余りにも天気が良いので思わず今日2個目のエントリ。
どうでもいいけど、さっき気付いたが、もうすぐ72時間外に出ていない記録が樹立されようとしている。完全な引きこもりだなぁ。
お陰様で大分GetなThingsがDoneされたけど。うーん気分も上乗仏教。
ということで、何かしら3連休、作業(仕事と呼ばれるもの)以外でしたことをまとめてみた。
絶望的にナンセンスだけど天気が良いのが悪い。
■食事
・カレーを5回食べた
・冷凍のコロッケパンみたいなのを3回食べた
・アイスクリームを5個くらい食べた
・コーヒーを7杯くらい飲んだ
・グレープフルーツジュースを2リットル飲んだ
・エビスを100ミリリットルほど
・ヴィタメールというお菓子
■見たこと
・サザンの夏のDVDを見て一人テンションが上がっていた
・ニコニコ動画でイチローのランニングホームランを見た
・映画「RENT」を30分くらいみた(レズの人のコンサートまで)
■PC関連
・デフラグ
・外付けHDDの整理
・バックアップサービスの更新
・iPodの更新
・デスクトップ/マイドキュメントの整理
・業務以外ののびのびになっていたサイト製作をいくつか着手(Pukiwiki、Wordpress、MTなど)
■読んだもの
・ブログを2,000記事くらい目を通した(FreshReaderで溜まってたエントリ数がそれくらいだった。流し読みも含む。てか、本当にこんなにも目を通したのかなぁ)
・辻ひとなりのフランス料理の本と「目下の恋人」、白川道の「終着駅」、「Pukiwkiなんちゃら」を読んだ
・郵便物いくつか(ゴミ含む)
■書いたこと
・ブログを50記事くらい書いた(ソーシャルメディア関連が大半)
・手紙・カードを4通くらい書いた。おとん含む
・メールを50通くらい書いた(作業含んでしまうが)
・カード関連の書類
■喋ったこと
・メッセンジャーでの対話10人弱ほど
・電話7人、おとん含む(履歴で確認)
■寝たこと
・昼ねを含んで4回くらい寝た。そのうち2回悪夢みた。
■日常
・洗濯を3回まわした。うっかり黒いものと分けるのを忘れて、Tシャツに白い糸が一杯ついた。
・風呂に1回、シャワー2回入った。湯船は2週間ぶり。入浴剤素晴しい
・トイレ回数不明(アンカウンタブル)
・寝ぼけて、コーヒーをこぼしてふいた
・郵便局のフリーダイヤルにIP電話からかけられず怒る(いつも)。
そんなこんなで天気の良い月曜日。
洗濯物が気持ちよいなぁ。
ああ幸せ。
ご機嫌なお天気ですねぇ
いやー、昨日までの続いていた鬱屈とした天気が嘘のよう。
ゴキゲンですなぁ。
これが台風一過というものでしょうか。
ただ、ここから「台風が過ぎ去った後は、天候に恵まれる」という定理を導き出すのは、「昨日も今日も雨だったから、明日も雨である」という帰納法と同じくらい詭弁で。
単に1つの各論から総論を導き出してはいけない。
ここから導き出せる唯一の定理は、天気がいいと人間はゴキゲンと感じることがある、というくらいである。しかも、それがエクセプションではないということを否定できる要素はない厄介な話ではあるが。
もっとも、台風が過ぎ去った後は、天候に恵まれる「こともあるという」テーゼを導き出す出すこともあるが、それは「天候に恵まれる」という可能性がアトランダムな以上、「台風が過ぎ去った後」という条件設定は、何を置いても成立してしまうわけで(たとえば「核が落ちた後は」でも「ベルリンの壁が崩れた後には」でも成立してしまう)、そう考えると、「世の中には天候に恵まれることもある」という定理にしかならず、それはもはや定理としては何の意味をもたない。
つまり、いつか引用した「東京タワーからカンジュースのプルタブを落とすと、人は死ぬ」という定理と同じ問題になってしまう。
もっとも、「天気がいいと人間はゴキゲンと感じることがある」という言葉さえも、「天気がいい」と「ゴキゲン」が定義されていないので、なんにも使えない定理である。
さらに言うと、「天気がいい」と「ゴキゲン(気分がいい)」というのは、ある「良い」という主観に基づいた感情であるゆえに、それは、「相対的に定義」されるものである。
つまり、ここでの「いい」というのは「感情の触れ幅のアベレージが平均以上である」ということであり、この平均というのは、「悪い」「普通」ということからも導き出される数値である以上、そもそも「いい」というものは主観の粋を出ない。
