完全に独り言です。
麻布十番の夜を歩いた。土曜日の夜だった。
土曜日の夜にも関わらず、相変わらず麻布十番は静かで。そういうところが好きだ。つまりは、私は人ごみは苦手だけれど、そもそも人ごみが得意な人はそうそういないので、結局、この一文は何も言っていないに等しい。いずれにせよ麻布十番は年の3日間だけを除いて(麻布十番祭り)、基本的には混雑していないように思う。特に日曜日の十番の閑散さは讃えたいほど情緒にあふれる。
ともあれ、十番を歩いた。
考えたいことがあって、ふと思い立って歩いた。浮き足だつでもなく、勇み足でもなく、ただ淡々と。たんたんと、の当て字は淡々でいいのだろうか?違うような気もするけど、なんだかその淡さがあっているような気がする。
人は考えるときに歩くことが多い。足の刺激が脳に良いのか、あるいは環境の変化が脳にやさしいのかわからないけれど、歩くことが多い。
そういえば、最近歩いてなかったな、とふと散歩をしながら気づいた。中学生のころは自転車をひたすら乗って考え事をしていたことを思い出す。近くの車が通らない町内を30分から1時間、ぼーっと漕いでいた。
高校生のころからは走ることに変わった。毎日、夜中か早朝に走りながら考えることは、とめどないけれど欠かせないもので、そして、そこには新しい酸素があったように思う。日吉近くの鶴見川や芝公園の東京タワーのまわりをただ、たんたんと走っていた。
社会人になってからは泳ぐことに変わった。六本木一丁目のジムで、朝、外国人と一緒に泳いでいた。走ることもラニングマシーンに代わってしまったせいで、本を読みながら走ることになり、考えながら走るという時間は少なくなっていた。
そんなこんなで最近歩いていないな、と思った。厳密な意味では歩いているし、散歩をしているのかもしれないけれど、1人で、こうして歩くのは久しぶりのような気がする、なんてことを思って、新一の橋から一の橋へ向かい、ウェンディーズから商店街に入り、網代公園を通って、けやき坂まで歩く。
ふと気付けば麻布に住み始めて5年で、それは長いか短いか、どちらでもないかはわからないけれど、まぁ、5年もいれば、それなりに町には思い出が付与される。
それまでは麻布十番は実利面から住んでいたのだけれど、年月による思い出の付与がいつしか、そこには別の価値を付与していた。それがビジネス用語でいえばブランドであり、一般用語でいえば思い出であり、哲学用語でいえば思念なのかもしれない。5年住んで、初めてそんなことを思った。
十番を歩いて、店にそれなりに記憶が付与されていることに気づき、「地元」の力というのはこういうことなのか、と気づく。それまで地理的概念には、そのような主観的な付加価値がつくかどうかはわかっていなかったのだけれど、それはアクションに結びついた記憶とともに、場所に格納される。つまり、Keyは場所であって、時間や人ではないのかもしれない。あるいは、それらもKeyなのかもしれないけれど、いずれにせよValueに場所のKeyは密接に結びついていて、「ああ、場所の力はそういうことか」とひとりごちた。
そして、今まで歩いてきた土地を思った。
日本は当然ながら、世界の道を思った。私は新しい土地に行くと、とりあえず歩く。その土地の空気を吸い込むために、ひたすら歩く。好きなだけ歩く。アフリカではさんざん歩いた。そもそも地図がいまいちで迷子になって歩いたという点もあるのだけれど、あるいはタクシーやバス、電車などの公共機関が不足しているから(タクシーは違うか)、という点もあるのだけれど、アフリカの街中は、なんだか生生しくて。それはコンクリートがないからなのかもしれないし、あるいは「土の上を歩く」という都内では珍しい経験を有することができるからなのかもしれないけど、アフリカではよく歩いた。
ガーナの首都アクラでは、町の橋から橋をただ歩いた。ぼーっと、あるいは、ギンギンと。朝から夜まで、歩き続け、目にしたものに驚き、あるいは果てない道に混乱し、ないしは、アフリカの太陽にめまいをしながら、ただひたすら歩いた。
