意思決定してきた数

最近、「経営陣(VPとか)」に求められる要素は(それがなんであれ)、どのように得ることができるかという話を聞いて。

1つは「意思決定してきた数ではないか」というものがあった。

つまり、いままで数多くの失敗、成功の意思決定をしてきたので、「どういうところに気をつけないといけないか」といったマイナス面のヘッジもできるし、また「これだとこういう着地するだろうな」と予測もできる。

そのようなものは経験を経ないとわからないものである。もちろん本を読んだり、人から話を聞いて、様々なサンプルデータを集めることはできるが、ただ、その意思決定には、ありとあらゆる要素が関係してくるので、そう簡単には定理化できない。

その意思決定自体がどのようなものか、それの環境、それに関連する人、それの意思決定の責任者、市場環境などなど、主要なものだけでも10以上、細かいのも入れれば、数百、数千ものパラメーターが存在するだろう。ゆえに、「勝ちパターン」は出しにくい。特に会社によってカルチャーや関係者が異なれば、勝ちパターンが変わることもかなり多い。

Googleの方法が日本の大企業には当てはまらないのと同じで。

昔「なぜ、日本は年功序列で、年齢が上にいく人が給料があがるのだろう」と思っていた。1つは、年齢があがるごとにスキルが身につくからだと思っていた。ただ、この世の中では、必ずしも経験とスキルが比例するわけではない。役職者になるからという道理もあるが、役職者でないパターンもあるだろう。

そう考えた時、「意思決定の数が、その人のアウトプットの精度を高める」という前提があれば、年功序列も納得がいく。年齢が上(=経験が多い)の方が、意思決定の数は多いことが多いからだ。

ゆえに、数多の本では、「権限委譲をしろ」「失敗をさせることも糧」といわれているのは、こういうモデルがあるからかな。ちなみに、最近、ユニクロの柳井さんの以下のような言葉を聞いた。

「部下が提案した案が、自分の思いついた案よりも少しだけ悪いくらいならば、部下の案を採用せよ」と。これはマネージメントの意味合いでもあるし、あるいは、「自分の案を絶対基準にしない」という効用もあると思われる。そして、その不確実な部分こそが組織としてスケールする伸びしろになるのかも。Amazonの「disagree and Commit」の方針にも近い部分もあるかもしれない。

amazon payを使おうとしたら「3rd party cookie」の問題でひっかかった

BASE FOODをかってみようかと思い、決済画面へ。Amazon payが使えるとみて「こりゃ便利!」と。

しかし「3rd party cookieが無効になってるから使えません」というエラーが。ブラウザ上のエラー画面から、許可して再読込しても解決せず。

手動で、そのドメインを打ち込んでも解決せず。

↑しょうがなく、設定画面から「3rd party をブロックしない」という設定に。

すると、Amazon payの問題はクリア。今後、これにひっかかる人ふえそうな印象。

僕らはスタバで生まれ育った

ノイズキャンセリングのヘッドホンなどが数年前から人気だ。会社でも、普通にそれらをつけている人が増えた。

ノイズキャンセリングとは名前の通り「騒音がない」イヤホンである。ぱっと聞くと「耳栓のこと?」と思い浮かぶが、効用としてはそれが近い。騒音が消えるのだから。

ただ、仕組みは耳栓とは大きく異なる。耳栓は、耳に詰め物をして、外からの音が入ってこないようにする仕組みだ。

ノイズキャンセリングは、音を出して騒音を消す。具体的には、こうだ。まず、音は波だ。すなわち、あがっている波に下がっている波がぶつかれば、波が消える。+とマイナスがぶつかって0になるように。この波の仕組みを利用している。

ノイズキャンセリングは、外から入ってきた音を認識して、それと逆の波を発信し、音をぶつけて騒音を消し去っている。いわば、ノイズキャンセリングは、騒音と逆の音を出しているのに、それが無音を生み出している。

音を出して音を消す。まるで禅問答のようだ。

ただ、「無音」よりも、少しの騒音の方が人はリラックスできる人もいるという。会社の人でも「カフェの騒音を録音したYouTube動画を聞いている」という人もいれば「テレビの砂嵐の音を聞いている」という人までいた。母数が6人の中で。「テレビの砂嵐を見る」というのは、昭和における「エッチなビデオを見ていたら、急に子供が起きてきて、慌てて消したから残っているテレビの砂嵐」の比喩表現だと思っていたのだが、現代では、実際にその音を心地よいと思う人がいるらしい。