たとえば、雨しか降らない土地においては「降雨量が少ない」ということが「天気がいい」と言うことだって可能なのだ。
ということで、とりあえず、こういう下らないエントリーを書いてしまうほど、今日は天気が良くて私はゴキゲンだ、ということくらいしか私はわからない。
本って奴は。
雨の時は本に限る。
ということで本の話。このブログではしょっちゅう出しているネタなので恐縮ですが。
この台風で本を読んだというよりも、まぁ、定期的に本は読んでいて。
そして私の傾向として、「何かを考える時ほど本を読む」という傾向があります。それは、思うに自分の中ではある程度、答えがでている悩みがあり、それを本を読むことによって決断に促してくれる効用があるからのように思います。
基本はノンフィクションが実は好きだったりしますが、同程度、フィクションも好きなわけで。
そして、そういう悩んでいる時に読むのは、実はどちらでも効用は同じという経験則があります。
というのも、「実際にあったから」というだけで、ある事象の重みは変わらないケースがあります(変わるケースもある)。
それが変わる、変わらないを決める要素は、単純に1つだけ。自分のおかれた状況。しいてあげるならば、その時の主観になります。
それゆえに、悩んでいる時においては、大抵の場合、「決断を促進する、ないしヒントを得る」だけですから、それは実話であろうと、なかろうと関係ないのです。
わかりやすく言うと、たとえ小説であろうとも、そこに出てくるワンフレーズが、自分にとっての「もやもやしていたこと」をクリアーにさせてくれるトリガーであれば、それは小説であろうとなかろうと関係のない話になるわけです。
具体的な例でいうと、たとえば「結婚するかしないか」を悩んでいて、そして、完全に答えがでない悩ましい状況だとする。
その時に「他の人はこの時にこうしたから結婚した/しなかった」とい「う話は、ケーススタディをやる分には有効ですが、それは自分の考えを膨らますという効用とは位相を事にします。
そうではなく、たとえば、カンナカレーニナを読むことによって、そこにあった1行が、自分で思いもよらかった「結婚への見かた」を提示してくれることもあるわけです。
そして、それによって、その悩みを決断する補助線が1つ生まれることになる。
つまりはそういうことです。
で、まぁ、とはいえ、バイオリズムの問題で、ノンフィクション、フィクションを読みたい波は交互に襲ってきたりします。
最近はフィクションの波が来ていてむさぼり読んでいました。しかしもう「いいと思える本」しか、読む気力がなくなってきたのも事実です。
昔は、面白くなくても最後まで読み通す根性がありました。しかし、本を読む年齢を重ねるにつれ、その本が面白いかどうかの判断基準も明確になってしまい(良かれ悪しかれ)、同時に、時間的制約というものが大きくのしかかるようになりました。
ちょうどこないだのちょっとしたパーティでお会いした方がおっしゃっていた言葉が印象的です。
もう、私はいい本しか読みたくないんです。
と。それはクリアーな事実で。
さりとて、知らない本に手を出さない、というのとは違う。もっとプラグマティックで、1ページ読んでピンとこないと読めない、ということになります。
ともあれ、しかし、最近読んだ本たちはヒットばかりでした(もっともその背後には10ページくらいで終了となった屍たちが同じ数だけありますが)
まずは、伊坂幸太郎の「チルドレン」。
名言を2つほどピックアップするならば
あいつは常に何かを主張している
陣内が口にするたびに「絶対」の価値が落ちていく。
などでしょうか。友人などのブログでもよく見かけている本なので、お読みになった方も多いかと思われる一冊です。
もはや主観としては巨匠の域に達する伊坂氏。今回もお得意の物語リンクをふんだんに駆使し、やられた感を醸成してくれます。
そして本多さんの「真夜中の五分前」。
これは、個人的に「ノルウェイ」の匂いを多分にかぎとってしまったわけですが、それもまぁ、やむなしでしょう。
個人的に好きなフレーズ。
主人公が悩みを抱えていて、久しぶりに友人に電話をした。しかも深夜。
すると友人が「神戸から東京まで」いまから行くという。
バカいうなよ、と僕はいった。
「明日、会社だろうが」
「だからどうした」と友人はいった。
この「だからどうした」がすきで。控えめにいっても、たまらなく好きで。
このフレーズは目新しいものではなく、他の書籍でも何度か見かけたことがあるようなきがするのだけど。
だから、どうした?