疲れたら、どこかのカフェで甘ったるいカフェオレ(ミルクではなく練乳)を飲んで、おなかがすいたら町の屋台でバケツごはんを食べた(お風呂桶にご飯とかけるものが入った食べ物)。
だから何?と言われると返す言葉もないのだけれど、歩くということがKeyとなり、アクラと麻布十番が少し近づいた気がした。だから何?とは聞かないでほしいのだけれど。
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ということで、週に1記事はブログを書こうという自分ルールにのっとりがんばってかきました まる
絵の話
「ヒエロニムス良かったよね!」
とアルゼンチンのブエノスにある安宿で盛り上がった記憶がある。
ヒエロニムスとはこのような画家。サンパウロの美術館で確か二点ほどだけ展示されており、たまたまブエノスで会った人が、その絵を見ていた。そして私も見ていた。加えて、双方がその絵に深く感銘を受けていた。
ただ、それだけのことなのに、かなり親近感がわいて、同じに相手に興味がわく(性別問わず)。これはなぜなのだろうか?と考えるけれど、やはり嗜好性の共有、ないし価値観の共有というのは、人間の何かしらに根ざしたものなのかもしれない(マズローを惹かずとも)。
逆に属性による親近感というものもあって。いわゆる「同じ地方の出身」「同じ大学の出身」なんて最たるものだろう。いわゆる派閥だって、そのようなものかもしれない。ただ逆に同郷嫌悪ないし同族嫌悪のような言葉もあるように近すぎると、嫌悪感を催すこともある。ただ、これは嗜好性の近さに言えることもあるのだけれど。
分析するに、それは「自分と同じ個体がいる場合、カニバるので、避けたい」という人間のミーム的な本能からの発露なのだろうと勝手に分析する。自分と同じ人がいた場合、社会的にはその人の価値は主の保存から考えれば相対的に低くなる(のかな?)。同質性は高いほうが吸引力は高いけど、多様性が少ないとイノベーションやジャンプも起こらないのでどうなんだろうか。一節ではダーウィンが最近、覆されがちだとも聞くけれど、そう考えると、そういう紋きりで見るのは危険なのかしら。
でも、異性だと逆に嗜好性による吸引力は高いような気がする。一般的に見て。異性だと自分と似た遺伝子を残そうと思うから、そうなるのだろうか。実際、「いとこ」などの血の繋がった人は、赤の他人よりも恋に落ちやすいというデータを呼んだことがある。近親相姦が禁止されているのは昨今の倫理的観点(もちろん、医学的観点による結果からの見方もあるだろうけれど)からであって、ほっておけば、人類は血の繋がった人に恋に落ちやすいらしい(うろ憶え)。
そう考えると、異性だと嗜好性の引力が高まり、同性だと嫌うというメカニズムは理解できる。話とぶけど、政治学における「国」の争い分布も、隣国同士が仲が悪いという分析も上記からある程度読めるのかもしれない。
しまった。絵の話を書こうと思ったのに全力でそれた。うーん、上記と絡めて何か書けるかな。そうだ。
上記の絵の嗜好性の一致による親近感というのは、嗜好性のリトマス紙としてある程度、有用でないか。いやそうでもないか。いやね、つまり本や映画、音楽、スポーツなどなどいわゆるカルチャーの「これが好き」という共通項よりも「絵の趣味が同じ」という場合の方が嗜好性の類似値が高いのかと思ったのだけど、そうでもないかな。
というのも絵とはその良さを説明できないもので。本質的に。だからこそその価値観が反映されやすいのではないかと思ったけれど、音楽も本とかもそうだな、と思った。そして勿論建築や写真などなど全般的に。
ということを、どこぞかでさっきヒエロニムスを見かけて書いてみた。
シフト管理ってとても奥が深いということを「シフター 」から知る
