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可能性だけは腐るほどあるキミに

荘太さんのメルマガで、以下のコピーを読んだ。

「可能性だけは腐るほどあるキミに」

雑誌KING(休刊)の創刊コピーだそうだ。
ふむ、と思った。
この言葉を見て学生たちを思った。なぜならわかいからだ。わかいというのは時間があるということであり、時間があるということは可能性があることと相関関係にあるケースが多いからだ。
もちろん、自負としては自分は歳をとって可能性が減ったとは思わないけれど、まぁ一般論としてはよく言われるように
「小学生のころは、なんにでもなれた」というような言葉があって。
つまりケーキ屋さんでも、パイロットでも、科学者でも、博士でも大臣でも。
でも歳を取るにつれて、それらの選択肢は良い意味でも悪い意味でも、集中されフォーカスされ、淘汰され、そして、それを人は成熟するという。
で、まぁ学生たちにたまにお会いする。別に彼らだけが可能性に溢れているわけではないけれど、やはりそこには社会人とは違った可能性への生き方があって、それはそれはなんだか眩しい。
石田君とか関君とかわせプロの太田さんとか飯沼君とか、アイセックの高木さんとかアルカーナでも手伝ってくれている藤井君とか山本君とかとか(いろんな理由でこのあたりで記載とめましたがご容赦をば)。
でも負けずに、可能性への飽くなき探求はいつまでもポケットに忍ばせておきたいなぁ、とか思って。
いずれにせよ、でもやはり「歳を取るだけ可能性が広がった」という生き方の方が、愉快な気もしていて(良いか悪いかはわからない)。

最近の色々

■アポロン
先日、apolon.jp – 仕事と才能を結びつける、クラウドソーシングサービス アポロンというサービスをリリースしました。
これは「才能を売買できる場」というようなサービスで、仕事の受託・委託をB2B、B2C、C2Cで無料で行うことができます。クラウドソーシングの一環という試みです。
個人のエンパワーメントという理念を実現させるためのサービスの1つと位置づけています。
思いとしては「世の中にはビジネスにはしにくいけど、凄い才能がある」「そういう才能はビジネスになればもっと素敵そうだ」というような流れがあります。たとえばもの凄いニッチ分野の知識とか技巧とか。あとC2Cの市場が今後広がることを願い。
詳細は以下です。もしよろしければご登録頂けると末代まで喜び、庭かけめぐります。
» クラウドソーシングというトレンドに関して: SNS,ソーシャルネットワーキング.jp
■大恐慌勉強会
フリーエージェントs.jpで先日「大恐慌ってどーよ」勉強会が開催されたので参加しましたよ。
今後のトレンドとか、不況にいけてるビジネスとかを議論。一番参考になるのは、やはり、「生の声」で議論できる点でしょうか。評論家や教授などの話ではなく、この市況のまっただ中に居る人たちのぴりぴりした声というのは、とても参考になります。しかも、おのおのの分野における肌感覚というようなもの。
■質問会議を体験してきたよ!
先日のエントリでも紹介しましたが質問会議という書籍があります。
» 会議と読書とはあちゅうと(本レビュー) (いけいけどんどん)
こちらはアクションラーニングの世界の一環(でいいのかしら?)で、会議の手法が紹介されています。質問しかしちゃいけないという手法なのですが、それを実際に体験してきました。
詳細は千葉さんの以下のエントリに詳しいです。
» スーパーブランド人 大集合!『質問会議』スペシャルセッション|出逢いの大学
で、この質問しかしちゃいけないというのがどれほどの利点があるのか、自分なりに感じたところとしては、
・消極的な人でも発言できる(疑問を言うというものは、意見を言うよりも言いやすい)
・間違いがないので質問しやすい(質問には正解も間違いもない)
・ダメだしをする人は頭をひねる必要があり、単なるダメだしでも生産的になる(相手のマズイところを突こうとしても、それを質問形態に変えて局部を突く必要があり、いわゆる「質問力」が問われる)
・意見が流動的になるので、会議を進行しやすい
・いちいち意見に回答するのではなく質問に回答するため、なんか回答者がやりやすい
などなどでした。早速、会社でもやってみようかしらん。
古屋さんありがとうございました!
■お詫び
メールがしこたまたまっていて返せて居ません。不義理を本当に嘆くばかりです。がんばります。

