ブログのコメントでで村上春樹の1Q84に関するリクエストを頂いたので、それについて。僭越ながら。
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いい作品。でもカタルシス1点減点
いやはや、ここ10日以内にも4人くらいと1Q84の話が出た記憶があり、やはり、まだある種の書籍は「話題の共通のマテリアル」としての価値を持っているんだなぁ、と改めて感じる。
そういう意味では、ドラゴンクエストの最新作やiPhoneなども、ある種のクラスターにおいては、十分の共通のマテリアル性があるのだろう。ニッチかもしれないし、あるいは、かなり限定された条件下においてかもしれないけれど。
さて、感想として、ネタバレをするかしないかで、書ける内容が非常に限定されるのだけれど、敢えてネタバレしない形で、あたり障りのない範囲で、うまく書いてみようと思う。ただ、全く事前情報知りたくない人はご注意(その箇所は※以後危険と記載しておきます)。書き終えてから見直しましたが、一応、未読の方でも問題ない構成にしたつもり。
結論から言えば、面白かった。それは、「村上春樹らしさが存分に出ている」という点において、という意味だけど。つまり、神の子やカフカあたりからの系譜とは少し異なった本流に少し回帰したという点では面白かったのではなかろうか。ただ、それではこの本が「ピンボール」や「ノルウェイ」のように、引っ越し先にも持って行きたい一冊かというと、結構悩むかもしれない。それこそポールオースターのムーンパレス(リヴァイアサンは永久書庫確定済み)か伊坂幸太郎の「死神(砂漠は永久書庫確定済み)」と同程度の良さだったように思う。むしろ、「走るときについて・・・」の方が再読可能性は高いような木はするけれど、それは私がマラソン好きだからだろう。
あ、あと他の人の話やWeb上の話でも出ているけど、これに続編があるとかないとか(ある方の可能性の方が高そうではあるけれど)。「1q84 続編 – Google 検索」などを見ると、さもありなん、とは思うけれど、個人的には、これはこれで完結していてもいいんじゃないのかなぁ、と思う。ただ、続きがあってもそれはそれで良いけど、なくてもまぁ、悪くないのではないか、と。理由としては、「続編<新刊」という指向性があるからというだけ。
ただ、残念ながら昔のように「熱狂」はできなかったのも事実である。ただ、それは物語の本質とは関係なく、私が年をとった(という表現で表すところの社会性だとか環境の変化)からであろうと思う。愛と幻想のファシズムのように翌日、何も手が着かなくなるということはないし「夜の果てまで」のように、読了後、誰かに電話をしたいという衝動に駆られることはないし、「ぼくは勉強ができない」のように翌日、学校への歩む速度が変わることもない。でも、それはそれでそういうものだ、と思うしかない種類のもので、きっとそれは1Q84は何も悪くない。
さて、やっと本題。
まず、小説をメタ分析してしまう1人としては、「過去の宗教関係者へのインタビューがこんな形で物語りになるのね」という意識だった。いや、彼が過去にオウム周りで取材をしている時に「これが血肉となった。時間はかかるが、いつか小説に云々」という話を大分前(7、8年近く前?)にしていたので「おお、こいう形でよみがえるのね」と参考になった。というのも、ブログを書いていて思うのだけれどこんな話を考える。たとえば、一緒の出来事を共有した人がいる。その人がブログでそれを書くとする。他の人もそれを書くする。自分がさらに書くとする。そうすると、当然ながら物語は3つ登場する。テーマは一緒だけれど、主観が異なれば、まったく違った文脈がそこに表れる。
