時間の「借り」という恐ろしい資本主義の構造

MOMENT

なんとなくブログを書きたくなったので、過去の書評を引っ張り出してきてポスト。省エネ。

いつぞやかおすすめした本多さんの本。本筋はイマイチなのだけど、相変わらずディテールが素晴しい。

特に素晴らしく気に入っている一文がこれ。

エリートは貸しを作ることは気にしないけれど、借りを作ることは嫌う。
資本主義というシステムを知り尽くしているからだ。
借りには必ず利子がつくことをわかっている。

これですよ。
素晴しい慧眼。ここまで資本主義の本質をついた文章は見た事がない(言いすぎ)。マルクスも本多さんよめ。

いやさ、でも、これは恐ろしいほど真実で。

まぁ、金とか借りは作らないに越したことはないんだけど。さらに、気付かずに作ってしまうのが「時間」という借りね。これ以外と、知らない間に回りに借りを作ってしまう。

たとえば「遅刻」。あるいはアポの「延期」。これとか全部、借りを作っているわけですよ。まぁ、でも、この辺の「貸し借り」の概念は理解しやすいはず。

で気をつけたいのが「メールの返信レスポンス」。これって借りなんですよ。多分。てか最近、気付いたんだけど。

返信ってさ、同じ文面を返信しても、早いか遅いかで価値が全然変わってくるんですよね。特に、なんか参加数r申し込みとかもさ早いほうがいい。飛行機もそうじゃないですか。早割りがあるように、早いほうがいい。

つまり、メールの返信が遅れるのは相手に借りを作っているんですよ。で、資本主義の原則においては、借りはすべて負債。

なんてことを思っていたわけですが。まぁいいや。MISSINGに戻ろう。似たような言葉がもう1度。

「学習しただけです。おつりを返し損ねると利子が高くつく。」
「何?」
「資本主義社会における単純な経済学です。」

ということですね。

借りにはそして利子がつく。返信を忘れたメール1通が、どんだけ負債を生み出すことか。どうでもいい話だけど、この三連休は数ヶ月間に返せていなかったメールを返した気がする。1年ぶりとかのレスは迷惑以外の何ものでもないだろうけど、借りとか抜きでなんだか返したかった。

で、MISSING.

どんなシーンか忘れたけど、主人公(男)の前で女性が服を着替えるシーン。恋人同士ではない。

上田さんは僕が期待したとおりのことを僕が期待したのとはちがう方法でやったパジャマを着たままワンピースを頭からかぶり、背中のファスナーをあげないまま、服の中で両手を動かして上田さんは起用にパジャマの上を脱いだ裾からパジャマの下も出てきた。
「小学校のころから不思議だったですけど」と僕は言った。
「女の子はいったいいつごろその特殊技術を習得するんです?」

「見せることに値段がつくって気付いたころからよ」

それが本当とするなら、小学生のころから男の子と女の子との間にはものすごいさがついてくる。ひょっとしたら男の子は永遠に女の子に追いつけたりなんてしないのかも知れない。

同意。

そして、永沢さんの紳士論にも通ずる素晴しいアフォリズムがこれ。

「言わないのね?」

「はい?」
「もう帰ろうって」

「せっかくのデートですから」と僕はいった。

「デートを終わらせるのは女性の役目です。引き伸ばすのが男の役目」

キザすぎるという話はあるけど、なかなか応用が利きそうな言葉。

これを見るとノルウェイのラストシーンを思い出した。主人公が最後、レイコさんとすき焼き食べた後のシーンで「いいしわです云々」というシーン。なんか、あのシーン、好きだなぁ。

まぁいいや。じゃあ、最後。

「先人たちがむちゃくちゃに傷つきながら築きあげた平和の中で」そのおばあちゃんたちを眺めながら僕は言った。

「うん?」

「魂を汚さぬように鍛えながらロマンチックな大人になる」

「何だ、そりゃ?」

「学習の結果に生まれた将来の目標」

特にひねりのある文章ではないのだけれど。魂を汚さぬようにってのが良い。そしてロマンチックな大人ってのが良い。大人はそもそもリアリスティックでプラグマティックだからこそ、やっぱりロマンチックでいたいですね、そうですね まる。

