この星を継ぐ我々

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友人のブログのタイトルで「台風の去った沖縄では、夏がまだ続いていた」というものを見かけて。
その「○○では、○○だった」というフレーズが素敵。なんかキュンと来た。応用を考えた。
「あっという間に秋を通り越して、冬服を用意しなくちゃいけない時期になっても、港区のある一角ではまだ夏が続いていた」とか「金融大恐慌と言われていても、ロリータでチョコラータを飲む彼女の日々は夏に満ちていた」みたいな。
なんだかいい。
さらに応用を考えた。
「大学生が眩しく見える年頃になって、友人が買った結婚指輪の値段を耳にするころになっても、まだ私の心は青春で満ちていた」とか「夢見るころを過ぎても、彼の未来は永遠だった」とか「日本の政治家に希望を持てないという人が増えたとしても、まだシリコンバレーの空は真っ青で、カリブ海では貿易風が吹いている」みたいな。
で、ふと思い出したのが、こちらのブログで拝見した

青天井の未来予想。

というフレーズと

「実現したいことを遠慮なく想像している」

というフレーズがとても好きで。
ドリーミングに成りすぎても世の中は回らないのはわかるのだけれど、でも、少なくとも、私たちには未来を無限と想像する義務があって。不況、不況と言われていても、それでも日々を生き抜く人たちがいて、そして生き抜かなくちゃなんなくて。
故人の歌にもあるように、「涙を流し 瞼を腫らし祈るほかないのか? 」なんて泣き言は言ってられなくて。
あるいは、最近、よく聞くのが「日本をどうよ」というような話で。
つまりは、前提としての「少子化やシュリンクするマーケット、政治的プレゼンスが弱くなっている日本」に向かって、あなたはどうするのか?という設問で。「アジアに出る」「海外に向けた市場を作る」「海外へ行く」という声を聞くと同時に「日本においては、自分がなにができるのか?」という自答を聞く機会も増えて。
これは一種の自浄作用とも取れるし、あるいは、反骨精神の現れかもあるいは、最後のなんとか屁というものかもしれないけれども、議論は侃々諤々、栄光に向かって走るあの列車に乗るわけで。寝言は寝てから言え、と言われても、それでも、人が持つ最大の価値は「希望」というもので。
そこで、恩師の言葉を思い出す。私自身、日本のブランドを10年来、研究していることもあり、少子化の課題がずっと頭にあって。そこで、2001年、認知心理学の恩師に聞いてみた。「少子化をどうとらえるのか?」と。そこで氏がいったのは

「波だよ。いつか戻る」

との言葉だった。本当かどうかはわからないけれど、若かりし頃の私は、何かその言葉に「そういうものか」と納得した憶えがあるのだけど。波は株価に表れるものかどうか分からないけれど、それでも波の上に魔術師はいるし、「歴史は二度繰り返えす。ー度目は悲劇として、二度目は喜劇として」とマルクス先生は仰っているし、ポリュビオスさんの言も引くまでもなくて。
そりゃ、相対的に考えれば、マイナスかプラスへの移動平均線はあるけれども、結局、それっていえば、尺度をどう見るかというもので、第一、その尺度の度数をなににとるかでも違っていて。
少なくともこの地球という「星を継ぐものとして現代に生きる我々としては、この時代も継ぐ者なわけで。
そして、それを故人は「陽はまた昇る」と喝破したんだよ、多分ね。

