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ネットで人生、変わりましたか?

ネットで人生、変わりましたか?
岡田 有花 ITmedia News
ソフトバンククリエイティブ (2007/06/01)
売り上げランキング: 387

業界では知らぬものはいないIT戦士とは「ゆかたん」こと、岡田有花氏のことには間違いない。
そのゆかたんさんの今までの記事は総結集。ITで人生変わった人々がこれでもかと、ゆかたんさんが紡ぐ春の調べに乗って語られています。田口さんも書かれていましたが、インタビュー術を学びたい人にとっても間違いなく有効なのではないでしょうか。
メンツは、はてなの近藤さんや家入さん、ギャル社長、字幕inの中の人、ブサイコ、GREEの田中さんなどてんこ盛りで今にもあふれんばかりの躍動感ではちきれそうです。恐縮ながら、わたくしめもチラっと掲載して頂きました。
そしてもちろん1人Xmas特集も必見であり、これを逃すと人生を損をする。
まえがきには「本書はネット礼賛本ではありません」と書かれているように、ネットは負の部分もありながら、それでもやっぱり大きな力を持つネット。その意味を個人という視点から解き明かしてくれる一冊です。
まさに「ネットとは何なのか」という言葉に集約されているような。そして以下。

ネットのない時代にはもう戻れません。だから「ネットのせいで世の中が悪くなった」と嘆くことはしたくないですし、それにはあまり意味がない。

ここを読んで思い出したのが、宮部みゆきの「龍は眠る」。確か主人公の女の子は超能力者で、運命と戦うわけでございます。そこで戦いまくってへこみそうになります。で、なんか、負けるのが運命という流れになったのかな?そこで、彼女が自分に呟いたのが「運命なんて戯言だ。それじゃ生きてる意味がない」という言葉。解説ははしょりますが、非常に深いセリフです。
それと同じように、ネットは「悪」とか「すごいとか、あるいは「だめだ」とかそんな言説っていうのはやっぱりあまり意味をなさなくて。あくまでも、自分にとってネットとどう向き合うのか、ってのがやはり大切なんでしょうなぁ、とか改めて思った次第で御座いました。
以下もどうぞ。

西尾維新の「戯言シリーズ」を今更ながらに全部読んだ

いや、申し訳ない。西尾維新フリークとしてお恥ずかしい限りなのだけれど、戯言シリーズをやっと通読した。今まで、断片的に読んでいて歯抜けがあったのだけど、今回、やっと全部読みきった。

CF
2006年、原田の眉間を刺激した小説12冊 (いけいけどんどん)

しかし、メモを全部実家においてきてしまったので引用できず。無念。

で、この西尾氏は「ゼロの波の新人」の1人と言われているだとか。もう2人はこのブログでも何度か紹介した舞城王太郎氏、そして佐藤友哉氏。個人的には佐藤友哉氏の本はいまいち肌に合わない。全員、メフィスト賞受賞だっけ?違ったらごめん。いわゆるミステリの若手。2000年以降にデビューした人たち(で合ってる?)。

高木氏いわく「物語中に重要な人物がすぐに死ぬのが凄い」と2年くらい前に言っていたのが改めて実感。「え、なんでこの人しぬん?」というようなシーンが多発。ある意味、文学に挑戦しているという意味では、メタ文学。

主人公成長物語としては、ドラゴンボールの系譜に入れてもいいのかもしれないけど、まったく違うのは、その容赦なさ。ざくざく死ぬ。えげつないくらいに人が死ぬ。それは爽快でもあり、同時に、なんだかすごい違和感を残すという点では、新しいインパクトがある。

で、西尾氏自身が言っているように森氏の影響が垣間見える気もする。天才大好きなところとか。あと、ジョジョの影響がいたるところに散見できる。登場人物の形容詞に「ディープパープルみたいな人」という言葉は小説で始めて見た。あと、「幻影旅団」の名前とかも、にやりとされる。うまいよなぁ。この辺のサブカルじゃないけど、なんつーか、カルチャーごった煮?「わかるよ」みたいな。どうでもいいけど、富樫氏のレベルEでも、筒井康隆氏のオマージュが含まれていたのが懐かしい。ちなみにジョジョの荒木氏も筒井氏が好きとなんかで公言していた。

こう考えると、宮部みゆき氏の偉大なる箴言「僕らは時代の子だよ」という言葉に首を垂れるしかない。いつだって我々は、知らない間に、巷に溢れる文化に埋もれていきているんだ。それこそガンダムだったり、ドラゴンボールだったり、ドラゴンクエストだったり、ロードオブザリングだったり、宮崎駿だったり。

今更僕が言うまでもないけど、ミステリ好きの人は必読ではないだろうか。今後ますますファンは増えるのかしら。もうピークは過ぎたのかなぁ。個人的に「りすか」はイマイチ肌に合わないのだけど。

これを新しい文学の潮流と呼べるのかしら?それは専門家に任せたいところだけど個人的には気になる。というか文学はどこまできているのかしら?浅学なものでわからないや。近代文学史はあれだよね。戦後でひとくくりにしちゃっているよね。国語辞典とかは。で、60年代で思想系はひととおり終わったんだっけ?その後にはもう荒野になっちゃったところにW村上だった?ああ、大江健三郎インパクトがその前後にあったんだっけ。ふーむ。わかんないのに言うのはやめよう。赤っ恥をかく。

ああ、個人的に「エンターテイメント小説」の王とあがめる「伊坂幸太郎」氏「石田衣良」氏にならぶ「エンターテイメント」を提供してくれてはるのが西尾さんということも付け加えたい。全力、おもっきりの主観としては。どういうことかというと、もう受けるターゲットをここぞというまで狙い済まして、そして、どまんなかに狙い通りのものをぶち込める人々です。特に伊坂氏と西尾氏に共通するのは、あきれるくらいの伏線。シリーズを超えてのね。それはなんつーか、もう小説とかの括りを超えた芸ではないかと、そう思うわけでありますよ。

