雑記」カテゴリーアーカイブ

時には電車の中で大口で

先週、夜。23時ごろ
打ち合わせの帰りに電車に乗っていた。大江戸線の六本木。
大江戸線は他の車両よりも空いていることが多い。それでも、この時間はそこそこ混んでいて。
ふと、妙齢の女性が座っているのが目に付いた。その容姿ゆえではなく「上に大口を空けて、爆睡していた」からだった。まぁ、その端麗な容姿とのコントラストが否応にも目を引いたのは否めないけれど。
周りの人は特に気にせず横に座っていたアフリカ系の人はiPhoneで熱心に何かを読んでいた。思わず中島みゆきのファイトが脳裏に浮かんだ。
一時の安寧とオリエンタルな地下鉄だった。
先週、夜。26時頃。
走ってこよう、と思ってマンションの部屋から1階へ向かった。
マンションの郵便受けを2週間くらい空けてないな、と思いながら、エレベータがN階で止まった。
エレベータ内から透明ガラスを通じて、N階を見ると、女性の部屋から男性が出てきていた。女性は部屋の中で、扉を開けたのが男性だった。
エレベーターのドアが空いて、女性が男性に怒っているのが聞こえた。男性は女性と目を合わせず下を向いていた。
ドアを空けながら私は「乗りますか?」と聞いた。男性が2秒ほど考えてから「すいません。先にいってください」と男性は言った。
平日丑三つ時の論争と慈しみのN階だった。
先週、夜。23時頃。
大学の同窓会的な何かで寄ったグローバルダイニング系の飲食店@恵比寿
トイレに立った私はテーブルの間を抜けて。ふと、女性が1人で食事をしていた。
周りは誕生日の祝いやカクテルショーで賑わしい中、そのテーブルにはシーザサラダとファフィータ、バッファローウィングにガカモレがところ狭しと並んでいた。
1人で食事する人は珍しくない「コンクリートジャングル」だけど、その量の多さが目について。
栄養素とカロリー以外の何かを腹に収めるように、その人は食事をしていた。
喧噪と哀愁が同席するテーブルだった。
都会の夜はドラマが溢れているな、と思う。嫌いではない。私が勝手にドラマを作り上げているだけかもしれないけれど。

オリヒメとショートショートと

世の中に「みんなで創るバッグブランド「オリヒメ」」といういけてるサービスがあります。
主に女性向けのパソコンバッグやケース、その他バッグなどを扱うオンラインショップなのですが、ユーザが自分でデザインをカスタマイズできる機能があります。
確かに女性向けのPCケースは今まであまり無かったので、素敵な感じです。
そのオリヒメを運営するのがアゲハの木下さん。大学の同窓生でもあります。
そこで、先日、お仕事でちょっと取材をさせてもらって、以下の記事に。
» ユーザー参加型の商品開発を実現するバッグのオンラインショップ「オリヒメ」:ベンチャー – CNET Japan
したらば、木下さんがブログで、わたくしめのtwitterをご紹介してくれたので、便乗して、最近、twitterで挑戦したショートショートのご紹介。
» CNETJapan掲載でお問合せ殺到中☆: オリヒメの夢

ラテンアメリカでは、特殊な役満がある。それは「中と南と北」での大三元ライクな「中南米」という役。ちなみにエジプトでは「中・東・北」を合わせた「中東北アフリカ」という役もある。みなそれを出るまでは出国できないという言い訳で日本人宿で麻雀沈没者が増えることになる。

幼稚園のころ、子供がどうしたら生まれるのかしらなかった。結婚すると「ころ合いをみて」勝手に生まれるものだと思っていた。ころ合いの判断基準は夫婦双方がどれだけ互いを好んでいるかに左右されるという判断基準があると思っていた。それが本当だったならば、もう少し世の中はまろやかだったのに。