「売れるものならば、割り箸でも何でも売ってみせる」
とは、ワイアードの石原社長が言っていた言葉。彼の起業時の話をしている時だ。
その言葉がもつ自信とそして腹のくくり方が、同じ起業家としてぐっときたのを憶えている。それ以来、うちとオフィスが近いこともあり、CTOの鶴ちゃんともども色々とお世話になる限りなのだが、手土産に「チュッパチャップス」を下さったり、誕生日には粋なプレゼントをくれたりとなんだか流石。このような人情の機微というのは贈り物に何を選ぶかによって表されるような気がして氏のセンスに感嘆するばかり。
そんなワイアードが先日、アルバイトなどのシフト管理を携帯で行うことができるSaaS型サービス「シフター」をリリースした。
そのままだが、シフト管理をより簡易に、そして、より効率的に行えることができるサービス。オンラインで完結するのではなくオフラインの生活を豊かにするサービスが妙味。しかも携帯やSaaSといった今のトレンドどまん中。
私のアルバイト経験としては、コンビニや八百屋もろもろと思い出すのだが、確かに、シフト管理は、どうやっていたか思い出せないほど混沌としていた気がする。どうやっていたんだろう?紙に書いていたのかな。ともあれ。
このシフターは単に業務の効率化ではなく、それによってアルバイトの方々が利点を得る。つまり、管理側だけでなくアルバイト側もより簡易に効率的にソフトの調整ができる。それによって、アルバイトの方々も利点を得ることになり、それにより、アルバイトを引き留めておけるという長期的な価値を生むサービスだ。その流れがなんだかとても心地よい。
ということで、シフト管理などをしている方は、このシフターのご検討はいかがでしょうか。
差分なる人生
人生とは差分である
と最近思う。誰かの言葉でありそうな言葉だけど、とりあえず原田の認識として。
どういうことかというと、人生には、色々な意味で山や谷、あるいは右肩上がりだけのグラフの人もいるかもしれないけど、まぁ、横軸が時間な世界で線は軌跡を描いていくものです。
その縦軸が何かは人にもよるけど、たとえば「金銭」「名誉」「ステータス」などのような典型的な人もいれば「幸せ」「成功」「社会貢献」のような抽象的な場合もあるだろう。人によって、そのKPIは変わる。
いずれにせよ、それらは大小の差はあれ軌跡を描く。一般的には、それが上下して、「まぁ、人生ってそういうこともあるよね」と失敗やへこみや公開や失恋などを得て、その谷を「糧」にしたり「そういうものだ」ととらえたりして、グラフは続く。つまり株価のグラフのように、上下に軌道を描きながら人生は進んでいく。
ずっと上昇する正の一次関数的なグラフを描く人は稀だけど、そういう人もいて。ただ、積分すればやっぱり、それでも上下に揺れているものなのだけど、まぁ、尺度の取り方によってはそういう人もいるかもしれない。あるいは「私の栄光の五分間(cfアンディウォーホール)は幼稚園時代だ」とうそぶいて、人生下降まっしぐらという人も逆にいるかもしれない。
いずれにせよ「上下ある人」「ずっと上昇」ないし「ずっと下降」のどの軌跡だとしても(MECE的にいわば)、それは差分の世界で。つまりは、人は昨日よりも今日とどうだったかで人生を計り、局地的にソレは意識しないとしても、過去を振り返り「遠くまできたなぁ」「よくやってきたなぁ」「死ぬまでにはこれをしよう」「三十までにはうんぬん」と差分を意識して生きる。
人生における何かしら尺度の差分というのは結局、相対的なもの、ということで。そして、それは突き詰めるところ、主観でしか得られない程度であり。つまりは、他者との座標軸が異なれば、同じ緯度・経度にいたとして同じように見える位置もまったく意味を持たなくなる。