お風呂つれづれ

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昔々のお話。

「なんでお風呂に、桶を置いていないの?」

と聞いた私に

「かっこわるいから」

と返され。おお、そういう見方もある、と思った。世の中で物事に対する見方は一律じゃないのだ、当然ながら。
そういう価値観のお話を書こうと思ったけど、どうも最近、そのようなぬるっこい真綿でなんとやらな文章が多くて不評なので、今回はお風呂の話にしよう。
風呂の話で一番最初に思い浮かぶのはトゥーサンの「浴室 (集英社文庫)」である。内容はもはや忘れたが、お風呂に入ってやすらぐ男のシーンだけを思い出すことができる。もっとも自分で想像したシーンだけど。良い作品だった、印象論として。確か、山田詠美もほめていたのではなかったか。
あと、上海ベイビーでも、お風呂のシーンがあった記憶があるけど、勘違いかもしれない。むしろ、上海ベイビーの作者のほかの本を翻訳なさっている方のおうちのお風呂が素敵だった(日光がそのまま風呂に入るガラスの壁)という記憶間違いかもしれない。
思い返せば、風呂のシーンがある小説って以外に少ないだろうか?「酒井 あゆみ」さんの本では多いけど、それはまた別のお話。あ、思い出した。「痴人の愛」だ。これは僕の話ではないが「ナオミゴッコをしよう」と言われて、なんのことかと思えば、お風呂で体を洗わせるという話で、うまいこというなぁ、という「友人の話」を聞いたことがある。
そうか。お風呂で何かが起こらない限り、小説ではお風呂のシーンは必要シーンとして登場しないのか。映画だと、「サービス」の意味で、そのようなシーンは無駄に多いけど(特にアメリカ)。昨今の映画でも「チャーリー・ウィルソンズ・ウォー」「最高の人生の見つけ方」「ベガスの恋に勝つルール」あたりでも当然のごとくあった気がすると友達が言っていた(電文推定)。
あ、「千と千尋の神隠し」では舞台でしたね。でも特筆すべきことはなし。映画でバスのシーンで印象的なのは「プリティウーマン」のシーンかしら。誰かが言っていたのか、どっかで読んだのかわすれたけど、そのバスタブのシーンで、ジュリアロバーツが長い脚で、リチャードギアを云々というシーン(これ)が記憶に残っている。あとはサスペンスではよく風呂場で人がやられますね。お約束。特にシャワールーム。
まぁいいや。そういえば自分を思いかえせば、世界中のお風呂に入ってきた(メタファー的なまずい意味ではなく)。逆に欧州のは入ったことないけど(全部野宿だったから。でも駅にシャワーがあった)。
それで印象的なのは、ガーナの「水しかでないシャワー」やハンガリーの「同性愛者専用の公衆浴場」、エジプトの「バケツシャワー」、モロッコの「なぜか10畳くらいある馬鹿でかい風呂場」などが記憶に残っている。日本では川のお風呂や雪見風呂、アクシデンタルな貸切風呂などよく考えたら、お風呂っていろいろ記憶があることに気づいた。
過去で「人から聞いたお風呂の話」エピソードとしては以下のようなものが記憶によみがえってきた(男女・伝聞問わず)。

「毒素がたまったらお風呂で抜く。頭までざぶんと使って、ふなふなになるまで入る」

「お風呂ではひたすら本を読む。ページがしわしわになるまで」

「お風呂には青いものしか置かない。」

「お風呂では、桶は斜めにおかないとカビが生えるから斜めにおくこと」

なんてことを思い返しながらお風呂に入ろうと思った。人はそれぞれのマナーと思いでお風呂に入るのだなぁ、と。
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会議と読書とはあちゅうと(本レビュー)

献本御礼!
■会議!

質問会議 なぜ質問だけの会議で生産性が上がるのか?
清宮 普美代
PHP研究所
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おすすめ度の平均: 4.5

5 チームマネジメントに直面したリーダーが読むべき本
5 1260円でこんなに
5 会社で試してみました!
1 著者の会社の営業本に過ぎないのでは?
5 日本の会社、職場を変える会議のOS0「意見会議」から『質問会議』へ

会議は企業に欠かせない。よって、会議の効率性が、その会社の命運を左右する場合だってある。過去にも色々な会議のテクニックが生まれていて、そして、それは常に洗練され、あるいは革新が起こされている。
たとえば以下とか以下とか。
Amazon.co.jp: すごい会議-短期間で会社が劇的に変わる!: 大橋 禅太郎: 本
会議で使える、議論を活発にするための小技 | IDEA*IDEA
会議支援ツールSargasso eXtreme Meeting
そして、今回、新しく「質問会議」というものが注目を浴びている。
簡単に言えば「意見を言うのではなく質問を提示する」ことによって会議の質を高めるという手法で。アクションラーニングという手法も絡み合い、非常に興味深く。GEやトヨタなども導入しているのだとか。
このような「質問による生産性」は、古来、ソクラテスより流れくる文脈で。確か記憶によると、その本質は「答えは内在する」というヒトコトにつきる。
会議に興味のある方はご一読をば。もちろん会議だけでなくコーチングや教育周りにも非常に関わりは深そうです。
■本!

