1Q84(基本ネタバレなし)

ブログのコメントでで村上春樹の1Q84に関するリクエストを頂いたので、それについて。僭越ながら。

1Q84 BOOK 1
1Q84 BOOK 1

posted with amazlet at 09.07.12
村上 春樹
新潮社
売り上げランキング: 8
おすすめ度の平均: 4.0

4 わかる、わからない、わからない、わかる、、、
5 わかりやすいしおもしろい
3 トカトントン
3 面白いが好きになれない。もっと説明すべきでは?
4 いい作品。でもカタルシス1点減点

いやはや、ここ10日以内にも4人くらいと1Q84の話が出た記憶があり、やはり、まだある種の書籍は「話題の共通のマテリアル」としての価値を持っているんだなぁ、と改めて感じる。
そういう意味では、ドラゴンクエストの最新作やiPhoneなども、ある種のクラスターにおいては、十分の共通のマテリアル性があるのだろう。ニッチかもしれないし、あるいは、かなり限定された条件下においてかもしれないけれど。
さて、感想として、ネタバレをするかしないかで、書ける内容が非常に限定されるのだけれど、敢えてネタバレしない形で、あたり障りのない範囲で、うまく書いてみようと思う。ただ、全く事前情報知りたくない人はご注意(その箇所は※以後危険と記載しておきます)。書き終えてから見直しましたが、一応、未読の方でも問題ない構成にしたつもり。
結論から言えば、面白かった。それは、「村上春樹らしさが存分に出ている」という点において、という意味だけど。つまり、神の子やカフカあたりからの系譜とは少し異なった本流に少し回帰したという点では面白かったのではなかろうか。ただ、それではこの本が「ピンボール」や「ノルウェイ」のように、引っ越し先にも持って行きたい一冊かというと、結構悩むかもしれない。それこそポールオースターのムーンパレス(リヴァイアサンは永久書庫確定済み)か伊坂幸太郎の「死神(砂漠は永久書庫確定済み)」と同程度の良さだったように思う。むしろ、「走るときについて・・・」の方が再読可能性は高いような木はするけれど、それは私がマラソン好きだからだろう。
あ、あと他の人の話やWeb上の話でも出ているけど、これに続編があるとかないとか(ある方の可能性の方が高そうではあるけれど)。「1q84 続編 – Google 検索」などを見ると、さもありなん、とは思うけれど、個人的には、これはこれで完結していてもいいんじゃないのかなぁ、と思う。ただ、続きがあってもそれはそれで良いけど、なくてもまぁ、悪くないのではないか、と。理由としては、「続編<新刊」という指向性があるからというだけ。
ただ、残念ながら昔のように「熱狂」はできなかったのも事実である。ただ、それは物語の本質とは関係なく、私が年をとった(という表現で表すところの社会性だとか環境の変化)からであろうと思う。愛と幻想のファシズムのように翌日、何も手が着かなくなるということはないし「夜の果てまで」のように、読了後、誰かに電話をしたいという衝動に駆られることはないし、「ぼくは勉強ができない」のように翌日、学校への歩む速度が変わることもない。でも、それはそれでそういうものだ、と思うしかない種類のもので、きっとそれは1Q84は何も悪くない。
さて、やっと本題。
まず、小説をメタ分析してしまう1人としては、「過去の宗教関係者へのインタビューがこんな形で物語りになるのね」という意識だった。いや、彼が過去にオウム周りで取材をしている時に「これが血肉となった。時間はかかるが、いつか小説に云々」という話を大分前(7、8年近く前?)にしていたので「おお、こいう形でよみがえるのね」と参考になった。というのも、ブログを書いていて思うのだけれどこんな話を考える。たとえば、一緒の出来事を共有した人がいる。その人がブログでそれを書くとする。他の人もそれを書くする。自分がさらに書くとする。そうすると、当然ながら物語は3つ登場する。テーマは一緒だけれど、主観が異なれば、まったく違った文脈がそこに表れる。
それは勉強会などではある程度どこかに収斂するけれど、出来事やイベント/旅行といったかなり独自性(ないし、個人の指向性)が反映されるアクティビティにおいては、それらの見方はまったく異なる。そういう意味で、物語の再現性(正確にいうと、リメイク兼言語化)は、興味深いと思うのだ。他の小説家でもたとえば911事件を人それぞれに描いていたり、あるいは村上氏自身も神戸大震災をテーマに異なった物語をいくつも紡ぐように、人の立場が変われば、同じ出来事はまったく違う意味を持つ。以前、友人とお酒を飲んだ時に、「私が感じであろう視点で書く」という離れ業をしておられたことがあって、つまりは、相手は原田がどう感じたか?という点を推測して、同時にそこに自分を内包しながら再構成するという離れ業をしておられた。それは「立脚する視点に自分を含有するが、その立脚する主体も自分(つまり、相手の視点にたつ場合、相手の視点は自分の所作がどうであるか?という点の分析となるが、その分析対象が自分であるという点では、自分がどう思ったか?という点が含有されている)、という不確定性定理(先日の講演で久しぶりに聞いた)にも似た興味深い行為となるが、それはまた別のお話。さらに蛇足で言えば、最近読んだ「イニシエーション・ラブ (文春文庫)」の視点のズレを活用したトリックはそれで面白かったけど、かなり関係のない話。
いずれにせよ、そのような「出来事の文章化」は過去にも書いた「日常を非日常化」する行為でもある。つまり自分にとっては、「ありきたりの陳腐な日常」であっても、それを言語化し、そして、リメイクすれば、それは「非日常」として生まれ変わる。それはある種の儀式のようにも見えるし、ある種の精神安定効用でもある可能性だってある。
そのようなことを1q84を読みながら最初に感じた。あと、そのようなテクニックで言えば、「最初に暗示を提示して物語をすすめる」というテクニックも、わかりやすくて参考となった。つまり、違う例で言えば、最初に「僕は死んだ」といって始まる「ほたるの墓」のように、あるいは、タイタニックの「船に投げるネックレス」から始まる物語と同じように、最初に出したテーマに沿って伏線を回収しながら物語をすすめていくという流れは、(構造主義的観点から言えばベタかもしれないけれど)、やはり吸引力があるよな、と思う。