だから何が言いたいかというと、人生の楽しさというのは個人における差分の大きさによって定義することも可能ではないかということで(もちろん他のとらえ方もあるが一例として)。そう考えると、ずっと上昇トレンドにおいては差分はベクトルは常に正になるので、大きさは限られたものになる。つまり微分におけるベクトルの大きさ(絶対値)の累積が人生の楽しさなのだから、そう考えるとマイナスは、人生に価値を付与するベクトルの動きだと考えられる。
もちろん絶対的なゴールによってそれを決める人には向かないけれど、あるいは定量的に人生をとらえる人にとっては違和感もあるのかもしれないけれど、そのゴールを目指すのは自分であり、定量的にとらえる主体は自分であることを考えると、それらのとらえる自分の尺度も結局のところ「人生は差分」というドグマを逃れることはできないのではないかと思う(できる場合もあると思う)。あるいは、そのような一次元的な目標は、時間というもの、ひいては歴史というものを侮辱することになりはしませんか?と思う次第。つまり、「故人たちが作り上げてきた歴史」に対する「新しい前進」というのは、差分の世界であり、そこに生きる以上、どのような目標であれ差分の世界を無視することはできないわけで。
で、結局、結論は特にないのだれど、自分なりのグラフを描きたいなと思う次第です。
「リュックサック一つが自分の財産すべてという状態でも勝負できる自分でいたい」
という人の話をふと聞いて、そんなことを思ったとさ。
言葉
友人の日記で見たCM。
部屋は人生とつながっている
気づかなかったけど、言われてみれば、そういうこともあるかなぁ、とか思って、CMのコピーの力に改めて恐れ入った(さりとて、何かを訴求されはしなかったので、ターゲットが違うのだろう)。
ちょうど、先日、「広告はいいよね」という話になって、人によってそれの良さは違うのだろうけど、個人的には、やはりそのCMの言葉が良いなぁ、と思う次第で。
そんなことを思っているとちょうど先日、沖縄の西表島は「東のガラパゴス」と言われているという話を聞いて。それってば、もはやキャッチコピーで。なにかしらロマンと同時に世界にコネクトするスケーラビリティをもった言葉でとても白眉。
なんてことを書いてると、改めて、自分ってば言葉に惹かれる人間なんだなぁ、と自己認識。
これも先日の話で(この過去の話はとりあえず全部、先日にしておくメソッド)、「三島由紀夫」の言葉の良さの話を聞いて、どちからというと、言葉でいえばやはりベタに芥川龍之介のチョイスの方が好きなのだけれど、マッチョな言葉(質実剛健みたく)、かつ耽美な言葉でいえば、三島になるのかもしれないと思って、読み返さないといけないと思った。多分、一通りは読んだのだけど、その頃は私はストーリーに惹かれる人間だったから、犯人も濡れ場もない小説(あるにはある)にはそこまで傾倒はしなかった若造だったのかもしれない。
言葉としてまたも思い出したのだが、最近、「おお」と思ったことがあって。
「面白きこともなき世を面白く」
は高杉晋作大先生の有名すぎる辞世の句だが、何かの話の流れでそれをよんで。で「その後って何だったかな?」と言うと、
すみなすものは心なりけり
と下の句をとってくれた人がいて、それはそれで大いに驚いた(まぁ、でも歴史好きの人なら当たり前のことかもしれないけれど、これが医者が受けた句とまで注釈つけるのはなかなか妙味かと)。ただ、言葉フェチとしては、そんなところにアドレナリンを分泌するような生き物で。そして、スズメの話になって(すごい話の流れだけど)
燕雀 いずくんぞ
とつぶやくと
鴻鵠の志を知らんや
を拾われたので、さらに感嘆した。さらには三島の「仮面の告白」の冒頭を諳んじられて、悔しいので、私は、草枕をひとり口ずさむのであった。
山道を登りながら、こう考えた。
と。
運とか奇跡とかセレンディピティとか
少し前、はてブ界隈で運の話が話題になっていたような気がする。
大前さんだか、出井さんも「成功するのに大切なのは運だ」というスピーチをしているのをどっかで読んだ。
で、調べたらあった。
