投稿者「admin」のアーカイブ

アットアグラ

その町を人はアグラ、と呼んだ。日本語では胡座を連想してしまうかもしれないけれど、そのメタファーを使うなら、さしずめそのアグラは夏がチャンチャンコを着てちゃんぽんを食べているような力士がアグラをかいているような町だった。つまりはひたすら暑かった。でもこれは今思い返せば暑かったのであって、当時はあまり暑くなかったのかもしれない。私はすぐ後からの知識や会話で記憶を上書きしてしまう。
そのホテルは、アグラでいうならば中級くらいだろうか。他のホテルと同様に1日10時間以上は断水していたけれど、それでも、3階の窓から差し込む風はなかなか気持ち良かったように思う。部屋には大きなベッドが真ん中に1つあり、その上には私の洗濯物を干す洗濯紐がぶら下がり、そして壁にはよくわからない穴が空いていた。穴から何が出てきたっておかしくないけれど結局出たのはため息だけだった。
確か衣類を入れる心ばかりのクローゼットがあって、そして重鎮な机が一つだけあった。窓が大きいのだけが取り柄だった。映らないテレビも、どことなく哀愁があり嫌いじゃなかった。
夕方から町を散歩した。散歩しながら、道ばたで売られているトウモロコシを買った。30円だか50円だかの焼かれたトウモロコシは、他の町よりも少しそっけなく、少し甘かった。トウモロコシが一番うまいのはジンバブエだ。これは憶えておくといつか役に立つこともあるかもしれない。しかも物価も一番安いのだ。そりゃ8本買ってきてルームメイトにあげても誰も批難しないだろうと思う。でも、実際は批難されたのだけれど。「こんなもん晩飯になるか!」と。
たまにネットカフェにいった。Windows95だった記憶がある。ブラウザは当然IEで、ダイアルアップ接続だった。20分くらいに1回、回線がきれたけれど、そういう時はドアの外からアグラの町を眺めていた。みな何となく歩いていた。何となくあるく人は東京ではあまり見ないな、と思う。何かしらの指向性と節度を保った歩き方は近代化に必要だったものなんだろう。当時はHotmailを開いて、旅行人という旅行者用のBBSを眺めて。いくつかメールを書いて、いくつかCGIの掲示板スクリプトに日記を書いて。
中華料理をよく食べていた。近かったし、夜、ちゃんとテーブルで食事をするにはあまりにも他の選択肢がなかったのだ。もう少し町の方にいけば良かったのだろうけど、そこはネパールでいうマウンテンビューのようなところで(なんとも説明にならない例えだ)、つまりは控えめに言うところの「落ち着いた地域」、率直に言うところの「何もない場所」だったのだ。でも、そんな場所のホテルを撮ってしまうほど、身体はくたびれていたし、そもそも町でホテルをとる利点がレストラン以外に思いつかなかったのだ。

【お知らせ】80年代経営者交流会です

808q.gif
マルチポスト失礼。
標題の通り、今度、80年代生まれの方の経営者交流会をすることになりました。もしご興味のある方いらっしゃれば、ご参加をご検討頂ければ幸いです。
以下、詳細となります。
====
■日時
7月24日(金)20:00~
■場所
霞ヶ関にあるレストラン予定。詳細は追ってご連絡
■参加費
8089円くらいを想定
(1980年~1989年にひっかけてます。
■条件
1980年~1989年生まれの経営者(CEO/代表取締役)限定
※厳密に
■主旨
お互いに情報交換をしたり、ビジネスとしてのつながりをもったり、モチベーションを高めあったり、など同世代ならではの密度の高いコミュニケーションを予定しています。
■参加方法(下記のどちらか)
1.以下のサイトよりご参加頂く
(会員登録でお手数をおかけしてしまいますが、参加後、他にどのような参加者がいるかご覧頂くことができ交流の促進をして頂けます:現在メール連絡含め30~40名前後)
» http://eventforce.jp/event/53
2.メールにてご返信
80to8q@gmail.comに「参加します」の旨を返信して頂ければ幸いです。

詳細を見る

■幹事(50音)
石原明彦(ワイアード株式会社:http://y-ard.jp/
原田和英(アルカーナ株式会社:http://arcarna.com/
古川健介(株式会社ロケットスタート:http://rocketstart.jp/
以下もご参考
失礼いたしました!何卒よろしくお願い申し上げます。

