの12冊は仕様。
あとテンションあがるかは人次第なのでご注意下さい。
ともあれ、過去のは以下。

■6位: 新堂冬樹 「女王蘭」
これも、すすめられて読んだ一冊。
キャバクラなどが舞台だが、ストーリーが面白くて(どろどろして)、楽しく読んだ。
» 女王蘭 (読んだ本)
■5位: 大崎 善生 「ロックンロール」
パリを舞台にした恋愛小説。
切なさを書かせたら、大崎さんつよし。昨今、毎年ピックアップしてる気がする。
以下の最後の引用が白眉。

僕もわからなくなると真夜中に台所に立って鍋を磨く。一時間も二時間も。本当だよ。

それにきっとこの世にはヒステリーという名前のバス停を持っていない女の子だって存在しているに決まっている。

こうして僕たちは欲望の坂道をただ転がっていけばいいのだ。その先にあるものを恐れることなかない。ただ石ころとなり転がり続ければいい。

アメリカの小説にあったような気がする。この世の正しいことの全てはシャワーを浴びた後にされることだ。

» ロックンロール (読んだ本)
■4位: 志羽竜一 「アムステルダム・ランチボックス」
一気に読んだ。会社で、べにぢょだか西川さんにすすめたところ、楽しく読んだとのレビューをもらった気がするので、それなりに万人受けするのではないかと想います。
» アムステルダム・ランチボックス (読んだ本)
■3位: 西村 健 「ビンゴ 」
ダイハードを小説化したら、こうなります、というような感じ。
バイオレンスあり、人情あり、一気に読まされた(好き嫌いは激しいと想うのでご注意)。
ビンゴから考えると、七冊になるのかな?すごい分量だけど、すぐ読める。3人が主人公で、それらの物語が1つづつ。そしてその3人の主人公が絡まる物語が四冊分。
最後は、カタルシスを憶えずにはいられない。平成版バイオレンス戦国時代物語というか。
» 劫火4 (読んだ本)
» 劫火2 大脱出 (読んだ本)
» 劫火1 ビンゴR(リターンズ) (読んだ本)
■2位: 真山 仁 「ハゲタカ」
友人にすすめられて読んだ「ハゲタカ」。その人のおすすめはホボ、外れることはないので迷わず買った。案の定、べらぼうに面白かった。
ハゲタカ2も併せて四冊の物語で重厚。でもあっという間に読む。ドラマ化されたらしいけど詳細不明。
ストーリーはハゲタカファンドの物語。実際の日本の出来事などもうまく絡ませているので、その辺にも興味あると、とても面白い。
なお「虚像(メディア)の砦 (読んだ本)」はイマイチ。マスメディアが舞台。
以下、少し引用。

わたしはフェアとラブって言葉が一番嫌いよ。どっちもこの世にあった試しがないんだから。

» ハゲタカ2 (読んだ本)
» ハゲタカ (読んだ本)
■1位: 中村 航 「リレキショ」
あくまでも「村上春樹好き」として、とても面白かった。
ストーリーは当然ながら、言葉使いや表現、エピソードが刺さる。なお「100回泣くこと」はソコソコ。
概要としては、主人公がリレキショ作って、ガソリンスタンドで働き始める。で、そこで恋する相手がみつかる。あとは姉と姉の友達が主要人物で物語はすすむ。
なんてことのないシーンたちだけど、こうも絡まると素晴らしい一冊となる。
» リレキショ (読んだ本)

激動の時代と文化と

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以下の記事を読んだ。
【ウェブ立志篇】米ミューズ・アソシエイツ社長 梅田望夫 – MSN産経ニュース
不景気で大変だけど日常を生きなくちゃいけなくて。24時間サバイバルすることはできなくて。そして以下、という文脈。

だからこそ文化や芸術が大切だということである。

確かに、と。文化とは、もちろん好景気の時も、人気を博すわけだけど、本領を発揮するのは、このような不景気の時ではないかと。
そして歴史という洗礼を受けた文化は、多くの不況や不景気、災害を受けた時代をこえ人々を救ってきた。
それは歌であり、言葉であり、踊りであり、あるいは建築物かもしれない。たった一冊の本に救われたという話はどこにでも転がっているし、上原隆さんの本では、そのような「ヘビィ」な状況を超える人々の話が盛りだくさん。
そうなんだな、と。
文化は人を時に救うのだ、と思った。そして、救われることを望むのは、まさに不景気の時代。それゆえに三段論法として文化は不景気の時にこそ求められる。とはいえバブリーな時代に咲いた文化(バロックを見よ!)もあるので簡単には言えないかもしれないけど。
リバーフェニックスは、