ともあれ、パンチの効いた小説を読んでみたい方はいかがでしょうか(注:嫌いな人は大嫌いだと思う。特に読めないと思う。ジョジョ好き、メフィスト好き、ゲーム好きの人ならきにいりはるかも)。

ちなみにシリーズ一冊目はこれ。
クビキリサイクル―青色サヴァンと戯言遣い

ALONE TOGETHERを読んだ

なんか最近、書評多い疑惑。まぁいいか。いつも通り、本多さん。思ったけど、春樹に似ているところ御座いませんか。

ある男性が主人公。終電を逃して泊めてもらおうと彼女の家に行きました。すると彼女にこういわれます。

「今日はどうしたの?」
「人と会ってて終電がなくなっちゃったんだ」

「人?」
「女の子」
「可愛い子?」
「まぁまぁ、かな」
よしよしとうなずいて熊谷は笑った。

そして彼女はこう言います。

「可愛くもない女の子と話しこんで終電を逃すような間抜けはうちに泊めたくない。

ふーむ。

で、次。春樹さん的に言うならばダンスダンスのユキ的な女の子のセリフ。

知らないの?人生って綱渡りなのよ。

タイトロープダンシングって奴ですね。人生が綱渡りかどうかの検証はなかなか興味深いような気がする。まぁ、本人の価値観次第にはなるけれど。でも、綱渡りよりもロシアンルーレットのほうがいいなぁ。

「子供は三歳までであらかたの親孝行を済ませているという考え方もあるそうです。」
「つまり?」
「つまり、3つまでの可愛さで親は十分に喜びを得ている。だから、その後、どんなに子供に苦労させられても、その記憶を頼りに子供を愛する事ができる。

この概念かなりヒットした。すでに2回も他のところで使ってしまった。

~諸事情により略~

「することが変わるわけじゃないでしょ」とサクラは言った。

もっともな意見だったがそんなことを言ってしまえば大概の物語と音楽と絵画はその存在意義をなくす。

あれですよ。「もののあはれ」「をかし」は、もしかするとメタファーから来ているのではないか。あー、そうだ。どっかで引用しただけど、で、いま調べた。あった。「本の読み方 」で書かれていた以下の文。

比喩がきまっている、というのは、提出されたイメージが例えられるべき現実に重層的に対応しているときである。

うむ。つまり、やりまくりたいという言葉を使うならば、それに応じたストーリーが必要だな。それが出来るとそれが芸術になるのではないか。

空の青さに涙を流していられるほど大人は暇じゃないんだ。

そして、涙を流されて困るほど子供でもないんだ(嘘

で、以下はその女の子が下着をデパートに買いにいくということで、ついていかされた主人公の独白。

「正論ですね」と 僕の声はいった。
「けれど、僕の知る限り、人は正論では動きません。

そこが問題。では、それを課題とすると、正論を言い続けると人は動くのかどうか?1つは言葉への耐性が出来るので、もはや効用は隠遁するという説。もう1つは、蓄積された言葉がいつか臨界点を超えるという見方。個人的には後者を信じたいけど、これもケースバイだね。というか、毎回同じ正論を言ってちゃ人間の生理的に耐性が出来るのは間違いないから、手を変え品を変え言葉をかえなあかん。ちょうどこないだ読んだこの本に書いてあったことが以下。ヘミングウェイの話。

「老人と海」を2000回も書き直し、「武器よさらば」の結びを44種類書いたといわれる。少しづつ異なったアプローチを続けること。しかし、やり続けることである。

これだな。

才能というものが自分の力を信じきることできる能力だとするなら、彼女にはそれが賭けていたのだと思います。

深遠なるお言葉ですね。

クリエイティブ・クラスの世紀を一気に読んでみた

微妙に話題になっている一冊。

賛否両論あろうが、まぁ、見方の1つと捉えれば有益なのではないだろうか。データの計測方法に疑問は残るとはいえ、あくまでも概念の1つとしては。ただ、クリエイティブクラス、という造語(?)が適しているかは疑問が残る。日本でいう「クリエイティブ」とは少し概念が違うので。思わずネグリの「帝国」論を彷彿させる。ミスリーディングの恐れ。

ここで言うクリエイティブは、ホワイトカラーの一部のクラスターを指す。具体的に定義はイマイチされていない。しかも日本のクリエイティブクラスの例がトヨタだけという無謀試み。これも「帝国」論を彷彿させる。定義が曖昧。いや曖昧じゃないのかもしれないけど、なんか説明しにくい。

とはいえ、一般的なクリエイティブ、つまり「芸大系」とでも言えばいいだろうか。「右脳系」とでも言えばいいだろか、というトレンドも日本では起こっていて、それとシンクロする。ただし、ここでのクリエイティブはこのクリエイティブとは異なる。まぁ、しかし、延長上線には重なる部分もあるのかも。

まぁ、ともあれいつもどおり引用でも。ほぼ自分メモですがご容赦。

アメリカのトップ500社のうち少なくとも50社のCEOはアメリカ以外で生まれている。

ほぅ、というデータ。でもアメリカの人口でアメリカ以外で生まれた人が1割以上いたら笑う。これぞ統計のトリック。まぁ、違うけど。

90年代にシリコンバレーで起業された会社のうち移民が企業したものは30パーセントに達し・・・

ふむ。

「グローバルな才能の磁石」=ロンドン、アムス、トロント、バンクーバー、シドニー、メルボルン

カナダ頑張ってるね。

「グローバル・オースチン」=バンガロール、テルアビブ、シンガポール、台北、北京、上海

テルアビブか。確か行った。嘘かな、結局いかんかったんだっけなぁ。@イスラエル

今後増える職業
・専門的思考
 クリエイティビティや専門的な問題解決力が必要な職業。新しい製品のデザイン、疾病診断、創作料理。

・複雑なコミュニケーション
 デザインやイノベーションといった分野、F2Fで相手にモチベーションを与え管理するといった分野の所得の高い職業。

凄いざっくりしすぎて、あんまりピンとこない。これをもうちょっと分解してくれると面白いデータになりそうなんだけど、多分、作者も思いつきで書いているんだろうなぁ、と邪推。