わたくしめ、速読周りの本は、多分あらかた読んでいると自負するくらい、そのあたりの本は読んでいる気がする。高校のころからだから10年以上だろうか(ちなみに短眠と)。
時間という価値が現代における最大の価値を持つ通貨だと理解しているので、そのようなものには興味がある次第。
その上で、今回の「フォーカスリーディング」を拝読。これは、単なる抽象論や精神論だけの本の読み方ではなく、「読書をスポーツである」と考えるような形で、本の読み方を提示する。まずはその点が、とてもわかりやすいかと。
姿勢や目の動かし方のテクニック周りから、メンタル面のテクニックなどとてもパンチがある読み応えのある一冊。
一番印象に残ったのは「3回読むべし」との点。ある本をしっかり理解するには3回読まなければいけないとのこと。これは「ふーむ、そうかも」と。
■はあちゅう!

はあちゅうの 20代で「なりたい自分」になる77の方法
伊藤 春香 (はあちゅう)
PHP研究所
売り上げランキング: 4803

最近ますます色々なものに磨きがかかっている~はあちゅうの初の単著(前はさきっちょと)。
人脈術含め、コミュニケーションやLifehacks周りの、「はあちゅうメソッド」が77個並べられています。しかしFlickrの憶えておいてくれたのは嬉しいなぁ(独り言)。
はあちゅうと初めてお会いしたのは、2004年くらいだったかと思いますが、会う度になんか新しいことをされており、圧倒されるばかり。学生のころ(特に高校生とか)って、学生のロールモデルがいたりしますが、そのような人のことは外面はみれても、どのようなことをしているのかは見えなかったりします。そのような点で、はあちゅうのような様々な活動に刺激を受ける人にとっては、そのステップが可視化されて、とても参考になるかと。
今度も世界一周いくそうですよ。しかも、無料で。興味ある方は以下のブログを。明後日くらい出発でしたでしょうか?
» はあちゅうの世界一周主義。~タダで70日間世界一周出来るかな?~
くれぐれもご無事を祈る次第です。

および、以下も宜しければで御座います。

細分化

いつしか僕たちのコミュニケーションは細分化されて、あるいはまぜっかえされて、ないしごちゃまぜにされて。
時に電話で、時にカフェで、時にはチャットで、時にはメールで、時にはSNSで、時にはブログのコメントで、時にはToDoリストでやりとりが行われ。
チャットでさえも、昔からの友人とはMSNで、グループではSkypeで、自動で繋がった人とはGtalkで、海外とはY!メッセンジャーで、と細分化されて。
メールでさえも、会社のメアドやプライベートのメアド、Gmailや、携帯メール、iPhoneのSMS、mixiのメールなどなんとも細分化されて。
なんだか、自分の言葉があらゆる媒体に散らばって。Google Desktopはがんばるけれども、カフェで交わす言葉をアーカイブするすべはなくて。せっかくのメモもPCがフリーズすれば霧散して(昨日の体験談)。そりゃEvenoteは便利でも、入力UIにも限界があって。
あるいは言葉は残せても、表情や空気や味やにおいは残せなくて。たとえ、景色をとるのに写真や動画、プリクラ、携帯カメラがあっても、結局、それを検索するすべはなくて。
アーカイブする必要はなかったとしても、短き人生でふと立ち止まって過去をみた時に、残っているのは、わずかな記憶と、集合写真、手編みの何かしらとかだったりして。
そして記憶は砂上の楼閣で、かってに再編成するし、あるいは自動イレイザーで消されてしまって。
もっとも振り返る必要はないのだけれど、でも、人は自分が生きてきた証がなくても、過去が過去であったと信じ込める強さはあるのかしらん、とかふと思って。
「君はちゃんとそこで生きていたよ」といえる証言者がいれば大丈夫なのか、あるいはおぼろげな記憶だけに寄りすがってそれを我が身として抱えていけばいいのかしらん、とよくわからない。
なんかポエムチックになったけど、実はビジネスの話だったり まる