それは勉強会などではある程度どこかに収斂するけれど、出来事やイベント/旅行といったかなり独自性(ないし、個人の指向性)が反映されるアクティビティにおいては、それらの見方はまったく異なる。そういう意味で、物語の再現性(正確にいうと、リメイク兼言語化)は、興味深いと思うのだ。他の小説家でもたとえば911事件を人それぞれに描いていたり、あるいは村上氏自身も神戸大震災をテーマに異なった物語をいくつも紡ぐように、人の立場が変われば、同じ出来事はまったく違う意味を持つ。以前、友人とお酒を飲んだ時に、「私が感じであろう視点で書く」という離れ業をしておられたことがあって、つまりは、相手は原田がどう感じたか?という点を推測して、同時にそこに自分を内包しながら再構成するという離れ業をしておられた。それは「立脚する視点に自分を含有するが、その立脚する主体も自分(つまり、相手の視点にたつ場合、相手の視点は自分の所作がどうであるか?という点の分析となるが、その分析対象が自分であるという点では、自分がどう思ったか?という点が含有されている)、という不確定性定理(先日の講演で久しぶりに聞いた)にも似た興味深い行為となるが、それはまた別のお話。さらに蛇足で言えば、最近読んだ「イニシエーション・ラブ (文春文庫)」の視点のズレを活用したトリックはそれで面白かったけど、かなり関係のない話。
いずれにせよ、そのような「出来事の文章化」は過去にも書いた「日常を非日常化」する行為でもある。つまり自分にとっては、「ありきたりの陳腐な日常」であっても、それを言語化し、そして、リメイクすれば、それは「非日常」として生まれ変わる。それはある種の儀式のようにも見えるし、ある種の精神安定効用でもある可能性だってある。
そのようなことを1q84を読みながら最初に感じた。あと、そのようなテクニックで言えば、「最初に暗示を提示して物語をすすめる」というテクニックも、わかりやすくて参考となった。つまり、違う例で言えば、最初に「僕は死んだ」といって始まる「ほたるの墓」のように、あるいは、タイタニックの「船に投げるネックレス」から始まる物語と同じように、最初に出したテーマに沿って伏線を回収しながら物語をすすめていくという流れは、(構造主義的観点から言えばベタかもしれないけれど)、やはり吸引力があるよな、と思う。
あとはサブカルチャーの使い方も素敵だった(蛇足続きだけど、ノルウェイで出てきたキュウリに海苔を巻いて醤油を付けて食べるという食べ物には感銘を受けて、学生時代、よく食べてた)。もう一つは、小説の作り方として「今のリアルの現実を少しずらした世界」の価値というものを改めて感じた一作だった。というのも、もしあなたが小説を書こうとする場合、どのようなものを書くだろうか?おそらく、自分の過去の延長や、あるいは、自分が夢見た世界あたりが多くなるのではなかろうか(推測なので違うかもしれない)。ただ、もう一つの虚構の作り方としては「現実でない世界をいかに創るか?」ということが重要であるようにも思う。というのも、上記の「日常を非日常化する」という点とも対となるのだが、「非日常を日常とする世界」がそこには生まれるからである。たとえば「魔法が使える世界(ハリーポッター)」「かかしがしゃべる世界(オーデュポンの祈り)」「人の心が読める(家族八景)」など、少しずれた世界(現実にはあり得ない設定)を書き出すことが、小説の新しい世界観を生み、それが小説としての礎となりうるからだ。そういう点では、この世界観は非常に参考になるものだった。
さて、本題に入ったつもりが、これっぽっちも本題に入ってなかったので、改めて本題に再突入する。
(※以後一応注意)
ポイントとしては、月である。この小説を彩る道具の一つだ。この月に関して書く。無鉄砲に書く。
先日、七夕だった。とあるお店(一応注釈:変なところではない)の人が「満月の七夕って19年に一回って知ってました?」と言った。へえ、と思った。なぜ「へえ」と思ったかというと、「何気ない七夕なのに19年に一度」という設定が付与されるだけで、とても価値のあるような日に思えるからだ。まぁ、これは今のマーケティングでは当たり前だけど、それでも、ふと知り合いの口から聞くと、何だか、その七夕の日がとても高尚のようなものに思える(とはいえ、何もしなかったけど、それはそれで別のお話)。
