あの頃はまだ知らなかった。湿った木の生い茂る神社の裏側で、僕はただ無能に夏の日差しを浴びていた。木に打ち付けられた紙の「わら人形」が何をするかなんて意味を知らなかったし、その子供にとっては知ったところで何も人生に寄与する話でもなかった。ただ、永遠に続くような蝉の鳴き声。そして、もはや町中に立ち上る蜃気楼。くらくらしても、水なんていらなかった。声をからしてボールを追いかけまわっていた。無論、そんな時間は長くは続かない。世の理の如く、時は流れ、人に死に、夢は霧散する。木っ端微塵。それでも、子供ゆえの傲慢さと、そして怖いもの知らずの単細胞。その歯車が回っている限り世界は自分の手の中でまわっていたし、彼にとっては実際そうだった。まるでざりがにを釣り糸で釣るように、世界はチャチで飄々としていた。悪くなかった。
夏がいつの日からか顔を変え始めた。朝顔という言葉を聞かなくなって久しくなってからだ。朝顔の水遣りに言った日々を今、懐かしく思い出す。もはや池とは言わない干からびたデカイ穴をただ、友達と眺めていた。時々石を投げながら。恋という言葉さえも知らず、知っていたところで彼らにとっては邪魔なものだけだった。世の中の万事は適材適所で動いている。あなたが知ろうと知らまいと。誰が転校してきても、誰かが転校していっても吉本隆明が転向しようともどうでも良かった。そんなの3日と持たない刺激。刺激を求めて犬を追い掛け回し、こおろぎを飼う様な。そんな夏はいつしか水着とビールの夏になる。カブトムシはもういない。かたつむりもいなければ、カブトガニだっていない。道頓堀にも、筑後川にももういない。稲穂が色づくころにはそんな夏も色あせて来るべき冬の憂鬱さと見たこともない空の重さ。そんな日々の中で夏の思い出は磨耗してゆく。
夏が全てだったとは言わない。しかし天主が作った造形物の中では秀逸なるものなのだろう。夏を造形物といわないのかもしれないが。いずれにせよ太陽は罪なるもの。そして神の共犯者。愁嘆、悲嘆、嗟嘆と人の嘆きと鬼胎を屈託することもなく狼火をあげる。根本から震源から禍根さえも燃えつくすような情熱で底なしの時間が平々凡々な日々に上乗なる時間を上乗せする。六日の菖蒲と目ぼしいものなんて肝心要のベンベルグ。
それくらい夏とは雄大だった、てことだ。
「雑記」カテゴリーアーカイブ
20年間、歌を聴かなかった人は歌を理解できるのだろうか?
Checkpadでブログのネタというリストを1つ作っていて。ブログに書きたいことを思いつきでメモっている。
その中でこんな一文があった、「20年間、歌を聴かなかった人は歌を理解できるのだろうか?」と。
これは自分で思いついて書いたのか、どっかからの引用なのかわからない。いつ書いたかさえも覚えていない。
でも、土曜日の朝もやけの中、なんだか気になる一文だった。
20年間、歌を聴かなかった人は歌を理解できるのだろうか?
なんだか枡野浩一の詩みたいだ。
どうなんだろう。有名な話では、外国人は「虫の音」を理解できないとのこと。いわゆるこおろぎとかの虫の音(むしのね)と呼ばれるものね。
なぜなら、そんな風に聞くことを習ってきていない、あるいは聴いて育っていないから。彼らにとってはノイズにしか聞こえない。
それを応用するならば、きっと20年間歌を聴かない人は歌を声にしか聞こえないのかもしれない。
ロックを殆ど聴かない人がロックを理解できないように。あるいはヘビメタだってジャズだってクラシックだって構わないけれど。そういう音楽ってのは慣れることによって理解できる。伊坂さんの「砂漠」でもそういうフレーズがあった。
ではこれを応用しよう。
20年間、恋をしなかった人は恋を理解できるのだろうか。
これは非常に難しいテーゼである。
恋はすべからく普遍的で平等たるものなのか、あるいは相対的なもので自分の鏡となりうるのか。そんなもの論証できないが、ただ人間の生物としての偉大さを考えれば、恋=生殖活動と考えるならば、前者なのかもしれない。
ではでは、さらにこれを応用しよう。
20年間、死ななかった人は死ねるのだろうか?
これはジョークでもなんでもない。これの意味するところは「20年間、死というものを意識しないで生きてきた人が、いざ死ぬときに、その死をちゃんと受け入れられるのか?」ということである。
春樹大先生曰く、「死とは生の対なるものではなく、生に含有されているものなのだ(うろおぼえ)」である。つまり死は行きながらこそ、それをちょっとづつ身にしみこませていくのである。良かれ悪しかれ。
しかし、その死について考えなかった人は自分の最後をそれはそれとして認識できるのか。もっともこの問いを考えるには、そもそも死を身近に考えていたところで、死ぬときはやはり死を理解できないのと同じことで、どちらにせよ結果は同じ、という問題もあるのだが。
興味ぶかいジョークとして、このようなアイロニーがある。
「この世の中で、死は存在しない。なぜなら死んだ人の話を聴いたことがないからだ」というものがある。
これは真である。臨死体験とかはあるが、それはあくまでもも「死の一歩前にいっただけ」であって、死とは「帰ってこれないこと」である。つまり、死んだ人は存在しないのは、定義上、必然なのである(死と「帰ってくる」はいわば背反関係にある)。
そう考えると、死を理解するのはそもそも不可能で、せいぜい体験できるのはキルケゴール先生のいう死の香りがする絶望くらいである。
そう考えると死について考えるのは、いささか厄介な話になってくる。なぜならその効用が見えないからである。効用が見えないものは、諸刃の剣である。いつしか自分にその「無化」された行為が帰ってくる。つまり、「私は一体何をしていたというのか」という自省がその一端だ。
では考える必要ないかというと、それはいわゆる価値観の問題なので、答えはでない。しかし、考えるということはその行為を自分で取り込むということである。いわゆる最近、明らかになった「モノマネ細胞(通称)」の存在をみよ。たとえば、ピアノを弾いている人を見ると自分がピアノを弾いている状況と同じになるように(脳波などが)、考えること、見ること、想像することは、すなわち行為を疑似体験するということである。そう考えると、やはり、考えたところでそこにたどり着かないとしても、少しは近づけるのではないか(これは仮説である)。
そうすると、逆に考えれば死を考えすぎることは、死んでいくのと同義。それは固体の維持という人間の本能から考えて避けたいところ。じゃあ、どうすればいいかというと、どうもしなくていいわけで20年間夢を見なかった人でも電気羊の夢は見る、多分。