お風呂つれづれ

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昔々のお話。

「なんでお風呂に、桶を置いていないの?」

と聞いた私に

「かっこわるいから」

と返され。おお、そういう見方もある、と思った。世の中で物事に対する見方は一律じゃないのだ、当然ながら。
そういう価値観のお話を書こうと思ったけど、どうも最近、そのようなぬるっこい真綿でなんとやらな文章が多くて不評なので、今回はお風呂の話にしよう。
風呂の話で一番最初に思い浮かぶのはトゥーサンの「浴室 (集英社文庫)」である。内容はもはや忘れたが、お風呂に入ってやすらぐ男のシーンだけを思い出すことができる。もっとも自分で想像したシーンだけど。良い作品だった、印象論として。確か、山田詠美もほめていたのではなかったか。
あと、上海ベイビーでも、お風呂のシーンがあった記憶があるけど、勘違いかもしれない。むしろ、上海ベイビーの作者のほかの本を翻訳なさっている方のおうちのお風呂が素敵だった(日光がそのまま風呂に入るガラスの壁)という記憶間違いかもしれない。
思い返せば、風呂のシーンがある小説って以外に少ないだろうか?「酒井 あゆみ」さんの本では多いけど、それはまた別のお話。あ、思い出した。「痴人の愛」だ。これは僕の話ではないが「ナオミゴッコをしよう」と言われて、なんのことかと思えば、お風呂で体を洗わせるという話で、うまいこというなぁ、という「友人の話」を聞いたことがある。
そうか。お風呂で何かが起こらない限り、小説ではお風呂のシーンは必要シーンとして登場しないのか。映画だと、「サービス」の意味で、そのようなシーンは無駄に多いけど(特にアメリカ)。昨今の映画でも「チャーリー・ウィルソンズ・ウォー」「最高の人生の見つけ方」「ベガスの恋に勝つルール」あたりでも当然のごとくあった気がすると友達が言っていた(電文推定)。
あ、「千と千尋の神隠し」では舞台でしたね。でも特筆すべきことはなし。映画でバスのシーンで印象的なのは「プリティウーマン」のシーンかしら。誰かが言っていたのか、どっかで読んだのかわすれたけど、そのバスタブのシーンで、ジュリアロバーツが長い脚で、リチャードギアを云々というシーン(これ)が記憶に残っている。あとはサスペンスではよく風呂場で人がやられますね。お約束。特にシャワールーム。
まぁいいや。そういえば自分を思いかえせば、世界中のお風呂に入ってきた(メタファー的なまずい意味ではなく)。逆に欧州のは入ったことないけど(全部野宿だったから。でも駅にシャワーがあった)。
それで印象的なのは、ガーナの「水しかでないシャワー」やハンガリーの「同性愛者専用の公衆浴場」、エジプトの「バケツシャワー」、モロッコの「なぜか10畳くらいある馬鹿でかい風呂場」などが記憶に残っている。日本では川のお風呂や雪見風呂、アクシデンタルな貸切風呂などよく考えたら、お風呂っていろいろ記憶があることに気づいた。
過去で「人から聞いたお風呂の話」エピソードとしては以下のようなものが記憶によみがえってきた(男女・伝聞問わず)。