週末のいくつかの対話(曰く日記的な何か)

「AB型って冷めてますよね」とその人は言う。会社の人と訪れた金曜深夜の食事亭での会話。血液型で話をすすめるのは、色々な意味でリスキーなのだけど、まぁ、話のネタとしては悪くない。もっとも血液型の傾向を信用していなければ、という前提だけれども。「冷めていますかね」と答える。「冷めていますね。経験上」とその人は言う。こういった血液型の傾向は占いと同じで、「誰しもが少しばかりはそう感じていること」を少し添えていうだけで「当たっているor私のことわかってくれている」という心境になる不思議な呪文だ。人は誰だって冷めているし、あるいはホットだ。そして日常は常に「ルーティン」であり、同時に「ユニーク」だ。再現性がない、という点において。
土曜日に目が覚めると、8時だった。3時過ぎに寝た気がするのでそこそこの睡眠。土曜日にしては幾分眠たい。いつもの通り、目をこすりながらパソコンのディスプレイをオンにする。メールとRSS Feedのチェックをしながらパンを焼く。食パンにバターを塗って、冷蔵庫からコーヒーを取り出す。30分ほどふらふらブログをチェックしながら頭が目覚めてくる。今週末は作らなきゃな資料が5つだか6つだかあって、それに取りかかる。まぁ毎週末と変わらないのだけど、雨ということもあり缶詰になろうかとぼんやり予定をたてる。
昼にシャワーを浴びに自宅に戻る。合間にブログを書いて、合間にメールの返信をして資料作成を続ける。友人がメッセンジャーで話しかけてくる。その人は何人かの異性と仲が良くって。私は問う。「その恋愛リソースってのは、3人の恋愛相手がいる場合、3等分されて分配されるのかしら?」と。相手は答える。「違う、会っている時は常に1人の相手に100%の力を注いでいる。ただ、その100%の力を注ぐ対象が複数いるだけ」と言う。禅問答のようにも聞こえるし、あるいは詭弁にもexcuseにも聞こえるけれど、まぁその言葉で世の中がちゃんと回っているならば、誰にも害はないから良いのだろう。ただ、リソースを時間の観点から考えるとその回答はなりたたないよな、と思う。でも気持ちというのは時間とは関係のない力学が働くので、それもまた正なのだろう、と思う。
先輩からメールが届く。クイズのメールというなかなか珍しいメールだった。「ここはどこでしょう?」という素っ気ない一文。そして添付された何枚かの写真。何かしらの食べ物と何かしらの場所が写った滑稽だが哀愁のある写真だった。でもどこだか全然わからない。こういう時は写真ではなく文脈から推測するのが一番だろう。まず日にちから日本で起こっている出来事をチェックする。横浜の中華街でまつりが行われているらしく、その線から推測するが食べ物との関係性を見いだせないために却下する。ちょうどこの日に読んだ本に書かれていた一文を思い出す。「相手が何かの質問をしている時は、回答を探すのではなく、その質問の意図を考えよ」と。その意図を考え、きっと「写真クイズが世の中の最先端トレンドということだな」とつぶやく。
24時頃、仕事が一息ついて。お酒が飲めないくせに珍しく少しアルコールを摂取したくなって。時間も時間ということもあり近所に住んでいる別の先輩に電話をしてみるとちょうど近所で飲んでいるという。それは幸い、とオフィスから歩いて3分ほどの店に足を運ぶ。久しぶりに会う先輩は髪はあげていたものの変わらず元気そうで何よりで。「私は村上春樹自身は好きじゃないということに気づいた」とその人は言う。「世界の終わりは好きだけど、カフカやアフターダークは好きじゃなかった。」という。そういうこともあるのかもしれない。