1996年にネットをはじめた。同級生は誰も使っていない。僕は誰にもメールを送れない。一番のメール友達はMAILER-DAEMONだった。それでもOutLookの「受信中」をみるのが楽しかった。スパムでもメールがくることが嬉しかった時代があった。人は「もしかして」に支えられ生きる

アルゼンチンに入国する時に、国境で日本から持っていった薬が見つかった。1年分の薬(頭痛、腹痛、風邪薬とか)だったので確かに怪しい。しかもスペイン語で答えさせられるからめんどくさくて全部「頭痛薬だ」と回答。「どんだけ頭がおかしいんだ」と言われた。正しいツッコミだった。

切符をよくなくしていた。右ポケットに入れようと決めた。ポケットのないズボンを履くときがあった。切符は消えた。春樹氏の本で「耳の中に入れる」というのを読んで真似をした。羞恥心に負け切符は消えた。携帯SUICAを使うようになった。携帯をなくすようになった。電車にのらないようになった。

マンボウは泳ぎ方が下手だ(Wikipediaにも書かれている)。まっすぐには進めるけど、左右への移動が苦手だ。海は広いからぶつからない。では水族館では?壁にぶつかってから方法を変えることになる。永沢氏の「やれる所までやってみて、ダメだったらその時考えればいい」という言葉を思い出す

若干デフォルメしているところはあるのですが、基本的には全部、本当にあった話。
昨今はテレビ番組でもtwitterは取り上げられることが増えましたね。もしよろしければ、以下より繋がっちゃえると幸甚です。
» 原田@アルカーナ (kazuhide) on Twitter
そして、オリヒメをどぞ!
» 「みんなで創るバッグブランド「オリヒメ」

エレベーター内での会話の音量のように

タイトルは、自分のメモから拾ってきた。
例のごとく、何かからの引用なのか、あるいは思いつきなのかどちらかは分からない。
ただ、なかなか良い表現である、と自己満悦した。問題は、この修飾がかかる後の文である。

エレベータ内での会話の音量のように、「私たちはささやき続けた」。

とかだと、ありきたりでつまらない上に、「音量のように」がかかっていない。
どのような言葉が後に続けば、coolかしらねえ。

エレベータ内での会話の音量のように、途切れ途切れのケニアの国道。

とかどうだろう。
でも、これだと、前の「エレベータ内での会話の音量」が持つ淫靡さというのが全く活きていない。
このシチュエーションというのは「従来、エレベーターでの話は他の人に聞こえるからあまりマナー的にも好ましくない」のに、それにも関わらずしゃべってしまう。
なおさら、そこでしゃべるほどの時間をエレベーターに乗っている。ないし、それだけの時間さえも我慢できずにしゃべってしまう、というシチュエーションなわけだから、そこには「しゃべっている対象」との親密性、ないし、緊迫性があるわけで、それを受けなければいけないわけである。
そう考えると

エレベータ内での会話の音量のように、ひっそりと残る夏の焼け跡。

とかだとどうかしら。へんに寄りすぎて少し気持ち悪い気もする。
しかも、「音量のように」がかかるわけだから「ひそひそ」とか「こそこそ」などの聴覚の擬音語の方が良い気もする。