あとはサブカルチャーの使い方も素敵だった(蛇足続きだけど、ノルウェイで出てきたキュウリに海苔を巻いて醤油を付けて食べるという食べ物には感銘を受けて、学生時代、よく食べてた)。もう一つは、小説の作り方として「今のリアルの現実を少しずらした世界」の価値というものを改めて感じた一作だった。というのも、もしあなたが小説を書こうとする場合、どのようなものを書くだろうか?おそらく、自分の過去の延長や、あるいは、自分が夢見た世界あたりが多くなるのではなかろうか(推測なので違うかもしれない)。ただ、もう一つの虚構の作り方としては「現実でない世界をいかに創るか?」ということが重要であるようにも思う。というのも、上記の「日常を非日常化する」という点とも対となるのだが、「非日常を日常とする世界」がそこには生まれるからである。たとえば「魔法が使える世界(ハリーポッター)」「かかしがしゃべる世界(オーデュポンの祈り)」「人の心が読める(家族八景)」など、少しずれた世界(現実にはあり得ない設定)を書き出すことが、小説の新しい世界観を生み、それが小説としての礎となりうるからだ。そういう点では、この世界観は非常に参考になるものだった。
さて、本題に入ったつもりが、これっぽっちも本題に入ってなかったので、改めて本題に再突入する。
(※以後一応注意)
ポイントとしては、月である。この小説を彩る道具の一つだ。この月に関して書く。無鉄砲に書く。
先日、七夕だった。とあるお店(一応注釈:変なところではない)の人が「満月の七夕って19年に一回って知ってました?」と言った。へえ、と思った。なぜ「へえ」と思ったかというと、「何気ない七夕なのに19年に一度」という設定が付与されるだけで、とても価値のあるような日に思えるからだ。まぁ、これは今のマーケティングでは当たり前だけど、それでも、ふと知り合いの口から聞くと、何だか、その七夕の日がとても高尚のようなものに思える(とはいえ、何もしなかったけど、それはそれで別のお話)。
というのも、そのついその少し前の日、あまりにもくたびれて深夜前、過去の上司(近所にいると想定)に「お酒!」とメールをすると「珍しい。満月だからか」的に返事が返ってきて(他意はないと思われる)、「おお、月というのは、そういう力があるのかしら」と思った。どうでもいい補足情報だけど、文脈の説明をすると、実際、私はお酒が苦手なので自分から唐突にお酒を飲みに行こうということは、かなり稀。確かに、満月の日は犯罪が増えると聞くし、物語でも、狼男の話もご存じの通り。月は、何かしら人を左右するものなんだなぁ、と感じておった。
さすれば、ちょうど、その前後の日に「ムーンパレス」の話を聞いて、おお、月だ、と思った。説明しておくとムーンパレスは、ポールオースター巨匠を代表する(と原田が考える)一冊で、青春小説。このムーンパレスという名称はマンハッタンにある中華料理を指していて、直接、月の話はあまり出なかった気がするけれど、冒頭では、初めて人間が月に立ったというエピソードが重ねられており、やはり月の話が散らされて「何か」のモチーフとなっていた。
まず一回、月の話を置く。
次に、この物語の中で、「いつかどこかでその人と、ばったり町角で出会うかもしれない」という人がいた。つまり、過去に会ったことのある人がいて、その人はいまどこで何をしているかもわからない。調べようと思えば調べられたとしても、探さない。いわゆる「偶然の邂逅」を望んでいる。
いい話だ、と思った。
どこがいいかというと、「神様とダンス」している感じが良い感じだ。ここで言う神様というのは、「存在しないけれど、存在すると人が共同幻想を持つことが重要な意味を持つあがめ奉られる対象」である。
もしかすると会うかもしれない。会わないかもしれない。それがどうなるかは神様のさじ加減一つ。ただ、自分からアクションを起こす必要はない。失敗して傷つくこともない。ただ、会ったら自分に何かが起こるだろう、と心境を置く。つまりは、「世界が変わるかもしれない」というトリガーを日常に紛れさせておく。それによって日々が彩られるかもしれないし、あるいは、「いつかどこかで」物語が始まるのを待つことができるだろう。
個人的にも、便宜的には、偶発性に意味づけを付与することがあり、それは現代の処世術として非常に有効だ(だからこそ、スピリチュアルや宗教は常に存在する)。そして、その偶発性を事前に設定することは、上記の前提として、同時に有効である。
そこで考えた。
「自分がいつか再会したい」と思う人はいるだろうか、と。
もちろん、いるのはいるけれど、連絡先がわかる人だったり、あるいは、会うことがあるだろう、とわかっている人がメインだ。いまやSNSやGoogle先生を使えば、大抵のことは調べられる。
ただ、「いまその人がどこで何をしているか」を知らなくて「友人やツールなどを使ってもたどれない人」というのは、かなり少ない気がする。あるいは旅行先で出会った人などは、その範疇に入るかもしれない。いまでこそメールアドレスの交換はできるけれど、それでも旅先でメールアドレスを交換するのは、そうそうたやすくない。NYに留学している時に出会った友人の何人かは、もはや一生コンタクトができないだろう。そして名前を思いだそうにも、ファーストネームしか憶えていなかったり。そういう人と、いつか街角で再会するかも、と考えるのは、なかなか楽しい。
いつかどこかの街角で、というような。
というこの偶発性の物語。これが月の存在と絡まり、「偶発性を偶発性ではなくする物語」がそこに生まれている。そもそも、小説というものは恣意性があるだけでなく、「偶然が起こらなかった時の出来事は物語化されないのだから、物語化されている物語は全て偶発性が必然に起こる」というテーゼも内包され、そして、その偶発性が、「しかるべき設定」で説得力を持つことが重要となり、その点で、これは月と偶発性が綺麗に絡まり合った物語だな、と感じた。
そして、何より、この二つのテーマを出したのは、この二つが自分の世界とも絡み合っていたからだった。小説というものを娯楽とみるか、なにかの指針とみるかでその意味づけは異なるけれど、後者となった場合、この物語は「私にとってどのような価値があったか?」という基準で図られなければならない。そのような点で、この二つは非常に有意義な価値を持つことになる。
そして、何より、この本をこのようにブログのコンテンツ化できる、という点でも、この本は読む価値がある一冊だといえる。