土曜日を歩く

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完全に独り言です。
麻布十番の夜を歩いた。土曜日の夜だった。
土曜日の夜にも関わらず、相変わらず麻布十番は静かで。そういうところが好きだ。つまりは、私は人ごみは苦手だけれど、そもそも人ごみが得意な人はそうそういないので、結局、この一文は何も言っていないに等しい。いずれにせよ麻布十番は年の3日間だけを除いて(麻布十番祭り)、基本的には混雑していないように思う。特に日曜日の十番の閑散さは讃えたいほど情緒にあふれる。
ともあれ、十番を歩いた。
考えたいことがあって、ふと思い立って歩いた。浮き足だつでもなく、勇み足でもなく、ただ淡々と。たんたんと、の当て字は淡々でいいのだろうか?違うような気もするけど、なんだかその淡さがあっているような気がする。
人は考えるときに歩くことが多い。足の刺激が脳に良いのか、あるいは環境の変化が脳にやさしいのかわからないけれど、歩くことが多い。
そういえば、最近歩いてなかったな、とふと散歩をしながら気づいた。中学生のころは自転車をひたすら乗って考え事をしていたことを思い出す。近くの車が通らない町内を30分から1時間、ぼーっと漕いでいた。
高校生のころからは走ることに変わった。毎日、夜中か早朝に走りながら考えることは、とめどないけれど欠かせないもので、そして、そこには新しい酸素があったように思う。日吉近くの鶴見川や芝公園の東京タワーのまわりをただ、たんたんと走っていた。
社会人になってからは泳ぐことに変わった。六本木一丁目のジムで、朝、外国人と一緒に泳いでいた。走ることもラニングマシーンに代わってしまったせいで、本を読みながら走ることになり、考えながら走るという時間は少なくなっていた。
そんなこんなで最近歩いていないな、と思った。厳密な意味では歩いているし、散歩をしているのかもしれないけれど、1人で、こうして歩くのは久しぶりのような気がする、なんてことを思って、新一の橋から一の橋へ向かい、ウェンディーズから商店街に入り、網代公園を通って、けやき坂まで歩く。
ふと気付けば麻布に住み始めて5年で、それは長いか短いか、どちらでもないかはわからないけれど、まぁ、5年もいれば、それなりに町には思い出が付与される。
それまでは麻布十番は実利面から住んでいたのだけれど、年月による思い出の付与がいつしか、そこには別の価値を付与していた。それがビジネス用語でいえばブランドであり、一般用語でいえば思い出であり、哲学用語でいえば思念なのかもしれない。5年住んで、初めてそんなことを思った。
十番を歩いて、店にそれなりに記憶が付与されていることに気づき、「地元」の力というのはこういうことなのか、と気づく。それまで地理的概念には、そのような主観的な付加価値がつくかどうかはわかっていなかったのだけれど、それはアクションに結びついた記憶とともに、場所に格納される。つまり、Keyは場所であって、時間や人ではないのかもしれない。あるいは、それらもKeyなのかもしれないけれど、いずれにせよValueに場所のKeyは密接に結びついていて、「ああ、場所の力はそういうことか」とひとりごちた。
そして、今まで歩いてきた土地を思った。
日本は当然ながら、世界の道を思った。私は新しい土地に行くと、とりあえず歩く。その土地の空気を吸い込むために、ひたすら歩く。好きなだけ歩く。アフリカではさんざん歩いた。そもそも地図がいまいちで迷子になって歩いたという点もあるのだけれど、あるいはタクシーやバス、電車などの公共機関が不足しているから(タクシーは違うか)、という点もあるのだけれど、アフリカの街中は、なんだか生生しくて。それはコンクリートがないからなのかもしれないし、あるいは「土の上を歩く」という都内では珍しい経験を有することができるからなのかもしれないけど、アフリカではよく歩いた。
ガーナの首都アクラでは、町の橋から橋をただ歩いた。ぼーっと、あるいは、ギンギンと。朝から夜まで、歩き続け、目にしたものに驚き、あるいは果てない道に混乱し、ないしは、アフリカの太陽にめまいをしながら、ただひたすら歩いた。
疲れたら、どこかのカフェで甘ったるいカフェオレ(ミルクではなく練乳)を飲んで、おなかがすいたら町の屋台でバケツごはんを食べた(お風呂桶にご飯とかけるものが入った食べ物)。
だから何?と言われると返す言葉もないのだけれど、歩くということがKeyとなり、アクラと麻布十番が少し近づいた気がした。だから何?とは聞かないでほしいのだけれど。
===
ということで、週に1記事はブログを書こうという自分ルールにのっとりがんばってかきました まる