#クラーク博士も「Boys Be romantic」って行っていれば少し世界は変わったのかしら。

ひきこもりDAYS

いやー、引きこもった引きこもった。
下記、ほんっとにどうでも良い独り言ばっかり書いているので、ご容赦下さい。スルーください。
この3連休は思う存分、引きこもった。ちょっと出た以外はずっと引きこもってたよ!
飯も自炊する徹底振り。麻婆豆腐、パスタ、豆腐の何かしら作った!
でも、ちゃっかり走りには行ってた。「Kids Return」のサントラ聞きながら東京タワーに集う観光客どもを蹴散らしていたよ。工事多かったのが難点。
しかし、天気の良い三連休でしたね。気持ちよかった。
こもって、GTDの鬼ですよ。GTD。ゲットシングスダーーーンですよ。これに関しては、また別でいつかエントリー書こう。とりあえずGTD で言うところの「今すぐする」タスクを洗い出したら3桁以上あって、片端からやっつけてた。あー、がんばった俺。自分を褒める。気持ちよいね。こうしてたな卸しするのは。そして本腰入れてGTDに取り組んだ。奥が深い。
直接人に会わない割には、メッセから電話からメールから携帯メールから手紙からSNSからと文明の利器に色々お世話になった気がするなぁ。ネットなかったら世界は違うかったんだろうなぁ。うん、10年前は違うかったもんなぁ。ICQだったもんなぁ(変わってない)。
あと、本屋めぐりを相変わらず。いつも下記のコンボを巡る。今回は必要な本3万円分ほど購入。とうとう本棚が破綻。
A.六本木のABC ここで写真集と小説関連を
B.六本木駅前のあおい書店 ビジネス書
C.けやき坂下のつたや 雑誌
あと貯まっていた雑誌を2桁冊読了した。スクラップが大量にできた。やはりScanSnapを買うべきか。ちょうど、新しいのが出ているんですよねぇ。
映画はいつもどおり、Discasを利用。1本の半分だけ見た。出なくて良いって素敵。雑誌も、いまや定期購読だからなぁ。どんどん引きこもっていくという罠。
あとデフラグした。これ重要。あと何したかなぁ。BeckyからThunderbirdに移行をしようとして挫折した気がする。あと WORDPRESのSitemapのプラグインを入れた。DWの8も使ってみた。あとMySQLごにょごにょ。年賀状は読むタイミングすっかり逃して、もう読むのが怖くなって(こういうことってありません?)半分ほどまだ読めてないという罠。どうしたものか。
ぜんっぜん覚えてないなぁ。とりあえずひきもってG・T・D!G・T・D!だったなぁ。
まこっちゃんじゃないけど、電子になろうかしら。

携帯メールの効用

今日、ものすごく天気よいね?
テンションあがってきた。
天気って素晴しいなぁ。
ということで今日のブログ2本目。
昨日、携帯メールをして思ったんですよ。
常々、このブログで言っているように、僕は携帯メールが苦手で。
嫌いじゃないんだけど、打ちにくい、というただ1点の理由だけで苦手なんです。
つまり、キーボードが携帯についてたら問題ないんだけど。
だから3文以上の文章はだいたい、PCメールで打って、自分の携帯に転送して
それから、それをコピーして、再度、メールを送るという工程を辿るのです。
そのほうがよっぽど早い。
でも、昨日はたまたま外から携帯メールを返信する必要に迫られて
PCから撃てず、携帯から打ってたんですよ。
で、その時おもった。
このうちにくさ。
つまり、このじらされ感?(謎 あるいは、このうちながら考える時間ができること。「
それって大切じゃないのかなぁ、と思った。
PCなら考えるのと同時に文字が出るから、なんか、つまり思ってるまま書いてますよ。
つまり喋っているのと同じ。
このブログの乱雑さとか、まさにそれを表している。
でも、携帯メールって、喋っている速度ほどには早くないから
どうしても、違う文体になる。
たとえば、考えながら打ってしまったりね。
それってば、PCメールと違う効用があるな、と思った。
携帯メールだと、やたら雰囲気の違う人いるじゃないですか。それってそういう効用があるのかなぁ、と思った。
そういえばPCのキーボードの並び方も、打ちにくさを敢えて出すために作成されたというけど、なんつーか、そうなんだよな、と思った。
そういう、「遠回り感」って意外と大切かも。
あと、さらにすげーどーでもいいんだけどさ。
いつだったかなぁ。
昨年だったかなぁ。なんか、初めて出会った人と必要に迫られて電話番号だけ交換したんだよ。だからメールは知らない。
で、でも、その時、相手からメールが届いて愕然とした。「なぜメールわかった!」と。、でもそれメールじゃなくて、いわゆるショートメール。同じキャリアだけ有効なのかな。電話番号に送れるヤツ。
あれ、存在は知ってたけど、そういうことに使えるという想像力がなかったから感動した。
つまりさ、電話番号だけ聞いておけば、連絡が簡単に取れるというわけですよ。
たとえばね合コンとか、ビジネスでのアンオフィシャルの飲み会とかでさ
連絡先きかなアカン時あるやん
その時、電話番号って数字だから、ききやすくても、メールアドレスってききにくいよね。長いし、うちにくいし。
名刺にいれてたらいいんやけど。
だから、そんな時キャリアが同じだとわかれば電話番号きいて、あとでショートメッセージ送って、そこでメアドだけ聞けばよい。
そういえばこの機能って、携帯メールができる前、関西セルラーかなー。違う。ツーカーだったかな?がやってたんだよね。ショートメール。
わすれたけど、高校2年のころだから、1997年とか?
のころ、このショートメールが始めて登場したんだよね。確か。
それが丁度、この電話番号に紐づけてメールを送れるシステムだった。
いま、まさにそれが復興していると。
多分、こういうのって常識なんだよね?
僕が知らなかっただけで。でも、すげー便利と感動した記憶がある。なんというか合理的。
まぁ、いいや。