あとカフェの音は、個々人の音声が漏れているので個人情報はどうなるのかは気になった。売られているものならば、ダミー音声だろうが、実際に録音されている音もあるようだ。うかつに外で人の話できないな。将来、声紋検索ができるようになったら、自分がどこかで喋っている声がアップロードされていたら、気づけるんじゃないかとか。

音といえば、「うみやまあひだ」という動画を以前、先輩に教えてもらったことがあるのだが、そこでのエピソードが興味ふかかった。

人間が知覚できない音の領域がある。たとえば、スーパーソニックサウンドで、いわく「可聴域を超える周波数成分を持った音」。しかし、この音が人には心地よいという。ただ耳では認識できない音なので、肌で感じるというのだ。人は音を耳で聞くだけにあらず。肌で聞く。ゆえにフェスのウーハーや、まつりの太鼓が気持ち良いのかもしれない。

そのスーパーソニックサウンドはアマゾンの奥地で最もきけるという。そして、それが日本でもっとも聞けるのが、伊勢神宮
だという。パワースポットと言われていることに科学的説明がつけられるようになった。

人間がこの音を心地よいと思うのは、やはり地球は昔は山林で、その中で生まれ育ったからなのかもしらんなー。いま、僕たちがカフェの雑音が気持ち良いと思うのも、僕たちは、スタバで生まれ育ったからかもしらん

少子高齢化の社会で投票はワークし続けるのかとかとか

先程の投稿でも書いた「年金」の仕組みにふと思いをはせたり、こないだ名著、サンクチュアリを5度目くらいに読み返していて、さらにいえば、「ハウス・オブ・カード」もみていて、頭が少し政治脳

いまの民主主義制度の仕組みである投票は、原則、「未来は明るい」前提になりたっている制度なのではないかと思った。つまり、人口は増え続ける前提にたっているのではないかと。

なぜなら、いまの日本のような逆ピラミッドの場合、投票で反映されるのは(ひとしく全員が投票するとした場合)、上の世代の民意である。上の世代は、経済学の前提である「合理的人間」を前提にすれば、「死ぬまでに逃げ切ればいい」というモチベーションになるので、「年金のあと送りは嫌だし、社会保障は増やして欲しいし、若い世代の税金は多くしてほしい」というようになる。つまり若い世代に負担をかける仕組みになりやすい。そして、それは「いまだけがよければいい」という仕組みになる傾向にある。これは、「そうなっている」というのではなく、「自分の利益を最大化する」という制度を取り入れるならば、そうなるだろう、という話である。

逆に、人口が増え続けるなら、若い世代の民意が反映されるから、「未来を考えたもの」になる上に、「若い世代のその利益は、次の世代に渡される」ということなので、利益はバトンパスされていく。上の世代にふっかけた負担はいずれ自分たちがかぶることになる。それはそれでうまくバランスが効く結果となる。

日本のこの少子高齢化の社会では、この「民主主義」が国の制度を壊す仕組みになるんではないかなぁとかつれづれに思って(さらにいえば、世界は、いずれ、どこかで人口が頭打ちになると仮定すれば、世界中で起こる問題になるんじゃないかなぁとか)。別に日本の批判をしたいのではなく、制度のバグとして。

そんなことを考えていたら、「若い世代の票の重みを増やす」という投票の仕組み(いわば、年代別の一票の格差是正)が必要なんじゃないか。大学時代でそんなの習ったかな、と思って、検索したら、まさにそのような論文を発見

»「余命投票方式」の移行可能性に関する一考察

「現行の投票方式」から「余命投票方式」に移行できた場合、政治的意思決定の時間的視野が
長くなることから、政府投資割合は増加し、勤労世代や将来世代の効用が改善する可能性
があることが分かった