「毒素がたまったらお風呂で抜く。頭までざぶんと使って、ふなふなになるまで入る」

「お風呂ではひたすら本を読む。ページがしわしわになるまで」

「お風呂には青いものしか置かない。」

「お風呂では、桶は斜めにおかないとカビが生えるから斜めにおくこと」

なんてことを思い返しながらお風呂に入ろうと思った。人はそれぞれのマナーと思いでお風呂に入るのだなぁ、と。
※この記事は消す可能性あり

差分なる人生

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人生とは差分である

と最近思う。誰かの言葉でありそうな言葉だけど、とりあえず原田の認識として。
どういうことかというと、人生には、色々な意味で山や谷、あるいは右肩上がりだけのグラフの人もいるかもしれないけど、まぁ、横軸が時間な世界で線は軌跡を描いていくものです。
その縦軸が何かは人にもよるけど、たとえば「金銭」「名誉」「ステータス」などのような典型的な人もいれば「幸せ」「成功」「社会貢献」のような抽象的な場合もあるだろう。人によって、そのKPIは変わる。
いずれにせよ、それらは大小の差はあれ軌跡を描く。一般的には、それが上下して、「まぁ、人生ってそういうこともあるよね」と失敗やへこみや公開や失恋などを得て、その谷を「糧」にしたり「そういうものだ」ととらえたりして、グラフは続く。つまり株価のグラフのように、上下に軌道を描きながら人生は進んでいく。
ずっと上昇する正の一次関数的なグラフを描く人は稀だけど、そういう人もいて。ただ、積分すればやっぱり、それでも上下に揺れているものなのだけど、まぁ、尺度の取り方によってはそういう人もいるかもしれない。あるいは「私の栄光の五分間(cfアンディウォーホール)は幼稚園時代だ」とうそぶいて、人生下降まっしぐらという人も逆にいるかもしれない。
いずれにせよ「上下ある人」「ずっと上昇」ないし「ずっと下降」のどの軌跡だとしても(MECE的にいわば)、それは差分の世界で。つまりは、人は昨日よりも今日とどうだったかで人生を計り、局地的にソレは意識しないとしても、過去を振り返り「遠くまできたなぁ」「よくやってきたなぁ」「死ぬまでにはこれをしよう」「三十までにはうんぬん」と差分を意識して生きる。
人生における何かしら尺度の差分というのは結局、相対的なもの、ということで。そして、それは突き詰めるところ、主観でしか得られない程度であり。つまりは、他者との座標軸が異なれば、同じ緯度・経度にいたとして同じように見える位置もまったく意味を持たなくなる。
だから何が言いたいかというと、人生の楽しさというのは個人における差分の大きさによって定義することも可能ではないかということで(もちろん他のとらえ方もあるが一例として)。そう考えると、ずっと上昇トレンドにおいては差分はベクトルは常に正になるので、大きさは限られたものになる。つまり微分におけるベクトルの大きさ(絶対値)の累積が人生の楽しさなのだから、そう考えるとマイナスは、人生に価値を付与するベクトルの動きだと考えられる。
もちろん絶対的なゴールによってそれを決める人には向かないけれど、あるいは定量的に人生をとらえる人にとっては違和感もあるのかもしれないけれど、そのゴールを目指すのは自分であり、定量的にとらえる主体は自分であることを考えると、それらのとらえる自分の尺度も結局のところ「人生は差分」というドグマを逃れることはできないのではないかと思う(できる場合もあると思う)。あるいは、そのような一次元的な目標は、時間というもの、ひいては歴史というものを侮辱することになりはしませんか?と思う次第。つまり、「故人たちが作り上げてきた歴史」に対する「新しい前進」というのは、差分の世界であり、そこに生きる以上、どのような目標であれ差分の世界を無視することはできないわけで。
で、結局、結論は特にないのだれど、自分なりのグラフを描きたいなと思う次第です。

「リュックサック一つが自分の財産すべてという状態でも勝負できる自分でいたい」

という人の話をふと聞いて、そんなことを思ったとさ。

運とか奇跡とかセレンディピティとか

少し前、はてブ界隈で運の話が話題になっていたような気がする。
大前さんだか、出井さんも「成功するのに大切なのは運だ」というスピーチをしているのをどっかで読んだ。
で、調べたらあった。
運と機会を味方に「1人でも企業を変えられる」–出井氏が贈る起業家へのメッセージ:ニュース – CNET Japan
で、もう1つはこれか。
POLAR BEAR BLOG: 「計画された偶然」という姿勢
つまり、物事を成功させるためには運がかかせないが、その運とは

