先日、七夕だった。ツイッターなどでは、人々の願いがTLを賑わせた。
もし、自分だったら何を願うかな、と考え、いつもどおり、「世界中の人が死にませんように」という願いだな、ということにいきついた。
いつか物心ついてから、初詣にいった時やお盆で先祖の墓の前にたつと願いは「世界の人々が死なないように」だった。少なくとも小学校の頃からだから、30年近くだろう。もちろん例外もあり、家族の無病息災や誰かしらの不幸を避けるように、といった願いはその時々で合わせて願っていたけれど。しかし、「受験が受かるように」や「恋人ができるように」といった願いをした記憶はない。
なぜ、この願いに固執するか、という理由は思うにいくつかある。
一つは子供ながらに「自己中心的な願いがなんだかピンとこなかった」というのがある。なんだか自分のちからで実現するものは、自分でがんばりたかったのだろう、と思う。
もう1つは、「実現されないくらいのもの」がいいのではないかというものがある。これは言語化するのがなかなか難しいのだけれど。「世界平和」ではなく「世界の誰もしなない」というのがポイントな気がする。世界平和は実現されるかもしれない。しかし、世界の誰もが死なない、というのは、まぁ、なかなか起こりづらい。もっとも世界平和も同じくらいには難しいけれど。いわば極度の貧乏性なのかもしれない。自分の願いがかなってしまうと、それはまたどこかで帳尻があうように不幸なことが起こりうるんじゃないかといったような。特に何かの宗教的な意味合いではないけれど。とはいえ、名作映画「リアリティ・バイツ」におけるイーサンホークのセリフを借りれば「チョコバーは俺に借りがある」というように、世の中に借りをつくれば、また話は別かもしれない。
なんてどうでもいいことを七夕に思い出した