私たちは潜在的なクリエイティブ資本をせいぜい10%程度しか引き出せていないと見積もっている。

この憶測が入っているのが謎。

移民は概してアメリカ生まれの市民を補完するスキルを持っており「たとえ同じ教育レベルでも問題の解決方法や発想、適応の仕方がアメリカ人と移民労働者では違うので、互恵的な学習が起こりやすい」

ふむ。移民大事。

立地優位性 ロジャーマーチン
 企業が立地による強みを認識し、その強みを発揮する時の方法論に焦点を当てた。

これって社会学、都市学とかで前から言われてなかったっけ?

クリエイティブな人はお金持になりたいがために一生懸命になるのではなく単純にそう理解するのははっきり言って正しくない。クリエイティブな人々をその気にさせるには金銭よりも内発的な報酬のほうがはるかに大事である。これはこの分野における大多数の研究によっても支持されている。

これも前回書いた「すべきだからするのではなく、やりたいからやっているんだ論」に似ている。

90年代半ばまでに科学論文の世界一の生産地域はアメリカを越えてEUが担うようになった。西欧の研究者は22万9000件の論文を書き、アメリカは20万1000件、日本は5万7400件、日本以外のアジア全体で4万2700件であった。

うーむ、どう見るべきか。

グローバルクリエイティビティインデックスによると日本は2位。1位がスウェーデン、3位がフィンランド、4位がアメリカ、5位がスイス。

北欧凄い。日本は一部データがなかったはず。本書参考。

個人的メモ。P.204 ブランド国家論の参照

で、これに続いて、同じく「クリエイティブクラス」の特集を組んでいたハーバードビジネスレビューを読んでみた。ざっと知りたいだけなら、この雑誌で良いのかもしれない。

Harvard Business Review (ハーバード・ビジネス・レビュー) 2007年 05月号 [雑誌]

国連の人間開発指数を見ると日本、アメリカ、スウェーデン、ノルウェー、オーストラリア、カナダなどが上位に並んでいます。177カ国の中で中国とインドは81位と126位です。それだけ問題や貧困を抱えているということです。彼らが本質的に競争相手になるにはまだまだ時間がかかります。

これはブランド国家論用のデータ。今日、1年ぶりくらいに「国を作る」夢の理論的裏づけ(そこまで大したものじゃないけど)を話して、色々思い出した。やっぱり、こういう空中戦も好きだなぁ。

Q.日本で自己表現の高まりは見られるでしょうか?

若者の文化やゲーム産業の隆盛を見る限り、かなり自己表現が行われているように思います。

ちょとちょっと、もうちょっと真面目に分析してよ!ここからは「ゲーム産業を見てそう思ったよ」としか読み取れないよ!少なくとも、若者の文化に突っ込めよ記者!モバイルやブログ文化かなぁ。

藤本隆宏氏が指摘しているように、日本はモジュール生産のような分業型事業よりも、「すり合わせ(インテグラル)型」の事業に強く、これが国際競争力の基盤になっていること。

ほう?これの概略はたしかはしょられていた気がする。あ、これって、単に加工貿易のこと?違うよね。マッシュアップ型事業ってことかな。ちょと気になる。

日本版LLPの特徴は3つある。「有限責任」「内部自治原則」「構成員課税」

最近、LLPが微妙に気になるお年頃。

このようなeランスエコノミーはとっぴな仮説どころかすでにさまざまな形で現実化しており「リナックス」の開発はけっして特殊な例ではなく、インターネット事態の発展と共に一般化していくだろう。バーチャルカンパニーの登場、アウトソーシングや在宅勤務の増加、フリーランスや臨時労働者の急増も顕著であり、また大組織の内部における臨時プロジェクトチームの重要性の高まり、社内起業家の増加、事業ユニットの独立なども1つの現われなどと言えるだろう。

データが欲しいところ。まぁ肌感覚ではわかるけど。

このような集団はコーホートと呼ばれる。顧客のエイジングに合わせてブランドを変えながら絶えずコーホートのニーズに合致させていく。我々はこのアプローチを読者と一緒に成長していく魔法使いの少年になぞらえて「ハリーポッター型マーケティング」となずけた。

だそうです。

結論としては、話のネタにはいいかもね。でも、この論文だけで、政府が動くには、まだデータが良い気がする。ゲイが多いのと都市の発展性ねえ・・・。カナリアインデックスみたい・・・(鉱山のカナリア数で云々ってやつ)。

ほな

ビジョナリーピープルを一気に読んでみた

ビジョナリー・ピープル
ジェリー・ポラス スチュワート・エメリー マーク・トンプソン 宮本 喜一
英治出版 (2007/04/07)
売り上げランキング: 21

久々にノンフィクションで一気読みしてしまった。電車の中で読んでいたのだが、駅を出たところにあるカフェにそのまま突入して一気に読み終えた。予定が押しているにも関わらず閉店直前まで一気に。

この本は「ビジョナリーカンパニー」の筆者たちが書いた続編。このタイトルは訳者がつけたもので、原題は「Success built to last」。まぁ、ビジョナリープープルの方がキャッチーでよかろう。わかりやすいし。