「計画された偶然」理論では、「運も実力のうち。幸運が訪れたときに逃さないように感度を高めたり、幸運が訪れるような努力を行うことが大切」と説くわけです。

というものに裏付けられる。
まぁ、これを聞くと麻雀とかを思い出す人もいるのでは。
どたんばで無茶苦茶ヒキが強い人がいますけど、そういう人たちってのは、どう考えても「運を引き寄せている」としか思えなくて。
やはり、おりる時は降りているし、場を読んでいるし、なんか、ちゃんと計画された運って気がする。
わたくしめのの考えとしては、科学的に考えて純粋な意味での「運がいい人、悪い人」というのは存在しないような気がする。
なぜなら運というものに価値を与えるのは主観でしかないわけで(つまり「いい」「悪い」)、そんなものは科学的に傾向がうまれようがない。
では、なぜ「運のいい人悪い人」がいるかというと、人間がそうラベリングしているからそう見えるだけである。つまりは、これも前に書いたけど、心理バイアスの問題ですな。
で、加えて、その「いい」「悪い」が「人間の視点から見て偏っていた」という場合だとしても、確かに「運のいい人、悪い人は存在する」という仮説を考えることは可能である(つまり、チリ人とコロンビア人とコスタリカ人の3Cの国には美人が多いという言説を論証するのと同義)。
しかし、これも結局、たまたま可能性の問題として「ここぞ」という時に「良いと判断しうる運」をひっぱってくるタイミングが重なったわけで、そう見えるだけである。
つまり、長期の平均でならせば、その「運の良さ」は局地的な単なる運の偏りでしかありえない。
この辺は行動ファイナンス理論 なども参考になろうか。
で、まぁ、それはそれとして、でも、しかし、そのような運が「偶発的」なものならば、逆にその「偶発性」を準備することは可能ではないか?ということを検討する余地があるのも至極当然。
で、それが冒頭の「計画された偶然性」になるわけだが、この言葉を聞くとセレンディピティを想起する人は少なくないかと。

何かを探している時に、探しているものとは別の価値あるものを見つける能力・才能を指す言葉である。何かを発見したという「現象」ではなく、何かを発見をする「能力」のことを指す。

具体例として以下のようなものが挙げられている。

# アルバート・ホフマンによるLSDの幻覚作用の発見
# 田中耕一による高分子質量分析法(MALDI法)の発見
# スモーリー、クロトー、カールによるフラーレン(C60)の発見

しかし、こんな高尚なものでなくとも、もっと卑近な例はいくらでもあると「個人的には」考える。
たとえば、「めがねを探している時に、前に失っていたワッペンを見つける」だとか「失恋して映画を見ている時に、その映画から新しいビジネスアイデアを思いつく」だとか。(超適当ですが)。
で、このような偶発性は、まさしく計画できるものである。
つまり「偶然」が起こる可能性は前述のように、なべて均一だとしても、その均一に訪れる運を、うまく活用できるかの素地作りができる、というか。
つまり「誰でも人生で5分間はヒーローになれる」とウォーホールだかチャップリンだかは言ったけど、その5分間を、最大限活用できるするようにするには、個人の裁量にかかっている。
たとえば、「キャンベルスープの缶」を見て、それをアートだと思い新しいポップアートを生み出してしまう人がいる一方で、それは食べ物にしか見えない人がいるというような。
そして先ほどの卑近な例でいえば、「めがねを探しながらサングラス」を見つけるには、サングラスをなくしたという事実を覚えておく必要があり、あるいは「映画を見てビジネスアイデア」を思いつくには、常日頃から、それに関して考えておく必要があるのと一緒で。
で、ここで久しぶりに原田ライブラリより奇跡を引用。

私たちの生き方には二通りしかない。奇跡など全く起こらないかのように生きるか、すべてが奇跡であるかのように生きるかである。

この言葉が重みを持つのは、まさしく、この奇跡を生み出したアインシュタインからの言葉であるからに他ならない。
もっともアインシュタインは、不確定性原理(だったっけ?)という奇跡(偶然)を認めなかったという逸話もあるそうですが、それはご愛嬌。
で、何がいいたいかというと、やはり、森羅万象、我が身に起こる奇跡や偶然が、「たまたま」だとしても、あるいは「計画されたもの」であったとしても、やはりそれは「天からの僥倖だ」と捕らえたほうが人生、ハッピーに生きれるに違いない、とかおもったのだ。