借り

多くの人に借りを作りながら生きているなぁ、と思った。というのも、先日、「借りはすぐ返さないこと」という話を聞いたからだ。
たとえば、先輩に食事をごちそうになる。礼は早くが良いと思い、帰り次第、菓子折でも送ってしまう。翌日にそれが届く。もらった方は、「そんなに借りを早く返したいのか」と思ってしまう。借りは時に時間をおいた方がいい。
そんな話を聞いた。
そういうこともあるかもしれない。人生は貸し借りで出来ている、という話を聞く。または、「人に借りを作ることで、新しい関係性を作る」というコミュニケーション手法も聞く。たとえば、名刺交換をした人がいる。その人に「○○さんご存じですか。紹介して頂けませんか」「○○について教えて頂けませんか」と伺う。応えてくれると借りができる。そうすれば、借りを返す口実が生まれる。食事でもいいし、何か仕事でもいいだろう。そうして、本来ならば繋がらなかった点と点が線となる。そのような話だ。
ある人が過去に言っていた言葉を思い出す。もう3年以上も前だろうか。
その人と久しぶりに六本木で食事をした。話の流れとして説明するならば私にとっての異性。肉を食って、お酒を飲んで、終電の時間は過ぎた。そして先方はタクシーで、私は歩いて帰ろうとする。六本木まで出向いてもらったのはこちらだったから、タクシー代を出そうとする。そこでその人はこういう。「借りは作らないから」と。
なるほど、そういう考え方もある、と思った。
そのように男女の関係も貸し借りという概念はあるのかもしれない。私は異性になったことはないからわからない。ただ、誰かからか聞いたが、夜の世界では、食事3回が何かしら1回のバーター取引となっているというような。まぁ、それは貸し借りの概念というよりも、「3回も食事いっているわけだから」という名目的な意味合いが強い貸し借りかもしれないけれど。
貸し借りで言えば、ピエールブルデュー先生の社会資本の話を思い出す。私が歪曲して記憶している可能性もあるけれど、彼にとって、ある種の「優れた」人というのは、社会に借りを負っている。彼は自分が優れているから優れていただけに限らず、親や近所、地域、友人、教育などといった社会からの恩恵を受けて彼がいる。そのため、彼はしかるべき形で社会に責務を返さなければいけない、といったような。端的にいえば、ノブリスオブリージュに近いのかもしれない。
あるいは、名作「リアリティバイツ」を思い出す。
その映画の中でイーサンホークは、本屋でバイトをしている。しかし、合間に本屋の商品であるチョコバーを食べていた。それを、店主が見つけて彼を首にする。そこで、主人公のウィノナライダーは彼に「なんでそんなことをしたのか?」と問う。そこでイーサンホークはこう応える。

「チョコバーは俺に貸しがある」と。

真意はわからないけれど、そういうこともあるのかもしれない(なお上記のシーンは映画では1ショットで表示されていた気がします)。
そういえば、僕は誰かに傘を借りたままだ。傘の季節がもうすぐ終わるというのに。