いいよね。これ。全てを超越したような概念。馬にのってる感じがする。
英語だと、so whatでいいのかなぁ。まぁ、いいのだろう。いろんなシーンで使える名フレーズです。
恋愛だったら「私結婚しているのよ」「だからどうした」
仕事だったら「僕2回も失敗しちゃった」「だからどうした」
人生だったら「借金2億あるよ」「だからどうした」
うーん、すがすがしい。
そして最後のご紹介は藤原 伊織さんの「シリウスの道」。
ミステリー好きなら、誰もがはまる藤原さん。著作は少ないけれど、どれも素晴しい味わい(こないだのヒゲの話だけは個人的にイマイチだった)。
いくつか言葉を。
このややこしいご時世ではたぶん問題を抱えていない人間の方が絶滅種に近いのだ。
「自己満足かもしれない」
「満足に自己満足以外の満足があるんですか?」
ふむ。
なんだかかっこいい人たちばかりを読んだ気がする。
これらの本の詳細は、こっちに読書メモ書いているのでよろしければどうぞ。
読んだ本
そして、最後に、藤原さんの本より。
質問の答えは質問自体のどっかに隠れているんだとだれかが言っていたよ。
これは、まさにソクラテスの時代からこそ愛されている絶対の真理。大江健三郎は「問題が設定できたならば、答えはもう出ている」と言ったけれど。
対話によって人は新しい高みへと到達することができるわけで。
そして、最初の自分の独り言。「本と対話し、自分の問題を解決する」が実証されるわけである。
「世の中に、絶対、と断言できることが何一つないなんて、生きている意味ないだろう。」
朝が好きだ
僕は典型的な朝型人間で。
夜が遅いのはとても苦手だけど、早起きは好きだ。
最近は、その傾向に拍車がかかり、大体3時~6時には起きている。
朝起きたときの静けさが好きだ。
夜中とはまた違った静かさ。
現代における夜中とは引き伸ばされた夜というだけであり、そこにはなんのウシもミツもドキもない。
しかし、朝は違う。
現代における朝とは禁忌の対象であり、起きているのはニュースキャスターと新聞配達の人くらいしかいない。
ブログでもSNSでも格段に更新がおち、街が眠りについているのが実感できる。
メッセンジャーでさえ、常時オンラインになっているメンバーの半分くらいしか見つけることができない。
しかも、たいてい「退席中」というおまけつきだ。
その疎外感。
周りに誰も話しかけるものがいない。電話する相手もいないという環境。
それは何かしら、物事への注力を促進してくれる。
苦いコーヒーも、かすかにかかるどこかの音楽も、そして、新聞の匂いも全てが朝ゆえに素晴しい。
ああ、朝がすきだなぁ。
運転免許証の更新
運転免許証の更新通知が来て。
あまり喜ばしくないものだから、さっさと片付けるにこしたことはない。
都営三田線の大手町を降りて運転免許更新センター へ向かう。
7月だというのに肌寒い天候で、嫌が上にも、まだ梅雨だということを思い知らされる。
月曜の午前からボルテージが高い哺乳類はいない。まだ閑散とした更新センターで、たんたんと手続きは進む。必要書類の提出。はがきの提出。そして免許証の提出。
パンチで穴があけられた免許証は、その穴ひとつが、ひと世代前の重機を思い返した。どんな機械でも錆びがつき古くなる。そして、それをアンティークと呼ぶものがあらわれる。
視力検査では、いささか心配があった。近視矯正手術をしてからもう5年。だいぶ、視力が落ちた気がする。
それでも不屈の意志は山をも動かす。寸分のない「右」「左」の掛け声で、難なく視力の関門を突破する。そして、機械的にすすむ写真撮影。襟を正すことを命じられ、なにかしらアウシュビッツを思い出した。もっとも、そんなに歴史深い瞬間でもないけれど。
椅子に深く座り、背筋を伸ばす。髪の毛を整え、あごを引く。まったくもって、アンドロイド。
しかも、最近、免許証にICチップが埋め込まれるらしく、暗証番号を入力させられた。しかも2つ。
何にしようか、と思いながら、5年後の更新でも覚えている番号でなければいけない。しかも2つ。
やむなく5年後に思いを馳せることになる。5年後は自分は何をしているだろうか。あるいは5年後の免許証に映る顔はいかなるものなのか。
なんてことを2秒くらいで考えたあげく、適当な番号を記載する。
そして待ち受けるのが講習。1時間程度とはいえ、あまり愉快な時間とは言えない。
ビデオでは福留さんが話をすすめる。しょっぱい仕事、ともおもわないけれど、岡留さんならもっと良かった。噂の真相は復刊されないのだろうか。
藤原伊織の新刊を読みながらすすめられる事故の映像。
「彼はひとを引いたときから、心の底から笑ったことはありません」という一文が頭にひっかかる。
たしかに。交通事故はもはや他人事ではない。都内だけでも年間200人以上(24時間以内に他界した場合)の死亡事故が起こっている。
そう考えると、いつ自分が加害者、被害者になってもおかしくない。これが交通事故が持つ重みとして、さまざまな演説に語られる。
飛行機で事故するよりも交通事故で死ぬ可能性のほうが高い、あるいは肺がんで死ぬよりも云々。
死を確率に置き換えて、死の可能性を比較する。そのようなことは机上では可能だが、心情的には受け入れられるものなのだろうか?