エレベータ内での会話の音量のように、微かに聞こえるジングルの音。

これくらいなら、音で受けてのジングルだけど、「ジングルの音」自体が比喩となるので、まぁ良いのかもしれない。季語も入るし(正確な季語かどうかしらんけど)。

会話

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「最近、面白いことあった?」

というような会話のオープナーがある。つまりトピック提案というか。他にも「最近どう?」とか「元気」といったオープンクエッションだ。
ただ、これはアジェンダ(議題)設定とは異なる。
ここでは、相手が出す「アジェンダ」をベースに話を構成しようという質問だからだ。つまり、自分からアジェンダを出さずに、相手に委ねるというやり方である。
この場合、相手は「聞かれたから答えるよ」という形になるが、その人の答えた回答がアジェンダになるために、回答する方がテーマの主導権を握るけれど、その構造を創るのは質問した人で、大きな構造では、その人が主導権を握る(ポール)。回答する人には「ネタになる回答をしなきゃ」という負荷がかかるが、その分を差し引くと、まぁ、フェアな会話構造である。
認知科学に興味がある1人として、このような会話の構成要素に興味がある。言語には文法があるように、会話にもある種の「フレーム」があるような気もしているし、どこかではそういう研究もあったはずだ。たとえば、英語のSVCのように中身はともあれ「主語」「動詞」云々のような枠は存在していて、会話もそのような枠に類型化できることがある、気がする。
たとえば、会話は、基本的に「質問」「回答」から成り立つ場合がある。もっとも、

昨日ね、こういうことがあったんだ

といって自分からアジェンダを設定して、さらに自分で話をするという型もある。相手の興味が分からない場合や、自分のネタに自信がある場合、あるいは相手があまり話をしない場合はこの型になりがちだ。いわば「提案」「主張」型である。
あるいは、

最近みたトトロという映画面白かったよ。好きなジブリ作品なに?

みたいな「主張」「質問」の型もあるだろう。これは、文脈をある程度つくって(場をつくって)相手にボールを渡すので、相手に優しいバファリン型トークである。一番、相手への負荷は少ないかもしれない。
この辺りは、多分、人の個性によって、どのような会話を好むかは全く異なるのだろう、と思う。たとえば、「提案」「主張」型しかしない人はいるし(質問を全くしない人)、逆に「質問」しかしない人もいる。基本はmixになると思うが、傾向はあるだろう。あるいは、相手との関係性によって変わる。たとえば10年寄り添った夫婦なら、「報告」型になるし、初めて会う異性だったら探り探りの「質問」が多くなるかもしれない。
会話をしている時に、たまにこのような構図を描きながら会話をする。つまり、このトピックの源流はどこか、相手の会話の好む類型はどれか、あるいは、会話の比率はどうか。
この比率というのも意外にくせ者で、人は「相手ばかり話をしている」と、抵抗感を感じるし、逆に「質問ばかり」されていても、抵抗感を感じる。逆に「相手がずっとしゃべる」というケースの場合、こちらはほとんど意見や提案を述べなくても、「相手はその会話を楽しかった」と感じるケースがあり、不思議な心理学が働く。ただこの場合も「意見」を述べるのではなく、「相手の会話に添え木」をして、会話をふくらませるために「質問」や「応答」「同意」などが必要となってくるため、この場合も複数の分岐が存在しそうだけれども。
また、「議論」を好む人もいて、その人はとりあえず相手の提案に反論を示す。それは敵意を表すのではなく、会話の醸成のために、敢えて反論を持ち出すというやり方である。この場合、単なる同意よりも話が盛り上がることが多く(盛り上がる=多様性を生む)、便利なのだけれど、ただ、落としどころが難しい(敢えて反論した側が折れるのが適切だとダレカガ言っていた)。
あと、これはどこかで読んだのだが「質問」をする人は、その「質問の回答」を重視するよりも「質問返し」に本質がある場合がある。つまり「自分が聞いて欲しいことを相手にまず聞く」という人もいる。これは、うっかりすると回答ばかりで話が流れてしまいややこしいことになりがちなので、相手の質問の本意を推測する必要ありマスあるよと誰かがいっていた。
会話が上手な人は往々にして質問が上手なような気がしていて。しかも、その質問のテーマ設定が絶妙である。特に多数の場の時はその質問の回答でのコミュニケーションがしばらくは醸成されるわけで、そのテーマが失敗すると大変なことになる。そういう点で「誰しも回答」ができて「誰しも楽しめて」さらに「その回答が参考になる」という質問は非常に難しい気がする。大学時代に某諸先輩方の判例として、たとえば「自分が異性に対してこだわる身体のパーツは?」とか、最近された質問として「一番もらって嬉しかったプレゼントは?」とか。
あと質問1つとっても「HOW」「What」「Which」などの類型があり、一番インパクトのある質問は「Why」である。ビジネスだと、これをベースとした質問になるが、日常会話では「Why」は使いどころが難しい言葉でもある。というのも、相手がこの回答として適切なものを持っている場合、会話の深さを増すことができるが「なんとなく」「わからないけど」という場合、相手はスムーズな回答が出来ず、お手つき1回をもらった気分になる。あと、この「HOW」を「When」に見せかけるという質問もあり、たとえば「○○の夢はなぜ諦めたんですか?」というディープな質問をこのように聞くと相手はなかなか回答しにくいが「その○○の夢を諦めたのはいつ?」という形だと、まだ回答はしやすい。そして、そのいつというのが、Whyの回答の補助線となる(その時に何があったか?ということになる)。あと、手垢にまみれた古典的な質問として「私/僕のどこが好きなの?」という命題があるが、これは「Which」に見せかけたトリックな質問だと誰かが言っていた。これの応用として、小説としては陳腐すぎる命題としての「私と仕事どちらが大切なの?」という2000年利用されている質問も同じ構図である。これは質問に見せかけた「意思表明」
であり、しかも回答は「Which」ではなく「Because」で受けないといけないという複雑なトラップであると先生が言っていた。ないし「Yes/No」でも可だそうで。でも場合によってはそれを一周させて「Which」で受ける方が適切という友人談もあり、もはやデリダもびっくりの脱構築の再構成の世界になってくる。あと映画や小説の小粋な会話として「質問」に対して「接続詞」で回答するというテクニックがある。「あるいは」とか。その辺になってくると、もはや会話というか台詞の世界である。それでは良き問いを。
※写真になぜかハートはいってますが、意図なし(ポラツール使ったら入ってた)