(どうでもいいこと:自分メモ)目標設定の是非
なんだか、昔を振り返る機会が2連続であった。昨日。
1つは「学生時代の頃の話をしろ」というのだった。もう1つは、OB訪問として大学生3年4年のころの話をした。その延長として自分の過去も色々思い出された。
普段は、めくらめっぽう目くるめくメロリンQな日々で過去を思い出すことなんてまぁないのだけれど。ふと、色々と。
で、思ったのだが、やはり、過去と現在、あるいは未来ってのはそれなりにリニアなのかもしんない。いや、これは見方によっては、いくらでもケイオスになるし、リニアにもなるのだけれど、個人的な感覚としては。
やはり、大学までやってきたことと、大学時代にやったことと、そしてそれと社会人への方向性、そしてその後ってのは、やはり、それなりに「つじつまあわせ」が行われているもので。
とはいえ、それってば人間の本能で上手く「過去を捏造している」や「現在を思いこんでいる」ところもあるから、簡単には言えないけれど、大枠の部分で。
とはいえ、要素要素は、かなりアットランダムである。それこそ、ちょうど昨日読んだ本に書いてあったけれど「量子力学の世界においては物質は突然生まれるものであって、じょじょに誕生するものではない」とかが、なるほどなぁ、と腹落ちするような(ただし、ここでいう量子力学のソレが何を指しているのかしらない。あんまり検証する必要を感じなかった)。つまり、要素要素は、かなりの不確実性をはらんで起こっているのだけど、やっぱり総体で見ればまっとうに進んでいるというか。
いわば最近流行りの「みんなの意見は案外正しい」説に合致するような気もしないでもない。
まぁ、これは当たり前のことを言っているに過ぎない。自分に有る程度の方向性があれば、人生におこるあらゆる選択肢において、その方向性に合致した選択肢をとるわけである。そうすると、ミクロではわけわからんことになっていても、マクロでは直線が引かれている。
ただし問題は、方向性があるかないかである。これこそ、昨今、いくらでも巷で語られる「夢」や「目標」の話になってくるのかもしんない。そういえばこないだ読んだ本で「目標は実現できるもの。夢は実現できないもの。両方設定しておかなくてはならない」と誰かが言っていた。これも、考え方の1つとしては、ありだな、とか思ってみたり。
で、方向性がない場合は、前提が成り立たない。つまり、選択肢の解決方法はその場その場での重み付けが行われる。「イージーである」「金銭的リターンが大きい」「なんとなく」などなど。その結果、マクロの線は別の形を描くようになる。この場合は、目的への最短距離の線ではなく、もっと性格などの揺らぎが反映された線になる。
つまり、ここはある程度、三次元になるのかな。目標という平面でのベクトルはないので、線は点になり、いわばでこぼこしたグラフになる。しかし、別の側面で見れば、例えば性格を反映したグラフで見れば、それなりに年齢に応じた比例のグラフが出てくるようになる。もっともこの場合、縦軸に何をとるかは難しいところだけれど。まぁ、なんというか、そのあ、わかった。性格の面なんだから性格を縦軸にとれば良いのだ。そうすると、年齢に応じて自分の性格を強化付けされていく図が見て取れる。ただし、何かしらの目標を設定して加齢していく人は性格の面においてはランダムな動きを見せる。うむ。
で、これは性格は1例であり、他にも「縦軸を金銭」にしてもいいし、「自己満足」でもいいと思われる。とすると三次元に限らないな。つまり、その人専用のグラフが出来上がるということか。
じゃあ、実を言うと目標ってば単なるグラフの1つであって、別に他のグラフを描きたい人にとっては目標とかいらんじゃない?とか少し思ってみた。ただし、これはどこに視点を置くかで意味が全然変わってくるので、注釈すると、社会的、あるいは歴史的、あるいは日本的、あるいは、資本主義的に言えば、何かしらの目標ある人生のほうが相対的には良いと信じられている。でも、これも今、書きながら思ったけど嘘だな。良いの判断基準がわからないもの。そうすると、ああ、そうか。うむ。そうだ。「目標達成をしたいならば目標があったほうがいい」というテーゼだけが正しい気がする。
つまり、「人生を幸せに生きるならば、目標設定をしたほうがいい」というのは論証できないのでは。まぁ、帰納法でやれば可能かもしれないけれど。だって、さっきのメタファー使うならば、「幸せ」グラフを使って、常に自分がハッピーな選択肢を撮っていけばハッピーになるのでは?あ、嘘だ。これも一概にはそういえない、定義による。たとえば「50年後にハッピーになりたい」という前提をおくならば、「50年後にハッピー最大化」となる目標が設定されるわけで、そうすると、アドホックなハッピーの選択肢が、その50年後の効用を最大化するとは限らないわけだ。なるほど。
ああ、そう考えるとターゲティングは重要ということになるな。なぜならミクロでの選択肢の積み重ねは、常に最大のリターンを得るとは限らないから。そうすると、やはり戦略が必要になってきて(ここでの戦略の定義は、目標達成における選択肢の検討というくらいの意味でいいや)、そうすると、やはり目標がなければいけないのか。ふーむ。こまった。当たり前の結論になった。
んー、なんかないかな。ミクロの決定が常にマクロでの最大効用を産むというような価値観。んーんー。親孝行とかってどうだろう?「自分の人生は親孝行の最大化である」という前提で始めれば、20年後に親孝行最大化するよりも、日々の親孝行の方が親孝行最大化が出来る?いやー、これも論証不可能だな。だめだ。
話を変えよう。
てかねむくなってきたのでまた。
またいつか会う日までという言葉の。
友人の話。男。
仲の良い女性がいて。いわば恋人同然で。かれこれ長くて。で、「なんでつきあわへんの?」と聞いたらば。
別れるのが嫌だから。
と言った。
彼にとって付き合うということは、別れのエンゲージメントなわけである。そういう考え方もある、と思った。
確かに故人が言ったように「出会いがわかれの始まり」だかなんだかいう名言も会って。あるいはある偉人は「さよならだけが人生さ」と言った。
そういう見方もある。
ただ、基本的には、人間の人脈ってのはある程度の不可逆性を持つのではないかと思った。たとえば人生で「はじめまして」と「またいつか」という言葉、どちらの方が多く言っているかを考えれば、前者のほうが圧倒的に多い。