眠りと夏と洗濯物と血液型

■はしれはしれ丘の上
今日は久しぶりに朝からはしった。普段は夜なのだが、最近はどうも夜がドタバタしているので朝にシフト。
朝とはいえ6時代、7時代だとまだ涼しい。人も少ない。サザンの夏の歌を聞きながら軽快にはしるのだけれど。
そこでふと思ったのだけれど、「夏」という季節は損をしているんじゃなかろうか。
日本では、端的に言って四季があり、その季節は、12ヶ月の1/4づつ。つまり3ヶ月ごとに切り替わっていく。
旧暦は抜きにして、現状だと3月から春、6月から夏、9月から秋、12月から冬、といったところだろうか。
実際は4月から春なのかも知れないけど、それをすると、冬が1月からになり違和感がある。
ともあれ。しかし、日本には「梅雨」という季節があるわけだ。これは、ご存知の通り、春と夏の間に存在する。公的には認められていない可愛そうな季節。
しかし、そこに梅雨が入る。大体、6月末から7月終わりまで。そう考えると、本来ならば夏のテリトリーである6月がまるまる梅雨に奪われてしまうことになる。
つまりは、夏は他の季節に比べて1ヶ月季節が短いのだ!なんたること。
ついさきほど、この事実を知って愕然としてしまった。つまり夏生まれは自分を褒め称える季節を1ヶ月損をしているということになるのだ。
これは良からぬ。声を大にして叫ばねばならない。
いっそのこと、季節を「春」「梅雨」「夏」「秋」「クリスマス」「冬」などにしてみてはどうか。冬はクリスマスに正月に卒業式にとイベントを独り占めしすぎなので、クリスマスは切り離すほうがよかろう。
またやはり季節は偶数でないと、季節の取り合いをした時に不便がおころう。そのために季節は6つが良いような気がする。
■靴下を干す奴
ベランダにある靴下を干す奴。なんていうのだろう?あれ。パッチンと留めるものが葡萄の房のように連なったもの。
あれの1つがポトリと床に落ちた。まるで南天のようだった。
ただ問題なのは、この洗濯物に欠かせないツールのことを私は26年間も知らずに生きてきたという事実だった。
■血液型
最近まで血液型をこれっぽっちも信用していなかった。
いわゆる「○○型だから、○○な性格だよね」という先入観である。
理由は簡単で、世の中がそんな4つに切れるわけがない(RH-などを入れるともう少しあるけど)。
ただ、勿論、血液型の存在経緯(歴史)もどこぞでききかじったことがあるので、そのような血液型が裏付ける性格の論拠も、明確に否定できるものでもなかった。
さりとて、まるで合コンのように相手に血液型を聞いて一喜一憂するのは、どうもはばかられることだと考えていた。
しかしである。
昨今、この血液型の力が、実は思っている以上に強いのではないかと改めて痛感している次第。
それを認識するには、四半世紀の年数を要したわけだが。
やはりA型の人間は○○だし、B型は○○だ。というようなニュアンスがなんとなくわかってくるようになってきて。
今まで興味がなかったので調べたことがなかったのだが、ボトムアップから考えれば、納得することが多くなってきた。
「A型は○○君と○○さん、○○ちゃんと○○さんだから、A型ってのは、ああいう人たちを言うのね」と帰納法的にA型を理解していくようになったというか。
そうして、ようやく血液型が持つ何かしらの総意。わかりやすく言えばイコンのようなものが読み取れるというようになってきたというか。
特に面白いのは、血液型の4分類だけでなく、親の血液型を組み合わせるとさらにバリエーションが増えるということである。
たとえば、単なるBでも、AOなのか、BOなのかで性格が変わったりする(気がする)。そう考えると、血液型は10種類を超えることになる(ほんと?)。
ということで、最近は血液型がブームで会う人によく聞くのだが、なかなか正解率は高いような気がする。ここ最近10人で7人くらいは一発で当てられた気がする。
というか、今更こんなことを書くのもナンセンスなのだけど、みなさんはたぶん、血液型をより詳しくご存知だとは思いますが。
まぁ、こういうのは自分が体感したいんとピンとこないというお話でした。
■眠りの街
メッセンジャーでオンラインの人の9割が退席中だった。まるで世界が一斉に眠り姫になったのではないかと思ってしまった。