三連休の中日は、思い切り寝坊して珈琲。

戦友ゆうちゃんのブログで見かけた一文に痺れた。

DailyTokyo:麻布十番はやくざな町か

こちら。

トーキョーではいまこの瞬間も
いろんな誤解が生まれている

おー、そうだよね。と思った。

誤解ほど世の中にスパイスを効かせてくれる厄介で困難な認知バイアスはなくて。その誤解を解くのに人は言葉に言葉を重ねて、さらに誤解を生産していく。

まさに人とはまさに誤解生産機。喋れば喋るほど、なんだか間違った方向に突っ走る。

コミュニケーションたるや、まさに誤解を前提になりたつわけあるよ。

お互いが分かり合えないのを前提に、それでもなんとか徒手空拳で我らは言葉をつむぐ。結局は行間をため息で埋めていくことになるのだけれど。まさに、浜辺で砂山を作るよう。その様は、砂上の楼閣。

で、そんなことを考えていると示唆フルな一文に再度出会った。

sunnyのブログ
 #リンクしていいのかな。まずかったら後で消そう・・・。

ふわふわクラゲ-私のイキかた。

コミュニケーションが発生するにはそれなりの条件が必要となり
もし、それが発生しない場合に発せられるこの言葉。
これに、私はケースバイ、と同じ軽薄さを感じる。

「そういうつもりじゃ、なかったんだよ」

ケースバイって言葉、私もよく使うから気をつけなかんなぁ。ケースを列挙して、その場合の可能性を提示する場合は良いのだろうか。あるいは、全てのケースを包含するルールを出さないといけないのかしら。なんて。

ふーむ。なるほどなぁ、と、思った。

蛇足だけど、抽象的な文章、あるいは複雑な文章を読む時は、その文言を追ってはならないと思った。それより大切なのは、思考のトレースなんだよ。

つまり、どういう意図でこの言葉がでるのか。自分がこれを書くなら、どういう思考プロセスを得るのか、そういう視点で書かないと、その方々の文章ってのは、きっと読めない。

哲学書とかでもそうだけど。
多分。
そんなことをちょっと思った。

まぁいいや。

世の中は誤解で溢れている、それは正だとするならば。

それを前提で生きていくほうが良いのか、あるいはそれを見てみないで生きたほうが幸せなのか。

ケースバイだな、と思った。

グウェンステファニーねえさんとか?