でも、「世界の終わり」が好きな女性が多いのはどうしてだろうか。男性と比べて圧倒的に女性からの評価が高い気がするけれど、どうなんだろう。これはあのハードボイルドな感じが良いのかもしれない。そんな折、お店の主に「最近、ここにきましたか?」と聞かれたので「数ヶ月前にお邪魔しましたよ」と答える。「カレーを食べました」と言うと、「あれ、カレーなんてあったっけな」とのお答え。確かに私はそこでグリーンカレーを食べて。でも、主は知らないという。1q84を読んでいたからか「ずれた世界」を思い浮かんだけど、世の中はそこまでイージーに出来ていない。誰かが勘違いしているか、何かが勘違いされているのだろう。世の中の真実が常に1つだとは限らない。
店のBGMがStevie Wonderの太陽に関する曲に変わって。ああ、懐かしい、と思う。家の外で聞く音楽はなぜか印象深いのはなぜだろうか、と思う。外ではちょうど雨が降り出してきていて。雨の季節が終わる頃には夏が本格到来する、というのは何かしらバルガス・リョサの小説を思い出すな、と勝手に関連づける。何も関係ないのに。久しぶりにお酒を飲んで、頭痛が始まる。何かの漫画で頭痛を「テンションの高いお坊さんがエイトビートでお寺の鐘をついている感じ」と表現したが、そのような振動が頭をつつみ、ささっと店を退散する。日曜日に目が覚めると土曜日と変わらず静かな朝だった。土日の朝がなぜか静かな気はする。これは実際にオフィスが稼働していないからもあるのだろうけど、8割型は気のせいだとは思う。ただ、そのように考えていた方が、土日らしさが出てわるくない。
「そうだクリップを買わなくちゃ」と思い出し、麻布十番の商店街に自転車を走らせた。普段は文具は殆ど楽天で買ってしまうのだけれど、梅雨の合間の太陽を浴びに町に出るのも悪くない。お目当ての物を購入して店を出ると、「あら!」と声をかけられた。学生時代の友人で、彼女の結婚式の二次会にはちょうど先月行ったばかり。「髪きったんだ」「そう、心機一転」と、何が心機一転なのか判らないけれど、そのさわやかな若夫婦は十番のパティオの日陰がとても似合っていた。しかし、麻布十番はそれなりに人がいて、それなりに人と擦れ違う。くわばらくわばらと思いながら自転車を走らせる。
私も髪を切らなきゃ、と思い散髪屋に向かう。先週まではドタバタでいく機会を逃していた。シャンプーをする人は新人だった。いつも散髪で苦手なのはしゃべりかけられることだ。この会話が苦手でしょうがなく、本を読みながらカットしてもらうことが多い。その新人もシャンプーをしながら、「業務的」な質問をかけてくれる。その心境はありがたいし、それも仕事だというのはわかるけれど、こちらも日曜日くらいはあまり気を遣った回答をするのは避けたい。「どんなお仕事をされているんですか?」と聞かれ、とりあえず「木こりです」と回答をしておいた。まじめな答えよりはよっぽど社会に潤いを与えると思ったからだ。それに「人のニーズのある物を作る」という点では自分のしていることも木こりも似たようなものだ(もっともそう行ってしまえば全てのビジネスはそうなるのだろうけれど)。少しうたた寝するともう暗くなっていた。思うに1日のパフォーマンスを最大化したいならば昼寝は欠かせないように思う。とはいえサラリーマン時代に会社の椅子で寝ているといささかひんしゅくを買っていたので、これは自由度の高い職場ならではの特権かもしれない。
なんだか世界で60通りの時間軸が平行して進んでいることに、なんだか違和感を憶えながら、もう週末が終わるな、と思いながら今に至る。
#なんか色々微修正してすいません。