それは1つは「いちいち、別れの挨拶はしない」という人間の心理もあるだろう(恋人同士の関係でない場合の話)。たとえば、それこそ世界では一期一会の出会いも数多くて。クラブだの、合コンだの、パーティだので知り合う人と挨拶や名刺交換、連絡先を交換しても、その人たちと再会する可能性は、船場を歩いていて知り合いと合う確率よりも低い。このメタファーの意味は「会う人はむちゃくちゃ再会するだろうけど(船場に住んでいる人)、そうでない人は、そうでないのだ(船場に住んでいない人)」。ということである。
ということ、知らない間に、我々は無数の「また次の世で会えたらいいね」を繰り返していることになる。もっとも、これはドラマチックに解釈しているだけで、実際のところは「1度会いました。」みたいな。よくわからんけど、まぁそういうことだ。
確かM.Harukiはこう言った。
僕は眼を閉じ、耳を澄ませ、地球の引力を唯一つの絆として天空を通過し続けているスプートニクの末裔たちのことを思った。
彼等は孤独な金属の固まりとして、さえぎるものもない宇宙の暗黒のなかでふと巡り会い、すれ違い、そして永遠に別れていくのだ。交わす言葉もなく、結ぶ約束もなく。
そういうことである。
それに感傷的な情緒の入り込む隙間は原則としてない。なぜなら単なる確率の問題だからである。
「君と逢えたのは奇跡だよ」という手垢にまみれた言葉がある。
それは真でもあるが偽でもある。つまり、その人にとって、その人に会えたことは奇跡だと認識するかもしれないけれど、確率としては、その人がその人でなかったとしても別の誰かには会うだろうし、その人が、今の人と比べて奇跡的であるかないかは相対的に比べることができないので、それは反証できない。ゆえに、奇跡と考えたところで害はないけれど、確率から考えれば、非常に意味をなさない言葉である。
つまり、その論法を使うならば、あなたにとって出会う人が全て奇跡になるわけだし、逆に考えれば、会わなかったことも奇跡たりえるわけである。もっとも、こんなのの意味づけは主観なわけで、いつかも書いたけど、単なるラベリングの問題である。
で、何が言いたいかというと、「こんな人に会えて、なんて世界は奇跡だ」と思うのは勝手だし、それは誰も否定できないけれど、では、その分、会えなかった人の代償は誰がとるのか。かわいそうじゃないか。その確率(つまり起こらなかった事象)に目をつぶるのはフェアじゃない。フェアじゃないけれど処世術であり、そんな確率を考えていたら日がくれてしまう。
そこで、今おもいついたのだが、つい先日書いた「選択肢」の問題も同じことだと気付いた。つまり何かを選択するには、選択肢を全て列挙しないといけないけれど、全部の選択肢はそのそも検討することができない。RPGのように箇条書きになっているわけではないのである。すると、上記を考えると結局、程度の問題か、あるいは生き方の問題になったi don give a shitとなるわけである。南無
でも、また飛躍するけど、「精子って何億もいて、その中で1つ(場合によってはmore)だけが受精するなんて奇跡ね」というこれまた色々なものにまみれたフレーズがある。
それは命題としては、やはりナンセンスで、どれか1つが受精することは確率論としてはなんら奇跡ではない。そして、その1つがたまたま自分だと考えることで、1/億と考えるのは自由だけど、これは「受精した人しか考えられない」ということを考えると、考えられる人=奇跡だと思える人全体、となり、すわなち「部分」=「全体」というベン図の崩壊に繋がるわけである。南無
で、いわば、昔どっかで読んだクイズ。
「あるカジノのルーレットで予想屋がいた。その人のいう事を聞くと10回ともあたった。その予想屋はどのような手口を使ったのか?」
というような話。答えとしては、「2の10乗分の人に声をかけた」が正解。有名な話だけど。宝くじバージョンとかもあるね。実際にあった話らしいけど。
つまり、2人に声をかけるとする。1人に「次、奇数くるよ」、もう1人に「次、偶数くるよ」といっておく。そうすると、100%、どちらかは正解するわけである(0、00の場合は考慮せず)。では4人に声をかけて同じ方法を使うと1人においては「2回ともヒット」するわけである。で2の10乗、1024人に声をかければ1人は「10回連続成功」となるわけであります。
つまり、さっきの問題と似た話。
あ、これと似た話しで「悪いことは立て続けに起こる」というジンクスも全部確率論である。これも以前書いた気がするなぁ。
つまり、悪いことってのは1日に1回くらい起こっている。で、それは起きているじかn18時間のうち1時間起こるとする。そうすると、18日に1回は1時間の中で2回悪いことが続くわけである。人間としては毎日「単発で起こっている悪いこと」はすぐ忘れる。でも、18日中1回起こったことに関しては「まれな体験だから強く印象に残る」。たとえば、さらに18の2乗、324日に1日は悪いことが3回続くわけであるよ。で、これも強く印象に残る。云々。
これってなんだっけ、経済の新しい学問、ここ10年くらいの。ノーベル賞を5年くらい前にとった奴。度忘れしたけど、その辺では当たり前の話だけど。TIMEの表紙に野球選手が出ると、その後成績が悪くなるジンクスとか。
で、何がいいたいかというと、でも、やっぱり別れって寂しいよね、ということである(違 。
そうだ。なんでこんなことを書いたかというと、先日(敢えて日にちをぼやかしたのは他意はない)、ある六本木の飯屋で飯を食べていると、偶然、ナオト君に出会ったからである。
で、個人的には、外で人と再会することはあまりないので、「すげー偶然」とかテンションあがったわけである。で、確率から言えば、上記のように不思議ではないけれど、人間は確率だけで生きるにあらず。物事に色を付けたがる。
これは何かの予兆。すごい偶然。と、テンションがあがる。実際、「たまたま偶然再会」ってのは、なんか凄いテンションあげるよ。どうでもいいけど。
あ、さらに思い出した。ユーキとの再会。これはどこぞでも書いたけど。彼と初めて会ったのは、ジンバブエ。同じ部屋になった学生。で、聞いたら同じ大学。同じ学年。彼も休学中。で、意気投合でビリヤード。
そして、偶然再会したのがハンガリー。彼がマラリアで退院した後。またまた同じ宿になった。で、その後、ニースのマクドナルドでも偶然再会。あと、パリとかアムスとかでも会ったけれど。まぁ、あれはなかなか凄い再会ではないかと思うけど、旅人はよく再会する。なぜなら宿が似てくるから。ルートも似るから。まぁ、それはそれでいいか。