絵の話

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「ヒエロニムス良かったよね!」

とアルゼンチンのブエノスにある安宿で盛り上がった記憶がある。
ヒエロニムスとはこのような画家。サンパウロの美術館で確か二点ほどだけ展示されており、たまたまブエノスで会った人が、その絵を見ていた。そして私も見ていた。加えて、双方がその絵に深く感銘を受けていた。
ただ、それだけのことなのに、かなり親近感がわいて、同じに相手に興味がわく(性別問わず)。これはなぜなのだろうか?と考えるけれど、やはり嗜好性の共有、ないし価値観の共有というのは、人間の何かしらに根ざしたものなのかもしれない(マズローを惹かずとも)。
逆に属性による親近感というものもあって。いわゆる「同じ地方の出身」「同じ大学の出身」なんて最たるものだろう。いわゆる派閥だって、そのようなものかもしれない。ただ逆に同郷嫌悪ないし同族嫌悪のような言葉もあるように近すぎると、嫌悪感を催すこともある。ただ、これは嗜好性の近さに言えることもあるのだけれど。
分析するに、それは「自分と同じ個体がいる場合、カニバるので、避けたい」という人間のミーム的な本能からの発露なのだろうと勝手に分析する。自分と同じ人がいた場合、社会的にはその人の価値は主の保存から考えれば相対的に低くなる(のかな?)。同質性は高いほうが吸引力は高いけど、多様性が少ないとイノベーションやジャンプも起こらないのでどうなんだろうか。一節ではダーウィンが最近、覆されがちだとも聞くけれど、そう考えると、そういう紋きりで見るのは危険なのかしら。
でも、異性だと逆に嗜好性による吸引力は高いような気がする。一般的に見て。異性だと自分と似た遺伝子を残そうと思うから、そうなるのだろうか。実際、「いとこ」などの血の繋がった人は、赤の他人よりも恋に落ちやすいというデータを呼んだことがある。近親相姦が禁止されているのは昨今の倫理的観点(もちろん、医学的観点による結果からの見方もあるだろうけれど)からであって、ほっておけば、人類は血の繋がった人に恋に落ちやすいらしい(うろ憶え)。
そう考えると、異性だと嗜好性の引力が高まり、同性だと嫌うというメカニズムは理解できる。話とぶけど、政治学における「国」の争い分布も、隣国同士が仲が悪いという分析も上記からある程度読めるのかもしれない。
しまった。絵の話を書こうと思ったのに全力でそれた。うーん、上記と絡めて何か書けるかな。そうだ。
上記の絵の嗜好性の一致による親近感というのは、嗜好性のリトマス紙としてある程度、有用でないか。いやそうでもないか。いやね、つまり本や映画、音楽、スポーツなどなどいわゆるカルチャーの「これが好き」という共通項よりも「絵の趣味が同じ」という場合の方が嗜好性の類似値が高いのかと思ったのだけど、そうでもないかな。
というのも絵とはその良さを説明できないもので。本質的に。だからこそその価値観が反映されやすいのではないかと思ったけれど、音楽も本とかもそうだな、と思った。そして勿論建築や写真などなど全般的に。
ということを、どこぞかでさっきヒエロニムスを見かけて書いてみた。