風呂上がり

10時頃、シャワーを浴びに自宅へ戻る。
もう日差しは強く、初夏なのか「少し弱い夏」なのかどちらかわからない。梅雨だというけれど、いつも梅雨の間は雨に参りながらも、梅雨が終わると雨の日々は忘れている。「のど元過ぎれば」というけれど、それは、人間が生得的に備えている「ポジティングシンキング」の表れなんじゃないかな、と思う。
シャワーを浴びると、思考回路は仕事から日常に切り替わる気がする。「ああ整髪料かっておかなくちゃ」とか「クリーニングにいかなきゃ」なんてことがぽんぽんと頭をよぎる。誰だったか、一番アイデアが出るのはシャワーを浴びている時だ、と言っていたような気がする。シャワーとは、頭の何かを切り替えるスイッチの役目を果たすのかも、なんてことを考える。
部屋を出て、クリーニングにシャツを預ける。いつもと変わらぬ婦人といつもと変わらぬクリーニング代に心ばかし安心しながら、店を出ると一風が私を撫でる。
熱い日差しの中の一陣の風。その風が、とても気持ち良く、ああ、幸せだな、と思った。昨今話題の村上春樹は、このようなことを「小確幸」といった言葉で呼んだ気がするが、このような話はなんらめずらしいこともなく、つまり、「日常の幸せ」というものは、時に社会はフォーカスする。
たとえば、いつもと変わらぬ朝のコーヒーの匂いや、あるいは寝る前のちょっとした読書、はたまた毎年変わらず来る特定の誰かからの年賀状だったり。そのような小さな日常のようなものを、人は抱えていきる。ただ、日常という定義上、それは普段は忘れ去られ、戸棚の奥にしまわれる。
だからこそ、たまにそれらのありがたみに気づき、人は「ああ、日常って良いわね」と独りごちる。普段からそれらに感謝し続けるほど人は時間に余裕があるわけではないし,日常も普段からそんなに感謝されても困るだろう。
アフリカでの日々を思い出す。そこでは日々がそこそこ愉快なサバイバルだった。戦場という意味ではないにせよ、なんだか全てが大変だった。言葉はフランス語だから買い物の計算が大変だし、電車はどこから乗らなくちゃいけないのか知らないし、そもそもやたら暑いし、お子様はおねだりをねだるし、そもそも移動ばかりで身体ぐだぐだなのに宿が見つからないし、そもそも夜になるとデスマッチ開始だから熱があっても油断できないし。まぁ、いずれにせよinterestingとう意味では楽しい日々だった。しかし、その時に欲したのは、何も変わらぬ日常だった。土曜日の多摩川のランニングと近所のスーパーへのエビの買い出し。そして、少しクタビレタ布団と蚊取り線香の匂い、のような。
受験の頃は「トーストと朝読む新聞」で、小学校の頃は「世界不思議発見」で、新卒の頃は「金曜日の夜更かし」で、なんだか、そのフェーズにあった「日常と呼ばれるべきもの」が、何かしらの礎になっていたし、あるいはよりどころとなっていたし、今となっては、tinyだけどcuteな思い出になるわけで。
日常ってのは、あんがいあなどれがたし、と思うわけです。

信号が点滅前に走る人

ふと思ったのだが、世の中には2種類の人間がいて、それは
・信号が点滅する前に走る人
・信号が点滅してから走る人
の2種類である。
あなたは、その道を渡りたい。できれば信号でひっかかりたくない。距離は50メートル。青に変わって数秒は経っている。うまくいけば、このまま歩いて信号を渡れるかもしれない。できれば走りたくない、かっこわるいし。
そんな時に。
走る人、と、点滅してから走る人の2種類いる。
前者はリスクをヘッジすることが好きな人だ。後者はばくち打ちで「うまくいったら、走らないで済む」場合は走らないで良いのだから、それを前提に動くということになる。あるいは、点滅してから走っても間に合うかもしれないのだから、今から走る必要はない、と考えているかもしれない。
両方とも期待値をならせば、前者は常に走るために、「信号にわたれる(+5)」でも「走る(-5)」のリターンゼロで、後者は「信号にわたれる(+5)」が5割の確率で起こるとすれば後者の方がリターンは大きくなる。ただし後者も「ギリギリに結局走る」ということもあるわけだから、数値は変わってくる。また、信号にわたれるリターンと、走る場合のコストが同じということはあり得ないので(それならば最初から走らない)、実際は、前者もゼロにはならない。ただ、後者としては5割以上の確率で走らずに済む経験をしており、なおかつ、わたれなかったコストがそこまで大きくない人かもしれない。
ただ、いずれにせよ、まぁ、そういう2種類の人がいる。
そして、こんな違いが時に、人生を大きく、大きく変えることだってある。それは1つの違いによるものかもしれないし、あるいは蓄積された違いのインパクトのこともある。
誰だって経験があるだろう。
「あの日、あの時、偶然なあれが起こっていなければ、あれはなかった」というような経験が。もちろん、起こらなかった場合を体験できない以上、「起こった場合」と「起こっていない場合」を比較できないので、どちらが良いというものではないが。
ただ、いずれにせよ、そのようなちょっとの違いが人生を分かつこともある(くどいようだが、起こってない場合はわからないので、起こっていない場合も同じ人生もあることもあるが、ただ、傾向として、偶発性の再現は確率的に非常にレアなので、仮定として上記をおく)。
たとえばそれが
・メールアドレスの間違いで、届いたメールを返信したがために仕事の交流が始まった
・飲み屋で横に座っていた人が、自分の興味のあるニッチな話題の話をしていたので、思わずはなしかけたら共通の友人がいることがわかり、友達になった
・旅行先で、たまたま見かけた日本人に道を聞いたら一緒の旅路となり長いつきあいとなる
・たまたま友人が送ってきたFYIのメールがとあるWebサービスの招待状で、忙しかったのでみそびれそうになったけど、思い直して見てみると、結果的に、それがとある専門性を持ったサイトでその道に進むことになる
・ふとなんかに誘われて、その日は買い物にいく予定だったのだけど、なんとなくそっちにいったらほげほげ
みたいなものだ。
それは、「たまたまのキッカケを能動的に行動することで発生した何か」ということであり「単なる偶然」などの話ではない(たとえば、いつもいってるカジノで100万円当てたとか、受験の山勘があたって通ったとかではない)。
これはいわゆるセレンディピティの話とも同じで、「イノベーションや発明は、偶発的に起こる。でもその偶発性は、普段の傾向によって準備される」というような(違ったらすいませn)。運命の女神は前髪しかないとかいう例えも、つまりは、何かしら起こった時にすぐに行動できる何かしらが必要という例えではないか。
まぁいいや。こんな抽象的な話をしたいのではなく。
自分は、信号に向かって走る人かあるいは友人は走る人かどうかをふと考えたり。