しかし、あれだ。イタリアのローマで友人と待ち合わせしたときは往生した。僕は東アフリカをざくざく縦断していて、その人はブラジルのアマゾンにいた。で、待ち合わせはおおよその日程とローマの宿だけ決めていた。で、いざローマにつくと、その人がアマゾンで赤痢になって、先にローマについていた。で、日程があまったのでその人はチュニジアに突発的に旅立った。で、僕は物価の高いローマにいるのも面倒だったので、チュニジアに移動した。しかも、船の関係で、いちいちシチリアまで下りて。するとフェリーがまだでないとかいうから、シチリアで陥没で、チュニスについたころ、その人はチュニスから、わけのわからないスターウォーズの山を見に行った。で、チュニジアの首都のチュニスで待ち合わせた宿も空いていない。で、そのころ僕は、その人が山にいってるなんてしらないから、すれ違いになったんだ、と思って、急遽、船に戻る。すると、その船は、イタリアじゃなくて、マルタ行き。いきなりマルタに上陸。で、いろいろトラブったんだけど略。で、しかも、間違えて、ヴェニスまで行ってしまう。そして、ベニスからローマに戻ってメールを見ると、まだチュニジアとか。あほか、とで、しょうがないのでナポリで時間つぶしていると・・・云々。あれは大変だった。
まぁいいや。
で、まぁ、そうなんだよ。
だから、何が言いたいかというと、1度会った人、あるいは意気投合できた人ってのはかけがえのないもので、それは大切にしたいですよ、と僕もそう思っているわけで。
で、別れ言葉の「また」とか「Hasta luego」とか、よく考えたら、ものすごくトートロジーで。
つまり「また(会う日まで)」とか「Hasta Luego(また会うまで:直訳)」とかって、当たり前といえば当たり前で。なぜなら会うまでは、会わないのだから。つまり、死ぬまで生きる、という言葉と同じで。
もっとも、この反復が意味を産むのも事実である。つまり小林秀雄の「その春は、まさに春だった」という名文と同じです(秀雄さんだったっけ?)。
ということで、Adios hasta luego。
携帯とかSNSのとかで恋愛のやり方が色々変わってくるのではないか説
いやー、SNSとかケータイのせいで、我々の恋愛ってものは色々変わってくるのではないかと思うわけですよ。はい。
それに関して。
ちょい前のネタでこのようなものがあったのです。知らない間に「元彼女に扮した元元彼女が自分のリンクと繋がっていた」という謎な話なのだけど。
ミクシィの相談事例。知らない間に元彼女が自分のマイミクに登録されてるんですが・・・*ホームページを作る人のネタ帳
これはまぁネタだろうが本当の話だろうがどうでもよくて。
それよか、携帯に勝手に転送設定することが可能という話に度肝を抜かれて。そんな設定可能かどうかしらんけど(今調べたけど、よくわからんかった)、そんなの出来たらヤバイっすよね。知らない間に、自分に届いたメールが他のところに転送されるわけでしょ。自動で全部。つまり、今回の事件では、もともと彼女に全部届いていたわけで。しかも、当人は気付かない。
で、携帯で出来なくてもいいんだよ。PCで出来るから。つまりさ、もし恋人のPCをいらう機会がある人なら、簡単にこの細工をすることができる。たとえばGmailなんて、全てのメールを自動的に転送できるし、Greasemonkeyを使えば、見えないうちにBCCに特定のメールアドレスも設定可能。さらには、サンダーバードも転送設定が可能なわけです。他のメーラーやWebメールでも有る程度、設定はできるはず。で、やろうと思えば、それをフリーメールに飛ばすことができるわけですよね。簡単に。そうすると、万が一転送設定がばれても知らないふりをできる、と(いやたぶん、知らんふりは難しいけど。。。)。細かい細工をするならそれらしいドメインをとって公開アドレスを非公開にして、で、 info@gmail-helo.com みたいな転送メールを設定しておくと。じゃあ、それを見た人は「なんだデフォルトの設定?」とか思う(いや、おもわんな多分。嘘でした)。ただ、PCに疎い人だったら、転送設定とかよくわからないだろうし。しかも、Greasemonkeyならば、普通に使っている分には気付かないわけで。
つまりメールを根こそぎ、ウォッチできるわけです。さらにさらに。さらには、それでパスワードを見ることもできるわけですよ。普通のサイトだとパスワード忘れた場合は「再設定」となるから、どんなパスワードを設定されているかわからないけど、馬鹿なサイトだと、いきなりパスワードが再送されるわけです(なんてリスキーと驚愕するのだけれど)。そうすれば、そのパスワードを他のサイトに使っている可能性も高い。そうすればですね、そもそも転送設定をかけなくても、自分でアカウントにログインできるようになるわけです。
とか書いたけど、この辺のことならブルートフォースアタックとかのハッキングツールとか、トロイ関係のスパイウェア使えば簡単にできそうだけど。まぁいいや。
で、そこで思ったのが、SNSってよく考えたら、非常にデンジャラッスなサイトではないかと。
あのさ、今まで「恋人の元恋人」って、アクセスできなかったわけじゃないですか。
いわゆるHIVの広告じゃないけど「恋人の元恋人の元恋人を知っていますか?」みたいな。
つまり、恋人の元彼/元彼女を知るには、恋人から聞く必要があった。もっともそもそも知り合いの可能性もあるけど、学生とかでない限り、あんまり多いケースではないと思う。
だからさ、いわゆる不倫ドラマであるような「携帯みたらアンタの名前があったのよ、アンタって何者」みたいな脅しは、あくまでも携帯や手帳のデータを盗み出してこそ出来る業だったわけです。
しかしですね、今や昔。SNSさえあれば、恋人の元恋人を見つけるなんて造作もないことなんです。まぁ、繋がっていない人もいるし、そもそもアクティブに使っていない人なら、繋がっていないケースも多々あるけど。
でもさ、普通のケースとして「恋人」と繋がることはあるわけじゃないですか。みなさんはどうか知らないけれど、一般的に、想像していってるのだけど。日記みたいし。で、分かれる、と。でも分かれたときに、リンクを切るかきらないかはケースバイだけど、まぁ切らないケースもあるとする。
そうすると、必然的に次の恋人が出来て、SNSで繋がった時に、そこには「前の恋人」「現在の恋人」がリンクないに必然的に存在することなりますよね、そうですね。
で、ここで、こういうケースはどれくらい起こっているのだろうと身近な友人のケースを色々想像してみた。
意外と恋人は繋がってない人も多いかも。まぁいいや。
で、こうなった場合、どうなるか?