いやぁ。別段なにがあったというわけではないのだけれど。

人の話ってのは怖いですね。そうですね。いや、人というかきっと自分も含めての人間全般の。

というのもですね、友達と電話やら話やらメッセやらするわけじゃないですか。その時に、「誰々」という第三者の話しもよくでるわけですよね。

で、その誰々というのが友達だったら、まぁ問題はないんですよ。友達なわけだから、まぁ、どんなことあっても大体の想定の範囲内(第三者から聞かされる話としては)。知らない人でも問題ない。『知らないから。

怖いのは知り合い程度。

知り合い程度の人の噂話ほど怖いものないね。なぜならその人のこと顔は知っているけど、よくは知らないから、友達から聞いた話がかなりクリティカルに、その人のイメージを形づくる。

しかもさ、そういう話って、多分9割がネガティブな話なわけですよ(原田観測)。それは、悪口じゃなくて、なんというか、そういう話のほうが話のネタになりそうなんだろうね。

で、つまりは、知らない間に知らない人のよろしくない噂ばっかりが回ってくることになる。いや、これワンダフル。ほんとに。ちなみにしゃべる人は悪くない。むしろ、そういうのは情報格差の均質化に寄与するので問題なし。問題は、噂のネタになるという行為のおそろしさ。あるいは、それを増幅、ないし誇張されてしまうパーソナリティの源泉。

たとえば、誰々が合コンで何々、とか。
誰々がメールでいきなり何々、とか。
彼は/彼女は○○だから○○だ。

みたいな。

いやさ、私もそんな言葉に基本はまどわされたくないっすよ。でも、一回頭に入って形成される先入観って強いのですよ。しかも、それなりに信頼している友人から聞く話だと特に。

そういうのを自分が色々聞いていると、改めて悪いことはしちゃいかんなぁ、と痛感するわけです。悪いこというか、あばかれて辛いこととか。うん、悪いことってより、恥ずかしいことはすると危険だなぁ、と。

いや、こんなこと書いている僕も当然例外ではなくて、きっと他者様へは、ネガティブな話が伝わっていることは多々あると思って、もうその辺は床屋の井戸に向かって叫ぶしかないわけだけどね。

なんつーか。

まぁ、いいや。いわく「陽のあたる道を歩め」というか、なんというか、ね。

まぁいいや。別の話。

先日、作業しながら、MTVをかけていたらグウェン姉さんのドキュメンタリーがあって。これね(↓)グウェン姉さん。

The Sweet Escape

で、ふといろいろ思い出してしまって。グウェン姉さんはノーダウトなわけだが、サンタモニカによく遊びにいっていたころ、車によくかかっていた気がする。

あのサンタモニカの朝の高速の渋滞はありえないわけですよ。カープールさえもナンセンス。1時間くらい時速10キロとかのレベルだったような気もするけど、やや誇張。まぁいいや。

で、グウェン姉さんかっけえよ、やっぱり。マドンナっぽなぁ、と思っていたrあ聞くところによると、マドンナをプロデューサーした人がかんでいるんだとか?