音楽って凄いなぁ、と。

いやね、昔は、音楽の価値を、いまほどは判っていなかったように思う。つまり音楽とは「良い音楽を聴いてるんるん」というような位置づけだった。しかし、やはり当然、音楽はこれほどまでも世界に愛されていることからもわかるように、価値というのはそれだけではない。太古の原始のリズムである太鼓が戦場を鼓舞したように音楽とは時に、カンフル剤となり、鎮静剤となり、あるいは癒しとなり、潤しとなる。つまり、薬や食事のように人のバイオリズムに非常に影響を与えるもので。その点では一種の点滴やアロマ、カラーなどと似た力を持つような気もするわけです。最近、アロマの力の話を聞いたけど、こういうのもやはり強い力を持っているんだろうね、蛇足だけど。そして、もちろん音楽の効用というものはそれだけに止まらず。たとえば、共通言語という価値や文化の表象というカルチュラルスタディーズ的側面、あるいはイデオロギーの発露としてのプロパガンダ的存在。そのような何かしらを象徴するもの(スプートニクの恋人を思い出す単語だけれども)になりうる。つまり言語であり、イコンであり、メタファーとなる。または、時に音楽は道具となる。芝公園をランニング中のスタミナを搾り取るようなロックであり、夜景とワインと男女の沙汰に彩りを添えるジャズであり、ベルリンの壁の崩れを人の心に刻み込むクラシックであり。そう考えると、時に人は食事のお店を吟味するけれども、それと同様に音楽も吟味して良いのではないか、とふと思って。もちろん専門職の人や造形が深い人はそうしているのはわかるのだけれども(DJ含め、クリエイターの方々とか)、それをうまく共有する場がないのが問題なのかな。たとえば自分が効いている音楽をうまく共有する手法とか。もちろんツールでいえば、Last.fmやiTunesなど色々あるわけだけど、たとえば、それで人と会っている時に共有する手段ってなかなか難しいよね。Zuneだかなんだかがそういうことに挑戦しようとしていた記憶もあるけど嘘かもしれない。ただ、ドライブ中や自宅なんかでは、そのような場はあるけど、もう少しあってもしかるべきなのではないかと。といいながら考えたけど、うそかも。iPhoneもっていってBARでお酒を飲んでいる時に自分のチョイス音楽をこっそり流してたらウツケ者もいいところだ。一周回ってきてアリなのかもしれないけど、あまりにもリスクとりすぎぞえ、と思うわけだ。いやね、雨だからかもしれないけど、ふとした瞬間に気がゆるみそうな時は、iTunesから爆音をかけると意識が覚醒するなぁ、とふと思ったんだけどね。そういえば過去の職場で夜中2時だか3時だかにも欠かせなかったのは音楽だったなぁ。もちろん睡魔に打ち勝つ意味で、ということだけど。そういや、「人の好きな音楽」ってあんまり知らないね。いや、そりゃこだわり強い人は「この人は○○好きなんだ」とかわかるけど(ハードロックとかヘビメタとかパンチ聞いているジャンルに造形に深い人に多いように思うが)、他だと、たとえば「ボサノバっぽい」「ハウスっぽい」みたいな謎の抽象的な好み「っぽい」くらいの認識しかないような世界ではなかろうか、とも思うけど気のせいかもしれないし、なんだっていいや。よきにはからってください。