つまり、現在の恋人は昔の恋人に簡単にアクセスできるようになったわけですねー。もっともこの場合、「前の恋人が誰か」という推測が必要だけど、まぁ女性の鋭い勘をもってくれば、わかるのではないでしょうか。しらんけど。
で、そうするとどうなるか。
あー、間違えた。恋人同士だったら面白くないのか。たとえば、不倫相手が「奥さん」にアクセスするのも非常に容易になるわけですよ。しかもその場合なんて、紹介文を見ればほぼわかるわけで。でも夫婦で繋がっているケースなんて少なさそうだな。まぁ、でも今後の展開としてはありうるのだ。
そうすると、もうあれですよね。あれ。
ふーん。
ワイルドサイドを歩け
最近読んだ本より。
この中でなかなか気になる一文を見かけました。
つまり選択肢をともなわない行動では、人間、決して前には進めないわけよ。時間に解釈を委ねるんなら泣き寝入りすればいいだけど、積極的に物事を解決していきたいわけね。
だからぁ、最悪の選択肢もほかの選択肢と同じように扱いたいの。とどのつまり、それができなきゃさ、もう悩むなってことよ。
どうでしょうか。
最近、若干、ブログが哲学チックになってきてそっちに寄り過ぎるのは避けたい昨今ですが、まぁ、その辺りの話しになrのかしら。
んと、ここで言われているのは「自分で選択肢を決めることの意味」だとわたくしめは理解したわけです。
でも、実は人間の人生ってば、選択肢ってそんなになくて。あるように見えても、実は、それはなりゆきで選んだものだったり、はなから決まっていた選択肢だったりして。
個人的に好きな言葉にLet it be(あるがまま)ってのがありますが、これもいい意味では「即天去私」なのだけれど、あるいは、まぁミドルネガティブな意味での「ポジティブ思考」なのだけれど。
それってば、実は選択することをマイルドにヘッジした行為である。つまり「どの選択肢をとっても効果は同じ」と考える。ないし、「どの選択肢であっても、結果的にはOKと考える」という「非常にずるい」考え方なわけです。
で、上記で言われているのは、もっと選択することの大切さ。恐らくこれはハイデガーの言うところのゾルゲと関係しているような気もしないでもないけど、下手なこと言うと危険なので言わない。
で、問題はその選択肢がまやかしのものであっても、効果があるのかってのが個人的に気になるところで。
つまり、この選択肢を選び取ることの大切さは「実質的に選択肢を選び取る」から有意なのか「選択肢を選んだという本人の存在」が有意なのか、という点の違いである。
哲学にたとえば禁忌だがあえていうならば。そうねー、ある囚人が死刑宣告されて。で電気イスと絞首刑を選ばされて。で、ここでの看守の目的とは相手を殺すことだから、いずれの選択肢だって問題ない。しかし、囚人によっては、どちらかを選ぶことはできる。で、これは実質的には何も選んだことにはなっていない。結果論から見ればどちらでも死ぬのだから同じである。しかし、それでもどちらかを選ぶことが大切のか、という問題である。
あるいは、である。あるいは、もう1つ、偽者の選択肢の存在を。たとえば、男が女に告白したとする。で、女は「車を買ってくれたら考える」という。男はがんばって車を買う。しかし女は「考えたけどごめんなさい」という。男はこれを見ると、「がんばって挑戦した」という選択肢を得ている。しかし、女は最初から付き合う気はなかったとする。そうすると男が頑張ろうと頑張ろうまいと、結果は同じである。さきほどの例えと違うのは、さきほどの選択肢は選択肢そのままの価値である背景も等価である。しかし、この例えでいうのは選択肢に見えるBは実はAだった、というまやかしである。つまり背景が異なるわけである。
しかし、この2つのどちらでも当人からすれば選択肢を勝ち取ったという認識になる。これが大切なのか、あるいは「本当に差異が生まれる選択肢」が大切なのか。その選択肢としては、たとえば「大学院にいくか就職するか」のような選択肢でもいいや。まぁ、2つの選択肢が同じではなく、かつ結果的に別々の未来が存在している場合。もっとも、実はこれだって程度論や、主観か客観かに視座を置くことによって「ナンセンスな選択肢」になるのだけど。極論すれば、いずれせによ「50年後は死ぬ」というマジックロジックを使えば「結果は同じ」ということになr。まぁ、しかしそんな間違った達観を使うと話がややこしくなるので保留。ここはあくまでも「程度」を重視すべきである。理由は、実験というのは、一部を切り取ってそれを演繹化できるかどうかに価値があるのであって、その実験がフレームが小さいというだけで拒否されるものではないからである。
で、なぜこの違いが大切かというと、一般的な教育論などもこのロジックを使っている時があるからである。
つまり、最初から答えが決まっている場合でも生徒に考えさせる。「どっちがいいと思う?」と聞く。で、結果はどちらも同じになる。あるいは、先生が決めている結果に誘導する。しかし、生徒にとっては自分が決めたように感じる。それがたとえば教育のモチベーションや自己動機付けの意義に関わってくる問題だから価値があるのである。ここでの意味は「まやかしの選択肢でも価値がある」という見方である。
まぁ、それはそうなんだろう、と思う。なぜなら結局、人間ってのは意味づけに価値を置いているのであり、一般的な心理学も、万物の認識によって生まれる差異の学問である。そのため、環境要因や変数、あるいは効用はまったく別問題として扱う必要がある。
では、そこで出てくる疑問が、「まやかしの選択肢」と「実質的な選択肢」に差異はあるのかどうか、という点である。これが違うならば、人にアドバイスをする時の言葉も代わってくる。まぁいいや。これは傍流だ。
んと最初の引用に戻るならば、選択肢が存在する場合に避けたい選択肢も同等の重みをもって扱う必要がある、とある。これは個人的にはリスクを見極めることだと認識しているのだけれど。つまり、「こっちを選びたい!」というポジティブな選択肢のプラスの側面だけを見て物事を決めるのではなく避けたい選択肢のネガティブな価値とちゃんと相対的に比較して、結果を導き出すことの大切さである。
こうすると何が嬉しいかというと、選択をする、という行為をおもみづける事が可能になってくる。ということでやっぱりリスクの見積もりは大切だ、という結論が個人的には出てくるわけである。
ということで、ゴムはちゃんとしましょう(疲れたので超投げやりな結論)
からっからになっちゃうまで
定期的に走るようにしておる。
いまや走らないと気持ち悪くなるほどだ。。これも人間様の習慣というものの力だらう。人間だれしも10年近く同じことを続けていれば、そこに慣性の法則が働き出す。のだらう。
しかしながら、さりとて毎日走ることは叶わない。週に1回、花の金曜日の夜と引き換えに走るやうにしている。どんなに時間が遅くならうとも。土曜の夜は何かしらシャヌムニになっているようだし、日曜の夜はテンシヲンがあがらない。そこで金曜日に我が身を走ることにささげるようにしてひる。
最近はラストスパァトに凝っている。以前、りょうが言っていた方法を真似たものだ。最後の数百メートルをへとへとになるくらいの全力で走る。あたかもフォレストガンプのあのシーンのように。あたかも走れメロスの生き様のように。なんて陳腐な比喩!