アットアグラ

その町を人はアグラ、と呼んだ。日本語では胡座を連想してしまうかもしれないけれど、そのメタファーを使うなら、さしずめそのアグラは夏がチャンチャンコを着てちゃんぽんを食べているような力士がアグラをかいているような町だった。つまりはひたすら暑かった。でもこれは今思い返せば暑かったのであって、当時はあまり暑くなかったのかもしれない。私はすぐ後からの知識や会話で記憶を上書きしてしまう。
そのホテルは、アグラでいうならば中級くらいだろうか。他のホテルと同様に1日10時間以上は断水していたけれど、それでも、3階の窓から差し込む風はなかなか気持ち良かったように思う。部屋には大きなベッドが真ん中に1つあり、その上には私の洗濯物を干す洗濯紐がぶら下がり、そして壁にはよくわからない穴が空いていた。穴から何が出てきたっておかしくないけれど結局出たのはため息だけだった。
確か衣類を入れる心ばかりのクローゼットがあって、そして重鎮な机が一つだけあった。窓が大きいのだけが取り柄だった。映らないテレビも、どことなく哀愁があり嫌いじゃなかった。
夕方から町を散歩した。散歩しながら、道ばたで売られているトウモロコシを買った。30円だか50円だかの焼かれたトウモロコシは、他の町よりも少しそっけなく、少し甘かった。トウモロコシが一番うまいのはジンバブエだ。これは憶えておくといつか役に立つこともあるかもしれない。しかも物価も一番安いのだ。そりゃ8本買ってきてルームメイトにあげても誰も批難しないだろうと思う。でも、実際は批難されたのだけれど。「こんなもん晩飯になるか!」と。
たまにネットカフェにいった。Windows95だった記憶がある。ブラウザは当然IEで、ダイアルアップ接続だった。20分くらいに1回、回線がきれたけれど、そういう時はドアの外からアグラの町を眺めていた。みな何となく歩いていた。何となくあるく人は東京ではあまり見ないな、と思う。何かしらの指向性と節度を保った歩き方は近代化に必要だったものなんだろう。当時はHotmailを開いて、旅行人という旅行者用のBBSを眺めて。いくつかメールを書いて、いくつかCGIの掲示板スクリプトに日記を書いて。
中華料理をよく食べていた。近かったし、夜、ちゃんとテーブルで食事をするにはあまりにも他の選択肢がなかったのだ。もう少し町の方にいけば良かったのだろうけど、そこはネパールでいうマウンテンビューのようなところで(なんとも説明にならない例えだ)、つまりは控えめに言うところの「落ち着いた地域」、率直に言うところの「何もない場所」だったのだ。でも、そんな場所のホテルを撮ってしまうほど、身体はくたびれていたし、そもそも町でホテルをとる利点がレストラン以外に思いつかなかったのだ。

【お知らせ】80年代経営者交流会です

808q.gif
マルチポスト失礼。
標題の通り、今度、80年代生まれの方の経営者交流会をすることになりました。もしご興味のある方いらっしゃれば、ご参加をご検討頂ければ幸いです。
以下、詳細となります。
====
■日時
7月24日(金)20:00~
■場所
霞ヶ関にあるレストラン予定。詳細は追ってご連絡
■参加費
8089円くらいを想定
(1980年~1989年にひっかけてます。
■条件
1980年~1989年生まれの経営者(CEO/代表取締役)限定
※厳密に
■主旨
お互いに情報交換をしたり、ビジネスとしてのつながりをもったり、モチベーションを高めあったり、など同世代ならではの密度の高いコミュニケーションを予定しています。
■参加方法(下記のどちらか)
1.以下のサイトよりご参加頂く
(会員登録でお手数をおかけしてしまいますが、参加後、他にどのような参加者がいるかご覧頂くことができ交流の促進をして頂けます:現在メール連絡含め30~40名前後)
» http://eventforce.jp/event/53
2.メールにてご返信
80to8q@gmail.comに「参加します」の旨を返信して頂ければ幸いです。

詳細を見る

■幹事(50音)
石原明彦(ワイアード株式会社:http://y-ard.jp/
原田和英(アルカーナ株式会社:http://arcarna.com/
古川健介(株式会社ロケットスタート:http://rocketstart.jp/
以下もご参考
失礼いたしました!何卒よろしくお願い申し上げます。

週末のいくつかの対話(曰く日記的な何か)