バンジージャンプの紐が切れて死ぬ可能性よりも、イラクでカラシニコフに撃たれる可能性が低いからといって、彼はバンジージャンプよりもイラクを選ぶのだろうか。
ビデオは続く。
携帯電話をしていたことによる不注意で左折時に自転車を巻き込む。悲しむべきことにどこにでもよくある事故だ。
そこで、1つ想像は膨らむ。
もしそのようなことが起こったとして、電話をしていた相手はどのような心境になるのだろうか。電話口で「キキー」という音が聞こえ、それから声は何も聞こえなくなる。
あるいは逆ならどうだろうか。
自転車にのりながら携帯電話を利用していて、注意がそれ、車にはねられる。
その電話先の相手は、一体誰だろうか。もしかすると営業先かもしれないし、恋人かもしれない。友人かもしれないし、家族かもしれない。
恐らく、その人の悲鳴とともに投げ出される電話。電話先の相手は「もしもし?」を連発することだろう。しかし、その声は誰にも届かない。
ちょうどあのドラマ「24」で、そんなシーンがあったな、と思い出す。
主人公が電話している相手がトイレで絞殺される。突然、相手がいなくなった電話。無常に響く声。
どこにもいけず、声だけでは何も物事を動かすことはできない。聞く相手がいなければ。
電話はときに、そのような人間の無情を増幅させる装置となりうる。だから携帯電話は嫌いなのだ。
そうこうしているうちに講習は終わり、免許証が交付される。
今回の免許証には本籍や国籍は記載されていない。ICチップに埋め込まれているのだそうだ。そして、中型車の記述が増えていた。知らない間に法律は変わっている。
また、携帯をしながら運転することによる刑罰、民間による自動車取締り、飲酒運転の取り締まり強化など色々世の中は変わっている。
ちなみに飲酒運転は大体男性60キロの人で、ビール瓶2本を飲むとひっかかるくらいの程度になっているのだとか。
坂本龍一のseldon drunkというエッセイを思い出す。アメリカの法律では飲酒運転の基準が「ちょっとしたとっぱらい」ならばセーフになっているとかいないとか。
いずれにせよ酒の弱い私にとっては関係のない話だ。
また免許の筆記試験も変わったらしい。今は90点を取らなければならないそうだ。もっとも自分の時だってそうだったかもしれない。もう忘れてしまった。
知らない間に世の中は変わっている。
帰り道、2人の女性が前で歩いていた。タイトなパンツを履いた背の高い1人の女性は、お尻のポケットに携帯電話を入れていた。
そこからストラップがもれる。そのストラップは赤いお守りだった。何のお守りかはわからない。しかしストラップ
にお守りをつけているのは、よく見る風景ではない。主観として。
そして、10秒ほどその人の人生に思いを貸せていると信号が青になった。
そんなこんなで月曜日の午前が過ぎ行かんとしている。
Life's a picnic!