運と機会を味方に「1人でも企業を変えられる」–出井氏が贈る起業家へのメッセージ:ニュース – CNET Japan
で、もう1つはこれか。
POLAR BEAR BLOG: 「計画された偶然」という姿勢
つまり、物事を成功させるためには運がかかせないが、その運とは
「計画された偶然」理論では、「運も実力のうち。幸運が訪れたときに逃さないように感度を高めたり、幸運が訪れるような努力を行うことが大切」と説くわけです。
というものに裏付けられる。
まぁ、これを聞くと麻雀とかを思い出す人もいるのでは。
どたんばで無茶苦茶ヒキが強い人がいますけど、そういう人たちってのは、どう考えても「運を引き寄せている」としか思えなくて。
やはり、おりる時は降りているし、場を読んでいるし、なんか、ちゃんと計画された運って気がする。
わたくしめのの考えとしては、科学的に考えて純粋な意味での「運がいい人、悪い人」というのは存在しないような気がする。
なぜなら運というものに価値を与えるのは主観でしかないわけで(つまり「いい」「悪い」)、そんなものは科学的に傾向がうまれようがない。
では、なぜ「運のいい人悪い人」がいるかというと、人間がそうラベリングしているからそう見えるだけである。つまりは、これも前に書いたけど、心理バイアスの問題ですな。
で、加えて、その「いい」「悪い」が「人間の視点から見て偏っていた」という場合だとしても、確かに「運のいい人、悪い人は存在する」という仮説を考えることは可能である(つまり、チリ人とコロンビア人とコスタリカ人の3Cの国には美人が多いという言説を論証するのと同義)。
しかし、これも結局、たまたま可能性の問題として「ここぞ」という時に「良いと判断しうる運」をひっぱってくるタイミングが重なったわけで、そう見えるだけである。
つまり、長期の平均でならせば、その「運の良さ」は局地的な単なる運の偏りでしかありえない。
この辺は行動ファイナンス理論 なども参考になろうか。
で、まぁ、それはそれとして、でも、しかし、そのような運が「偶発的」なものならば、逆にその「偶発性」を準備することは可能ではないか?ということを検討する余地があるのも至極当然。
で、それが冒頭の「計画された偶然性」になるわけだが、この言葉を聞くとセレンディピティを想起する人は少なくないかと。
何かを探している時に、探しているものとは別の価値あるものを見つける能力・才能を指す言葉である。何かを発見したという「現象」ではなく、何かを発見をする「能力」のことを指す。
具体例として以下のようなものが挙げられている。
# アルバート・ホフマンによるLSDの幻覚作用の発見
# 田中耕一による高分子質量分析法(MALDI法)の発見
# スモーリー、クロトー、カールによるフラーレン(C60)の発見
しかし、こんな高尚なものでなくとも、もっと卑近な例はいくらでもあると「個人的には」考える。
たとえば、「めがねを探している時に、前に失っていたワッペンを見つける」だとか「失恋して映画を見ている時に、その映画から新しいビジネスアイデアを思いつく」だとか。(超適当ですが)。
で、このような偶発性は、まさしく計画できるものである。
つまり「偶然」が起こる可能性は前述のように、なべて均一だとしても、その均一に訪れる運を、うまく活用できるかの素地作りができる、というか。
つまり「誰でも人生で5分間はヒーローになれる」とウォーホールだかチャップリンだかは言ったけど、その5分間を、最大限活用できるするようにするには、個人の裁量にかかっている。
たとえば、「キャンベルスープの缶」を見て、それをアートだと思い新しいポップアートを生み出してしまう人がいる一方で、それは食べ物にしか見えない人がいるというような。
そして先ほどの卑近な例でいえば、「めがねを探しながらサングラス」を見つけるには、サングラスをなくしたという事実を覚えておく必要があり、あるいは「映画を見てビジネスアイデア」を思いつくには、常日頃から、それに関して考えておく必要があるのと一緒で。