Hung in there!

がんばって、という言葉がある。
一般的にその言葉は、人を応援するために利用されるが、鬱病の人には投げてはいけない言葉だとも言われる。あるいは、がんばってる人に対しては一種のややこしい言葉になるので(いわば、役者に役者っぽいねっていうような)、なかなか使いどころの難しい言葉である。
しかしながら非常に便利な言葉ゆえに、別れ際の言葉などに愛用されることも多く、また、「がんばろうね」的な、共同戦線アプローチ兼、同調表明による親密性確認用語ならば、なお便利な言葉として活用される。
そして、この「がんばれ」って英語で何というの?という話はたまに耳にする。高校生の頃はたしか先生が「Cheer up! 」と言っていたような気もするけど、最近はもっと違う表現があるんじゃないかとふと思った。
それが「Hung in there!」である。
もともとはボクシング用語らしく、いわゆる「クリンチして耐えろ!」のような用法から利用されたらしい。以下参照。
» Hang in there | 日常生活スポーツ英語 by HIROSHI IKEZAWA / 生沢 浩 | 英語とお仕事 | 週刊STオンライン ― 英字新聞社ジャパンタイムズの英語学習サイト
つまり「耐えろ、ふんばれ」的な意味となる。おぼろげな記憶ではあるドラマ、ガキんちょがシークレットサービスに追われている時に、父親(リンカーン)に電話する。そこで監獄中の父親が子供に対してこの言葉を使っていたような記憶がある。
これは、「応援する」といった語義の「Cheer up」という言葉とは、視点が大きくずれた言葉になるけど、なんというか、この「Hung in There」の方が使い勝手は良さそうな言葉である。というのも「がんばれ!」という言葉は、がんばってる人には使えない言葉だが、この言葉はがんばってる人にこそ使うべき言葉だからである。
あとイメージ的にも「Hung」は、ひっかける/つるすなどの意味から想像するに、「Hung in」は、ロッククライミングで厄介なホールドにムーブする時のようなシーンを想起させ、ミッションインポッシブル2のオープニングのようなハードコアな匂いがする。Cheer upはなんかチアガールが足を振り上げているシーンを想像し、それはそれで悪くないのだが、まぁTPO。
古賀さんのブログで「がんばれ」の言葉の危険性に触れられているのを読んでふと。
» 鬱病による自殺が減りますように。 (長文) – 愛の日記 @ ボストン