完全なる個人的な呟き。
先日、仕事でお会いした大学生の方から面白い質問を受けた。
「大人って何ですか?」
という眩しきなるほどストレートな質問だった。
そんなもの考えたことがなかったから、面食らった。そして、ふと出てきた自分の答えを差し出されたノートに書いた。懐かしい匂いのマジックペンで。
それから、ぼーっとそのことを考えていて、1つ思うのは「自分のケツ持ちを自分でできること」かしら、と思い至った。
わかりやすい言葉で言えば、現状を自分の責任に帰する事ができるか、というか。卑近な例で言えば、締め切りを過ぎた原稿に対して契約破棄されても納得できるというか。別にかっこいいことを言いたいわけでもなく、啓蒙的な意味でもまったくなく。
なんでそんなことを思ったかというと、一般的な世の中として、そのような話を(自分のケツをふけないという話)よく耳にするから。
たとえば、「会社へのグチ」。これってば、やはり選んだ自分の責任であって。もし会社が悪いと思うならば、それを変えるために動くべきだし、そうでないならば黙って辞めるべきだ。
あるいは「恋人への諦念」。恋人への嘆きを口にするのは自由だが、その恋人を選んだのは自分である(お見合いとしても同じこと)。そして、それが嫌なら、できれないならば分かれればいい。
もちろんこんなのは「原則論」であり、一般論ではない。そもそも、こんなこと書いても自分自身だってできちゃいない。でも、意識はけっこうしていたりする。ただ、いずれにせよ、できていないのは事実であり。
でも、この答えを彼女のノートに書いてしまえば、自分は大人ではないということを明示することになって、自分で悔しくて。だから、違う答えを書いた。
そんな彼女が提示したもう1つの質問が「自分にとっての理想の大人とは?」というような質問だった。
そこで思い出したのが、いつぞやかの友人の質問だった。
「朝、起きるの楽しみにしながら寝ている?」という質問。社会人になりたてて何もわからずてんぱっていた僕に投げかけられた質問。
「もちろん!」と即答できなかった自分が悔しかった。ばたんキューとベッドに倒れこみながら寝ている自分を思い描いた。
翌朝なんて、睡眠不足の身を考えれば悪夢でしかなかった。
それから、その質問をたまに人にする。いままでで即答で「YES」と答えたのは覚えているだけで2人。そのうちの1人は出版社に勤め初めて2年目を過ぎたころの人だ。
私の愛する作家の幾人かをも担当されている彼女は、日々の業務をたんたんと、しかし、非常にふくらみをもった日常としたものとして話する。崇高なほど。
「うん」という回答を聞いて、悔しいな、と思った。自分はそうではない。非常に悔しい(実は後ですぐに楽しくなったのだけど、やはりなれていないうちは大変だった)。
よく考えれば、社会人になると、1年の300日位は仕事をしているわけで(業界によって違うけれど)。そう考えると、仕事がある前日の夜に「明日楽しみだ!」と寝るのと「明日辛い!」と思いながら寝るのは、累積すると、雲泥の差が出てくるわけで。
もし「明日起きるの嫌だな」と思って寝るほどもったいないことはなくて。そして人生を無駄にしていることはなくて。そんなことを思いながら、15,000回も過ぎれば人生は終わっていて。「やだな」の15,000回は利子もつかない。
そう考えて、できる限り、翌朝を楽しみながら寝れるような状況を意識するようにしていて。
それが最初の話と繋がる。
「起きるのがやだな」という状況に追い込んだのは自分なわけで、その責任があるのも自分で。
そう考えると、人生という「素晴らしきもの(c life is beautiful」を無碍に過ごしているわけで。それってば、非常に人生を侮辱しているような気がして。
ブルデューをひくまでもなく、その人は社会からの借りをまだ返していないわけで。むしろ、累積債務を抱えたままあの世にデフォルトする。
なんてことを思っていたら先日、先日、大学時代の同級生より4年ぶり位にメールを頂戴して。彼女とはスペイン語のクラスで一緒で。印象深いのは、高校時代に何を考えたかイタリアに留学をしたという人で(アメリカに行った人は幾人もいれどもイタリアとは・・・)。案の定、今度はグアテマラに行くそうだけれど、それはまぁ別の話。
で、彼女は何も意図したわけではないだろうけど、メールの文中に「カズしてる?」という一文があって。
深い意味はまったくなかったのだけど、僕には腹に刺さって。おお、と思った。
あいてが何も意図していない何気ない一言がときに、強い重みを持ったものとして浮かび上がることもある。
今の自分は、その頃の自分のままであるだろうか、と。「カズしてる?」のカズが何を指すのかわからないけれど、20歳前後の怖いものがなかったアノ頃の自分を嫌が上にも思い出さざるを得なくて。
そう考えると、やっぱり「くそ!」と思って。あの頃の自分に負けてはいられない、と
そんなこんなで「Life is beautiful」よりも「life is a picnic(人生楽勝!):from ワイルド・サイドを歩け」を大切に生きたいと思うわけで。