おー。やはり〜。

※ねんためですが、上記の所感は、いまの与党どうこうや上記の社会方針をどこかの政党に重ねる意図はない

60年はたらく時代

年金受給年度の繰り上げが検討されている

»厚労省:年金受給開始の繰り下げ試算 月10万円増も – 毎日新聞

私たちが年金をもらう頃には、70歳が当たり前になり、場合によっては80歳になっていることもあるかもしれない。寿命が伸びれば、その分だけ年金が必要になり、バランスをとるためには、受給を遅らせる必要がある。しかしながら、医療が発達し、健康度もあがれば、働ける年齢も長くなり、それにそって後倒しになるのは、合理的といえば合理的なのだろう。

ただ、年齢があがったとて、世の中にそれに応じて必要な仕事が増えるわけではない。IT企業が若者が主軸なように、新しい産業には若い力が求められる。仮にIT企業で考えた場合、今後、ある程度、平均年齢はあがったとて、70歳や80歳が主力であることは少ないだろう。特に、IT企業などの新興企業は旧来の事業よりも栄枯盛衰が激しい。現時点では、その人のスキル以外に、「長くその会社にいる」ということが力を持つ場合もあるが(例:誰に何を頼めばいいかわかる、その会社のルールに従って事業をすすめる)、それも意味を持たなくなる。また少子高齢化を考えると、いままで成り立っていた「若い労働力を安く使う」という仕組みも破綻していく。

ましてや終身雇用は終了し、会社の雇用の方針も代わり、流動性はますます高くなる。

そう考えると、多くの人たちにとって、「その会社でずっと働ける」という選択肢はなくなり、常に、自分の市場価値が求められることになる。経験がそのまま価値に紐付けられていればいいが、同時に加齢とともに革新性などは失われるので、それを埋め合わせる必要もある。

そう考えると、一般的には、これからの日本で働くひとたちは、どこかの年齢を分水嶺にして、「いまよりは給料が下がる」という分岐がくる。ずっと右肩あがりで給料があがるような仕組みは、上記を元に考えると、なかなか成り立ちにくいからだ。

回避するには
・上記の通り、衰えゆく基本能力を埋め合わせる以上の経験を積む
・海外など、市場自体が盛り上がっている市場に戦いの場を移す
・副業など、働く時間を増やす
・お金の現在価値を生かして、いまもっている資金を資産運用にまわして、それを武器にする
くらいだろう。

もっとも、AIが普及し、ベーシックインカム的なものが普及すれば、それはそれで別のランドスケープがあるかもしれないが、それはベストシナリオとしてとっておくべきだ。

もちろんこれらはすでに各種の議論や本で述べられていることに目新しさはない。ただ、実際に、「20歳から80歳まで60年働く」ということを前提に、働いている人は少ないように思う。

もし、それを前提にするならば、経験と効用が比例しやすいスキルを選ぶべき(例:10年で、そのスキルが最高になってしまうような職業だと、50年間は給料があがらないということになる)だが、そうもあまり見えない。AIでなくなってしまう仕事が数多く議論されているが、それの多くは実際に起こることだろう。ネットが登場してここまで普及したように、あるいはモバイルの歴史でもいい。テクノロジーの進化はおうおうにして1次関数で進む。つまり、偶発的な革命ではなく、じっくりちゃんと起こっていく。そう考えると、その産業にいる人たちは、今の痛みを覚悟してでも、60年労働社会を見据えて、キャリアを選んだ方がいい。もっとも家庭の問題や、いまの就職事情がそんな簡単ではないので、安いことではないだろう。とはいえ、それと引き換えに、「20年後、なくなるかもしれない産業に、あと60年働き続ける」というワーストシナリオは覚悟する必要がある。

30年後、その仕事が、「蒸気機関車のかま焚き」のように今は消えてしまった職業になる恐れは、いまの時代、どの産業にもあるのかもしれない。逆に考えれば、2000年前からある、「語り部(占い師)」「銭湯屋」「風俗」なんかは、今後、1000年たってもあるかもしれないが。

そんなことを、このニュースをみておもつた

ハウス・オブ・カードを見てる

数年前から話題のNetflixのオリジナルコンテンツ「ハウス・オブ・カード」を今更見ているのだが、もういろいろすごい。まだ第二章の途中だけれど、第一章の後半から物語の厚みがどんどんましていく。シーズン6を、ケビン・スペイシーなしでどこまで実現できるかが話題になっているが、それ抜きでも面白すぎる。