「AB型って冷めてますよね」とその人は言う。会社の人と訪れた金曜深夜の食事亭での会話。血液型で話をすすめるのは、色々な意味でリスキーなのだけど、まぁ、話のネタとしては悪くない。もっとも血液型の傾向を信用していなければ、という前提だけれども。「冷めていますかね」と答える。「冷めていますね。経験上」とその人は言う。こういった血液型の傾向は占いと同じで、「誰しもが少しばかりはそう感じていること」を少し添えていうだけで「当たっているor私のことわかってくれている」という心境になる不思議な呪文だ。人は誰だって冷めているし、あるいはホットだ。そして日常は常に「ルーティン」であり、同時に「ユニーク」だ。再現性がない、という点において。
土曜日に目が覚めると、8時だった。3時過ぎに寝た気がするのでそこそこの睡眠。土曜日にしては幾分眠たい。いつもの通り、目をこすりながらパソコンのディスプレイをオンにする。メールとRSS Feedのチェックをしながらパンを焼く。食パンにバターを塗って、冷蔵庫からコーヒーを取り出す。30分ほどふらふらブログをチェックしながら頭が目覚めてくる。今週末は作らなきゃな資料が5つだか6つだかあって、それに取りかかる。まぁ毎週末と変わらないのだけど、雨ということもあり缶詰になろうかとぼんやり予定をたてる。
昼にシャワーを浴びに自宅に戻る。合間にブログを書いて、合間にメールの返信をして資料作成を続ける。友人がメッセンジャーで話しかけてくる。その人は何人かの異性と仲が良くって。私は問う。「その恋愛リソースってのは、3人の恋愛相手がいる場合、3等分されて分配されるのかしら?」と。相手は答える。「違う、会っている時は常に1人の相手に100%の力を注いでいる。ただ、その100%の力を注ぐ対象が複数いるだけ」と言う。禅問答のようにも聞こえるし、あるいは詭弁にもexcuseにも聞こえるけれど、まぁその言葉で世の中がちゃんと回っているならば、誰にも害はないから良いのだろう。ただ、リソースを時間の観点から考えるとその回答はなりたたないよな、と思う。でも気持ちというのは時間とは関係のない力学が働くので、それもまた正なのだろう、と思う。
先輩からメールが届く。クイズのメールというなかなか珍しいメールだった。「ここはどこでしょう?」という素っ気ない一文。そして添付された何枚かの写真。何かしらの食べ物と何かしらの場所が写った滑稽だが哀愁のある写真だった。でもどこだか全然わからない。こういう時は写真ではなく文脈から推測するのが一番だろう。まず日にちから日本で起こっている出来事をチェックする。横浜の中華街でまつりが行われているらしく、その線から推測するが食べ物との関係性を見いだせないために却下する。ちょうどこの日に読んだ本に書かれていた一文を思い出す。「相手が何かの質問をしている時は、回答を探すのではなく、その質問の意図を考えよ」と。その意図を考え、きっと「写真クイズが世の中の最先端トレンドということだな」とつぶやく。
24時頃、仕事が一息ついて。お酒が飲めないくせに珍しく少しアルコールを摂取したくなって。時間も時間ということもあり近所に住んでいる別の先輩に電話をしてみるとちょうど近所で飲んでいるという。それは幸い、とオフィスから歩いて3分ほどの店に足を運ぶ。久しぶりに会う先輩は髪はあげていたものの変わらず元気そうで何よりで。「私は村上春樹自身は好きじゃないということに気づいた」とその人は言う。「世界の終わりは好きだけど、カフカやアフターダークは好きじゃなかった。」という。そういうこともあるのかもしれない。でも、「世界の終わり」が好きな女性が多いのはどうしてだろうか。男性と比べて圧倒的に女性からの評価が高い気がするけれど、どうなんだろう。これはあのハードボイルドな感じが良いのかもしれない。そんな折、お店の主に「最近、ここにきましたか?」と聞かれたので「数ヶ月前にお邪魔しましたよ」と答える。「カレーを食べました」と言うと、「あれ、カレーなんてあったっけな」とのお答え。確かに私はそこでグリーンカレーを食べて。でも、主は知らないという。1q84を読んでいたからか「ずれた世界」を思い浮かんだけど、世の中はそこまでイージーに出来ていない。誰かが勘違いしているか、何かが勘違いされているのだろう。世の中の真実が常に1つだとは限らない。
店のBGMがStevie Wonderの太陽に関する曲に変わって。ああ、懐かしい、と思う。家の外で聞く音楽はなぜか印象深いのはなぜだろうか、と思う。外ではちょうど雨が降り出してきていて。雨の季節が終わる頃には夏が本格到来する、というのは何かしらバルガス・リョサの小説を思い出すな、と勝手に関連づける。何も関係ないのに。久しぶりにお酒を飲んで、頭痛が始まる。何かの漫画で頭痛を「テンションの高いお坊さんがエイトビートでお寺の鐘をついている感じ」と表現したが、そのような振動が頭をつつみ、ささっと店を退散する。日曜日に目が覚めると土曜日と変わらず静かな朝だった。土日の朝がなぜか静かな気はする。これは実際にオフィスが稼働していないからもあるのだろうけど、8割型は気のせいだとは思う。ただ、そのように考えていた方が、土日らしさが出てわるくない。
「そうだクリップを買わなくちゃ」と思い出し、麻布十番の商店街に自転車を走らせた。普段は文具は殆ど楽天で買ってしまうのだけれど、梅雨の合間の太陽を浴びに町に出るのも悪くない。お目当ての物を購入して店を出ると、「あら!」と声をかけられた。学生時代の友人で、彼女の結婚式の二次会にはちょうど先月行ったばかり。「髪きったんだ」「そう、心機一転」と、何が心機一転なのか判らないけれど、そのさわやかな若夫婦は十番のパティオの日陰がとても似合っていた。しかし、麻布十番はそれなりに人がいて、それなりに人と擦れ違う。くわばらくわばらと思いながら自転車を走らせる。
私も髪を切らなきゃ、と思い散髪屋に向かう。先週まではドタバタでいく機会を逃していた。シャンプーをする人は新人だった。いつも散髪で苦手なのはしゃべりかけられることだ。この会話が苦手でしょうがなく、本を読みながらカットしてもらうことが多い。その新人もシャンプーをしながら、「業務的」な質問をかけてくれる。その心境はありがたいし、それも仕事だというのはわかるけれど、こちらも日曜日くらいはあまり気を遣った回答をするのは避けたい。「どんなお仕事をされているんですか?」と聞かれ、とりあえず「木こりです」と回答をしておいた。まじめな答えよりはよっぽど社会に潤いを与えると思ったからだ。それに「人のニーズのある物を作る」という点では自分のしていることも木こりも似たようなものだ(もっともそう行ってしまえば全てのビジネスはそうなるのだろうけれど)。少しうたた寝するともう暗くなっていた。思うに1日のパフォーマンスを最大化したいならば昼寝は欠かせないように思う。とはいえサラリーマン時代に会社の椅子で寝ているといささかひんしゅくを買っていたので、これは自由度の高い職場ならではの特権かもしれない。
なんだか世界で60通りの時間軸が平行して進んでいることに、なんだか違和感を憶えながら、もう週末が終わるな、と思いながら今に至る。
#なんか色々微修正してすいません。