シフト管理ってとても奥が深いということを「シフター 」から知る

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「売れるものならば、割り箸でも何でも売ってみせる」

とは、ワイアードの石原社長が言っていた言葉。彼の起業時の話をしている時だ。
その言葉がもつ自信とそして腹のくくり方が、同じ起業家としてぐっときたのを憶えている。それ以来、うちとオフィスが近いこともあり、CTOの鶴ちゃんともども色々とお世話になる限りなのだが、手土産に「チュッパチャップス」を下さったり、誕生日には粋なプレゼントをくれたりとなんだか流石。このような人情の機微というのは贈り物に何を選ぶかによって表されるような気がして氏のセンスに感嘆するばかり。
そんなワイアードが先日、アルバイトなどのシフト管理を携帯で行うことができるSaaS型サービス「シフター」をリリースした。
そのままだが、シフト管理をより簡易に、そして、より効率的に行えることができるサービス。オンラインで完結するのではなくオフラインの生活を豊かにするサービスが妙味。しかも携帯やSaaSといった今のトレンドどまん中。
私のアルバイト経験としては、コンビニや八百屋もろもろと思い出すのだが、確かに、シフト管理は、どうやっていたか思い出せないほど混沌としていた気がする。どうやっていたんだろう?紙に書いていたのかな。ともあれ。
このシフターは単に業務の効率化ではなく、それによってアルバイトの方々が利点を得る。つまり、管理側だけでなくアルバイト側もより簡易に効率的にソフトの調整ができる。それによって、アルバイトの方々も利点を得ることになり、それにより、アルバイトを引き留めておけるという長期的な価値を生むサービスだ。その流れがなんだかとても心地よい。
ということで、シフト管理などをしている方は、このシフターのご検討はいかがでしょうか。

差分なる人生

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人生とは差分である

と最近思う。誰かの言葉でありそうな言葉だけど、とりあえず原田の認識として。
どういうことかというと、人生には、色々な意味で山や谷、あるいは右肩上がりだけのグラフの人もいるかもしれないけど、まぁ、横軸が時間な世界で線は軌跡を描いていくものです。
その縦軸が何かは人にもよるけど、たとえば「金銭」「名誉」「ステータス」などのような典型的な人もいれば「幸せ」「成功」「社会貢献」のような抽象的な場合もあるだろう。人によって、そのKPIは変わる。
いずれにせよ、それらは大小の差はあれ軌跡を描く。一般的には、それが上下して、「まぁ、人生ってそういうこともあるよね」と失敗やへこみや公開や失恋などを得て、その谷を「糧」にしたり「そういうものだ」ととらえたりして、グラフは続く。つまり株価のグラフのように、上下に軌道を描きながら人生は進んでいく。
ずっと上昇する正の一次関数的なグラフを描く人は稀だけど、そういう人もいて。ただ、積分すればやっぱり、それでも上下に揺れているものなのだけど、まぁ、尺度の取り方によってはそういう人もいるかもしれない。あるいは「私の栄光の五分間(cfアンディウォーホール)は幼稚園時代だ」とうそぶいて、人生下降まっしぐらという人も逆にいるかもしれない。
いずれにせよ「上下ある人」「ずっと上昇」ないし「ずっと下降」のどの軌跡だとしても(MECE的にいわば)、それは差分の世界で。つまりは、人は昨日よりも今日とどうだったかで人生を計り、局地的にソレは意識しないとしても、過去を振り返り「遠くまできたなぁ」「よくやってきたなぁ」「死ぬまでにはこれをしよう」「三十までにはうんぬん」と差分を意識して生きる。
人生における何かしら尺度の差分というのは結局、相対的なもの、ということで。そして、それは突き詰めるところ、主観でしか得られない程度であり。つまりは、他者との座標軸が異なれば、同じ緯度・経度にいたとして同じように見える位置もまったく意味を持たなくなる。
だから何が言いたいかというと、人生の楽しさというのは個人における差分の大きさによって定義することも可能ではないかということで(もちろん他のとらえ方もあるが一例として)。そう考えると、ずっと上昇トレンドにおいては差分はベクトルは常に正になるので、大きさは限られたものになる。つまり微分におけるベクトルの大きさ(絶対値)の累積が人生の楽しさなのだから、そう考えるとマイナスは、人生に価値を付与するベクトルの動きだと考えられる。
もちろん絶対的なゴールによってそれを決める人には向かないけれど、あるいは定量的に人生をとらえる人にとっては違和感もあるのかもしれないけれど、そのゴールを目指すのは自分であり、定量的にとらえる主体は自分であることを考えると、それらのとらえる自分の尺度も結局のところ「人生は差分」というドグマを逃れることはできないのではないかと思う(できる場合もあると思う)。あるいは、そのような一次元的な目標は、時間というもの、ひいては歴史というものを侮辱することになりはしませんか?と思う次第。つまり、「故人たちが作り上げてきた歴史」に対する「新しい前進」というのは、差分の世界であり、そこに生きる以上、どのような目標であれ差分の世界を無視することはできないわけで。
で、結局、結論は特にないのだれど、自分なりのグラフを描きたいなと思う次第です。