ドストエフスキーの超大ドラマのようだ。

ありとあらゆる人が絶賛している中で、いまさら私が語るのも凡庸だが、さりとて世の中は野暮にあふれているので、1つ野暮が増えたところで問題もあるまい。

単なる政治の権力闘争のテーマに思えるが、これは人間ドラマである。

人は尊厳を傷つけられた時にどうするか
功利主義のリアル(これはフィクションだが、、)
権力というものは何か。金、プライド、幸せ、いろんなものがこの物語で巻き込まれる
などなど、多くのテーマが盛り込まれている。

もっともそれだけなら他のドラマでもありえることだろう。しかし、削ぎ落とされたセリフもかっこ良さも含めて、飽きのこない物語のテンポは、なかなか他で見ない。さすがのデヴィッド・フィンチャー。

ただ2回目、直したいかでいうと、なかなか鋭利すぎるドラマなので、胸焼けは起きそうだけれど。

時は金なり?

せっかちだ、という言われることが多く。

今日、たまたま「いつからそんなのなんですか」と聞かれて、思い返したら、高校生くらいの頃から、時間の価値に関してはこだわりがあったかもしれない。

高校生の頃から、速読と短眠の本はかなり読んでいて。ただ、それって「天才でないならば、努力でカバーするしかない。努力でカバーできるのは時間を効率的に使うことだ」みたいな考えがあったように思う。実際受験のころは3時間睡眠だった。

そんなことをおもいかえしていたら、ふと、思い出した風景があった。小学生低学年の頃にみた習字の大会で。その時の習字のテーマは「時は金なり」だった。その時にいっしょにいたおばあちゃんが「時間はとっても大切なんだよ(平たく言えば)」というようなことをいってくれて。それにとても感銘を受けた覚えがある。

ただ、そういう効率性の弊害というのもあって。

最近の研究で睡眠は、効率と反比例するというデータがたくさんでているので、データ好きとしては、それにのっとって睡眠改革をしている。

あと効率性を失うと、笑顔も失われていくような気がしていて。ゆえに、効率性重視はやめようかなと。吉本 隆明のいう”転向”ってやつだな

ただ、「時は金」というのは事実だとすれば、昨今、メディアでいわれている「高所得者により多くの税金を」という論説に別の切り口も見えてくる。仮に、高所得者が、自分の時間を削って、お金を得ているなら、その人はお金を得ている代わりに時間をなくしている。そして、時間は金だ。ゆえに、そこでは「時間を失うかわりにお金を減る」という等号がなりたっている。もちろん、時間を失わずにお金を得ている人も多いのだろうけど。ただ、もしそういうケースがあるなら、時間もなくなっている人に税金をかけてお金もなくすのって、不平等な気がしなくもなかったりする。

とはいえ、こんなの極論ではありますが、思考実験としてふとそんなこと思いました。時は金なり、というのは、昭和の言葉なのかしら、とかとか。

上原隆さんと限界芸術

僕の大好きな作家(ノンフィクション作家)の1人が、上原隆さん。

代表作は以下とか。

»友がみな我よりえらく見える日は (幻冬舎アウトロー文庫)

市井の人たちが「絶望した時に、どう立ち上がるか」を丹念に取材して、研ぎ澄まされた文章で記している人だ。今回の記事では以下のように引用されている。

困難に直面し、つらい状態に追い込まれると突然、体に蓄積された子どもの頃の考えや感じ方が噴出する。そしてそれが知識より何よりその場の自分を支える強い力となる場合がある。

今回でノンフィクションコラムを引退ということで悲しい。しかし、永遠たるものなんてないのでしょうがないのでしょうね。

»ノンフィクション・コラムの名手が紡ぐ「グッとくる言葉」の舞台裏(上原隆インタビュー)<こころ傷んでたえがたき日に>清田隆之(桃山商事) – 幻冬舎plus

»自分が砂粒のような存在に思えたとき、人はどのように自分を支えるのか?(上原隆インタビュー)<こころ傷んでたえがたき日に>清田隆之(桃山商事) – 幻冬舎plus

最近、はてなの匿名ダイアリーがこの限界芸術(生活の中で人々の美意識が生み出すもの)の代替をしてるんじゃないかとさえも思ってきたよ。そこには人のリアルがあるわね

たとえば、以下とか

»増田文学100選

あとpato氏の神がかった文章とか

»僕らは1UPキノコなんていらなかった|Pato | Dybe!