息が上がるなんてものではない。肺が焼きつくようになってくる。いわゆるオウバァヒイトと呼ばれるものか。呼吸がゼイゼイからヒィヒィと穴の開いたジャンバラのような腑抜けた音を奏でる。酸素が足りず頭がくらくらする。しかし、すこぶる爽快なことこのうえない。足はガクガクで倒れそうになる。そこで、無理やり体を傾斜され前足を出させる。日本の本能はゆるぎない。嗚呼ゆるがない。
何も考えられない。普段、走っていると心に映り行くよしなしごとをそこはかとなく思い出すことになっていく。むすんでは消え、消えては結ぶ川面の泡沫のやうに。しかし、全力での疾走においてはそれも叶わない。頭が真っ白、むしろフリィズしてしまう。
最後にラストスパアトに個人的おすすめの曲でも(YouTube張ると著作権違反を助長しているようでなんか嫌なんだけどどうしたものか)。
A Question of Honour by Sarah Brightman
2分後あたりからの盛り上がり方がテンシオンをぐいぐい引き上げる。
Kids Return 久石さん
すごいジム
久々に「すごい」シリーズ(適当)です。
春なので、うつけ者たちが街にふらふら繰り出す季節ですね。しかも「今年こそは」ってなもんでジムに通いだす季節です。多分。ということで、今回はすごいジム。
・すごい彼氏をつくる方法 1
・すごい彼氏をつくる方法 2
・すごい彼氏をつくる方法 3
・すごい就職活動 1
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■ジムを決める
ジムを決めましょう。回りの声ではティップネスとコナミが強し。まぁ、場所によって違うんだろうね。系列もいっぱいあるし。大体1万円前後?で、毎月払う系。で、高いところだと2万円くらい。プチリッチなジムね。そのへんは、タオルや服が無料で借りれたりする。おねーちゃんの可愛さもちょっとだけアップ。で、さらに高級なところ。ここは入会金がべらぼうに高い。100万を超えるところも。もうなんつーか、いわゆる裸の社交場。いわば、公衆乱交場。リメンバーブダペストのゲイ温泉。ヒルズのアレの場合は、SNSよろしく紹介制だという話。虎ノ門、白金、六本木、あとどこにあったかな。昔、かなり調べた覚えがある。他にはホテルのジムを定期的に貸しているところもあったはず。パークホテルとかやってた気がするがどうか。てか、かってに闖入している人もいるという噂。そういえば、メキシコはカンクンで、ヒルトンのプールに勝手に泳いでいくというウツケが流行っていた。、出他、他。ああ、あとは市民プールとかなんか、そういう役所がやっているジムも御座いますね。で、全体的に時間は早いところで7時。で、夜は遅いところで22時。土日も基本的にやってるけど、オープンが遅いところが多い。まじめに書いてしまった。つまんない。
■場所を決める
ジムは近いところが一番。これ鉄則。値段とか時間じゃなくて場所。これは信じたまえ。遠いところのジムなんて絶対にいかない。ということで、少々高くても近くのにしましょう。つまり自宅に近いか、職場、学校に近いか。ただ、着替えとかもっておく場合は自宅に近いほうがいいかもね。ただ、ロッカーを貸し出ししてくれているところもあるので、その場合は、預けておくと吉。で、以外とやっかいなのが通勤、通学途中にあるジム。これ以外と駅を降りていかないだけどどうだろうか?行くのかな。まぁいいや。よきに計らえ。
■ジムの時間
まず、目をさまします。つまり寒い冬は目が覚めないのでジムはいけません。春になったらジムに通いましょう。あ、しまった。自分が朝型派だからジムは朝いくものと思った。違う。いつジムに行くかを決めましょう。暇な人は空いている時間にいきましょう。経験則では15時ごろが空いている気がする。あと、10時から12時くらい。でも基本的に空いている時間はオバサンがいらっしゃいます。いい言葉で言えば有閑マダム。悪くいえば、肉体と時間を持て余した傾国の中年いろんな意味で。混んでいるのは朝7時と夜18時以降。つまりサラリーマンが出勤前にいくか、出勤後にいくか。僕は、その混んでいるのがいやで、前、職場のランチタイムにジムをいっていた記憶もある。徹夜明けとかにはシャワーがちょうど気持ちよかった。あるいていけるし。ともあれ。そうそう、日常に組み込むのがベスト。たとえば土曜日の午前とか、毎日帰宅時間とか、とりあえず周期は何でもいいから一定にするのがベスト。インストラクターの人いわく最低週に1回でも、なんとか筋肉はキープできるとか。まぁケースバイだろうけど。僕の場合は、基本的にいつでも確保できる時間、つまり土曜日の朝にいってましたですね。最近はそれさえままならなくて、先月くらいに結局やめてしまった。
■ジムで何をするか
ジムで何をするかというとマッチョなおやじの肉急を眺めるよろし。すごいよ。40overのおっさんがムッキムキ。冗談かと思うほど筋肉隆々。ものすんごい。ガッツんがっつんバーベルあげてるよ。で、まぁそれを眺めておくのが第一点。意外と、女性は見かけない。いやいるんだけど、なんつーんですか。シャルウイダンスよろしく華やかなヒヤシンスは見かけない気がしますがどうでしょうか。でもスタジオいっていると別なんだろうね。あ、仕組み。ジムは基本的に3つに分かれます(決めうち)。1つはマシーン。つまりギッタンバッコンするやつね、ダッチワイフとか。で、2つ目はスタジオ。いわゆるストレッチとかヨガとかホットヨガとか、灼熱のヨガとか、夜のヨガとか、爬虫類のヨガとか、すっとこヨガとか、のたけうちまくるヨガとか、ストーンヨガとか。そんなのがやってる。ボクササイズとか人気だね。最近は格闘技系が人気という噂。おじさまがたもたまにいる。若い人はあんまり見ない。でもこれはジムによるだろうね。で、もう1つがプールです。こうしてジムは3つに分かれるあるよ。トレッドミル、つまりランニングマシーンがジムの権化でもあるけど、一口にランニングマシーンといっても色々ありましね。エアロバイクから、普通のしゅこしゅこ走る奴から、べろんべろん走るやつから、なんかシーソーみたいなの使う奴から。だから、これとマシーンは別に分けてもいいんだけど、まぁ、一般的にはマシーンだよね。
■ジムで何をするか2