人を救うのは家族や恋人、友人など身近な人たちのたった一言だったりするんだ

と行っていた気がするけど、それも真なりだけど、同時に、その一言は文化が代替する。文化とは、身近な人の言葉の現身であるのだらうか。
と、ここまで数週間ほど下書きで放置していた記事を、なんとなく追記して公開。
人はツライ時に何に助けを求めるのだろう、と思った。人、という話はよく聞く話で。たとえば恋人とのいざこざやあるいは会社の愚痴、ないし泣き言を言いたいときは人は、その言葉の受け皿を人に求める。時には、それは不特定多数のネットかもしれないし、あるいは、犬や猫のヒト科以外の生き物かもしれないけど、いずれにせよ、人は生きていくと、色々な澱みを抱え、それをはき出す先を必要とする。それを誰かは「澱(おり)」と表したけれども。
ただそれはアウトプットでありインプットとは少し異なる。もちろん人の言葉やリアクションは大きなインプットとなる場合もあるだろう。たとえば公共広告機構のコピーで

命は大切だ。命を大切に。 そんなこと、何千何万回言われるより、 「あなたが大切だ」 誰かがそう言ってくれたら、 それだけで生きていける。


という有名なものがあるが、まぁそういうことだろう。
人にも頼るが、同時に人は文化に寄る。人はパンのみで生きるにあらず。
それは宮澤賢治の詩かもしれないし、風の声を聞く歌かもしれないし、Juergen Tellerのポートレイトかもしれないし、ファンキーな映画かもしれないし、いずれにせよ、それは何かを求める人に、場合によっては何かを提示する。間違った正解かもしれないし、正しい誤解の時もあるけれど、人はそこから何かをくみ取る。まるで身近な人からの助言のように。
ということで、最後に、あんまり脈絡なく「花咲く旅路」おいていきますね。激動の時代における、以下の言葉を何かの代弁として。

世の中は ああ 世の中は
なぜ こんなに急いてと流れてく

会議と読書とはあちゅうと(本レビュー)

献本御礼!
■会議!

質問会議 なぜ質問だけの会議で生産性が上がるのか?
清宮 普美代
PHP研究所
売り上げランキング: 162
おすすめ度の平均: 4.5

5 チームマネジメントに直面したリーダーが読むべき本
5 1260円でこんなに
5 会社で試してみました!
1 著者の会社の営業本に過ぎないのでは?
5 日本の会社、職場を変える会議のOS0「意見会議」から『質問会議』へ

会議は企業に欠かせない。よって、会議の効率性が、その会社の命運を左右する場合だってある。過去にも色々な会議のテクニックが生まれていて、そして、それは常に洗練され、あるいは革新が起こされている。
たとえば以下とか以下とか。
Amazon.co.jp: すごい会議-短期間で会社が劇的に変わる!: 大橋 禅太郎: 本
会議で使える、議論を活発にするための小技 | IDEA*IDEA
会議支援ツールSargasso eXtreme Meeting
そして、今回、新しく「質問会議」というものが注目を浴びている。
簡単に言えば「意見を言うのではなく質問を提示する」ことによって会議の質を高めるという手法で。アクションラーニングという手法も絡み合い、非常に興味深く。GEやトヨタなども導入しているのだとか。
このような「質問による生産性」は、古来、ソクラテスより流れくる文脈で。確か記憶によると、その本質は「答えは内在する」というヒトコトにつきる。
会議に興味のある方はご一読をば。もちろん会議だけでなくコーチングや教育周りにも非常に関わりは深そうです。
■本!

わたくしめ、速読周りの本は、多分あらかた読んでいると自負するくらい、そのあたりの本は読んでいる気がする。高校のころからだから10年以上だろうか(ちなみに短眠と)。
時間という価値が現代における最大の価値を持つ通貨だと理解しているので、そのようなものには興味がある次第。
その上で、今回の「フォーカスリーディング」を拝読。これは、単なる抽象論や精神論だけの本の読み方ではなく、「読書をスポーツである」と考えるような形で、本の読み方を提示する。まずはその点が、とてもわかりやすいかと。
姿勢や目の動かし方のテクニック周りから、メンタル面のテクニックなどとてもパンチがある読み応えのある一冊。
一番印象に残ったのは「3回読むべし」との点。ある本をしっかり理解するには3回読まなければいけないとのこと。これは「ふーむ、そうかも」と。
■はあちゅう!