»Yahoo!チャットって場所があったんだよ

»職場で「わたしのコンソメスープ」という意味不明コラムを書かされた時のこと。 | Books&Apps

あと加藤はいねさんの文章力は、もはやアート。

»オッケー、キリスト。ところで、あたしの誕生日の話も聞いとく? – 私の時代は終わった。

健康改革という趣味

いままで、あまり身体に意見をきいたことはなかった。

身体は僕の脳の支配下にあり、おおよそはコントロールできた。それはどういうことか。

身体の状態によって、食べ物や睡眠を左右されることはなかったのだ。よく言われるように「体調悪いからお粥がいい」ということや「最近、疲れているから寝たい」といったことが、僕にはほとんどなかった。朝からカツ丼も食えたし、毎日、3時間睡眠を一週間くらい続けてもなんとかなった(さすがにダメージはあるが)。

ゆえに、しんどい、疲れた、などは「甘え」でしかないと思った。意思さえあれば、身体の欲しいものさえもコントロールできる。そのように思っていた。

そういう考えが変わったのは、昨年からだ。明確に変わった。ないし、変えた。

身体のコンディションを最優先するようになった。それは、「おじさん化」というようなものとは少し違う。いまでもジャンクは食べれるし、眠らなくても戦える。ただ、コンディションを整えた方がパフォーマンスが違うという状態になったからだ。

いままではかなり無茶しても、パフォーマンスに相関関係はそこまでなかった。しかし、30の後半になり、ようやくそこに相関が生じ始めた。いわば、今まで身体の体力がかなりあったのだが、実際のところ、それは少なくなってきたのだろう。そのため、身体の調子をあわせないと、意思だけでは身体がついてこなくなった。

例えば、食べ物が変わった。食べ物にはあまり頓着しない方だった。それは食べ物に興味がないというよりも、食べる時間を圧縮したいので、なにか特別なものを食べるために、店を探したり、準備したりする方の優先度が下がってきたからだった。

昨今は、食べ物の優先度があがってきた。それは、グルメになったというわけではない。身体に良い食べ物を身体が求めるようになってきた。たとえば、ポテトチップスのようなジャンクやファーストフードのポテトの油のようなものは身体が避けるようになってきた。コンビニの防腐剤なんて最たるものだ。昔はそのようなものを避けるという傾向だったのだが、最近は、しいて身体に良いものを食べるようになってきた。良い食材や下手な調味料などを使っていない食事へと。

昨年、体調を崩したことがあった。その時に回復してから食べたのは、「優しいもの」ではなく「食材がちゃんとしていて、ちゃんと調理したもの」だった。ゆえに近所の和食屋から自分の直感に会う店を探すことになった。

友人が「週末はデトックスするからお酒を飲まない。火鍋とかで身体を整える」といっていたのをピンときていなかったのだが、今は理解できる。肝臓は休めたいし、週末は野菜などを食べて、身体をしっとりさせたい。世の中の人には当たり前なのだろう。そういう本や雑誌は溢れているし、休肝日を作るのが普通だからだ。ただ、私はいままでそんなこと気にする必要なかったのだ。

睡眠も変わった。最近、強い意思をもって睡眠改革をしている。いままで、寝るのはひどいと6時で起きるのが9時だった。早くても3時だった。しかし、いまは12時までに寝るというライフサイクルに矯正中である(まだ数週間だが、、、)。

やはり、いろんな文献や他の人の話を効くと、「睡眠が大事」ということがデータとして理解してきた。また寝ていない時のパフォーマンス低下が自分でもわかるようになった(ミスが増える)。

高校生の頃から、短眠の本を貪り読んでいた自分にとってはかなりのチャレンジだ。まるでダイエットなみの強い意思を必要とする。今まで「起きている時間は全部仕事する」というスタンスだったのを「仕事が残っていても寝る」に変えるのだ。「お腹空いているのに、ご飯我慢する」と同じ意味を持つことが理解できよう。

音楽でさえも趣味が変わった。体調がよくない時は歌詞のない音楽を効くようになった。それこそクラシックやジャズといったような。

あとは、週末は笑う動画や泣ける動画を見て、メンタルのデトックスもするようになった。

ということで今、健康改革に取り組み中である。これはこれでやりがいのある趣味になりそうだ。