風呂上がり

10時頃、シャワーを浴びに自宅へ戻る。
もう日差しは強く、初夏なのか「少し弱い夏」なのかどちらかわからない。梅雨だというけれど、いつも梅雨の間は雨に参りながらも、梅雨が終わると雨の日々は忘れている。「のど元過ぎれば」というけれど、それは、人間が生得的に備えている「ポジティングシンキング」の表れなんじゃないかな、と思う。
シャワーを浴びると、思考回路は仕事から日常に切り替わる気がする。「ああ整髪料かっておかなくちゃ」とか「クリーニングにいかなきゃ」なんてことがぽんぽんと頭をよぎる。誰だったか、一番アイデアが出るのはシャワーを浴びている時だ、と言っていたような気がする。シャワーとは、頭の何かを切り替えるスイッチの役目を果たすのかも、なんてことを考える。
部屋を出て、クリーニングにシャツを預ける。いつもと変わらぬ婦人といつもと変わらぬクリーニング代に心ばかし安心しながら、店を出ると一風が私を撫でる。
熱い日差しの中の一陣の風。その風が、とても気持ち良く、ああ、幸せだな、と思った。昨今話題の村上春樹は、このようなことを「小確幸」といった言葉で呼んだ気がするが、このような話はなんらめずらしいこともなく、つまり、「日常の幸せ」というものは、時に社会はフォーカスする。
たとえば、いつもと変わらぬ朝のコーヒーの匂いや、あるいは寝る前のちょっとした読書、はたまた毎年変わらず来る特定の誰かからの年賀状だったり。そのような小さな日常のようなものを、人は抱えていきる。ただ、日常という定義上、それは普段は忘れ去られ、戸棚の奥にしまわれる。
だからこそ、たまにそれらのありがたみに気づき、人は「ああ、日常って良いわね」と独りごちる。普段からそれらに感謝し続けるほど人は時間に余裕があるわけではないし,日常も普段からそんなに感謝されても困るだろう。
アフリカでの日々を思い出す。そこでは日々がそこそこ愉快なサバイバルだった。戦場という意味ではないにせよ、なんだか全てが大変だった。言葉はフランス語だから買い物の計算が大変だし、電車はどこから乗らなくちゃいけないのか知らないし、そもそもやたら暑いし、お子様はおねだりをねだるし、そもそも移動ばかりで身体ぐだぐだなのに宿が見つからないし、そもそも夜になるとデスマッチ開始だから熱があっても油断できないし。まぁ、いずれにせよinterestingとう意味では楽しい日々だった。しかし、その時に欲したのは、何も変わらぬ日常だった。土曜日の多摩川のランニングと近所のスーパーへのエビの買い出し。そして、少しクタビレタ布団と蚊取り線香の匂い、のような。
受験の頃は「トーストと朝読む新聞」で、小学校の頃は「世界不思議発見」で、新卒の頃は「金曜日の夜更かし」で、なんだか、そのフェーズにあった「日常と呼ばれるべきもの」が、何かしらの礎になっていたし、あるいはよりどころとなっていたし、今となっては、tinyだけどcuteな思い出になるわけで。
日常ってのは、あんがいあなどれがたし、と思うわけです。