個人的にこういう本から学ぶのは多くのファクトである。一個人の経営者の哲学や成功の秘訣とかはどうでも良くて、こういう無数の「実際にあった話」が好きなのだ。こういうファクトをつむぎ合わせて物語を作っているのは王道のはずなのに日本のものではあんまり見ないような気がするのは気のせいでしょうか。海外の本ではかなり多い。特にマーケティング関連の本では、そういう書き方をしないと売れないのではないか。トムピーターズのはファクトは少ないけど。逆に日本だと、1つの事例とかだけをベースにしている気がする。勘違い(あるいは浅学による偏見)だったらすいません。あ、政治学とか哲学でも散見できる「基本的な書き方であり王道」。書くほうにしては死ぬほど大変だけど。

まぁいいや。で、死ぬまでに3回は必ず読み返すであろうと思う本。あるいは全体を通読するのではなく、ぱらぱらと読むだろうと思われる。そんな気がする。

まぁ骨子としては、特に新しいことを言っていない気がする。「ビジョナリーピープル(いわゆる永続する成功している人々:この場合の成功は本書の定義参照)」になるには、意義、スタイル、思考が必要だってな話で。

あ、そして、成功の定義が「意義」というようなものにフォーカスされている。そのようになんとなくか解かっているけど、改めて、こうしてデファインされると、何かと他の文章でも使いやすそう。まぁ、学術書かどうかといえば、僕は分からない。ただ、最後の分析手法を見ると、コンジェクションなんちゃら(失念)と呼ばれるちゃんとした解析手法を使っていたのは、さすがだなぁ、と僭越ながら思った。やっぱり、ファクトを並び立てるだけじゃいかんのだよなぁ、と。当たり前だけど、そうなりがち。あくまでも、定量的なものをなんとかひねくりだして、それを「有意の分析手法」で分析して、そして、その肉付けに定性的なものを入れ込む。それが奇麗。

今回は、定性的なものにこだわったようで(もちろん事前にはアンケートなどもしている)、全体で10年もかかったそうである。もう筆者たちこそが、まさにビジョナリーピープル。

で、まぁ、なぜ素晴しいかというと、言っている内容よりも、やっぱりテンションがあがる点が良いかと思われる。なんだかんだ言って、わたくしめ、青臭い人間なので、こういう「当たり前だけど、偉人に言われるとなんとなく納得してしまう」という言葉に揺り動かされることがあって。名言とかね。そういう意味で、これは良い。ただし、逆に言うと、そういうのが嫌いな人にはとことんNGな本だろうと思う。

so what?になりかねない。もっとも、この本はちゃんと示唆があるのだけれど、でも、うーん。

じゃあ、引用一気にいきまっせ。とはいえ、ここに紹介する引用は、全体でメモった引用の1/3から1/4程度ですが。

今日におけるリーダーシップの仕事は、ただの金儲けではない。それは意義を考え出す仕事だ。

いろいろなところで使えそうな名言。真偽はともかくとして。しかし、実際、ビジョナリーカンパニーにもあるけど「時計を作る人」は、まさしく、意義を作り出しているといっても過言ではない気がするなぁ。

この世界において正しいことを賛美するのは、このうえなくダサくてカッコ悪い行為なのだ。我々は安全を気にする両親、親戚、高等教育機関、そして夜のテレビニュース番組によって、楽観的な人たちを無視したりあざけったりするよう、実に巧妙に教育されている。

おー!そうだよ、そう。よく言ってくれた、と痛感した一文。たとえば「世界平和」をうたったり、「勉強しなくちゃいけない」と叫んだり、あるいは「環境問題を考えよう」「いじめはだめだ」とかいう「当たり前のこと」を言うのは、現代においては、あまりにも陳腐化してしまっている。

なぜか手垢にまみれてしまったその言葉たちは、虚ろに空気の中に霧散してしまう。そして偽善のレッテルを貼られる。でも、言わなくちゃいけないんだよなぁ、と改めて思った次第。でも、ここでは「テレビ」が槍玉に挙げられているのだが、まぁしょうがないとしても「マスメディア」のチカラが大きいんだろうなぁ。

テレビで、最初にこのような「当たり前のこと」を流す。それを何度も流すから、一般人はその言葉を聞いても「知ってるよ、テレビで見た」という愕然とする態度を取ってしまうことになるのではないか。マスメディアは「難しいことを分かりやすく流すプロ」だから、テレビで見たことを人間は「そのままに」受け取ってしまいがちである。たとえば、環境問題に関してテレビはずっと問題提起をしているとする。それを「なんとなく」見ている人びとは「ああ、環境問題って大切ね」とだけ感じる。それでわかったつもりに「なりがち」。しかし、実際に何が原因で、どれだけの被害があって、そして対策としては何が出来るのかを自分の頭で考えるプロセスがないと「最低限のわかった」にはならないのではないか、とか思う。もっともこの本自体にも言えることだけど。つまり読み終えるのではなく、「and them」どうする?みたいな。

リーダーは楽観的でなければならない。その理由は簡単、もしそうでなければ他に楽観的になる者は誰一人いないからだ。

なかなか素敵な名言。

悲観主義者はどんなチャンスにもそこに内在している難題を見つけるものだ。楽観主義者はどんな難題にもそこに内在しているチャンスを見つけるものだ。-リンカーン

これは、原田の座右の銘である「悲観主義は感情であり、楽観主義は意志」という名言と繋がるところがありました。

目の前の危険が大きくなったとき、必要に応じて悲観的な姿勢をとるという選択をしていた、という事実だ。

これ、改めて、ちゃんと文にされて嬉しかった。つまり、「死」や「取り返しの付かない失敗」が、リスクに織り込まれるときは、いくらポジティブな人でも、それをヘッジするという「悲観主義」な立場を取るということである。

本文で記されているのは、ボーイングのテスト飛行の話だったかな。それは失敗したら人は死ぬ。だから社長は「まぁ、大丈夫だろ!いけ!」と楽観主義になることは絶対できない。