個人的な体験としては、走りを1時間弱。走りながら本とか読んでました。楽チン。あと、トレッドミルにイヤホンがあって音楽が聴けた。テレビとかもかかってた。便利。でも、これもジムによるだろうからわかんないや。でもipodはデフォルトでしょう。つまり音楽か本かが必要ではないかという説。走りながら本はきついな。シーソーと本の相性はいいよ。シーソーってなんて説明したらいいんだろう?1人浮遊術訓練器?まぁそんなかんじ。で、マシーンを30分。初心者がつまずくのがここ。「マシーンってどうしたら良いかわからなーい」と、バージンよろしくてらいがあるわけだ。で、まぁ基本はインストラクターに教えてもらうのがベスト。あれはやり方を間違っていると痛い目に合うので。あと重さとかの感覚とか。で、これもジムによるけどジムによっては「ここ鍛えたい」とリクエストかますと、ちゃんとマシーンのメニューを組んでくれて超便利。あとは、マシーンにしたがって、トヨタおろしくカンバン方式で体を鍛えるのみですよ。大体○キログラム×○回×○セットが基本。あと、バーベルっていうの?あれが曲者。ブッシュは、あれ100キロもちあげられるんでしょ?あれすごいんだよ実は。やったことある人はわかると思うけど。自分の体重を持ち上げるのもかなりキツイ。僕は50キロで挫折。腕がプルプルする。手を離したら、首にギロチンチョップになってアベシってなるやつね。創造つくかしら。
■プール
プールよいよね。世界がプールで出来ていたらいいのに。で、ジムによってはプール混んでてしょんぼり。1レーンに3人とか、って、あれか。流しそうめんみたいになっている。25メートルプールでさえも都内には少ないという噂。げんなり。
■ジムの効用
ジムの効用は体を鍛えるためじゃありません。まず人脈を作るためにあります。サウナで、一物を出しているおっさんと語り合えば、もう裸の付き合いですよ。特に六本木や恵比寿の外人さんがおるところのジムなんて、あれですよ。サウナで9桁円の交渉が始まるというもっぱらの噂。あと、ジムの目的に恋愛はいかんね。あんなのぱっとしない。だってさー、いくら「汗が素敵」っつっても、死にそうな顔してワークアウトしているわけですよ。あんなんに浪漫がおこってたまるものか。
あかん。つまんないものになってしまった。残念。ごめんなさい。
いつの頃からか電車の中で
ちょっとした電車のお話。
私は生涯、電車通勤をしたことがなかった。小学校と中学校は歩いて。高校と大学と社会人の初期は自転車で。
最近はよく電車に乗る。
電車に乗ると、本を読む以外の選択肢がなかった。以前、本好きの友人と話していたのだけれど、「もし本を持たずに電車に乗ってしまったら、キオスクで何でもいいから活字買うよね」と言われて、強く同意した覚えがある。
別段、活字中毒というわけでなく、単純に、手ぶらで電車に乗れないのだろうと思う。自分の場合は。貧乏性だ。さらに、間違って携帯電話でも手慰みにいじろうならば、自己嫌悪することしきり。
以前誰かと(覚えているけど)、それで論争をしたこともある気がする。「電車の中で携帯電話をいじるのはやめてくれ」と。
いまや電車の中で、携帯電話を触っていない人がいれば、その人はDSを触っていて。何かしら非常に物悲しくなってくる。誰かはそのシーンを「美しくない」と一刀両断していた。しかりしかり。
電車の中で誰もがipodを聞きながら電話に親指をすべらせている光景は誰が見たって(この場合の誰が見たってという論拠は主観なので、実は、これはeverybody is nobodyのレトリックだがともあれ煽りの文脈ではそれは一時的には有効)、美しくない。
ともあれ、「時間を効率的に使っているんだよ」と反論されてぐうの音もでなかった覚えもあるけれど(効率性至上主義を公言している身としては)。でも、時には、効率性よりも美意識の方が上位概念、だろっ(決め台詞風)。
で、何をするかというと、本を読む。
本は電車の中で読むものだ、というくらい、電車の中のほかの過ごし方を知らなかった。
しかし、ここ最近、電車の中で本を読んでいない。もってはいるのだけど。
代わりに、電車の中の人々や風景を眺めることが多くなった。ぼんやりと物憂げな考え事をしたままに。そして、ふと思った。
世界は、みなに対して平等の世界。だけれども、それをどう見るかは個人個人によって違うのだ、と。
つまり、電車の中の風景。中に乗っている人たちにとっては、まったく同じ風景が見えているわけです。寸分の違いもない。もちろんセクハラしている人とかいれば、まぁ、その思惑の分だけ電車内はカルカチュアライズ(あれ、なんか違う)されているけど。
でも、その同じ風景を見ていても、感じ取る思いってのは人それぞれ違って。
もっとも、これは当たり前の話だし、今更言うものでもないけれども、まぁ待って。
その感じ取る思いの違いは一つは歴史(経験)の違い。たとえば、林檎が落ちたのを見たからって誰しもが重力の発見に気付かないように、それに気付くには、それ相応の知識量がいる。それを時に人は経験や歴史と呼ぶのだけれど。
そしてもう1つは志向性。つまり、何を考えているかで、その人が見える世界は変わってくる。たとえば、明日のプレゼンテーションの企画案を考えている人にとっては電車内で見た傘がきっかけで新しい企画を思い浮かぶかも知れない。あるいは、受験生だったら、電車の中の大学生を見て、見果てぬ夢を追うのかも知れない。
ともあれ、外界を見て、私たちが違う世界を見るのはざっくり言って(あくまでもざっくり言ってという前提つき)上記の2点による違いが大きいのだと思われる。
これは、故人が「人間は見たいものを見る」という1文で指摘した認知心理学の根幹を成すものだけれども。
でも、時に、何気ない風景が、ある人にとっては歴史を変えるほどの事実をアフォーダンスしている。「ほら、ここにいるよ」と呼びかけている。あたかも、ジプリの世界にざわめくフェアリーテイルのごとく。
いわゆるこれは、コリンウィルソンの言う「アウトサイダー」が見る世界にも繋がるかも知れない。確か、彼が喝破したのは「アウトサイダーとは、見えない世界が見える人々のことだ」と言っていた。