で、ここで久しぶりに原田ライブラリより奇跡を引用。
私たちの生き方には二通りしかない。奇跡など全く起こらないかのように生きるか、すべてが奇跡であるかのように生きるかである。
この言葉が重みを持つのは、まさしく、この奇跡を生み出したアインシュタインからの言葉であるからに他ならない。
もっともアインシュタインは、不確定性原理(だったっけ?)という奇跡(偶然)を認めなかったという逸話もあるそうですが、それはご愛嬌。
で、何がいいたいかというと、やはり、森羅万象、我が身に起こる奇跡や偶然が、「たまたま」だとしても、あるいは「計画されたもの」であったとしても、やはりそれは「天からの僥倖だ」と捕らえたほうが人生、ハッピーに生きれるに違いない、とかおもったのだ。
(宣伝)BizGpがなんだか面白いことをなさるようですよ。
ラブリー龍吾が率いるBizGPですが、おもしろさげなことをするようです。
井上塾
本気で起業したい学生、もしくは、本気でビジネスを成功させたい学生起業家を対象に、事業計画の立て方、ビジネスの考え方を講義します。講義終了後、最終プレゼンテーションにて秀逸なプランには、井上が個人的に投資をすることもあります。
だそうです。
「このビジネスプランゴイスー」という人は参加されてみてはいかがでしょうか。いろんなもん教えてもらって、さらに投資してもらえるかもです。うらやましい。
対象は学生に限らず
1. 学生(大学生・大学院生・専門学校生)
(既に法人を持つ学生起業家の場合は役員社員含め5名以下の場合のみ可)
2. 真剣に起業したいと考えている方、若しくは真剣にビジネスに取り組みたい方
3. 住・健・学・働・金の5つの分野で人の暮らしをよくするビジネスを行いたいと思っている方
だとか。
なお9日締め切りだそうです。
応募締め切り 8/9日(木) 23:59
書類選考の後、面接により井上塾入塾の合否を決定いたします。
書類選考、面接の結果は、メールにてお伝えいたします。
募集数 5チーム (個人でもチームでも応募できます。)
ご興味ある方はご応募されてみてはいかがでしょ。
眠りと夏と洗濯物と血液型
■はしれはしれ丘の上
今日は久しぶりに朝からはしった。普段は夜なのだが、最近はどうも夜がドタバタしているので朝にシフト。
朝とはいえ6時代、7時代だとまだ涼しい。人も少ない。サザンの夏の歌を聞きながら軽快にはしるのだけれど。
そこでふと思ったのだけれど、「夏」という季節は損をしているんじゃなかろうか。
日本では、端的に言って四季があり、その季節は、12ヶ月の1/4づつ。つまり3ヶ月ごとに切り替わっていく。
旧暦は抜きにして、現状だと3月から春、6月から夏、9月から秋、12月から冬、といったところだろうか。
実際は4月から春なのかも知れないけど、それをすると、冬が1月からになり違和感がある。
ともあれ。しかし、日本には「梅雨」という季節があるわけだ。これは、ご存知の通り、春と夏の間に存在する。公的には認められていない可愛そうな季節。
しかし、そこに梅雨が入る。大体、6月末から7月終わりまで。そう考えると、本来ならば夏のテリトリーである6月がまるまる梅雨に奪われてしまうことになる。
つまりは、夏は他の季節に比べて1ヶ月季節が短いのだ!なんたること。
ついさきほど、この事実を知って愕然としてしまった。つまり夏生まれは自分を褒め称える季節を1ヶ月損をしているということになるのだ。
これは良からぬ。声を大にして叫ばねばならない。
いっそのこと、季節を「春」「梅雨」「夏」「秋」「クリスマス」「冬」などにしてみてはどうか。冬はクリスマスに正月に卒業式にとイベントを独り占めしすぎなので、クリスマスは切り離すほうがよかろう。
またやはり季節は偶数でないと、季節の取り合いをした時に不便がおころう。そのために季節は6つが良いような気がする。