アフリカのことわざにあるように、私は何かをことさら大切にしない。そして排斥もしない。なぜなら、もし片方を大切にするのなら、もう片方も大切にしなければならないからだ。しかも、取り組むべき仕事は相変わらず残されたままだ。

これの意味は、賞賛も、そして批判も同じだけの価値として認めるというスタンス。その効用はなんだったっけな?忘れちゃった。本文を読んでください。ここのスタンスだけが強烈にインパクトがあった。こないだも書いた「選んだ選択肢と同様に選ばなかった選択肢にも哀悼するべきだ」ということに繋がるところがあったので。

ココは野生動物の能力に対する世界観を転換させてしまった。

本書の中で一番震えた一文はここだった。ココは、人間と手話が出来るゴリラ。そうなんだよ。いちゴリラがコペルニクスになった瞬間なのだ。

われわれは子供たちに頼れるものを与えていない、人はコンピューターやゲーム、デザイナーズブランドの洋服、かわいい自分の用紙、自分の格好のよさに頼っていられるわけではない。人が頼りにできるのはその人自身だけなのだ。マーバ・コリンズ

そうなんだよねー。なのに、人は物に固執する。あれはなんなんだろう。所有欲というのはわかるけど、それは「生存欲」の下の概念のはず。ならば「自分の確固たる価値観」の前には、物欲なんて霧散してしかるべきだと思うのに。あ、わかった。食欲は上位のレイヤーですよね。で、その食欲の食というのは古来は貯蓄しておくべき穀物だったわけで。特に農耕民族である日本人は。だから、その食欲は物欲と密接に関わっていた。だからこそ、その名残が、今も強い。ブランド品を買い漁るのも農耕民族ゆえだからではないか。おお、これ新しい切り口。どうよ。

犠牲者を演じているかぎり、世の中に対して建設的な影響をいつまでも与えられる可能性はほとんどない。

これもなかなかぐっときた一文。当たり前だけど、気付いていなかった。そうなんだよ。

「同情しろ」というスタンスを見せていても、誰一人それに関して感銘を受けることはない。「かわいそう」と思うことはあっても。感銘というのは何かというと世の中を少しでも前進させる振るえのことである。つまり、「○○訴訟」とか「○○問題」とかで裁判を争っている人を見て、違和感を覚えていたのは、ここに原因があったんだ、と納得した。もちろん、彼らは可愛そうだと思うし、それなりの補償をしてあげるべきなんだろう(立憲君主制の日本においては、法律をどうしても上位概念においておかないと、モラールの概念が崩壊するから)。ただ、それとは別に、その訴訟をすることは、法律家に任せて、犠牲者ぶるのは、他人に任せて、彼らなりの何か云々。この辺、下手なこというと怖いので言わない。

月着陸の宇宙開発競争を例にしてみよう。しばしば忘れられてしまう事実に「1960年代のうちに人間を月に送り込み、無事に帰還させる」というこのBAHGが発表されたとき、アメリカは実際にこの計画を成功させられる根拠がまったくなかった、ということがある。

原田の「国つくる」ユメは根拠ないとは言わないけれど。

アンディ・グローブの人生はセレンディップの王子の逸話が教えている意義をそのまま反映している。幸運は覚悟を決めた者にほほえみかけるのだ。

覚悟は人間を飛躍させる、という前に紹介したキルケゴールの名文と通ずるところがある。

今すぐ自分にぴったりの職業が見つからなくてもOKだ。けれども見つけようという努力は常に続けなければ鳴らない。あきらめは禁物だ。ぴったりの職業が見つかったらあらゆるものが変わるはずだ。

けんすうが前に書いてたところだな。↓

最近、プログラマーの友達と話していても思ったんですが、もうやりたいことをやるっていうのは、単に「やる」んじゃなくて、やらなくてはもういてもたってもいられないことだと思うのですよ。「やりたいことってなんだろう」とか「やりたいことを見つけます」みたいなことを言う人がよくいるんですが、そういうレベルじゃないというか。

オーケストラの演奏者は職業の満足度からすると、刑務所の看守の下

へー、と思った一文。こういう小さなファクトが小説を書く時に生きる。

大切なこと、それは意義だ。意義はあらゆるものの原動力になっている。ビジョナリーな人は自分の意識の標準を自分の生きがいにあわせ、その生きがいについて多くのことを把握している。彼らは自分の生きがいについての、つまりさまざまな顔を持つ情熱についての専門家だ。

なかなか名文。情熱に関しての専門家。いいね。ブルーハーツみたい(謎。

たった1度の挫折によって自分を見失ったり拘泥することはない。スケープゴートを探すこともなければ思うようにことが運ばないときに非難がましいことを口にすることもない。それどころか成功を収めている人たちは効果的な仕事をして自分の追い求めている成果を達成することを第一に考えるのだ。

so, it’s our turn, shall we?

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この本が好きな人は、以下の本もおすすめ(by 原田)

青臭い感じはありますが、でもやっぱり、この泥臭さが好きだなぁ。

アップル宣言―クレイジーな人たちへ

CROSSROAD GRADE UP version

アウトサイダー

二十歳のころ

Webキャンペーンのしかけ方。

これまた2、3週間ほど前には拝読していたのに遅くなってしまった。献本いただいたので書評コーナー。

タイトルの通り、広告の最前線で戦っておられる方々による一冊。しかも、「Web広告のしかけ方」ではなく「Webキャンペーン」というのがミソのような気がするのですがいかがでしょうか。個人的に、このようなときに「広告」なのか「マーケ」なのか「PR」なのか「クチコミ」なのか「プロモーション」なのかとかいろいろその違いを悩むときがあるのですが、キャンペーンなわけです。