トイレのスリッパが外にあったよ

タイトルには何も意味がない。というか、なんかのメモでこういう単語を今日見かけて、私が自分宛に書いたメモなんだけど、何のことやらちっとも判らず、とりあえずタイトルにしてみた次第。
自分宛なのは間違いないのだが、このフレーズの文脈や背景、意図が何も思い出せない。時期的には1年以上前に書いたメモに違いない。
もしかすると、ここに書くことでピンと来る人がいるのかもしれない。不思議なものだ。いわば公開鍵と暗号鍵みたいだな。でも、僕は暗号鍵をなくしてしまったので、このキーを見ても何もピンとこない。
ちなみに、そのリストから他のフレーズを探すと「付箋したままの夢」「おれたちは女性の『高校のころの写真』を見たときのベストな回答を捜し求めている 」「本の最初で最後がわかる男 」とかがある。おそらくこの辺りは2005年~06年くらいのメモのような気もする。どれもこれも全然ピンとこない。
あ、「おれたちは女性の『高校のころの写真』を見たときのベストな回答を捜し求めている」は何かのブログの記事でみかけて、タイトルが何かの小説だか名言っぽいと思ってメモしたのかも。でも、ここからどう考えても話をふくらませるとは思えない。というか、いろいろ差し支えがありそうで、書くことのメリットを想像できない。
「付箋した夢」とか、なんかポエミーでいいじゃないですかね。こういう色々想像できるフレーズは良いと思いますね。付箋した、ということは、「ブックマークした」わけで、それの意味するのは「将来、みるためにドッグイヤーを作る」というようなニュアンスであり、今はとりあえず横にのけておく夢である、というような意図や、あるいは、何かの本で見かけた言葉に蠱惑的な思いを抱きつつも現実と向き合う月曜日の夜に付箋して、そしてもう開くことのないページにアディオスと唱えるというようなシーンも想像できます。あるいは、誰かと共有するための付箋なのかもしれない。付箋とは時に自分のものではなく、他人のための存在なのかもしれない。本に付箋を貼ってプレゼントするとか小粋でいいかもしれないですね。
「本の最初で最後がわかる男 」というのも、なかなか創造性を刺激するタイトル。多分、その人は、たくさん本を読んでいるんだろうね。あるいは、まったく読まないのかもしれない。なぜなら最初よんだだけで全部わかっちゃうから読まない。でも、それが当たっているかどうかはどう判別するのだろう。推理小説だったら、犯人を推理してあたっているかどうかは、最後から5ページくらい見ればわかるけど、ドラマや恋愛、ミステリーだと、なぜ最後がわかるのかは、なかなかロジカルには説明しにくい。あ、わかった。多分、彼は、最初を読んだだけで、最後までの話を想像するのだ。そして、彼にとっては、それが読書である。最後がどうであるとか、実際の物語がどうであるとかは関係ないのだろう。そして、彼にとっては最初の数ページを読むために本を買う。あるいは、最初の数ページのために本を吟味する。だから立ち読みなんてしない。彼は装丁で本を選ぶのだ。あるいはタイトル買い。ジャケ買いよりは少し地味なセンスかもしれない。多分、「名詞+助詞+名詞」のタイトルよりは「名詞」一語か「名詞+形容動詞」といった座りの悪いようないいようなイマイチよくわからないタイトルが好きなのだろう。「7月24日通り」とか「日曜日なんか大嫌い」とか。なんかニヒルな感じの。あるいあhクラフト・エヴィング商會みたいな世の中をなめた名前に惹かれるのかもしれない。そして、ズッキーニとトマトのアペタイザーがあたかもメインディッシュであるかのように、それを丁寧に食べて、本を置くのかもしれない。
いずれにせよ、タイトルのフレーズは、これっぽっちもよくわからない。誰かに言われたのか、思いついたのか、何か気づいたのかもわからない。ただ、なんだか外にあるトイレのスリッパってのは、便利な言葉で言えば、何かしら情緒がある存在である。