はあちゅうの 20代で「なりたい自分」になる77の方法
伊藤 春香 (はあちゅう)
PHP研究所
売り上げランキング: 4803

最近ますます色々なものに磨きがかかっている~はあちゅうの初の単著(前はさきっちょと)。
人脈術含め、コミュニケーションやLifehacks周りの、「はあちゅうメソッド」が77個並べられています。しかしFlickrの憶えておいてくれたのは嬉しいなぁ(独り言)。
はあちゅうと初めてお会いしたのは、2004年くらいだったかと思いますが、会う度になんか新しいことをされており、圧倒されるばかり。学生のころ(特に高校生とか)って、学生のロールモデルがいたりしますが、そのような人のことは外面はみれても、どのようなことをしているのかは見えなかったりします。そのような点で、はあちゅうのような様々な活動に刺激を受ける人にとっては、そのステップが可視化されて、とても参考になるかと。
今度も世界一周いくそうですよ。しかも、無料で。興味ある方は以下のブログを。明後日くらい出発でしたでしょうか?
» はあちゅうの世界一周主義。~タダで70日間世界一周出来るかな?~
くれぐれもご無事を祈る次第です。

および、以下も宜しければで御座います。

本って奴は。

雨の時は本に限る。
ということで本の話。このブログではしょっちゅう出しているネタなので恐縮ですが。
この台風で本を読んだというよりも、まぁ、定期的に本は読んでいて。
そして私の傾向として、「何かを考える時ほど本を読む」という傾向があります。それは、思うに自分の中ではある程度、答えがでている悩みがあり、それを本を読むことによって決断に促してくれる効用があるからのように思います。
基本はノンフィクションが実は好きだったりしますが、同程度、フィクションも好きなわけで。
そして、そういう悩んでいる時に読むのは、実はどちらでも効用は同じという経験則があります。
というのも、「実際にあったから」というだけで、ある事象の重みは変わらないケースがあります(変わるケースもある)。
それが変わる、変わらないを決める要素は、単純に1つだけ。自分のおかれた状況。しいてあげるならば、その時の主観になります。
それゆえに、悩んでいる時においては、大抵の場合、「決断を促進する、ないしヒントを得る」だけですから、それは実話であろうと、なかろうと関係ないのです。
わかりやすく言うと、たとえ小説であろうとも、そこに出てくるワンフレーズが、自分にとっての「もやもやしていたこと」をクリアーにさせてくれるトリガーであれば、それは小説であろうとなかろうと関係のない話になるわけです。
具体的な例でいうと、たとえば「結婚するかしないか」を悩んでいて、そして、完全に答えがでない悩ましい状況だとする。
その時に「他の人はこの時にこうしたから結婚した/しなかった」とい「う話は、ケーススタディをやる分には有効ですが、それは自分の考えを膨らますという効用とは位相を事にします。
そうではなく、たとえば、カンナカレーニナを読むことによって、そこにあった1行が、自分で思いもよらかった「結婚への見かた」を提示してくれることもあるわけです。
そして、それによって、その悩みを決断する補助線が1つ生まれることになる。
つまりはそういうことです。
で、まぁ、とはいえ、バイオリズムの問題で、ノンフィクション、フィクションを読みたい波は交互に襲ってきたりします。
最近はフィクションの波が来ていてむさぼり読んでいました。しかしもう「いいと思える本」しか、読む気力がなくなってきたのも事実です。
昔は、面白くなくても最後まで読み通す根性がありました。しかし、本を読む年齢を重ねるにつれ、その本が面白いかどうかの判断基準も明確になってしまい(良かれ悪しかれ)、同時に、時間的制約というものが大きくのしかかるようになりました。
ちょうどこないだのちょっとしたパーティでお会いした方がおっしゃっていた言葉が印象的です。

もう、私はいい本しか読みたくないんです。

と。それはクリアーな事実で。
さりとて、知らない本に手を出さない、というのとは違う。もっとプラグマティックで、1ページ読んでピンとこないと読めない、ということになります。
ともあれ、しかし、最近読んだ本たちはヒットばかりでした(もっともその背後には10ページくらいで終了となった屍たちが同じ数だけありますが)
まずは、伊坂幸太郎の「チルドレン」。
名言を2つほどピックアップするならば