で、豊富な事例がぎっしり紹介されています。実際に成功した事例が紹介されているので腹落ちしやすいです。たとえば、ブロガーを招待したスカイラインイベントやso-netのヒロシキャンペーン、NIKE+のWebキャンペーンなどなどなど。Webを利用している人なら、少しでも聞いたことのある話に触れられているのではないでしょうか。

で、個人的に気になった点をいつもどおり引用。

アメリカのARDはEngagementをつぎのように定義している。「消費者を取り巻くさまざまなコンテクストを活用して、消費顧客をブランドの世界へ巻き込むこと。それは消費者を巻き込む参加型コンテンツを通じてパーソナルでディープなブランド体験を消費者に提供してもらい、その力を借りてブランド力を高めていくことである。」

このエンゲージメントの概念は、まぁ前からちらっとは使われていたとはいえ、やはり新しい概念なのでは?広告効果を評価sる新しい基準。ポイントは「消費顧客を巻き込むこと」なんでしょうねえ。個人的には。つまり、コーポレートブランドとかだとさらに効果があるのではないかと思ったり(短いものよりは長いもののほうがいいのでは?)。ROIだすにはかなりのロングタームになってくるのかもしれないけれど。

あと渡辺さんが紹介されていたWebキャンペーンを成功に導くための4つの方法「DRIP]ですが(「Deep」「Interactive」「Participation」「Repeat」の頭文字)、なんだか恋愛に似てるなぁと思いました。「一歩踏み込んだ関係」「対話から成り立つ関係」「参加して実感」「誰かに紹介したくなること」。恋愛だとこの4つめの紹介したくなるかがとくに重要なのでは(良い意味でも悪い意味でも)とか思ったり。

ともあれ、Webの業界で広報やPRや広告やマーケあたりを触っている人には必読の一冊ではないでしょうか!

家入さんの「こんな僕でも社長になれた」を読んだ

いやー。2回泣いた。しかも電車の中で。さらには電車乗り過ごした。赤羽橋で降りなくちゃいけないのに、大門まで行ってしまった。

ご存知ペパボの大社長、家入さんの本。

わたくしめ、こういった立志伝を読むのはとても好きなのだけれど、その中でも、本書は非常に独特の雰囲気を持った一冊でした。そもそもビジネスの項と前半の項の割合からして独特。

ではいつもどおり、少々引用させて頂いてご紹介。

絵本を読んでもらっていた幼きころの家入さん。しかし、毎回同じなので飽きてきた。そこで・・・

より新しい面白さを求めて、今度は同じ絵本を後ろからさかさまに読んでもらうのだ。

の下りには素直に感動した。この発想すごい、とか。

これはきっと人類が正常位にあきてバックをはじめたのと同じ原理だな(動物的にはバックが基本で正常位がイレギュラーだとしても)。そうして文化は発達していくのだ、多分。

そんなわけで、気がついた時には僕は電車に飛び乗っていた。とにかく遠くへ行けば何とかなると思ったのだ。

ここは共感した。僕も高校生にもなってしていた気がする。授業に嫌気がさすと大阪城にいって寝てた。。そういえば山田詠美の「僕は勉強ができない」の最後らへんにもこういうシーンなかったっけ。電車に揺られて遠くまでいくの。なんか、そういうのには、何かしらのイデアがあるのかも知れない。

そう思い立った瞬間の僕には、実行する以外の選択肢はなかったのだ。

先日読んだ水曜の朝、午前三時で引用されていたキルケゴールのセリフを思い出した。

人間は選択した瞬間に飛躍する。

これですよ。はらくくった時に人間は生まれ変わるのですよ。多分。

考えれば考えるほど絶望的な状況だった。下手すれば巻き添えを食ってペパボまで倒産、なんてことになりかねない事態。
(・・・落ち着け、落ち着かなくちゃ)
僕は一旦深呼吸をして、椅子に深く座りなおした。

このシーンがとても好きだった。

人生、いきてたらこういうシーンってばよく直面して。まさに口がからからになる、というような。そんなことを追体験してしまったシーンでした。

ゲシュタルト崩壊しない範囲で自分の記憶を思い返すならば、うーん、、、、アメリカで事故った時とか?

もう血の味が口に充満するわけですよね。ピンポンじゃないけど「鉄の味」って奴。あーやだやだ。精神衛生上にそんな記憶を思い出すのは良くない。

どんな困難にも真っ向から立ち向かうことがよしとされる世の中でとにかくひたすら、逃げ続けることに全力を注いできた。

この逃亡で思い出したのはフロムでも、ハリソンフォードでもなくこちら。

椿ひらいて墓がある | 上等な逃亡

「逃げる」っつーことは良いことだ。

私は、逃避または逃亡を多くの場合良しとする。

~中略~

すべてを引き受ける覚悟を決めてさあ逃げよう。

逃げて逃げて。。逃げまくった先には青い空。

とりあえず熱いコーヒーでも飲んで、

明日の朝の目覚ましでもかけようか。

この文章読んだ時、かなり衝撃を受けた覚えがあり。なんつー超越した哲学だと。何があったんだと。壮。それを思い出しました。こういった価値観、つまり、一般的に「マイノリティ」とする価値観を自分のものにするには、相当のプロセスを経る必要があるのではないか疑惑があり、そもそも、本質的にマイノリティの価値観があった人でも、世間体というものからそれとの違和感を感じて、それがコンプレックス(精神の複雑性)をうんでいるという前提があり、それにより時にはアイロニックになったり、自我の崩壊にも直面するわけで、そのため、それを持っているだけでもそのような副作用があるのに、あまつさえそれを自分のものにするには、適切なプロセスを踏まないと自我と社会との軋轢を生んで齟齬が生み、その違和感がいつしかホメオスタシスを破壊するのではないかと思うわけで、その適切なプロセスとはまぁ経験であったり、あるいは超越した意志やあるいは宗教なのだろうけど、ともあれこんなことを僭越ながら僕が邪推しても何も生まないわけで、、こうマイノリティの価値観を是とできるということはかっこよいなぁ、と思う次第。