というわけで、日々の朝が楽しみに起きれる現状をちょっぴり誇らしげに思う昨今なのだ。
Moovable typeいじりいろいろメモ
そういえば、いつしかブログをゴニョゴニョいじっていて。
で、こないだ新しくブログを作成しようと思ったらやり方を忘れていたので、備忘録にこちらにメモ。
間違いとかあったらごめんなさい。
■「次のページ」へのリンク導入
トップページの「前のページ」を見られるようにする方法。いわゆる「前のページへ」リンク。Wordpressは標準で出来ますが。こちらで実装。
小粋空間: トップページのページ分割
■タグ用の静的ページを生成
タグ用のページを生成。サイドバーにタグクラウドを出して、これをしておけば、タグ数分だけページが増えました。(このブログとは違うブログで実装。でもあまりにやりすぎてGoogle先生に怒られたのでやめました)
MT3.3のエントリー・タグ機能実装 – Type R
■HTMLでPHPを実行
やり方はいくつもあると思いますが、とりあえず「.htaccess」を利用して以下を記述。
AddType application/x-httpd-php .htm .html
■テンプレートをモジュール化
こちらのブログではサイドバーを別ファイルにしてます。(side.php)。
再構築が激早になりました。
MovableType幼稚園: MovableTypeのテンプレート・モジュールは便利
■スパム対策プラグイン「Akismet」導入
すんばらしいの評判名高いAkismetのプラグインをスパム対策に導入。いまんところ素晴しい仕事をしてくれています。
最強のスパムプラグイン「Akismet」をMovableTypeに導入する方法 – DesignWalker
何かしら徒然。ブログウォッチャーとか。
なんかとどめもなく羅列。
■ブログウォッチャー
僭越ながら副編集長の肩書きを頂いて協力させて頂いておりますブログウォッチャーにおきまして、先日「SHOOTI」がめでたくオープン。
名前の通り、ブログをウォッチすることができるのですが、「体験」をベースにした検索とかができたりします。「実際に行った人」の検索結果が重視されるので、普通のブログ検索とは違った検索結果になっておりますです。
あと、ブログのディレクトリ検索が個人的には面白いのではないかと。けんすうが鬼のように集めてきたマニアックなブログたち数百を閲覧することができます。
カレーばっかり食べてるブログやレゴのネタ専用ブログ、離婚調停のブログなど興味深いものがかなり多いです。
あと100人に聞きましたならぬ「100万人に聞きました」というコンテンツも遊んでくれると世界が平和になることと存じ上げます。
ちょっと見ていただけると凄く嬉しいです。
体験検索:SHOOTI(シューティ)/ブログ、クチコミ、レビュー、体験談のポータルサイト
■ヤマチョイ
先日、音楽会議で毎度のごとくスタッフをしておりましたら、須田さんに再会することができました。
そこでヤマチョイというサイトを教えてもらいました。名前の通り、ヤマがチョイっとするサイトのようです(※ 違います)。
YAMAHAの中の方が作成する「YAMAHA非公式」サイトだそうで。音楽会議イベントの動画なども公開されていました。
よし、これで無事約束を果たすことができました!
■プリンター
先日、プリンターを買いまして。CanonのMP600を買ったのですが、かなり便利。
まずコピー機能があるので、もうコンビニにいかなくても大丈ブイ!
あと、両面印刷機能が凄い嬉しい。地球に優しい気持ちになれる。18000円くらいで購入。
電化製品としてはScanSnap(スキャンスナップ)以来の大ヒットでした。
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■学生さん
先日、学生さんとかを激烈募集中していた件の第一回キックオフをやっとできました。ありがとうございました。
■実践Web2.0 BOOK
けんすうやあきやんが本を上梓されたようです。人気ブロガーが手取り足取り腰とり直伝してくれるそうです。おめでとうございます!
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■
なんか他にももっと書きたいことあった気がするのだけど・・・。とりあえず。
美しい文章
綺麗な文章に憧れがある。
どうしても自分のライティングは思いつくままに書いてしまうので論理的な意味でも、修辞的な意味でも、伏線的な意味でも、まったく美しくない。ただ美しさについて語ることは許してほしい。
美しい文章とはどういうものか?いろいろな種類はあると思う。
UIの部分でいれば、見出しやインデントやリストや改行を適切に使っているという美しさがある。
論理的なところで言えば、誰かを例示するまでもなく、ゆるぎなく美しいなピラミッド構成を作り出す魔術師たちがいる。