肉食草食

土曜の夜にtsutayaにいった。コーヒーを買いに。けやき坂の下のいつものtsutaya。
ふらっと2階のカウンターやテーブルを見てみると、人が詰まって座っていた。構成を見てみると、女性が1人か、男女のカップルだった。だいたい女性1人が5人くらい、カップルが7組くらいだったろうか。
ポーカーや花札ならぱっとしない組み合わせだけど、麻雀ならまぁ悪くないかも、といった程度の。不思議なことに男性が1人で座っているのは見かけなかった。うーむ、映画のタイトルだとsinglesってのがありそうだ、と思いながら、歌のタイトルとしては野暮ったいな、と思う。時に、英単語は映画性を持つものか、音楽性を持つものにわかれるに違いない。
ともあれ、そりゃそこにいらっしゃる女性。資格の勉強に忙しいのかもしれないし、あるいは、夜中から男性と六本木で落ち合うのかもしれないし、あるいは、今日はたまたま1人でいたい気分なのかもしれないけれど、なんだか、普通に社会の構図を考えて機会損失がいろいろ起こっているのではないかと、余計なお世話を考えた。1人の男性は部屋でこもっているのかもしれない。いずれにせよ、そのtsutayaでは、1人女性比率が高く、アンバランスな性差環境を作り出していた。
それを見て、ふと思い出す。最近、恋愛だか婚活だかの業界の話で、「肉食/草食」といった人を区分するボーダーがあり、もはや一般用語として使われるようになっている。
いつかの先日も「原田君は、肉食?草食?」と聞かれ言葉に窮した憶えがある。1つは、あまり自分がどちらに属するかを考えたことはなかったし、もう1つは、ここで何と答えるのかが適切なのかがわからなかったからだ(ちなみに回答は近くにいた人が代弁してくれたので事なきを得た)。
そして思い返してみるに、周りの女性では、恋人がいない人が昔に比べて多いような気がするということに気づいた。これは相対的な話で、学生時代は、もう少し「恋人いる」という女性が多かった気がする。これは、「妙齢」と呼ばれるセンシティブでアンタッチャブルな領域の話ゆえの現象か、あるいはこの景況感によるものか、あるいは、メディアが言うように「草食系男子が増えて来た」的な現象に寄るものかわからないけれど、いずれにせよそういう傾向があるような気がする。ただ、もう1つの説としては、「恋人はいない」と当人の自白のみの話なので、実際のところはいる可能性があるわけで、そういう意味では、年齢を経るとともに「いる」という公言することのメリット・デメリットの観点から「いない」という人が増えているだけの可能性もあるけれど、詳しくは調査していないのでわからない。
ただ、さらに思い返してみるに、男性も恋人がいるケースはあまり聞かないな、という気もする。ただ、よく考えると、それは単純に「恋人がいるか?」と聞いてないから、しらないだけなのかもしれない。あるいは結婚という古来から議論されている仏教的禁忌的な契約関係に従事している人は、「恋人」という関係性よりも、もっと別の言葉で表現される何かの関係性に属しているから、恋人という話はあまり聞かないのかもしれない。ただ、周りにいる男性は往々にして上記の区分でいわれるところの「肉食」も肉食、なんというかむしろマンイーターという表現の方が適切な人の方が多い気がしていて、そう考えるとメディアが言う「男性が草食だから、恋愛する人たちが少ないのだ」的な言説は当てはまらないような気もしている。ただ女性の言うところにいうと確かに「肉食男子がいい」という声も少なからず聞くので、本来ならば、そこではしかるべくしてマッチングは発生しているはずだが、それでもこのギャップがあるのは、何によるものか。もしかすると彼らはtoo much肉食すぎるゆえに、彼らはそのような区分を超越してしまっているのかもしれない。ふむ。あるいは肉食という概念と恋愛という概念のベン図は必ずしも被っていないのかもしれない。アーメン