この本は、なかなかおすすめですよ。昔はやった本だけど色あせないと思う。もっとも8年くらい前に読んだきりだから今読むと詰まらないのかも。でも、今まで覚えているくらいだからやっぱり面白かったのだろう。
集英社 (1988/02)
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ともあれ、そのように、「みなと同じ風景を見ているのに違うものを見てしまう人々」がいる。
私のもっとも愛する誌から引用するならば下記に該当する。
四角い穴に丸い杭を打ち込むように
物事をまるで違う目で見る人たち
彼らは、四角い穴に丸い杭を打ち込むのだ。世界がまったく別のものに見えている。
そんなことを電車に乗りながら考えていた。そして、僕が見ているこの風景も時に人にとっては冥府へのいざないとなり、あるいは天国への架け橋になるのでせう、と。メタファーでもなく、1つの眼前たる事実として。
で、ここまでは、まぁ当たり前といえば当たり前のことを考えていたんだけど、何が言いたいかというと、そんな時に本は読めなくなってしまった、という話。
なんとなく。
本はプッシュをしてくれるけど、やはり人にとってはプルが大切なんじゃないかなぁと(ここは比ゆ的な意味でのプッシュ/プル、テクニカな意味ではない)。そう思った。
本で得る知識も大切だし、時に携帯電話で繋がるコミュニケーションは大切だろう。あるいは電車の刹那の会話も有意義なこともあるだろう。でも、時に、電車の空間に浮かぶ泡沫たる思いを慰めるのも一興なんじゃないかな、と。
いつの頃からか電車の中でそう思い始めた。
ちょっとした疎外感の略称。言わば暫定的
なんだかとてもとても深く深く潜っていた。長い眠りだった。
夢を記憶していたのは今年に入って初めてのことだった。とても嫌な夢だった。地引網に引っかかって足が取れなくて、とろうとしてさらに腕が絡まって。そんなあり地獄のような。結局、毛布に絡まった足が暖房の熱気に晒され汗ばんでいた。夢と現実はそうそう大差ない。
自分を蝶と勘違いした傲慢な男は孟子だったな荘氏だったか。いずれにせよ、人生は長いなんていうのは一つの形容詞であって、なんら事実でもないし、新しい発見でもない。寧ろ、厳密に言うならば人生とは時間の積み重ねであり、それは即ち、今、目の前にしている1分1分が積み重なったものでしかなくて。だから、この空虚かあるいは混雑した1分が引き伸ばされたんものが即ち人生と。勿論、量は質を転化させるのだから、一概には言えないけれど原則としてはそうなるのだ。原理主義はクラップだけど、でもやっぱり原則は大切だ。憲法なき刑法はない。前文のない憲法はあるけれど、多分。
いつか友達の友達の話を聞いた。その彼は一度聞いた物事を忘れない。まるでGoogle先生がリアルで歩いているような人間だ。何か過去にあった雑学は全て奇麗に記憶されている。すてきな脳だな、と思った。そんな脳が自分は持っていたらどうするだろう、と思った。けど、やはり持っていないわけで考えるだけ無駄と思って口笛を吹いた。春の小川はさらさら。その友達も小学校で最初に習ったひらがなを覚えていた。「つ」だそうだ。ふーん、と思った。
曰く記憶力が良くない、という人の話を聞いた。7割のことを忘れてしまう。その人は幸せなのだろうか、不幸せなのだろうか。多分、前者なのかしら?と思った。傍目から見れば、ということだけれども。
シーシュポスの神話が好きだ。
シシュポスは罰として、タルタロスで巨大な岩を山頂まで上げるよう命じられた。岩はゼウスが姿を変えたときのものと同じ大きさといわれる。シシュポスがあと少しで山頂に届くというところまで岩を上げたところで、岩はその重みで底まで転がり落ちてしまうのである。これが永遠に繰り返されている。
つまり山の上に岩を転がして持ち上げるように命じられたシジフォス。でも、頂上に上ったところで岩の置く場所はない。また転がって落ちていってしまう。エンドレスなアップサイドダウン。インサイドアウト。
カミュはこれを是としたのかあるいはどう解釈したのか。また読み直さなきゃな、と思った。実家の本棚、多分、遠藤周作の横に直してある。遠藤・周作。
晩御飯に豆腐を2丁食べて見た。思いつきの挑戦だった。そのお陰で、今、猛烈な腹痛におそわれている。肥満化した豆腐腹。鈍痛。豆腐の仕返し。醤油くらいかけてあげればよかった。でも、ただ真っ白な豆腐をただ真っ白なボールにぶちまけたときの気持ちよさを誰が止められるだろうか。醤油なんてお呼びじゃない。多分。
駅でとても印象的な人を見て。かっこいいとか、奇麗とかそんなんじゃなくて。何かしらを超越した容貌。まるで初めて太陽の塔を見た時のような。確か、大江戸線の六本木ですれ違ったんだと思う。あの黒い円柱のすぐ横で。思わず息を呑んで。確か、その時、丁度ipodでは、Daydream Believerがかかっていて。
The six o’clock alarm would never ring.
But it rings and I rise,
でも、現実には何も変わらなくて。流砂に流れ行く朝6時過ぎの慟哭とでもいうような。そして、また結局、長い長い六本木の大江戸線を上っていくことになりのだけれど。クラップ。say Crap!
豆腐の怒りが収まらない。oh daddy
そして気付いた。あと半年で夏だ。夏だったよ、諸氏。思わず飲めないビールを冷蔵庫から出してきて口につける。そして、夏のDVD。今年の夏はどんな夏だろうか。夏は年ごとに顔を変える。時に易しく、時に切なく。まるで、人が「夏」ということを聞いて、思い出す単語が異なるように。蚊取り線香や花火や、麦わら帽子や。サザンの唄で思い出した。一番好きな歌「素敵な夢を叶えましょう」。エピソードはこうだ。昔、少し携わっていた夜のお仕事。そのお店で先輩がこれを歌った。ちょうどアルバム「さくら」が出たところだった。難波の夜明け、朝4時に聞こえる寂しげな歌声。なんだかとても印象深くで。夏の終わりだった。その歌詞にこういうものがある。
南十字に戯れる星空に願いを
ジンバブエで初めて見た南十字星を思い出した。本当に十字、だった。ジンバブエの怒号と狂騒が入り混じってまさに、願いを祈りたくなるような星だった。日本からずっとずっと遠いアフリカの大地はとても熱く。
それを人は夢と呼ぶんだぜ、maybe。