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ふとした変化の気づき

なんてことはない。髪型の話である。
一般論として、女性は髪の毛に力を注ぐ傾向にある。たまに髪型を変える。カットならまだしも、パーマにカラーリング、梳くなどなどもある。場合によっては「洗ってもらってきた」という場合さえある。
そして、一般論として、男性はそのような変化に気づかない(生物学上で相対的に)。というか、気づかないというか、認識していない。
この話は世の中、いたるところに転がっており、村上春樹の「ノルウェイの森」でも、一つのエピソードとして語られる。ある友人以上恋人未満の2人で、女性が大きく髪型を変えたのに男性が気づかず絶縁されるというような。
いや、これは男性の注意力緩慢さや嗜好性の違いといった性差を強調するつもりはないのだけど、なんというか、しびれる。世の中の声を聞いても、このような気づきの見落としによる諍いを少なからず聞くことがあり、なんか世の中は罠だらけだ。
ただ、自己PRとしてここ一週間前後で4人ほどの髪型の変化に気づいた。会った人数から考えるともの凄い確率のチェンジである。その確率を考えるに、もはや会う人全てに「髪型変わったね」とタモリメソッドを使った方がいいのではないかと思うほどだけど、そんなことをしていると「変わってへんよ。適当やな」と、今度は注意力散漫から適当の烙印を押されるので、それはそれでしびれる。
また逆に言えば、気づいたのがその数で、おそらくその裏には気づかなかった数も多分にあるわけで、なんというかしびれる。成功した企業の裏には数百、数千の失敗した企業がなかなか目につかないのと同じ論理だ。
悩ましい。しかも、明らかに変わっている場合はよいとして、「55%くらいの確率で変わったか?」と思う場合、「髪型変わった?」と聞くのは、「2年ぶりに再会した人の名前をうろ覚えでしゃべってみる」というくらい度胸のいるもので、間違った場合のリスクは前者の方が低いものの、なんというか、心境的にはそれくらい怖い。
で、何が言いたいかというと、変化の兆候は事前の会話から読み取れ、ってなことでした。

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ウユニ

先日、この記事を見て。
雲の上を歩ける!? 場所、発見!! | エキサイトニュース
もう「雲の上を歩く」ときたら、「ウユニ」の枕詞なわけですよ。こう来ると、ウユニしかない。
ボリビア。もう響きがいいですよね。
で、最近はやたら旅行熱が再度、高まってきた。かれこれもう1年いってないからなぁ。海外は。最後がグアムか。あ、スキューバのライセンス!まぁいいや。
で、そうだ。ウユニの話をしようとしたんだっけ?
旅の話をしようとしたのか。
んと、そうだなぁ。
ウユニの話をしよう。
ここはですね、巨大な塩の湖なんですよ。で、表面に数センチだけ水がたまっている。季節によってみれないんだけどね。
で、ちょっとした水がたまってないから、車がその上を走れるのさ。ランクルで滑走ですよ。すげー気持ちよい。
でも、そこにいくまでが大変ですね。サンペドロアカタマから入ったんかなぁ。そういうイカス名前の街があって。アカタマかも知れない。ぼく、言語障害なので、どっちが正しいかわからん。
で、その前に、そうだ。ビーニャデルマルというチリのリゾートにいたんですよ。とはいえシーズンオフで、しけた感じだったんだけど。
何もない坂の上にね、日本人が溜まる宿があって。
朝から麻雀したり、本よんだり、麻雀したり、みなで料理つくったり、麻雀したり、洗濯したり、麻雀したりと色々まぁ、愉快な宿で。
それはよかったんだけど、犬にかまれて死にそうになっていたあるよ。原田が。
狂犬病リスクで。
で、ひぃひぃいいながら、チリの首都サンチアゴをかろやかにスルーして、アタカマにバスで向かったあるよ。だいたい24時間くらいかかったかも知れない。で、熱でて。
いまでも覚えてるわー。腹くだしてバスの中で悶絶していたのを。まぁいい思い出だ。
で、アタカマはもうなんつーか、古き良き時代の日本。もうコオロギとか居そうな雰囲気。まぁ乾燥しているから、もっと殺伐としているのだけど。でもネットカフェもあったよ。そこからメールだした気がする。Gmailはなかったっころのお話。
たまたま日本人の人とレストランが一緒になって。で、話してたら、なんかのボランティアできたんだっけなぁ。ああ、そうだ。彼女さんが、ウルグアイのNGOかなんかしてて、彼氏が遊びにきてて観光でウユニにきてたんだ。
まぁ、それは良いとしても、で、そこからウユニなんだけど、基本アジア人いなかった。日本人はツアーでいくのかな。わからんけど。で、現地からランクルでいくわけだけど、常にテンションマックスの白人たちが車の中でさわぐのなんの。
熱で死にそうになっていた僕は、もう車酔いするわ、高山病で死にそうになるわふんだりけったり。
しかも宿では、超卓球。白人なのにピンポンごっつうまい。
まぁそんなんどうでもええな。まぁいいや。うん
ウユニいったことがあるって自慢したかっただけかもせーへん。