修辞的なところで言えば、個人的には塩野七生さんや開高健さん、芥川氏などが好きだ(反論はかなりあるだろうけれども主観で言えば)。
小説としての構成で言うならばやはり伊坂 幸太郎氏やポールオースターなんかは美しいと思う(これも極度の主観による偏見あり)。
文章のリズムなら村上龍や町田康なんかは素晴しい。
ともあれ。
ブログでも名前は敢えて挙げないけれど「なんて美しい文章を書くんだ」といつもうっとりする人がいる(有名な人ではなく友人で)。
さりとて、無理に今、美しさを分類してみたが、本来、このような美しさは分類不可能なものである。アンカウンタブルであり、ゲシュタルト形態のようなものである。
陳腐な比喩を使うならば、バラの美しさを客観的に記すことができないのと同じことだ。その色をRGBで説明して、鮮度や明度を記して、あるいは別の何かの引用して記したところで、そのバラの美しさは、写真1枚にかなうことはない。決して。
だからこそ、美しい文章が尊いものであり、そしてはかないことの理由なのだ。
よくできた文章や技巧が凝らされた文章は、ある程度の努力で身に付けることができる。それこそ「模倣」を続けていれば、いつしか近いものが生まれることになる。
しかし、美しい文章というのは上記のように文章化できないものであるゆえに、そう簡単に習得することはできない。
そして、同時に定理化が不可能ゆえに永続することもできない。いつしか美しい文章を書いていた人が、何かのピントがずれて、美しい文章をかけなくなったとしても、やはり、彼/彼女は美しかったころを取り戻すことはできない。なにがずれたのかわからないからだ。
よく使われるアイロニーを利用するならば、「何かが変わったのは明白だ。ただしよく変わったのか悪く変わったのかはわからない。」ようなことになる。
そして、厳密な意味での「美しい文章」も存在しえない。なぜなら、美しさというのはそれ自体が独立して存在しえるものではないからだ。
美しいという形容詞は、第三者による主観によって初めて付与されるラベルなのだ。そのため、「美しさ」というのは、必ず、常に誰かに寄りかかった形容詞である定め。
バラは名前がバラでなくとも美しいが、バラを見る者がいなければ美しくはないのだ。
そう考えると、誰しもが評価しえる美しさというものは原理的に存在しえないことになる(あるいは、反証可能性のレイヤーにおいては、近似値の完全な美しさを出すことは可能だが、それは仮説でしかない)。
しかしさりとてポイントは別のところにある。それは、美しさが存在しなくとも、美しさを目指すプロセスは存在しうるということだ。
よく言われる言葉に「完璧を目指すな。そんなものないから」という批難がある。しかし、それはある意味正しく、ある意味間違っている。
完璧は存在しえないのは事実かも知れない(それの判断は留保)。しかし、完璧にいたる道筋(正確にはいたるではなく、目指す)は存在しえる。
そのプロセスことが重要なのだ。それを証明するのが故人たちの遺業であり、その結果生まれたのが科学の進歩なのだ。
13次元の宇宙なんて存在しえないかもしれない。しかし、それを明らかにしようとする試みは決してナンセンスではない。あるいは話を少しずらした比喩を使うならば、神が存在するかどうかは問題ではなく、信じるか信じないかが問題なのだ。
そう考えると、美しさというものは手に届かないゆえに、逆にそのプロセスを深遠化し、広大化させてくれている。
「高嶺の花」は、恋人にするのではなく外から眺めている方が幸せなように、美しい文章とはそういう相対的な存在として、この世に欠かせない恋人なのだ。
サハラ砂漠と続き
さて前回の続き。アフリカはサハラ砂漠。
まず、私はカサブランカからサハラ砂漠の基点であるダクラへ向かう。途中でマラケシュやクスクスを食す。もう飽き飽きとするバスの旅。風景は美しく姿を変え、自然の偉大さを教えてくれるけれども、いささか居心地が悪すぎるバスの中では、そうそう景色を24時間眺めていられない。
そもそも、窓の外は砂。砂。砂。たまに遺跡とたまに町。そんな飽くなき灼熱のバスは一路ダクラへ向かうのだ。
ダクラで何をするかというと、サハラ砂漠を渡るランドクルーザーをチャーターしなければならない。そもそも旅行者は、そんなところ渡らないので一般ルートは存在しない。しかし、現地の人々のルートがある。それがランクルなのだ。
問題は、どこで、誰に借りれるかわからない、という問題がある。そんな時、参考になるのが「旅行者ノート」だ。世界中の宿に散らばった旅行者たちのメモ書き。そこにたった1行でも記されている情報が我が身を助けることになる。
今回は事前に仕入れていた情報で、ダクラのあるカフェのオヤジがランクルのエージェントだという話を聞いていた。そこで、ダクラにまず宿を取り、そのカフェを探す。いくら町とはいえ小さな町。歩いて探すのは難しくない。しかし、問題なのは店の名前が書かれていなかったり、地図がないという問題だ。それでも、人に聞きながら、我々はその「おっさん」を確保。翌日のランドクルーザーに乗せてもらうことが決まった。