てかマドンナいいよねえ。いつまでも現役。凄すぎる。こないだ雑誌で見たけど毎日2時間とか運動してるんだっけ?女版シュワルズネッガーか。

ということで、グウェン姉さんの会心の一作。はらじゅくガールズも登場です。

動画で思い出したけど、だいぶ前にかんちゃんに教えてもらった動画。


これ。

面白かったー。ショートフィルムなめちゃいけねえと思った。長いので作業しながら聞きながら見るのが吉。

で、動画といえばニコニコ動画。かなり古いいまさらな話だけど。一応おいておきますね。面白いね。

ニコニコ動画(β) | 粉雪 (YouTube)
ここで一番有名な動画?でも大分削除されていた。

ニコニコ動画(β) | リアル ストリートファイター (AmebaVision)
スト2もかなり削除されていた。しょうがないのでリアル版で。

philosophia de nada

情報っていうのは知っているだけでは価値がないのである。
それは別段、どこぞの本でありふれて語られているような「知恵」と「知識」は違うんだ、みたいなことを言いたいのではない。
情報というのは使うことに価値があるのはAgreeされるか。ならば、その運用方法に価値があるということも当然の理。
たとえば。
たとえば、ある株が上がると解かっていてもその株を買わなければその価値はないように(勿論情報垂れ流しとかあるいは別の株で儲けるという手法とかもあるけどまぁ、それは誤差の範囲)。
つまりだね、たとえば、そうだなぁ。
「人生はこうである!」みたいなものすごい真理を知ったとする。
でも、本当にその真理を理解できるのは、あるプロセスとある条件下において可能なわけであって、誰しもがそれを体得できるわけではない。
つまり、一週間で出来るPHPや3日でマスター英会話を読んだからといって、万人が同じ結果を持たないのと同じ。
つまり、問題は是が何を意味するか、ということである。
それは、「情報は惜しみなく出せ」という哲学の価値が再検討されてしかるべきなのである。
つまり、情報を出したがらない人というのは、「この情報は人に知られたら、自分が損するから(あるいは他人だけが得するから)」とかで出さないことが多い。他の理由もあるけれど。
しかし他の人がその情報を知ってもあなたと同じように運用できるとも限らないわけである。
少し話をずらす。よく本や講演や人の話なんかで「情報は惜しみなく出せ。出す人に情報は集まる」という話をよく聞いていて。
まぁ、それってばわからないでもないのだけど、「なぜ」というのがわからなかった。
基本的に原理が理解できないものは信用してはならない、というのもひとつの哲学。
情報出すと集まるというのはわかるけど、それが即ち他の人にとっての情報の価値を下げるわけではない、ということは、時に情報を出すことによって、自分が相対的に損をする可能性もあるわけである。
勿論、+がそれを補う程度あればいいのだけれど、それは非常にケースバイであるから、そこには常にリスクが存在するということになる。
そう考えると、何かしらの条件下、あるいはルール下においての情報価値にはリスクフリーの常にポジティブのリターンを得られる価値があって、そうでない場合は、一概に適した手段とは言えないのではないか。
というのが原田の思いだったわけです。
しかし、上記のように、情報の価値というのは須らく等価ではないという前提にたつと、その情報を公開することで得るリスクは非常に限定的になるのかなぁ、と思った。もちろんゼロではないけれど。
つまり、情報って、生ものなんですよね。有名だけど。
運用しなくちゃ意味がない。価値がどんどん下がる。
そう考えると、へこむ(マイナスになる)ことがあっても、それ込みで運用した方が結果的にはリターンの方が大きくなるような気がした(なぜならそこでのマイナス分はフィードバックという点で+の効果もあるから、マイナスはある程度、相殺される。逆に+は、それの再投資による相乗効果がある。この効用から見ても長期的にはリターンの方が多くなる:前提としてプラスマイナスになる可能性が5割の場合)。
そういうことで、情報は惜しみなく出したほうが良いわけです。

人に惹かれるということは。

ふと思っただけなのだけれど。
人が人に惹かれる、平たく言うと好きになる、丸めて言うと恋する、って状況のトリガーの話。
きっとそのトリガーにはいくつか種類があって。たとえば、生理的なものもあれば、種の保存的なものもあるだろうし、あるいは性癖(後天的なもの含む)もあるだろう。
その1つとして、相手が理解できないから好きになる、という状況もあるのではないかと思った。
某アルハブロガーの下記の一行でインスパイアされただけなのだけれど。(ちなみに頭おかしいのはこの人です。確かに)

 頭おかしい。惚れた。

つまり、「頭おかしい=理解できない→惚れた」の構図。
これは付加逆で、惚れたからとて相手が頭おかしいとは限らない。
たとえば。
たとえば、村上春樹のピンボール(風のうただっけ?)で「月へ帰りなさいぼうや」と主人公は言われる。それは主人公の現実感のなさ、あるいは不可解さを皮肉ったものだ。
しかし、女はそれでも主人公と共にいる。不可解さが魅力なわけだ、多分。結局、結婚には結びつかないので、悲しいのだけれど。
ともあれ、こういうのってば、世の中に往々にしてある。
自分自身を思い返しても、それが恋愛感情ではないにしろ、理解できない人には、強烈に惹かれてしまうのは、世の理である(男にしろ、女にしろ)。
ただし、条件つきでそれが安全側に倒れた「理解できない」場合に限り(これは森さん独特の表現。安全側というのは、人間が対象をバイアスをかけてみてしまう場合に2種類あるのだが、それが安全側ということ。もう一つは危険側。つまり過大評価が危険側で、過小評価が安全側と考えるとわかりやすい。自分にとっては過小評価されているほうが安全、という意味)。
最近トレンディな(悪い意味で)、ドメスティックバイオレンスも、こういうのと関係しているのかな。全然はなしが違うような気がした。物凄い勢いで。
その理由を考えてみる。
なぜ、人は理解できないものに引かれるのか。
それは多分、人間の生存本能ではないか。人間はとりあえず目に入るものは理解しておきたいという願望がある。だから、理解できないものは、理解しようとしたくなる。
そんな歴史の積み重ねににより、今、人間は河豚が食べれるし、キノコも食べれる。いわば怖い見たさ、ってのがあるのかも知れない。
自然は畏怖すべき対象だけれど、そこに身を投じるのは恍惚でもあるわけで。でも、それは対象を理解しようとするからなのだろうか?ちょっとそれはまた別で、どちらかというと心理学でいうタナトス辺りにかかってくるのかも知れない。あるいは、フロムの自由の概念あたり。権威には、人間はお手上げちゃん。
じゃあ、恋はまた別だな。
護衛本能ではなさそうだな。理解しにくいものは、遠ざけたほうが良いから。
人間のあらゆる行動は、ミーム的な意味での種(時に固体)の保存の原理に基づいているわけだから、きっとそこから解き明かせるはずなんだよな。
あ!そうか。自分が犠牲になったとしても、種(グループ、種族など)としては、対象を理解できるから、問題ないのか。これってば、そういえばザッキーさんが卒論でそういうのを研究していなかっただろうか。
村社会では、キチガイを作ることによって、その村の求心力を高める、というような。つまり、外部があってこそ、初めて内部が生まれるというようなパラドキシカルな構造。
つまり、そう考えると理解できないものを愛するのは、人間全体にとって、それが有意義だからか。
なるほど!心得た。