というように、色んなことを考えてしまった一冊でした。

週末は本を読んでいましたよ

先週末は、またも引きこもって本棚片づけまくっていた。

で、ひややかに本のメモ用のブログがあるんだが、片付けるついでにポストしていった。2日間で50冊ほどレビューできて充実。そのままダンボールにつめて7箱は大阪に旅立った。ということで、せっかくなので、本多さんの「Finedays」レビューを。

本のメモブログ

FINE DAYS
FINE DAYS

posted with amazlet on 06.12.17
本多 孝好
祥伝社
売り上げランキング: 102002

ちなみにこのFINEDAYSも短編集だったのだが、おすすめの一冊。MISSINGとこれがおすすめ。

僕は50音で埋まっていた原稿用紙をひっくり返し、
裏に「反省文」というタイトルをつけて「すごくしてます」と書いた。
それだけではいくら何でも愛想がないような気がして、
少し考え、付け足した。「本当です」

なんかいいよね。このどこにもたどり着けない感が。しいて言うならば、薬局でロシア語を使って煙草を値切る、という風景が思い浮かぶよ。ピロシキもったロシア人。すげーツバ飛ばすの(イメージです)。で、薬局のおばあちゃん苦笑い。

ともあれ。反省文ねえ。中学校の時1回あったかなぁ。どうせ遠足にポカリもっていったから、とかいうメタ牧歌的。まるで、地獄の黙示録の前の静けさを現すほど平和な時代だったよ。

まさか安井がそんなことをするとは思っていなかったけど責任というものは結果にともなうものあって、意志に伴うものではない。

はい、これインポルタンテ。復唱はい。責任は意志に伴うのではなく結果に伴う。はい。

これが何を意味するかというと、「手を出すつもりじゃなかったんだよ!」という言い訳を全否定することに使えますね。

「でも、やったんだろ!」みたいな。ありがち。

非常に深い。結婚式で読み上げたい一句ですね。

次、大学の教授と助手(女)の会話。

「ツトム。すらっと背が高くて、育ちのいいハムスターみたいな顔をした男の子」
「覚えていませんね」
「ほら、いつもゼミのとき、教室の片隅で便秘気味のパリサイ派みたいな顔で座っている」
お通じに悩む厳格なユダヤ教徒みたいな顔をした育ちのいいハムスター。
私の想像力を超えていた。
「いたかもしれませんね」と私は面倒臭くなって妥協した

これずるいよ。本多さん、明らかに狙ってるのに笑ってしまった。パリサイ派とか、凄いところついてくるし。微妙に知っているけど、日常では絶対つかえへん、みたいな。うまいなぁ。

あと最後の1行好き。

「めんどくさくなって妥協」。こういう妥協が人生を彩るよね。何事も、「鈍すれば通ズ」ってのは詰まらん。妥協がいいというわけじゃないけれど。

で、話の続き。ツトム君を心配する教授。

「ゼミに友達がいないみたいなんだよ、彼」
「趣味がいいんでしょう」

なんて素晴しい返しなんだと。

これこそが宮田君の電光石火のカウンターですよ。これは人生の色々なシーンで活用することができます。

それではごきげんよう。

時間の「借り」という恐ろしい資本主義の構造

MOMENT

なんとなくブログを書きたくなったので、過去の書評を引っ張り出してきてポスト。省エネ。

いつぞやかおすすめした本多さんの本。本筋はイマイチなのだけど、相変わらずディテールが素晴しい。

特に素晴らしく気に入っている一文がこれ。

エリートは貸しを作ることは気にしないけれど、借りを作ることは嫌う。
資本主義というシステムを知り尽くしているからだ。
借りには必ず利子がつくことをわかっている。

これですよ。
素晴しい慧眼。ここまで資本主義の本質をついた文章は見た事がない(言いすぎ)。マルクスも本多さんよめ。

いやさ、でも、これは恐ろしいほど真実で。

まぁ、金とか借りは作らないに越したことはないんだけど。さらに、気付かずに作ってしまうのが「時間」という借りね。これ以外と、知らない間に回りに借りを作ってしまう。

たとえば「遅刻」。あるいはアポの「延期」。これとか全部、借りを作っているわけですよ。まぁ、でも、この辺の「貸し借り」の概念は理解しやすいはず。

で気をつけたいのが「メールの返信レスポンス」。これって借りなんですよ。多分。てか最近、気付いたんだけど。

返信ってさ、同じ文面を返信しても、早いか遅いかで価値が全然変わってくるんですよね。特に、なんか参加数r申し込みとかもさ早いほうがいい。飛行機もそうじゃないですか。早割りがあるように、早いほうがいい。

つまり、メールの返信が遅れるのは相手に借りを作っているんですよ。で、資本主義の原則においては、借りはすべて負債。

なんてことを思っていたわけですが。まぁいいや。MISSINGに戻ろう。似たような言葉がもう1度。

「学習しただけです。おつりを返し損ねると利子が高くつく。」
「何?」
「資本主義社会における単純な経済学です。」

ということですね。

借りにはそして利子がつく。返信を忘れたメール1通が、どんだけ負債を生み出すことか。どうでもいい話だけど、この三連休は数ヶ月間に返せていなかったメールを返した気がする。1年ぶりとかのレスは迷惑以外の何ものでもないだろうけど、借りとか抜きでなんだか返したかった。

で、MISSING.