「リュックサック一つが自分の財産すべてという状態でも勝負できる自分でいたい」

という人の話をふと聞いて、そんなことを思ったとさ。

言葉

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友人の日記で見たCM。

部屋は人生とつながっている

気づかなかったけど、言われてみれば、そういうこともあるかなぁ、とか思って、CMのコピーの力に改めて恐れ入った(さりとて、何かを訴求されはしなかったので、ターゲットが違うのだろう)。
ちょうど、先日、「広告はいいよね」という話になって、人によってそれの良さは違うのだろうけど、個人的には、やはりそのCMの言葉が良いなぁ、と思う次第で。
そんなことを思っているとちょうど先日、沖縄の西表島は「東のガラパゴス」と言われているという話を聞いて。それってば、もはやキャッチコピーで。なにかしらロマンと同時に世界にコネクトするスケーラビリティをもった言葉でとても白眉。
なんてことを書いてると、改めて、自分ってば言葉に惹かれる人間なんだなぁ、と自己認識。
これも先日の話で(この過去の話はとりあえず全部、先日にしておくメソッド)、「三島由紀夫」の言葉の良さの話を聞いて、どちからというと、言葉でいえばやはりベタに芥川龍之介のチョイスの方が好きなのだけれど、マッチョな言葉(質実剛健みたく)、かつ耽美な言葉でいえば、三島になるのかもしれないと思って、読み返さないといけないと思った。多分、一通りは読んだのだけど、その頃は私はストーリーに惹かれる人間だったから、犯人も濡れ場もない小説(あるにはある)にはそこまで傾倒はしなかった若造だったのかもしれない。
言葉としてまたも思い出したのだが、最近、「おお」と思ったことがあって。

「面白きこともなき世を面白く」

は高杉晋作大先生の有名すぎる辞世の句だが、何かの話の流れでそれをよんで。で「その後って何だったかな?」と言うと、

すみなすものは心なりけり

と下の句をとってくれた人がいて、それはそれで大いに驚いた(まぁ、でも歴史好きの人なら当たり前のことかもしれないけれど、これが医者が受けた句とまで注釈つけるのはなかなか妙味かと)。ただ、言葉フェチとしては、そんなところにアドレナリンを分泌するような生き物で。そして、スズメの話になって(すごい話の流れだけど)

燕雀 いずくんぞ

とつぶやくと

鴻鵠の志を知らんや

を拾われたので、さらに感嘆した。さらには三島の「仮面の告白」の冒頭を諳んじられて、悔しいので、私は、草枕をひとり口ずさむのであった。

山道を登りながら、こう考えた。

と。

運とか奇跡とかセレンディピティとか

少し前、はてブ界隈で運の話が話題になっていたような気がする。
大前さんだか、出井さんも「成功するのに大切なのは運だ」というスピーチをしているのをどっかで読んだ。
で、調べたらあった。
運と機会を味方に「1人でも企業を変えられる」–出井氏が贈る起業家へのメッセージ:ニュース – CNET Japan
で、もう1つはこれか。
POLAR BEAR BLOG: 「計画された偶然」という姿勢
つまり、物事を成功させるためには運がかかせないが、その運とは