あいつは常に何かを主張している

陣内が口にするたびに「絶対」の価値が落ちていく。

などでしょうか。友人などのブログでもよく見かけている本なので、お読みになった方も多いかと思われる一冊です。
もはや主観としては巨匠の域に達する伊坂氏。今回もお得意の物語リンクをふんだんに駆使し、やられた感を醸成してくれます。
そして本多さんの「真夜中の五分前」。
これは、個人的に「ノルウェイ」の匂いを多分にかぎとってしまったわけですが、それもまぁ、やむなしでしょう。
個人的に好きなフレーズ。
主人公が悩みを抱えていて、久しぶりに友人に電話をした。しかも深夜。
すると友人が「神戸から東京まで」いまから行くという。

バカいうなよ、と僕はいった。
「明日、会社だろうが」
「だからどうした」と友人はいった。

この「だからどうした」がすきで。控えめにいっても、たまらなく好きで。
このフレーズは目新しいものではなく、他の書籍でも何度か見かけたことがあるようなきがするのだけど。
だから、どうした?
いいよね。これ。全てを超越したような概念。馬にのってる感じがする。
英語だと、so whatでいいのかなぁ。まぁ、いいのだろう。いろんなシーンで使える名フレーズです。
恋愛だったら「私結婚しているのよ」「だからどうした」
仕事だったら「僕2回も失敗しちゃった」「だからどうした」
人生だったら「借金2億あるよ」「だからどうした」
うーん、すがすがしい。
そして最後のご紹介は藤原 伊織さんの「シリウスの道」。
ミステリー好きなら、誰もがはまる藤原さん。著作は少ないけれど、どれも素晴しい味わい(こないだのヒゲの話だけは個人的にイマイチだった)。
いくつか言葉を。

このややこしいご時世ではたぶん問題を抱えていない人間の方が絶滅種に近いのだ。

「自己満足かもしれない」
「満足に自己満足以外の満足があるんですか?」

ふむ。
なんだかかっこいい人たちばかりを読んだ気がする。
これらの本の詳細は、こっちに読書メモ書いているのでよろしければどうぞ。
読んだ本
そして、最後に、藤原さんの本より。

質問の答えは質問自体のどっかに隠れているんだとだれかが言っていたよ。

これは、まさにソクラテスの時代からこそ愛されている絶対の真理。大江健三郎は「問題が設定できたならば、答えはもう出ている」と言ったけれど。
対話によって人は新しい高みへと到達することができるわけで。
そして、最初の自分の独り言。「本と対話し、自分の問題を解決する」が実証されるわけである。

「世の中に、絶対、と断言できることが何一つないなんて、生きている意味ないだろう。」

ネットで人生、変わりましたか?

ネットで人生、変わりましたか?
岡田 有花 ITmedia News
ソフトバンククリエイティブ (2007/06/01)
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業界では知らぬものはいないIT戦士とは「ゆかたん」こと、岡田有花氏のことには間違いない。
そのゆかたんさんの今までの記事は総結集。ITで人生変わった人々がこれでもかと、ゆかたんさんが紡ぐ春の調べに乗って語られています。田口さんも書かれていましたが、インタビュー術を学びたい人にとっても間違いなく有効なのではないでしょうか。
メンツは、はてなの近藤さんや家入さん、ギャル社長、字幕inの中の人、ブサイコ、GREEの田中さんなどてんこ盛りで今にもあふれんばかりの躍動感ではちきれそうです。恐縮ながら、わたくしめもチラっと掲載して頂きました。
そしてもちろん1人Xmas特集も必見であり、これを逃すと人生を損をする。
まえがきには「本書はネット礼賛本ではありません」と書かれているように、ネットは負の部分もありながら、それでもやっぱり大きな力を持つネット。その意味を個人という視点から解き明かしてくれる一冊です。
まさに「ネットとは何なのか」という言葉に集約されているような。そして以下。

ネットのない時代にはもう戻れません。だから「ネットのせいで世の中が悪くなった」と嘆くことはしたくないですし、それにはあまり意味がない。

ここを読んで思い出したのが、宮部みゆきの「龍は眠る」。確か主人公の女の子は超能力者で、運命と戦うわけでございます。そこで戦いまくってへこみそうになります。で、なんか、負けるのが運命という流れになったのかな?そこで、彼女が自分に呟いたのが「運命なんて戯言だ。それじゃ生きてる意味がない」という言葉。解説ははしょりますが、非常に深いセリフです。
それと同じように、ネットは「悪」とか「すごいとか、あるいは「だめだ」とかそんな言説っていうのはやっぱりあまり意味をなさなくて。あくまでも、自分にとってネットとどう向き合うのか、ってのがやはり大切なんでしょうなぁ、とか改めて思った次第で御座いました。
以下もどうぞ。