世界に平和を。

いつかの話。
初詣の話になった。そこから派生して、神社に行くと願いごとをするかどうか、という話になった。
その方は「願いごとなんてしたことがない」という。
びっくりして「どうして?」と聞いた。

「もしも願いが叶ってしまったら、その神様にお礼に上がらなければならない。そんなの面倒くさい」

ということ。
その哲学に、私は腰を抜かすほど驚いて。その律儀さに。あるいはその本末転倒な哲学に。
しかし、それはそれとて立派な自分なりの哲学。すなわち誰にも借りは作らない、ってなものだ。
でも、私が言い返した。

「僕は、いつも世界が平和になりますように、と願ってるのはアカン?」

と。
これはマジメな話で、僕は何か願いごとをしなければいけない状況になった時、あるいは、オプションで願いごとを願っても良い状況になると、決まってこのお願いごとをしていた。多分、ものごことつく前からだから、小学校前とかから。謎に仏壇の前でも、こんな呟きさえしていることがある。くわばら。
多分、なぜこんなナンセンスな願いをしているかというと、多分自己の願いは自分で成就させるものだと思っていて、相手がいくら神様であろうと他人任せにするのは癪だったからだと思う。小さいころの自分は。
もうひとつは、惰性で続いてしまっているのだろうね。
ともあれ、そういうと、相手の人はこう言った。

「ああ、その願いごとなら願っても大丈夫だよ」

と。
「なぜ?」と聞き返すと、相手の方はこう言った。

「その願いが叶うことはないから」

なんだか気になる言葉

先日の話。
多分、誰か・・・友人なのか知り合いなのか誰か忘れてしまったのだけれど、いっていた言葉がある。

「電車でね、横の人が携帯で・・・」

という話だった。
その後の言葉は覚えていないし、どんな文脈だったのかさえも覚えていない。
でも、僕はそれを聞いて、なんだかとても気になって、それを無印のメモ帳に書き留めておいた。今日、部屋を片付けていると、そのメモが出てきた。すっかり色あせて、記憶も色あせている。
でも、だからこそ、その言葉に強くひっかかった。隣の人は携帯で何したかったんかなぁ。
「電車で隣の人が携帯で」何をしていたのかが気になったんじゃない。もっと言葉にならない何か。がんばって言うならば「見ず知らずの人と、場所を同じにしたというだけで、コミュニケーションが生まれたという不思議」というような。
SNSやWeb2.0ごにょごにょと今後のコミュニケーションを考えていたので、そんな友人の何気ない一言が物凄く気になった。
いわば、サスペンス映画の最後の辺りにフラッシュバックするシーンみたいな。心臓ドキドキするよ、みたいな。シックスセンス参照。
でも、この「電車の中で隣の人が携帯で」ほにゃららという事を友人から聞いた僕はそれをブログに書いているわけで、よく考えると「今の読者」「僕」「僕の友人」「友人の隣に座った人」「隣に座った人が携帯で連絡を取った人」の連鎖が生まれているわけである。5degress!!!
六人で世界が繋がるならば、あと1人いれば世界がつながりますね(※ sixdegreesはそんな意味ではない)。ともあれ、しかも、それが実はたった一瞬で起こったんですよ。その友達と隣の人が座った瞬間。その一瞬が、結果的には、5次元のコミュニケーションを生み出した。
物語はそこに何も起こっていないのにも、関わらず。つまり、語られるべき内容がないのに、形式だけが右から左に動かされる。
なんだかとっても不思議だったのです。