上海ベイビーをやっ

上海ベイビーをやっと読了した。
読み始めてから1年もかかってしまった。
詰まらなかった、だとか
分量が多い、とかではない。
ひとつは、読むのにあまりにもパワーがいる小説だったこと。
もう一つはゆっくり読みたかったから、時間がかかった。
筆者は、衛 慧という。
weihui、なんと奇麗な字面、そして音。
上海では、この衛 慧の別の作品を翻訳している方と
お会いする機会があった。
あれは何というホテルだったろうか。
そこから連れて行ってもらった食事亭は、非常に味のあるものだった。
民家の中にテーブルをおいただけのようなところで。
実際、夜中になると、テーブルがどかされ、そこに布団が引かれる。
トイレは公共のトイレを使う。
でも、食事の味は絶品で、炒飯がとても美味だったのを覚えている。
そして麻婆豆腐と。
さて上海ベイビー。
この小説は、村上春樹におけるフィッツジェラルドのような意義が
私にはあるように感じた。
村上は、グレートギャッツビーを評してこう言った。

いつ読んでも、どのページを読んでも無駄な一行がどこにもない。
気が向いた時にぱらっとページを捲って、目に入った行をゆっくり読むんです

というようなことを(記憶なので曖昧)。
つまり、いわば、最初から最後まで時系列で読む必要はない。
ぱらり、とめくって、そのページを読むだけでも楽しむことが出来る。
世界には、そういう小説は数多くない。
そして、どのページにも一行は珠玉の一行が含まれている小説なんて
尚更ない。
多分言葉の美しさに惹かれたのかも知れない。
例えば。

創作こそが私を唾棄すべき凡人たちから分け隔てうるものなのだから、私をボヘミアの薔薇の灰燼のなかから蘇らせるものなのだから

ボヘミアの薔薇の灰燼ってば、そんな言葉、よく出てきたねぇ、とか。
あと、非常に山田詠美と印象を似ているように思った。
例えばこのようなところ。

冷たい態度にはそれなりの態度で応じなければ不公平だ。
私はそうやって自分を守る

山田さんのどっかの小説でも同じフレーズがあっても何もおかしくない。
詠美好きな誰々さんとかは、きっとこの小説気に入るだろうなぁ、とか思ったり。
あと個人的には、この辺の一文では、ジャンフィリップトゥーサンを思い出した。
そのままだけど。

彼にとってお風呂はすべての面倒を解決するために真っ先に行くべき場所であり、
浴槽は母親の子宮のように暖かく安全で幸せな場所だった。
清らかな水で身心を洗えば自分が夜の塵粉から離れ、
うるさいロックミュージックからも離れ
やくざやチンピラやごろつきからも離れ
自分を痛めつけるいろんな問題や苦痛から離れることができるのだ
ともあれ、それで、上海の事を色々思い出した。
思い出していると携帯が鳴り出した。
そこで、さらに、上海で携帯電話を無くしたことも思い出した。
そう考えると、上海の一ヶ月は携帯電話なしで過ごしていたのだ。
無論、海外旅行行く人のたいていはそうかも知れないけれど。
でも、やっぱり日本にいて、携帯がない生活というのは
なかなかイメージしにくい。
携帯がなければ、友人の日々のコミュニケーション云々は
PCメールや手紙やメッセンジャーで代替できても
待ち合わせや、仕事の段取りなどは大きく支障をきたすだろう、と。
それに携帯を持っていて鳴らないならばならないなりに
携帯の効用がある。
それは、世界は須らく予定通りに回っているということを知れるからだ。
誰かが事故にあったわけでもなし、
あるいはあの予定がスケジュールされるわけでもなし、
または、親が他界したわけでもない。
携帯がならないことで、我々は、世界が平穏だということを知ることが出来る。
その点においても携帯の効用は大きい。
でも。
でも上海ではその携帯さえもWorkしなかった。
親は僕に連絡を取ることは出来なかっただろう。
そして、唯一外界との連絡網は、すぐに切れる大学寮のPCだけだった。
陸の孤島というには、あまりにも人民広場から近い大学だったけれど、
それでも、今、思い返せば携帯のない生活は
やはり悪くなかったように思う。
上海ブギウギっ