西尾維新の「戯言シリーズ」を今更ながらに全部読んだ

いや、申し訳ない。西尾維新フリークとしてお恥ずかしい限りなのだけれど、戯言シリーズをやっと通読した。今まで、断片的に読んでいて歯抜けがあったのだけど、今回、やっと全部読みきった。

CF
2006年、原田の眉間を刺激した小説12冊 (いけいけどんどん)

しかし、メモを全部実家においてきてしまったので引用できず。無念。

で、この西尾氏は「ゼロの波の新人」の1人と言われているだとか。もう2人はこのブログでも何度か紹介した舞城王太郎氏、そして佐藤友哉氏。個人的には佐藤友哉氏の本はいまいち肌に合わない。全員、メフィスト賞受賞だっけ?違ったらごめん。いわゆるミステリの若手。2000年以降にデビューした人たち(で合ってる?)。

高木氏いわく「物語中に重要な人物がすぐに死ぬのが凄い」と2年くらい前に言っていたのが改めて実感。「え、なんでこの人しぬん?」というようなシーンが多発。ある意味、文学に挑戦しているという意味では、メタ文学。

主人公成長物語としては、ドラゴンボールの系譜に入れてもいいのかもしれないけど、まったく違うのは、その容赦なさ。ざくざく死ぬ。えげつないくらいに人が死ぬ。それは爽快でもあり、同時に、なんだかすごい違和感を残すという点では、新しいインパクトがある。

で、西尾氏自身が言っているように森氏の影響が垣間見える気もする。天才大好きなところとか。あと、ジョジョの影響がいたるところに散見できる。登場人物の形容詞に「ディープパープルみたいな人」という言葉は小説で始めて見た。あと、「幻影旅団」の名前とかも、にやりとされる。うまいよなぁ。この辺のサブカルじゃないけど、なんつーか、カルチャーごった煮?「わかるよ」みたいな。どうでもいいけど、富樫氏のレベルEでも、筒井康隆氏のオマージュが含まれていたのが懐かしい。ちなみにジョジョの荒木氏も筒井氏が好きとなんかで公言していた。

こう考えると、宮部みゆき氏の偉大なる箴言「僕らは時代の子だよ」という言葉に首を垂れるしかない。いつだって我々は、知らない間に、巷に溢れる文化に埋もれていきているんだ。それこそガンダムだったり、ドラゴンボールだったり、ドラゴンクエストだったり、ロードオブザリングだったり、宮崎駿だったり。

今更僕が言うまでもないけど、ミステリ好きの人は必読ではないだろうか。今後ますますファンは増えるのかしら。もうピークは過ぎたのかなぁ。個人的に「りすか」はイマイチ肌に合わないのだけど。

これを新しい文学の潮流と呼べるのかしら?それは専門家に任せたいところだけど個人的には気になる。というか文学はどこまできているのかしら?浅学なものでわからないや。近代文学史はあれだよね。戦後でひとくくりにしちゃっているよね。国語辞典とかは。で、60年代で思想系はひととおり終わったんだっけ?その後にはもう荒野になっちゃったところにW村上だった?ああ、大江健三郎インパクトがその前後にあったんだっけ。ふーむ。わかんないのに言うのはやめよう。赤っ恥をかく。

ああ、個人的に「エンターテイメント小説」の王とあがめる「伊坂幸太郎」氏「石田衣良」氏にならぶ「エンターテイメント」を提供してくれてはるのが西尾さんということも付け加えたい。全力、おもっきりの主観としては。どういうことかというと、もう受けるターゲットをここぞというまで狙い済まして、そして、どまんなかに狙い通りのものをぶち込める人々です。特に伊坂氏と西尾氏に共通するのは、あきれるくらいの伏線。シリーズを超えてのね。それはなんつーか、もう小説とかの括りを超えた芸ではないかと、そう思うわけでありますよ。

ともあれ、パンチの効いた小説を読んでみたい方はいかがでしょうか(注:嫌いな人は大嫌いだと思う。特に読めないと思う。ジョジョ好き、メフィスト好き、ゲーム好きの人ならきにいりはるかも)。

ちなみにシリーズ一冊目はこれ。
クビキリサイクル―青色サヴァンと戯言遣い