名もなき週末の物語

先週末の金曜日、3人の女性を見かけた。知らない人だし、こんごも知ることのない女性だろう。ただ、おそらくその人たちにはその人たちの時間軸があり、そしてそれを彩る物語があり、そして、その物語を私は想像する。
■女性1
渋谷の文化村通りを歩いていると、1人の女性と1人の男性に擦れ違った。19時頃だから、これから飲み会に行くのだろうか。スーツ姿の男性とスーツ姿の女性。少し小雨の中をささっと歩く。男性が「だから、そこで僕が」なんとやらとつぶやいて、女性は視線を水平線から30度ばかり落とした先を見つめたまあ、うなずく。2人が平行して歩く時、お互いはお互いを見ながら歩かない。電信柱にぶつかるからだ。前を向きながら、「聞いているよ」という仕草もなく、ただ声だけを頼りにコミュニケーションを続ける。新入社員よりは少し歩き方が疲れていて、そして、バリバリのキャリアよりは1歩、歩みが遅くて、ただ目線が渋谷の地面を撫でて、そして男性のコミュニケーションが雨の後の地面をなめて。そして、週末の夜に向かって少しづつ視線は落ちていった。
■女性2
新一の橋近くのファミリーマートがある角で佇む女性。誰かを待っていた。5分裾のレギンスに7分袖の空色ボーダTシャツ。赤いナイロンのバッグを肩にかけて、UFJ銀行の辺りを眺めていた。日差しが強いのか、あるいは知り合いに会うのが怖いのか、角より少し路地に入った場所で、しゅらっと立っていた。平日の時間を考えると学生だろうか。他の可能性としては、スチュワーデスや主婦、平日休日のアパレル店員など何でもありえるとしても確率論から言えば、学生の可能性が濃厚だろう。彼女は恋人を待っているのかもしれないし、友達を待っているのかもしれない。ただ14時20分という時間帯はあまりにもアバウトな待ち合わせだ。30分に待ち合わせして10分前に付いたのかもしれない。でも、それなら、こんな時間から対岸を眺める必要はなかろう。あるいは、コンビニで雑誌でも立ち読みしておけばいい。それとも14時の待ち合わせで、まだ来ぬ人を20分待っているのだろうか。あるいは、時間は関係ないのかもしれない。自宅で待ち人を待っていて、「今タクシーにのった。ファミマでピックアップするから待ってて」と言われたのかもしれない。いずれにせよ、少し不安げなまなざしと少し猫背のシルエットは初夏の麻布十番に違和感なく収まっていた。
■女性3
時間は20時前。金曜日。飲み会に向かう人たちが電車を埋める。あるいは、疲れ切ったスーツの人々が帰路に着く。あまり混まない麻布十番も週末の夜は少しばかり混む。渋谷や新宿に比べるまでもないけれど、それでも改札が一つなのは混む要因になっているんだろう。でも、その分、改札前の待ち合わせを間違うことはないのだろうけど。南北線と大江戸線さえ間違えなければ。その中で、小走りに走る女性がいた。プリーツのワンピースをはためかせながらぱたぱたと。PASUMOを改札でビビっと鳴らし、小声で「すいません」とささやきながら人をかき分ける。モバイルSuica使えばいいのに、と余計なお節介を考えながら、彼女は3番出口に向かって走っていった。エスカレータも使わず、小走りに。左手にSuica、右手に何かの紙。これから飲み会でもあるのかもしれない。その場所のプリントアウトなのかもしれない。でも、この時代にそんなに飲み会の時間を厳守するなんて、なんともジェントル。もしかすると幹事なのかもしれない。あるいは、恋人を待たせているのかもしれない。あるいは、ブルーマンの幕があがるのかもしれない(20時だともう遅すぎる気もするけれど。知らないが)。そして彼女はどうして遅れたんだろう、と考える。仕事が長引いたのかもしれない。出る間際に電話やメールがかかってきて、送らなければいけない資料ができたのかもしれない。明日でいいや、と思っても週末だということを気づいて、週末に持ち越すのが嫌でやっつけたというセンシティブな性格なのかもしれない。あるいは、駅を乗り過ごしたのかもしれない。間違って赤羽橋までいってしまって、タイルの違いに違和感を憶えたのかもしれない。小走りに走るのは久しぶりで少しヒールが足を擦りむくだろう。
良い週末を、と誰かがつぶやくかもしれない。