どんなシーンか忘れたけど、主人公(男)の前で女性が服を着替えるシーン。恋人同士ではない。

上田さんは僕が期待したとおりのことを僕が期待したのとはちがう方法でやったパジャマを着たままワンピースを頭からかぶり、背中のファスナーをあげないまま、服の中で両手を動かして上田さんは起用にパジャマの上を脱いだ裾からパジャマの下も出てきた。
「小学校のころから不思議だったですけど」と僕は言った。
「女の子はいったいいつごろその特殊技術を習得するんです?」

「見せることに値段がつくって気付いたころからよ」

それが本当とするなら、小学生のころから男の子と女の子との間にはものすごいさがついてくる。ひょっとしたら男の子は永遠に女の子に追いつけたりなんてしないのかも知れない。

同意。

そして、永沢さんの紳士論にも通ずる素晴しいアフォリズムがこれ。

「言わないのね?」

「はい?」
「もう帰ろうって」

「せっかくのデートですから」と僕はいった。

「デートを終わらせるのは女性の役目です。引き伸ばすのが男の役目」

キザすぎるという話はあるけど、なかなか応用が利きそうな言葉。

これを見るとノルウェイのラストシーンを思い出した。主人公が最後、レイコさんとすき焼き食べた後のシーンで「いいしわです云々」というシーン。なんか、あのシーン、好きだなぁ。

まぁいいや。じゃあ、最後。

「先人たちがむちゃくちゃに傷つきながら築きあげた平和の中で」そのおばあちゃんたちを眺めながら僕は言った。

「うん?」

「魂を汚さぬように鍛えながらロマンチックな大人になる」

「何だ、そりゃ?」

「学習の結果に生まれた将来の目標」

特にひねりのある文章ではないのだけれど。魂を汚さぬようにってのが良い。そしてロマンチックな大人ってのが良い。大人はそもそもリアリスティックでプラグマティックだからこそ、やっぱりロマンチックでいたいですね、そうですね まる。

#クラーク博士も「Boys Be romantic」って行っていれば少し世界は変わったのかしら。

筒井康隆御大のお言葉

第16回三島由紀夫賞選評
はてブより。2003年だかの記事らしいけど。
三島由紀夫賞の選評です。「阿修羅ガール」という本の。

書くことが他にないのかと思えるほど男女の愛やデートやセックスの話ばかりであり(何度も言うようだがセックスとは書くものではなくするものだ)

キッタコレ。筒井御大節。

 近年、某社からやたらに若い女性の書き手が登場するが、本来的に二十歳以前の文学は無理なのである。

しかし、あの後も女流作家はどんどんでてきていらっしゃいますよ!
最近は、オナコーラというファンキーな人まで!本は面白かった!
タイトルは「私のセックスを笑うな」。何がよかったかって、高橋さんのあとがき!

だいたい井伏鱒二やトオマス・マンが毎年ふたりも三人も出るわけがないのであって、売り出すとすればまさにその年齢でしか書けない感性によるしかないのであろうが、そんな才能だけでいつまでも書けるわけがなく、大学に入ってからの文学修業など知性の末端肥大や混乱を招くだけであって、彼女たちの将来を考えればティーンエイジャーの文学デビューをここいらで打ち切りにした方がよいと考えられる。

これってあれか。
蹴りたい背中のこと?あるいは金なんちゃら何がしの蛇とピアス?

出版社はホリプロではない。ティーンエイジャーの女性文学者だけで「モーニング娘。」を作ってどうするのか。大人の読者を馬鹿にした所業としか思えず、架空の想定による彼女たちの追っかけめいた若い文学愛好者など当てにしてはならない。

この断言かっこいいなぁ。
うん。実際、わたやりささんの本は紀伊国屋で立ち読みしたけど、何がいいのかこれっぽっちもわからなかった。

彼女たちのデビューを邪魔しようとするものではないので、彼女たちに相応しい別ジャンルでの活躍は大いに望まれるが、少なくとも文学を標榜することは慎んでいただきたいものである。

きゅぁかっこいい。てかここまで引用しすぎて大丈夫かしら。
だろ。
師いわく、小説家になるのは30歳でも早すぎるのだ。40歳からっていってたかなぁ。忘れたけど。サラリーマンせずに小説がかけるか的な。
ちょうど、先日、阿修羅ガールについて書いたところだった。蛇足だけど。
2006年、原田の眉間を刺激した小説12冊

いわく、佐藤 友哉と西尾いしんと舞城 王太郎。だったよね?嘘だったらごめん。ノベルスの王者か。メフィストの3人集だった?まぁあやふやな記憶。

いやさ、僕も文学なんかいう気高い言葉を使う気はないけどさ、うなんか、ふわふわしたよくわからんので賞とりはると、「本の底力」ってのが見くびられてしまう恐れがあるのではないかとオムわけだよ。そうすると先達たちへの冒涜になるわけだよ。だから、やはりここは一線をかす必要があるわけですね。
「あれは単にブームでした」というような。
確か、これも筒井さんの言葉だったと思うのだけどね。
SFショートショートの書評で。
「アイデアだけは抜群にある。しかしアイデアだけで本はかけんのだ。基礎ができていないと話にならん」と。なるほど、と思ったことよ。
ほんで、また別のところで、1999年くらいだったと思うのだけど。もう少し前かな。
「今は、小手先だけ上手い人が増えた。しかし、文学というのは、そういうものではない」と書いていて。おおなるほど。と。
これってば、多分、**のときの**さんのことを評してはったんだと僕は認識したのだけど(ともあれ、それは当時のことなので現在の平野さんとは別問題というか、原田は関知せず)。
まぁ、しかし、あれだよ。
セックスは書くものではなくてするものだよ。村上龍御大にいっておいてあげてください(いい意味で)。
しかし、友人いわくセックスはするものではなく、持つものだ、という深い名言はある。
さらにはセックスはアンカウンタブル(不可算名詞)なのに、回数は数えられるという不思議な単語。ゆえにI have a sexではなく I have sexだった気がするけど、これ回数の場合は?timesがつくのね。なるほど。
あと幸せも望むものではなく感じるものです。