脳内物質をぶっ飛ばせ

ふと雑感。
我々の日々はいくら平穏のように見えようとも、感情の起伏や体調の良し悪し、果ては気持ちの揺れなどをなくすことはできない。
たとえ1ヶ月引きこもって、外部の情報を遮断して、出家のような生活をしたところで、それは外面的な「安定性」を産むに過ぎない。
内面のゆれを抑えることは、ほぼ不可能に近い。なぜなら、外面的な安定が持続することで、それにより内面ではそれが新しい刺激となり、耐性/慣れを生み新しいフェーズへと動き出すからだ。
とはいえ、それをマネージすることを出家や悟り、はたまた解脱と呼ぶのかも知れないけれど、それらはあくまでもマネージするということであって、内面性の安定を生み出すのとは少し違う。
どういうことかというと、いくら我々が安定した日々を送ろうとも、脳内物質は黙っていてくれないのだ。
いわゆるセロトニンやドーパミン、アドレナリンなどは脳内で暴れはっちゃける。それゆえに、いくら仕事が順調でも唐突にダウナーに入ることもあれば、あるいはイキナリテンションがあがることもある。
女性は男性よりも感情の起伏が激しいというが具体的に証明されているのかどうかは知らない。それはホルモンの関係性に因るものが大きいと推測するが、男性にだって月一でのバイオリズムの偏重はあると聞いたことがある(外面的には何の変化がなかったとしても)。
それにホルモン云々だけではなく、「いい空気を吸う」「うまい飯を食う」「十分な睡眠をとる」「身体を動かす」「恋をする」などの外的変化だけでも、内面の動きは大きくなり、そのバラティリティたるや推測不可能。ある程度、過去の事例を参考にして、それをコントロールできたとしても、それは可能性の程度問題であり、他の要因が入れば、そんな定理は簡単に崩れる。
卑近な例でいえば、いくら上手い飯を食おうとも、ぐっすり寝ようとも失恋の後は、マインドをアッパーにもっていくことは難しいように、メンタル面を支配する要因は須らく同じものではない。
それゆえに、脳内物質のコントロールは非常に難しいのではないか、と考える。もっともだからこそ薬やドラッグなどが活用される昨今なのだろうけれども。
そう考えると、我々というものは「哲学云々」「人生の意義云々」という形而上的なもので心の平穏を生み出そうと試みても、ほんの瑣末なことで簡単にそのような平穏は打ち砕かれてしまう。
そうすると、あえて誇張して言うならば、人間は脳内物質に支配されているといっても過言ではないだろう(ある一側面だけをみれば)。
とはいえその脳内物質も、事象の連鎖を紐解けば、外的要因が大きく寄与しているので、広義な面でいえば、その定理は当てはまらないのだけれども。しかし限定的なところで言えば、やはりそれは実体験をもって、それを納得することができるのではないか。
たとえば、いくら仕事が順調でも突然スランプになることがある。あるいは、酒を飲むと辛いことを一時的にでも忘れられることがある。そのように、自分での理解できない要因により精神が左右されたり、逆にある任意のツールを使えば精神を左右することができるというのは、まさに限定的な意味での脳内物質の力が絶大であるということの証左ではなかろうか。
とはいえ、この話も堂々巡りになる。結局、その脳内物質をコントロールする要因は外的とその他の要因に分かれるために、これを切り分けて考える必要がある。その為、不確定要素を持った発作的に起こる脳内物質の乱れ。それは病気と言われることもあれば、人間のアンステイブルな心理状況の要因、つまり「不確定要素」を持った変容においては(切り分け後)においては、やはり人間は脳内物質に支配されているといえる余地がある。
しかし、である。
so what、とわたくしは言いたいのである。たかがなんミルグラム(という単位で良いのかしら?)のやろうどもに精神を乱されてたまるか、というか。
そんなわけのわからなぬものに精神を支配されてたまるもんですか、と。とはいえ、こう考えると、心身二元論となっていつの時代の寝言だ、になってしまうわけだけれども、そりゃ密接に関係してようが、あるいは健全な肉体に健全なる精神がやどろうが、んなもん知るかと。
ロジックは勿論破綻しているのだけれど精神論的に。
まとまりがつかなくなった。まぁ、言うならば、ダウナーは認めん(自分に対して自分として)というか。
もごもご