村上春樹的「平和」な一日

本棚の整理をしていて、久しぶりに村上春樹の一冊を手に取った。村上春樹の小説の醍醐味は、「何気ない日常をなにげあるような一日として再構成」する点にあると考えている。そんなことを思いながら、過去のある一日を記す。
その日は、朝から晴れていたような気がするけれど曇っていたのかもしれない。記憶に残るような日差しの強い一日ではなかったのは確かだ。春にしては暖かく、夏にしては肌寒くというと陳腐な表現だけれど、いわば、「so so」「そこそこ」どこにでも転がっている気候の一日だったということだろう。時に気候は何の役にも立たないし、結局、役に立ったところでそれは後日論でしかない。天気というのは、結局のところ付随条件でしかないのだ。必要条件にたどり着くことのできないドアオープナーとしての存在を人は天候と呼ぶ。
久しぶりに会う友人だった。4年ぶりくらいだろうか。遠くからの距離でもぱっと気づけるということは、きっとその人の外形が記憶に残っているのではなく、もっと別の何かしらを記憶しているのだろうか、と思う。所作というものや立ち振る舞いというような何か。それを人はケビンスペイシーでもない限り、うまく消すことはできないのだろう。髪の毛を茶色から黒く塗り替えただけで主人を見間違う犬の世界とは違った世界に私たちは生きる。そして同時に引きこもりの私としては久しぶりに関係者以外で会う「他者」だった。
たどり着いたのは、少し階段をあがって少し階段を下がって、そしてもう少し階段を上がったお店。喧噪から少し離れ、それでも静寂からはほど遠く、ただそれでも幾ばくかは世知辛い細菌と日常に溢れた雑踏から逃れるように、のれんの奥に広がるエアポケットのような空間に逃げ込んだ。
同僚であれ、同級生であれ、友人であれ、同じサークルであれ、一時の時間を共に過ごした人間は、たとえ両者/関係者を分かつ時間が増えても、その関係性の希薄化の程度は、その空いた時間に比例しない。おそらく1ヶ月くらいの空き時間と5年の空き時間は1.1倍ほどの違いでしかない。逓減は1ヶ月くらいで臨界点に達し、あとは誤差の範囲での平行線をたどるのだろう、と思う。
とある国の話をした。特定の国ではないのかもしれない。しかし、その国はきっとどこかにあって、そして両者にとっては、追い求める国の一つだったのだろう。日本とは関係のない国で、おそらく新聞には週に1回も出ないような国。NHKのニュースになんか1年に1回も取り上げられないかもしれない。
相変わらず、その人は、そんな国を追いかけていて、そして私も違う形でその国を追いかけていて。でも、それに対してどのようなアクションをとれるかは不明確で、そしてマイルストーンも見つからなくて。そもそも、その国が特定できないのだから、リサーチさえも無意味で。でも、方法はきっとどこかにあって、その方法を探しあぐねる。たとえ話でいうならば、新大陸に向かうコロンブスのような。黄金の国はきっとどこかにあって、でも、どこにあるのか、どのような国なのかはわからなくて。それでも彼女はそれに短くない時間を費やし、そして私もまた闇夜に紛れて、その国への思索に耽る。
平和に関する話を聞いた。浅学非才の私の知識では、平和とは「戦争のない状態(byクラウシェビッツだったっけ?)」だった記憶があるのだけれど、もう少し最近の学問では、「貧困、抑圧、差別などの構造的暴力がない世界」を「積極的平和」として見なすらしい。「万人の万人に対する戦い」の中に平和が定義づけられんとしている。ねえなんともロマンチックじゃありませんか。たとえ、それがどこにもたどり着かないエルドラドだとしても、そこに一筋の光はきっとあって。大海原でさまよってサブイボたてる我々も光の差す方に向かっていて。
なぜか国際政治の話をしていると私は高揚する。もっとも軍事やいわゆるところの「戦略論」のようなものではなく、やはり、今後1000年の間でどのような世界が待っているか?というような論点だ。国という定義はおそらく変わり、「グローバリゼーション」は死語となり、そして、何かが変わり、何かはきっと変わらない。
大学時代に学んだことは、今の実務では直接的に役だってはいないかもしれないけれど、きっとこの世界には私を引きつける何かがあって。それが例え青臭い議論だろうと、あるいは理論に裏打ちされたどこにも届かない海上のレコンキスタだとしてもそこには常に何かしらのよりどころがあって。そんなことを思いながら、ヴェーバー先生の「イデオロギーとは神々の永久闘争だ」との箴言は今でも私の生活にまとわりつく。