信号が点滅前に走る人

ふと思ったのだが、世の中には2種類の人間がいて、それは
・信号が点滅する前に走る人
・信号が点滅してから走る人
の2種類である。
あなたは、その道を渡りたい。できれば信号でひっかかりたくない。距離は50メートル。青に変わって数秒は経っている。うまくいけば、このまま歩いて信号を渡れるかもしれない。できれば走りたくない、かっこわるいし。
そんな時に。
走る人、と、点滅してから走る人の2種類いる。
前者はリスクをヘッジすることが好きな人だ。後者はばくち打ちで「うまくいったら、走らないで済む」場合は走らないで良いのだから、それを前提に動くということになる。あるいは、点滅してから走っても間に合うかもしれないのだから、今から走る必要はない、と考えているかもしれない。
両方とも期待値をならせば、前者は常に走るために、「信号にわたれる(+5)」でも「走る(-5)」のリターンゼロで、後者は「信号にわたれる(+5)」が5割の確率で起こるとすれば後者の方がリターンは大きくなる。ただし後者も「ギリギリに結局走る」ということもあるわけだから、数値は変わってくる。また、信号にわたれるリターンと、走る場合のコストが同じということはあり得ないので(それならば最初から走らない)、実際は、前者もゼロにはならない。ただ、後者としては5割以上の確率で走らずに済む経験をしており、なおかつ、わたれなかったコストがそこまで大きくない人かもしれない。
ただ、いずれにせよ、まぁ、そういう2種類の人がいる。
そして、こんな違いが時に、人生を大きく、大きく変えることだってある。それは1つの違いによるものかもしれないし、あるいは蓄積された違いのインパクトのこともある。
誰だって経験があるだろう。
「あの日、あの時、偶然なあれが起こっていなければ、あれはなかった」というような経験が。もちろん、起こらなかった場合を体験できない以上、「起こった場合」と「起こっていない場合」を比較できないので、どちらが良いというものではないが。
ただ、いずれにせよ、そのようなちょっとの違いが人生を分かつこともある(くどいようだが、起こってない場合はわからないので、起こっていない場合も同じ人生もあることもあるが、ただ、傾向として、偶発性の再現は確率的に非常にレアなので、仮定として上記をおく)。
たとえばそれが
・メールアドレスの間違いで、届いたメールを返信したがために仕事の交流が始まった
・飲み屋で横に座っていた人が、自分の興味のあるニッチな話題の話をしていたので、思わずはなしかけたら共通の友人がいることがわかり、友達になった
・旅行先で、たまたま見かけた日本人に道を聞いたら一緒の旅路となり長いつきあいとなる
・たまたま友人が送ってきたFYIのメールがとあるWebサービスの招待状で、忙しかったのでみそびれそうになったけど、思い直して見てみると、結果的に、それがとある専門性を持ったサイトでその道に進むことになる
・ふとなんかに誘われて、その日は買い物にいく予定だったのだけど、なんとなくそっちにいったらほげほげ
みたいなものだ。
それは、「たまたまのキッカケを能動的に行動することで発生した何か」ということであり「単なる偶然」などの話ではない(たとえば、いつもいってるカジノで100万円当てたとか、受験の山勘があたって通ったとかではない)。
これはいわゆるセレンディピティの話とも同じで、「イノベーションや発明は、偶発的に起こる。でもその偶発性は、普段の傾向によって準備される」というような(違ったらすいませn)。運命の女神は前髪しかないとかいう例えも、つまりは、何かしら起こった時にすぐに行動できる何かしらが必要という例えではないか。
まぁいいや。こんな抽象的な話をしたいのではなく。
自分は、信号に向かって走る人かあるいは友人は走る人かどうかをふと考えたり。

音楽って凄いなぁ、と。

いやね、昔は、音楽の価値を、いまほどは判っていなかったように思う。つまり音楽とは「良い音楽を聴いてるんるん」というような位置づけだった。しかし、やはり当然、音楽はこれほどまでも世界に愛されていることからもわかるように、価値というのはそれだけではない。太古の原始のリズムである太鼓が戦場を鼓舞したように音楽とは時に、カンフル剤となり、鎮静剤となり、あるいは癒しとなり、潤しとなる。つまり、薬や食事のように人のバイオリズムに非常に影響を与えるもので。その点では一種の点滴やアロマ、カラーなどと似た力を持つような気もするわけです。最近、アロマの力の話を聞いたけど、こういうのもやはり強い力を持っているんだろうね、蛇足だけど。そして、もちろん音楽の効用というものはそれだけに止まらず。たとえば、共通言語という価値や文化の表象というカルチュラルスタディーズ的側面、あるいはイデオロギーの発露としてのプロパガンダ的存在。そのような何かしらを象徴するもの(スプートニクの恋人を思い出す単語だけれども)になりうる。つまり言語であり、イコンであり、メタファーとなる。または、時に音楽は道具となる。芝公園をランニング中のスタミナを搾り取るようなロックであり、夜景とワインと男女の沙汰に彩りを添えるジャズであり、ベルリンの壁の崩れを人の心に刻み込むクラシックであり。そう考えると、時に人は食事のお店を吟味するけれども、それと同様に音楽も吟味して良いのではないか、とふと思って。もちろん専門職の人や造形が深い人はそうしているのはわかるのだけれども(DJ含め、クリエイターの方々とか)、それをうまく共有する場がないのが問題なのかな。たとえば自分が効いている音楽をうまく共有する手法とか。もちろんツールでいえば、Last.fmやiTunesなど色々あるわけだけど、たとえば、それで人と会っている時に共有する手段ってなかなか難しいよね。Zuneだかなんだかがそういうことに挑戦しようとしていた記憶もあるけど嘘かもしれない。ただ、ドライブ中や自宅なんかでは、そのような場はあるけど、もう少しあってもしかるべきなのではないかと。といいながら考えたけど、うそかも。iPhoneもっていってBARでお酒を飲んでいる時に自分のチョイス音楽をこっそり流してたらウツケ者もいいところだ。一周回ってきてアリなのかもしれないけど、あまりにもリスクとりすぎぞえ、と思うわけだ。いやね、雨だからかもしれないけど、ふとした瞬間に気がゆるみそうな時は、iTunesから爆音をかけると意識が覚醒するなぁ、とふと思ったんだけどね。そういえば過去の職場で夜中2時だか3時だかにも欠かせなかったのは音楽だったなぁ。もちろん睡魔に打ち勝つ意味で、ということだけど。そういや、「人の好きな音楽」ってあんまり知らないね。いや、そりゃこだわり強い人は「この人は○○好きなんだ」とかわかるけど(ハードロックとかヘビメタとかパンチ聞いているジャンルに造形に深い人に多いように思うが)、他だと、たとえば「ボサノバっぽい」「ハウスっぽい」みたいな謎の抽象的な好み「っぽい」くらいの認識しかないような世界ではなかろうか、とも思うけど気のせいかもしれないし、なんだっていいや。よきにはからってください。