夏と雨

最近のブログ欠落をカバーするかのごとく3連発目でございます。「虹」「花火」ときたので、なんとなく「雨」。そして夏と雨。
さっこん、雨が多い。梅雨が明けたというのに、まだ雨が多い。誰かが「梅雨に入って明ける」というのはこれいかに?という記事を書いていたけれど、さもありなん。「入って明ける」のは、救助隊の仕事であろう。火事の中に人を助けに入って、そして禁断のドアを明けるのだ。あるいは、オペラ座の怪人だっていいかもしれない。
しかし、梅雨は「入って明ける」である。英語でいうならば in and openであり(直訳的にいえば。あるいはupかもしれないけど)、なんというか、ピンとこない。「in and out(LAとかで良くみかける美味しいハンバーガー屋)」ならまだしも、入って明けるのはなんぞや、という禅問答のような世界がそこには待っている。本来ならば「始まって終わる」だろう。ただ「明ける」ものは、他に「夜」がある。「夜のとばり」が降りて、そして「夜が明ける」。それはそれで何だか情緒的で悪くない。ただ、おそらく「あける」という言葉には、人が「明けた先を渇望している」というニュアンスがあるのだろう。つまり「梅雨」や「夜」というのは、人にとって忌むべき存在で(農家の人にはあれですが)、それが終わるということを、古来、人は「明ける」と表した。天照大神をも髣髴される味わい深い表現であることがわかる。
しかし夏である。
夏が良いというのは「夏だから」という簡潔かつ、何も意味を持たない常套句が時候の挨拶として使える点にあると誰かが言っていた。
個人的に、ゆーみんの歌にあった「台風がいくころは涼しくなる」という言葉が、とても印象に残っていて。つまり、夏の終わりというのは、台風の去来によって表される。あるいは、桑田佳祐は、「麦わら帽子が風に飛ばされて夏が終わる」と表現した。あるいは「一夏のアバンチュール」という死語があるように、人によっては恋が去り、あるいは、一夏の経験とよばれるように、通過儀礼を得ることによって何かしらの澱とpurenessを去らせることになるのかもしれない。
夏は少なくとも「明ける」ものではなく、去って行くものだ。それは台風と一緒に去るのか、あるいは麦わら帽子と一緒に去るのかの違いはあれど、いずれにせよ、夏は、何かと去っていく。
そして、夏が素晴らしいのは、また1年たてば戻ってくるということだ。去ったものだけの空白を残して、そして夏はまた巡り変える。何かしらの輪廻を秘めた季節がいままたそこに訪れる。

えっと虹に関してです。ども。
虹です。
こないだ、土曜日かしら。南麻布の方を自転車で走っていたら、虹が出ていた。
あ、虹だ、と思った。
周りの人たちが騒いで、カメラを出していた。携帯カメラだけでなく、ザクティのようなものを出している人もいた。マナティじゃなくて良かったけれど。
そして、みな写真をとっていた。誰かは携帯からメールで写真を送っていたのかもしれない。twitterを見れば「虹だ」という書き込みが溢れ、2chではスレッドもたっていたようだ。
虹か、と思った。
地元では虹をよく見ていた記憶があるけれど、東京では確かに、虹をあまり見ないかもしれない。
でも、と思う。
人はなぜ、虹をみて写真をとるのだろう。その情報を共有するのだろう、と考えた。そんなに珍しいものでもないし、あるいは、それが持つ情報価値はないし、ないし、それをもらった方が返せる回答は限られている。
それがたとえば、ツチノコだったり、あるいはカズノコだったりすると、なかなか話のネタとしては面白いし、もしくは、ウナギとかだったら「地震がくるかもしれないね」みたいな流し方もあるのだろうけれど、虹というのは、なんというか、それ自体が完結した存在でございます。
つまり
「ああ綺麗だね」という感じか
「僕もみた!」というような感想しかできない。
でも、人は虹を共有する。
それは体験の共有か、感想の共有かで話は変わってくるのだろうけれど、ひとつマチガイナイのは、それが「共有のマテリアル」であるという点である。
つまり。
つまりは、人は「虹」という素材を使うことによって、便宜的にそれを共有する。
その情報をもらった人も「虹を送られることに別の意味」を時には付与し、あるいは「虹だね」という同意を得ることで、コミュニケーションの豊穣化を図る。
つまり、人はコミュニケーションを求めている。そして、普段はきっと人々はネタを探しているのだろう。
時に、火事などの野次馬も、それへの好奇心だけでなく、それを体験共有することを求めているのかもしれない「こわいですね」「大丈夫ですかね」と、時に人は、普段ではない日常においての交流が何かしらの潤滑油となる。
だから。
だから、虹はきっと、それ単体で完結しているからこそ交換道具としていいのだろう。
「ほんとだね」といった、ささやかなあなたの一言が虹の持つ価値なのだろう