筒井康隆御大のお言葉

第16回三島由紀夫賞選評
はてブより。2003年だかの記事らしいけど。
三島由紀夫賞の選評です。「阿修羅ガール」という本の。

書くことが他にないのかと思えるほど男女の愛やデートやセックスの話ばかりであり(何度も言うようだがセックスとは書くものではなくするものだ)

キッタコレ。筒井御大節。

 近年、某社からやたらに若い女性の書き手が登場するが、本来的に二十歳以前の文学は無理なのである。

しかし、あの後も女流作家はどんどんでてきていらっしゃいますよ!
最近は、オナコーラというファンキーな人まで!本は面白かった!
タイトルは「私のセックスを笑うな」。何がよかったかって、高橋さんのあとがき!

だいたい井伏鱒二やトオマス・マンが毎年ふたりも三人も出るわけがないのであって、売り出すとすればまさにその年齢でしか書けない感性によるしかないのであろうが、そんな才能だけでいつまでも書けるわけがなく、大学に入ってからの文学修業など知性の末端肥大や混乱を招くだけであって、彼女たちの将来を考えればティーンエイジャーの文学デビューをここいらで打ち切りにした方がよいと考えられる。

これってあれか。
蹴りたい背中のこと?あるいは金なんちゃら何がしの蛇とピアス?

出版社はホリプロではない。ティーンエイジャーの女性文学者だけで「モーニング娘。」を作ってどうするのか。大人の読者を馬鹿にした所業としか思えず、架空の想定による彼女たちの追っかけめいた若い文学愛好者など当てにしてはならない。

この断言かっこいいなぁ。
うん。実際、わたやりささんの本は紀伊国屋で立ち読みしたけど、何がいいのかこれっぽっちもわからなかった。

彼女たちのデビューを邪魔しようとするものではないので、彼女たちに相応しい別ジャンルでの活躍は大いに望まれるが、少なくとも文学を標榜することは慎んでいただきたいものである。

きゅぁかっこいい。てかここまで引用しすぎて大丈夫かしら。
だろ。
師いわく、小説家になるのは30歳でも早すぎるのだ。40歳からっていってたかなぁ。忘れたけど。サラリーマンせずに小説がかけるか的な。
ちょうど、先日、阿修羅ガールについて書いたところだった。蛇足だけど。
2006年、原田の眉間を刺激した小説12冊

いわく、佐藤 友哉と西尾いしんと舞城 王太郎。だったよね?嘘だったらごめん。ノベルスの王者か。メフィストの3人集だった?まぁあやふやな記憶。

いやさ、僕も文学なんかいう気高い言葉を使う気はないけどさ、うなんか、ふわふわしたよくわからんので賞とりはると、「本の底力」ってのが見くびられてしまう恐れがあるのではないかとオムわけだよ。そうすると先達たちへの冒涜になるわけだよ。だから、やはりここは一線をかす必要があるわけですね。
「あれは単にブームでした」というような。
確か、これも筒井さんの言葉だったと思うのだけどね。
SFショートショートの書評で。
「アイデアだけは抜群にある。しかしアイデアだけで本はかけんのだ。基礎ができていないと話にならん」と。なるほど、と思ったことよ。
ほんで、また別のところで、1999年くらいだったと思うのだけど。もう少し前かな。
「今は、小手先だけ上手い人が増えた。しかし、文学というのは、そういうものではない」と書いていて。おおなるほど。と。
これってば、多分、**のときの**さんのことを評してはったんだと僕は認識したのだけど(ともあれ、それは当時のことなので現在の平野さんとは別問題というか、原田は関知せず)。
まぁ、しかし、あれだよ。
セックスは書くものではなくてするものだよ。村上龍御大にいっておいてあげてください(いい意味で)。
しかし、友人いわくセックスはするものではなく、持つものだ、という深い名言はある。
さらにはセックスはアンカウンタブル(不可算名詞)なのに、回数は数えられるという不思議な単語。ゆえにI have a sexではなく I have sexだった気がするけど、これ回数の場合は?timesがつくのね。なるほど。
あと幸せも望むものではなく感じるものです。