宿でゴロゴロしていると、宿のおっさんがドアを叩く。魚を食うからお前も来い、ということらしい。このような唐突な誘いはアフリカで数多く体験する。やはり、アフリカは旅行者が少ないから、珍しがられるのだろうか。もっとも、中東でも比較的多く経験した気がする(とくにパレスチナ)。
宿の屋上にあがると、なんの魚かわからない肴がパチパチと焼かれていた。そこに集う従業員達数人。腹痛の恐れがあるものの、腹が減っていたので魚を食べる。手でむさぼりくったその魚の上手いこと。宿のオヤジはアラビア語しか喋れなかったので(確か)コミュニケーションは困難だったが、なんだか思い出に残る夜だった。
そして、翌朝、集合場所へ向かう。
ランドクルーザーには、他に乗るのは現地のおばさん4人。2列のシートにおばさん4人と私。それだけだったらまだいい。その子供達が3人だか4人だか。そして特筆すべきは、そのおばさんたちの体格は常人の3倍ほどの容積を満たす。
つまり、6人がけのシートに16人だか17人だか座っているようなものなのだ(記憶違いだったらごめんなさい。でもこんなかんじだった)。ラッシュ時の山の手線もびっくりの混み具合。それに2泊3日を共にするのだ。しかも共通言語はフランス語(その時は)。
そして、現地人の荷物はもはや2階建ての建物に匹敵するほどの大きさとなり屋根を覆う。そんなこんなで巨大なクッパのようなランクルは、いざ、砂漠をかけることになる。
さて、サハラ砂漠。季節は夏。想像を絶する暑さ。当然、水は即効でなくなる。事前に用意したペットボトル3本もすぐに消化。そこで、やさしげな同行者(現地のおばさん)が水をくれた。おばさんと間接キッスのペットボトル。そんなことにひるんでいてはいけない。一番ヘビーな水は、スーダンで飲んだ路上のカメに入った水だった。ぼうふらがいてもおかしくない水を平気でがぶがぶ飲んでいた気がする。落ちていたペットボトルを半分に切った入れ物で汲み取って。それほどスーダンの砂漠は過酷だった。
あと水で思い出すのは、マリの電車で売られていた水だ。ガキたちが小遣い稼ぎに水を売りに来る。値段は市場の1/10ほど。なぜなら、その水とは水道水。それを拾ったペットボトルに入れて売っているのだ。ただし、それは凍っているので、なかなかうまい。最初は気付かず飲んでいて、案の定、死ぬほど腹を下したが、マリの2泊3日の旅が終わるころには、もう水で腹を下すことはなくなっていた。
まぁいいや。で、サハラ砂漠で何が大変かというと、まずはトイレ。まぁ砂漠に立ちション。大はひたすら我慢。そして、次に食事。最初から仕入れてきたフランスパンをちょっとづつ食す。あとはひたすらキチガイ馬車のように揺れ続けるランクルの中で頭を立てゆれしまくること数十時間。
夜は、他のランクルとコンボイを組む。なぜなら迷子になると死ぬからだ。また、すぐ砂漠に埋もれてスタックしてしまうため、他の車なしで走るのは自殺行為に近い。サハラ砂漠には無数の地雷が埋まっている。こちらには単なる砂にしか見えなくとも、そこには道があり、それをそれると現地人でも迷子になる。
案の定、20回くらいのスタックを繰り返し、ランクルはある場所に泊まった。どうやらそこは休息地点らしい。トタン屋根で出来たバーが1軒だけ砂漠のど真ん中に立っていた。それはそれは幻想的な世界だった。周りは砂漠しかない風景で、空には月が我々を照らす。そこでただ、ぽつんとある小さなバー。缶詰や牛乳パックしか置いていないけれど。残念ながらアルコールはない。
それでも、そんな幻想的なバーの前で、運転手や僕たちは、大の字になって砂漠の上で寝た。
そんなこんなで無事、モーリタニアのヌアクショットに到着。疲労困憊で、大事件が発生。到着したところで運転手が「チャーター金を払え」という。しかし、私はすでに乗る時点で払っていたために喧嘩になる。あとでわかったことだが、これは完全なる詐欺。しかし、非常にうまい具合にコンビネーションを組んでいて領収書さえも切らせない仕組みになっていた。パスポートを預けているので、逃げることも出来ない。
で、まぁ、大喧嘩。現地の警察ですったもんだで、とりあえず勝利。何が大変って警察が英語を喋られないからこちらの弁明ができない。しょうがないので、いろんな言語を織り交ぜながら陳述。ひたすら集まってくる暇人警察20人。ただ、その1人がスペイン語を喋れたので、まぁそれで助かった、という話。あのときほどスペイン語が喋れてよかったということはなかった。
こう書けばなかなか素敵なサハラ砂漠。でも実際は、もう散々だった。本も読むことができず、喉がからっからに乾いて、トイレもいけない状態で、腹も空腹で、そして山手線を越えた混み具合に3日間。なんど意識が飛んだかわからない。しかもはしり続けてくれたらいいのに、何回スタックしたか。もう2度とあそこにはさすがにいきたくないなぁ、と。まったくもってオススメしない。ただ、その砂漠のバーだけはもう1度くらい行きたいなぁ、と思うけれど。それだけを見るためには行く価値があるかもしれない。あんな幻想的な場所は、この26年間の生涯であそこしか思いつかない。