というのも、そのついその少し前の日、あまりにもくたびれて深夜前、過去の上司(近所にいると想定)に「お酒!」とメールをすると「珍しい。満月だからか」的に返事が返ってきて(他意はないと思われる)、「おお、月というのは、そういう力があるのかしら」と思った。どうでもいい補足情報だけど、文脈の説明をすると、実際、私はお酒が苦手なので自分から唐突にお酒を飲みに行こうということは、かなり稀。確かに、満月の日は犯罪が増えると聞くし、物語でも、狼男の話もご存じの通り。月は、何かしら人を左右するものなんだなぁ、と感じておった。
さすれば、ちょうど、その前後の日に「ムーンパレス」の話を聞いて、おお、月だ、と思った。説明しておくとムーンパレスは、ポールオースター巨匠を代表する(と原田が考える)一冊で、青春小説。このムーンパレスという名称はマンハッタンにある中華料理を指していて、直接、月の話はあまり出なかった気がするけれど、冒頭では、初めて人間が月に立ったというエピソードが重ねられており、やはり月の話が散らされて「何か」のモチーフとなっていた。
まず一回、月の話を置く。
次に、この物語の中で、「いつかどこかでその人と、ばったり町角で出会うかもしれない」という人がいた。つまり、過去に会ったことのある人がいて、その人はいまどこで何をしているかもわからない。調べようと思えば調べられたとしても、探さない。いわゆる「偶然の邂逅」を望んでいる。
いい話だ、と思った。
どこがいいかというと、「神様とダンス」している感じが良い感じだ。ここで言う神様というのは、「存在しないけれど、存在すると人が共同幻想を持つことが重要な意味を持つあがめ奉られる対象」である。
もしかすると会うかもしれない。会わないかもしれない。それがどうなるかは神様のさじ加減一つ。ただ、自分からアクションを起こす必要はない。失敗して傷つくこともない。ただ、会ったら自分に何かが起こるだろう、と心境を置く。つまりは、「世界が変わるかもしれない」というトリガーを日常に紛れさせておく。それによって日々が彩られるかもしれないし、あるいは、「いつかどこかで」物語が始まるのを待つことができるだろう。
個人的にも、便宜的には、偶発性に意味づけを付与することがあり、それは現代の処世術として非常に有効だ(だからこそ、スピリチュアルや宗教は常に存在する)。そして、その偶発性を事前に設定することは、上記の前提として、同時に有効である。
そこで考えた。
「自分がいつか再会したい」と思う人はいるだろうか、と。
もちろん、いるのはいるけれど、連絡先がわかる人だったり、あるいは、会うことがあるだろう、とわかっている人がメインだ。いまやSNSやGoogle先生を使えば、大抵のことは調べられる。
ただ、「いまその人がどこで何をしているか」を知らなくて「友人やツールなどを使ってもたどれない人」というのは、かなり少ない気がする。あるいは旅行先で出会った人などは、その範疇に入るかもしれない。いまでこそメールアドレスの交換はできるけれど、それでも旅先でメールアドレスを交換するのは、そうそうたやすくない。NYに留学している時に出会った友人の何人かは、もはや一生コンタクトができないだろう。そして名前を思いだそうにも、ファーストネームしか憶えていなかったり。そういう人と、いつか街角で再会するかも、と考えるのは、なかなか楽しい。
いつかどこかの街角で、というような。
というこの偶発性の物語。これが月の存在と絡まり、「偶発性を偶発性ではなくする物語」がそこに生まれている。そもそも、小説というものは恣意性があるだけでなく、「偶然が起こらなかった時の出来事は物語化されないのだから、物語化されている物語は全て偶発性が必然に起こる」というテーゼも内包され、そして、その偶発性が、「しかるべき設定」で説得力を持つことが重要となり、その点で、これは月と偶発性が綺麗に絡まり合った物語だな、と感じた。
そして、何より、この二つのテーマを出したのは、この二つが自分の世界とも絡み合っていたからだった。小説というものを娯楽とみるか、なにかの指針とみるかでその意味づけは異なるけれど、後者となった場合、この物語は「私にとってどのような価値があったか?」という基準で図られなければならない。そのような点で、この二つは非常に有意義な価値を持つことになる。
そして、何より、この本をこのようにブログのコンテンツ化できる、という点でも、この本は読む価値がある一冊だといえる。