ご機嫌なお天気ですねぇ

いやー、昨日までの続いていた鬱屈とした天気が嘘のよう。
ゴキゲンですなぁ。
これが台風一過というものでしょうか。
ただ、ここから「台風が過ぎ去った後は、天候に恵まれる」という定理を導き出すのは、「昨日も今日も雨だったから、明日も雨である」という帰納法と同じくらい詭弁で。
単に1つの各論から総論を導き出してはいけない。
ここから導き出せる唯一の定理は、天気がいいと人間はゴキゲンと感じることがある、というくらいである。しかも、それがエクセプションではないということを否定できる要素はない厄介な話ではあるが。
もっとも、台風が過ぎ去った後は、天候に恵まれる「こともあるという」テーゼを導き出す出すこともあるが、それは「天候に恵まれる」という可能性がアトランダムな以上、「台風が過ぎ去った後」という条件設定は、何を置いても成立してしまうわけで(たとえば「核が落ちた後は」でも「ベルリンの壁が崩れた後には」でも成立してしまう)、そう考えると、「世の中には天候に恵まれることもある」という定理にしかならず、それはもはや定理としては何の意味をもたない。
つまり、いつか引用した「東京タワーからカンジュースのプルタブを落とすと、人は死ぬ」という定理と同じ問題になってしまう。
もっとも、「天気がいいと人間はゴキゲンと感じることがある」という言葉さえも、「天気がいい」と「ゴキゲン」が定義されていないので、なんにも使えない定理である。
さらに言うと、「天気がいい」と「ゴキゲン(気分がいい)」というのは、ある「良い」という主観に基づいた感情であるゆえに、それは、「相対的に定義」されるものである。
つまり、ここでの「いい」というのは「感情の触れ幅のアベレージが平均以上である」ということであり、この平均というのは、「悪い」「普通」ということからも導き出される数値である以上、そもそも「いい」というものは主観の粋を出ない。
たとえば、雨しか降らない土地においては「降雨量が少ない」ということが「天気がいい」と言うことだって可能なのだ。
ということで、とりあえず、こういう下らないエントリーを書いてしまうほど、今日は天気が良くて私はゴキゲンだ、ということくらいしか私はわからない。

美しい文章

綺麗な文章に憧れがある。
どうしても自分のライティングは思いつくままに書いてしまうので論理的な意味でも、修辞的な意味でも、伏線的な意味でも、まったく美しくない。ただ美しさについて語ることは許してほしい。
美しい文章とはどういうものか?いろいろな種類はあると思う。
UIの部分でいれば、見出しやインデントやリストや改行を適切に使っているという美しさがある。
論理的なところで言えば、誰かを例示するまでもなく、ゆるぎなく美しいなピラミッド構成を作り出す魔術師たちがいる。
修辞的なところで言えば、個人的には塩野七生さんや開高健さん、芥川氏などが好きだ(反論はかなりあるだろうけれども主観で言えば)。
小説としての構成で言うならばやはり伊坂 幸太郎氏やポールオースターなんかは美しいと思う(これも極度の主観による偏見あり)。
文章のリズムなら村上龍や町田康なんかは素晴しい。
ともあれ。
ブログでも名前は敢えて挙げないけれど「なんて美しい文章を書くんだ」といつもうっとりする人がいる(有名な人ではなく友人で)。
さりとて、無理に今、美しさを分類してみたが、本来、このような美しさは分類不可能なものである。アンカウンタブルであり、ゲシュタルト形態のようなものである。
陳腐な比喩を使うならば、バラの美しさを客観的に記すことができないのと同じことだ。その色をRGBで説明して、鮮度や明度を記して、あるいは別の何かの引用して記したところで、そのバラの美しさは、写真1枚にかなうことはない。決して。
だからこそ、美しい文章が尊いものであり、そしてはかないことの理由なのだ。
よくできた文章や技巧が凝らされた文章は、ある程度の努力で身に付けることができる。それこそ「模倣」を続けていれば、いつしか近いものが生まれることになる。
しかし、美しい文章というのは上記のように文章化できないものであるゆえに、そう簡単に習得することはできない。
そして、同時に定理化が不可能ゆえに永続することもできない。いつしか美しい文章を書いていた人が、何かのピントがずれて、美しい文章をかけなくなったとしても、やはり、彼/彼女は美しかったころを取り戻すことはできない。なにがずれたのかわからないからだ。
よく使われるアイロニーを利用するならば、「何かが変わったのは明白だ。ただしよく変わったのか悪く変わったのかはわからない。」ようなことになる。
そして、厳密な意味での「美しい文章」も存在しえない。なぜなら、美しさというのはそれ自体が独立して存在しえるものではないからだ。
美しいという形容詞は、第三者による主観によって初めて付与されるラベルなのだ。そのため、「美しさ」というのは、必ず、常に誰かに寄りかかった形容詞である定め。
バラは名前がバラでなくとも美しいが、バラを見る者がいなければ美しくはないのだ。
そう考えると、誰しもが評価しえる美しさというものは原理的に存在しえないことになる(あるいは、反証可能性のレイヤーにおいては、近似値の完全な美しさを出すことは可能だが、それは仮説でしかない)。
しかしさりとてポイントは別のところにある。それは、美しさが存在しなくとも、美しさを目指すプロセスは存在しうるということだ。
よく言われる言葉に「完璧を目指すな。そんなものないから」という批難がある。しかし、それはある意味正しく、ある意味間違っている。
完璧は存在しえないのは事実かも知れない(それの判断は留保)。しかし、完璧にいたる道筋(正確にはいたるではなく、目指す)は存在しえる。
そのプロセスことが重要なのだ。それを証明するのが故人たちの遺業であり、その結果生まれたのが科学の進歩なのだ。
13次元の宇宙なんて存在しえないかもしれない。しかし、それを明らかにしようとする試みは決してナンセンスではない。あるいは話を少しずらした比喩を使うならば、神が存在するかどうかは問題ではなく、信じるか信じないかが問題なのだ。
そう考えると、美しさというものは手に届かないゆえに、逆にそのプロセスを深遠化し、広大化させてくれている。
「高嶺の花」は、恋人にするのではなく外から眺めている方が幸せなように、美しい文章とはそういう相対的な存在として、この世に欠かせない恋人なのだ。