■靴下を干す奴
ベランダにある靴下を干す奴。なんていうのだろう?あれ。パッチンと留めるものが葡萄の房のように連なったもの。
あれの1つがポトリと床に落ちた。まるで南天のようだった。
ただ問題なのは、この洗濯物に欠かせないツールのことを私は26年間も知らずに生きてきたという事実だった。
■血液型
最近まで血液型をこれっぽっちも信用していなかった。
いわゆる「○○型だから、○○な性格だよね」という先入観である。
理由は簡単で、世の中がそんな4つに切れるわけがない(RH-などを入れるともう少しあるけど)。
ただ、勿論、血液型の存在経緯(歴史)もどこぞでききかじったことがあるので、そのような血液型が裏付ける性格の論拠も、明確に否定できるものでもなかった。
さりとて、まるで合コンのように相手に血液型を聞いて一喜一憂するのは、どうもはばかられることだと考えていた。
しかしである。
昨今、この血液型の力が、実は思っている以上に強いのではないかと改めて痛感している次第。
それを認識するには、四半世紀の年数を要したわけだが。
やはりA型の人間は○○だし、B型は○○だ。というようなニュアンスがなんとなくわかってくるようになってきて。
今まで興味がなかったので調べたことがなかったのだが、ボトムアップから考えれば、納得することが多くなってきた。
「A型は○○君と○○さん、○○ちゃんと○○さんだから、A型ってのは、ああいう人たちを言うのね」と帰納法的にA型を理解していくようになったというか。
そうして、ようやく血液型が持つ何かしらの総意。わかりやすく言えばイコンのようなものが読み取れるというようになってきたというか。
特に面白いのは、血液型の4分類だけでなく、親の血液型を組み合わせるとさらにバリエーションが増えるということである。
たとえば、単なるBでも、AOなのか、BOなのかで性格が変わったりする(気がする)。そう考えると、血液型は10種類を超えることになる(ほんと?)。
ということで、最近は血液型がブームで会う人によく聞くのだが、なかなか正解率は高いような気がする。ここ最近10人で7人くらいは一発で当てられた気がする。
というか、今更こんなことを書くのもナンセンスなのだけど、みなさんはたぶん、血液型をより詳しくご存知だとは思いますが。
まぁ、こういうのは自分が体感したいんとピンとこないというお話でした。
■眠りの街
メッセンジャーでオンラインの人の9割が退席中だった。まるで世界が一斉に眠り姫になったのではないかと思ってしまった。
脳内物質をぶっ飛ばせ
ふと雑感。
我々の日々はいくら平穏のように見えようとも、感情の起伏や体調の良し悪し、果ては気持ちの揺れなどをなくすことはできない。
たとえ1ヶ月引きこもって、外部の情報を遮断して、出家のような生活をしたところで、それは外面的な「安定性」を産むに過ぎない。
内面のゆれを抑えることは、ほぼ不可能に近い。なぜなら、外面的な安定が持続することで、それにより内面ではそれが新しい刺激となり、耐性/慣れを生み新しいフェーズへと動き出すからだ。
とはいえ、それをマネージすることを出家や悟り、はたまた解脱と呼ぶのかも知れないけれど、それらはあくまでもマネージするということであって、内面性の安定を生み出すのとは少し違う。
どういうことかというと、いくら我々が安定した日々を送ろうとも、脳内物質は黙っていてくれないのだ。
いわゆるセロトニンやドーパミン、アドレナリンなどは脳内で暴れはっちゃける。それゆえに、いくら仕事が順調でも唐突にダウナーに入ることもあれば、あるいはイキナリテンションがあがることもある。
女性は男性よりも感情の起伏が激しいというが具体的に証明されているのかどうかは知らない。それはホルモンの関係性に因るものが大きいと推測するが、男性にだって月一でのバイオリズムの偏重はあると聞いたことがある(外面的には何の変化がなかったとしても)。