トイレのスリッパが外にあったよ

タイトルには何も意味がない。というか、なんかのメモでこういう単語を今日見かけて、私が自分宛に書いたメモなんだけど、何のことやらちっとも判らず、とりあえずタイトルにしてみた次第。
自分宛なのは間違いないのだが、このフレーズの文脈や背景、意図が何も思い出せない。時期的には1年以上前に書いたメモに違いない。
もしかすると、ここに書くことでピンと来る人がいるのかもしれない。不思議なものだ。いわば公開鍵と暗号鍵みたいだな。でも、僕は暗号鍵をなくしてしまったので、このキーを見ても何もピンとこない。
ちなみに、そのリストから他のフレーズを探すと「付箋したままの夢」「おれたちは女性の『高校のころの写真』を見たときのベストな回答を捜し求めている 」「本の最初で最後がわかる男 」とかがある。おそらくこの辺りは2005年~06年くらいのメモのような気もする。どれもこれも全然ピンとこない。
あ、「おれたちは女性の『高校のころの写真』を見たときのベストな回答を捜し求めている」は何かのブログの記事でみかけて、タイトルが何かの小説だか名言っぽいと思ってメモしたのかも。でも、ここからどう考えても話をふくらませるとは思えない。というか、いろいろ差し支えがありそうで、書くことのメリットを想像できない。
「付箋した夢」とか、なんかポエミーでいいじゃないですかね。こういう色々想像できるフレーズは良いと思いますね。付箋した、ということは、「ブックマークした」わけで、それの意味するのは「将来、みるためにドッグイヤーを作る」というようなニュアンスであり、今はとりあえず横にのけておく夢である、というような意図や、あるいは、何かの本で見かけた言葉に蠱惑的な思いを抱きつつも現実と向き合う月曜日の夜に付箋して、そしてもう開くことのないページにアディオスと唱えるというようなシーンも想像できます。あるいは、誰かと共有するための付箋なのかもしれない。付箋とは時に自分のものではなく、他人のための存在なのかもしれない。本に付箋を貼ってプレゼントするとか小粋でいいかもしれないですね。
「本の最初で最後がわかる男 」というのも、なかなか創造性を刺激するタイトル。多分、その人は、たくさん本を読んでいるんだろうね。あるいは、まったく読まないのかもしれない。なぜなら最初よんだだけで全部わかっちゃうから読まない。でも、それが当たっているかどうかはどう判別するのだろう。推理小説だったら、犯人を推理してあたっているかどうかは、最後から5ページくらい見ればわかるけど、ドラマや恋愛、ミステリーだと、なぜ最後がわかるのかは、なかなかロジカルには説明しにくい。あ、わかった。多分、彼は、最初を読んだだけで、最後までの話を想像するのだ。そして、彼にとっては、それが読書である。最後がどうであるとか、実際の物語がどうであるとかは関係ないのだろう。そして、彼にとっては最初の数ページを読むために本を買う。あるいは、最初の数ページのために本を吟味する。だから立ち読みなんてしない。彼は装丁で本を選ぶのだ。あるいはタイトル買い。ジャケ買いよりは少し地味なセンスかもしれない。多分、「名詞+助詞+名詞」のタイトルよりは「名詞」一語か「名詞+形容動詞」といった座りの悪いようないいようなイマイチよくわからないタイトルが好きなのだろう。「7月24日通り」とか「日曜日なんか大嫌い」とか。なんかニヒルな感じの。あるいあhクラフト・エヴィング商會みたいな世の中をなめた名前に惹かれるのかもしれない。そして、ズッキーニとトマトのアペタイザーがあたかもメインディッシュであるかのように、それを丁寧に食べて、本を置くのかもしれない。
いずれにせよ、タイトルのフレーズは、これっぽっちもよくわからない。誰かに言われたのか、思いついたのか、何か気づいたのかもわからない。ただ、なんだか外にあるトイレのスリッパってのは、便利な言葉で言えば、何かしら情緒がある存在である。