人生に期待しすぎなんじゃない?

これもなぜかリストに書かれていた。
これって僕が書いたのかしら?あるいは誰かに言われたのかしら。誰かに言われるにはいささかヘビーすぎる言葉で、そうそう忘れることはないので自分で書いたのかもしれない。引用かもしれない。
少なくとも1年以上前に書いたものだ。
さて「人生に期待しすぎなんじゃない?」という命題はなかなか興味深いお題である。
さて諸君。諸氏は人生に期待しているだろうか。あるいは夢見る頃は過ぎてしまったろうか。
何か困った時、人生は絶妙な按配で、絶妙の采配を下す。信じられないような「奇跡」とでも呼ぶべき僥倖により救われたり、結局何も起こらず寧ろ泣きっ面にクマンバチの状態か。いずれせによ、つまりは確率の問題の領域を出ることはない話。
ともあれ、しかしそれと人生に期待することとは別の事象として存在する。人生で何が起ころうと、あるいは何も起こらないとしても、それはあなたがどう考えるかとは別の次元の話なのだ。
人生は期待すべき価値のある対象か、という命題も派生して興味深い話である。人生が陳腐でちっぽけならば、期待すべき対象ではないけれど、そもそも人生が雄大で広大で壮大だったとしても、そもそも人の期待なんて何かを期待するものを持たない動詞なのかもしれない。いずれせによ、これは検討するプロセスは興味深いとはいえ、結果が面白いものにはならない。期待すべき対象であろうとなかろうと人は生きていかねばならぬのだ。結果によって行動が変わることない命題は答えを出すべきじゃない。そんな人生短くない。
さて話を戻すと「人生に期待しすぎなのか?」。ここで興味ぶかいのは「しすぎ」という言葉である。つまり、節度の保たれた期待ならば、それはそれで期待しすぎとはならない。臨界点を超えてこそ、やっとその期待は成り金となれる。これを検討するには別のアプローチから考える。
「したいことをして生きられるのが幸せだ」という言説を最近、いろいろなところで目にして。これはある種の期待である。それが幻想かも知れない可能性は認めない。そもそも、実現可能性を検討しないままにそれを受け入れることも期待である。
結論としては人生はそんなに甘くない、というのが共通見解だろう。誰がなんといおうと人生は甘くない。これは自明の理でありギリシア時代から自然界三大前提の1つである。疑ってはいけない。さりとて「人生が甘くない=したいことをして生きる」是非はまた別だから話はややこしい。個人的には最近、これに懐疑的で、人生とはしたいことをして生きるほどもったいないものはないという気がしている。人生とは、やはり「すべきことする」の方がとてもしっくりくるのだ。それはしたいことではなかったとしてもすべきことであればすべきである。そういう心持が強い。もっともこれは主観であり、なんのファクトでもない。
ただそのスタンスで見れば、人生に期待することはない。なぜなら、期待しようとも期待をしなくても、結果が変わらないからだ。すべきことをする以上、人生が優しかろうと厳しかろうと、そんなの所与条件としてとっぱらっちまえ、となるわけである。
ふむ。つまりこれは主観をベースにした人生に期待の無効化とでも言おうか。それにより落胆のリスクヘッジというかモーターサイクルダイアリーズというか。
完全に個人のメモ書きになってしまった。