借り

多くの人に借りを作りながら生きているなぁ、と思った。というのも、先日、「借りはすぐ返さないこと」という話を聞いたからだ。
たとえば、先輩に食事をごちそうになる。礼は早くが良いと思い、帰り次第、菓子折でも送ってしまう。翌日にそれが届く。もらった方は、「そんなに借りを早く返したいのか」と思ってしまう。借りは時に時間をおいた方がいい。
そんな話を聞いた。
そういうこともあるかもしれない。人生は貸し借りで出来ている、という話を聞く。または、「人に借りを作ることで、新しい関係性を作る」というコミュニケーション手法も聞く。たとえば、名刺交換をした人がいる。その人に「○○さんご存じですか。紹介して頂けませんか」「○○について教えて頂けませんか」と伺う。応えてくれると借りができる。そうすれば、借りを返す口実が生まれる。食事でもいいし、何か仕事でもいいだろう。そうして、本来ならば繋がらなかった点と点が線となる。そのような話だ。
ある人が過去に言っていた言葉を思い出す。もう3年以上も前だろうか。
その人と久しぶりに六本木で食事をした。話の流れとして説明するならば私にとっての異性。肉を食って、お酒を飲んで、終電の時間は過ぎた。そして先方はタクシーで、私は歩いて帰ろうとする。六本木まで出向いてもらったのはこちらだったから、タクシー代を出そうとする。そこでその人はこういう。「借りは作らないから」と。
なるほど、そういう考え方もある、と思った。
そのように男女の関係も貸し借りという概念はあるのかもしれない。私は異性になったことはないからわからない。ただ、誰かからか聞いたが、夜の世界では、食事3回が何かしら1回のバーター取引となっているというような。まぁ、それは貸し借りの概念というよりも、「3回も食事いっているわけだから」という名目的な意味合いが強い貸し借りかもしれないけれど。
貸し借りで言えば、ピエールブルデュー先生の社会資本の話を思い出す。私が歪曲して記憶している可能性もあるけれど、彼にとって、ある種の「優れた」人というのは、社会に借りを負っている。彼は自分が優れているから優れていただけに限らず、親や近所、地域、友人、教育などといった社会からの恩恵を受けて彼がいる。そのため、彼はしかるべき形で社会に責務を返さなければいけない、といったような。端的にいえば、ノブリスオブリージュに近いのかもしれない。
あるいは、名作「リアリティバイツ」を思い出す。
その映画の中でイーサンホークは、本屋でバイトをしている。しかし、合間に本屋の商品であるチョコバーを食べていた。それを、店主が見つけて彼を首にする。そこで、主人公のウィノナライダーは彼に「なんでそんなことをしたのか?」と問う。そこでイーサンホークはこう応える。

「チョコバーは俺に貸しがある」と。

真意はわからないけれど、そういうこともあるのかもしれない(なお上記のシーンは映画では1ショットで表示されていた気がします)。
そういえば、僕は誰かに傘を借りたままだ。傘の季節がもうすぐ終わるというのに。