「計画された偶然」理論では、「運も実力のうち。幸運が訪れたときに逃さないように感度を高めたり、幸運が訪れるような努力を行うことが大切」と説くわけです。

というものに裏付けられる。
まぁ、これを聞くと麻雀とかを思い出す人もいるのでは。
どたんばで無茶苦茶ヒキが強い人がいますけど、そういう人たちってのは、どう考えても「運を引き寄せている」としか思えなくて。
やはり、おりる時は降りているし、場を読んでいるし、なんか、ちゃんと計画された運って気がする。
わたくしめのの考えとしては、科学的に考えて純粋な意味での「運がいい人、悪い人」というのは存在しないような気がする。
なぜなら運というものに価値を与えるのは主観でしかないわけで(つまり「いい」「悪い」)、そんなものは科学的に傾向がうまれようがない。
では、なぜ「運のいい人悪い人」がいるかというと、人間がそうラベリングしているからそう見えるだけである。つまりは、これも前に書いたけど、心理バイアスの問題ですな。
で、加えて、その「いい」「悪い」が「人間の視点から見て偏っていた」という場合だとしても、確かに「運のいい人、悪い人は存在する」という仮説を考えることは可能である(つまり、チリ人とコロンビア人とコスタリカ人の3Cの国には美人が多いという言説を論証するのと同義)。
しかし、これも結局、たまたま可能性の問題として「ここぞ」という時に「良いと判断しうる運」をひっぱってくるタイミングが重なったわけで、そう見えるだけである。
つまり、長期の平均でならせば、その「運の良さ」は局地的な単なる運の偏りでしかありえない。
この辺は行動ファイナンス理論 なども参考になろうか。
で、まぁ、それはそれとして、でも、しかし、そのような運が「偶発的」なものならば、逆にその「偶発性」を準備することは可能ではないか?ということを検討する余地があるのも至極当然。
で、それが冒頭の「計画された偶然性」になるわけだが、この言葉を聞くとセレンディピティを想起する人は少なくないかと。

何かを探している時に、探しているものとは別の価値あるものを見つける能力・才能を指す言葉である。何かを発見したという「現象」ではなく、何かを発見をする「能力」のことを指す。

具体例として以下のようなものが挙げられている。

# アルバート・ホフマンによるLSDの幻覚作用の発見
# 田中耕一による高分子質量分析法(MALDI法)の発見
# スモーリー、クロトー、カールによるフラーレン(C60)の発見

しかし、こんな高尚なものでなくとも、もっと卑近な例はいくらでもあると「個人的には」考える。
たとえば、「めがねを探している時に、前に失っていたワッペンを見つける」だとか「失恋して映画を見ている時に、その映画から新しいビジネスアイデアを思いつく」だとか。(超適当ですが)。
で、このような偶発性は、まさしく計画できるものである。
つまり「偶然」が起こる可能性は前述のように、なべて均一だとしても、その均一に訪れる運を、うまく活用できるかの素地作りができる、というか。
つまり「誰でも人生で5分間はヒーローになれる」とウォーホールだかチャップリンだかは言ったけど、その5分間を、最大限活用できるするようにするには、個人の裁量にかかっている。
たとえば、「キャンベルスープの缶」を見て、それをアートだと思い新しいポップアートを生み出してしまう人がいる一方で、それは食べ物にしか見えない人がいるというような。
そして先ほどの卑近な例でいえば、「めがねを探しながらサングラス」を見つけるには、サングラスをなくしたという事実を覚えておく必要があり、あるいは「映画を見てビジネスアイデア」を思いつくには、常日頃から、それに関して考えておく必要があるのと一緒で。
で、ここで久しぶりに原田ライブラリより奇跡を引用。

私たちの生き方には二通りしかない。奇跡など全く起こらないかのように生きるか、すべてが奇跡であるかのように生きるかである。

この言葉が重みを持つのは、まさしく、この奇跡を生み出したアインシュタインからの言葉であるからに他ならない。
もっともアインシュタインは、不確定性原理(だったっけ?)という奇跡(偶然)を認めなかったという逸話もあるそうですが、それはご愛嬌。
で、何がいいたいかというと、やはり、森羅万象、我が身に起こる奇跡や偶然が、「たまたま」だとしても、あるいは「計画されたもの」であったとしても、やはりそれは「天からの僥倖だ」と捕らえたほうが人生、ハッピーに生きれるに違いない、とかおもったのだ。