それにホルモン云々だけではなく、「いい空気を吸う」「うまい飯を食う」「十分な睡眠をとる」「身体を動かす」「恋をする」などの外的変化だけでも、内面の動きは大きくなり、そのバラティリティたるや推測不可能。ある程度、過去の事例を参考にして、それをコントロールできたとしても、それは可能性の程度問題であり、他の要因が入れば、そんな定理は簡単に崩れる。
卑近な例でいえば、いくら上手い飯を食おうとも、ぐっすり寝ようとも失恋の後は、マインドをアッパーにもっていくことは難しいように、メンタル面を支配する要因は須らく同じものではない。
それゆえに、脳内物質のコントロールは非常に難しいのではないか、と考える。もっともだからこそ薬やドラッグなどが活用される昨今なのだろうけれども。
そう考えると、我々というものは「哲学云々」「人生の意義云々」という形而上的なもので心の平穏を生み出そうと試みても、ほんの瑣末なことで簡単にそのような平穏は打ち砕かれてしまう。
そうすると、あえて誇張して言うならば、人間は脳内物質に支配されているといっても過言ではないだろう(ある一側面だけをみれば)。
とはいえその脳内物質も、事象の連鎖を紐解けば、外的要因が大きく寄与しているので、広義な面でいえば、その定理は当てはまらないのだけれども。しかし限定的なところで言えば、やはりそれは実体験をもって、それを納得することができるのではないか。
たとえば、いくら仕事が順調でも突然スランプになることがある。あるいは、酒を飲むと辛いことを一時的にでも忘れられることがある。そのように、自分での理解できない要因により精神が左右されたり、逆にある任意のツールを使えば精神を左右することができるというのは、まさに限定的な意味での脳内物質の力が絶大であるということの証左ではなかろうか。
とはいえ、この話も堂々巡りになる。結局、その脳内物質をコントロールする要因は外的とその他の要因に分かれるために、これを切り分けて考える必要がある。その為、不確定要素を持った発作的に起こる脳内物質の乱れ。それは病気と言われることもあれば、人間のアンステイブルな心理状況の要因、つまり「不確定要素」を持った変容においては(切り分け後)においては、やはり人間は脳内物質に支配されているといえる余地がある。
しかし、である。
so what、とわたくしは言いたいのである。たかがなんミルグラム(という単位で良いのかしら?)のやろうどもに精神を乱されてたまるか、というか。
そんなわけのわからなぬものに精神を支配されてたまるもんですか、と。とはいえ、こう考えると、心身二元論となっていつの時代の寝言だ、になってしまうわけだけれども、そりゃ密接に関係してようが、あるいは健全な肉体に健全なる精神がやどろうが、んなもん知るかと。
ロジックは勿論破綻しているのだけれど精神論的に。
まとまりがつかなくなった。まぁ、言うならば、ダウナーは認めん(自分に対して自分として)というか。
もごもご
メッセンジャーのどうでも良いTips2つ
どうでも良いメッセンジャーのTips2つ。友達とメッセしていて、その方が知らない情報だったので。
いっぱんてきに知られている情報だったらごめんなさい。
■相手の最終ログイン情報を知る
相手が最後にいつログインしたかを知ることができます。ただし、これは自分がオンライン時に拾った情報かな。
↑こんな感じに、最後に相手としゃべった時間も知れます。
メッセンジャーPlus!を使っていると、「メンバーの情報」というメニューがでるので、そこから確認できます。
■相手が自動で退席中か、本当に退席中かを知る
ステータスの「退席中」が、自動か手動かを知る。自動だと「自動中」とステータスに表示されます。手動だと表示されません。
これはMSN メッセンジャーのバージョンに因るのかしら?不明。
↑ 自動
↑ 手動
それだけでした。