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七夕の願い

先日、七夕だった。ツイッターなどでは、人々の願いがTLを賑わせた。

もし、自分だったら何を願うかな、と考え、いつもどおり、「世界中の人が死にませんように」という願いだな、ということにいきついた。

いつか物心ついてから、初詣にいった時やお盆で先祖の墓の前にたつと願いは「世界の人々が死なないように」だった。少なくとも小学校の頃からだから、30年近くだろう。もちろん例外もあり、家族の無病息災や誰かしらの不幸を避けるように、といった願いはその時々で合わせて願っていたけれど。しかし、「受験が受かるように」や「恋人ができるように」といった願いをした記憶はない。

なぜ、この願いに固執するか、という理由は思うにいくつかある。

一つは子供ながらに「自己中心的な願いがなんだかピンとこなかった」というのがある。なんだか自分のちからで実現するものは、自分でがんばりたかったのだろう、と思う。

もう1つは、「実現されないくらいのもの」がいいのではないかというものがある。これは言語化するのがなかなか難しいのだけれど。「世界平和」ではなく「世界の誰もしなない」というのがポイントな気がする。世界平和は実現されるかもしれない。しかし、世界の誰もが死なない、というのは、まぁ、なかなか起こりづらい。もっとも世界平和も同じくらいには難しいけれど。いわば極度の貧乏性なのかもしれない。自分の願いがかなってしまうと、それはまたどこかで帳尻があうように不幸なことが起こりうるんじゃないかといったような。特に何かの宗教的な意味合いではないけれど。とはいえ、名作映画「リアリティ・バイツ」におけるイーサンホークのセリフを借りれば「チョコバーは俺に借りがある」というように、世の中に借りをつくれば、また話は別かもしれない。

なんてどうでもいいことを七夕に思い出した

everybody be cool this is a rubbery

この世でもっともCoolな映画の1つは、「Pulf fiction」であることは異論をまたないかと思います。

タランティーノ監督をこの世に知らしめた一作であり、ジョン・トラボルタの復活の嚆矢となった一作であります。

見どころとしても、ユマ・サーマンとジョン・トラボルタのツイストダンスや(下参照)

»【ナポレオン・ダイナマイト】突然のダンスシーンが印象的な映画7選【パルプ・フィクションなど】 #映画 – NAVER まとめ

ユマ・サーマンの心臓に注射器をぶっさすシーンや(以下、参照)

ブルース・ウィルスの「パンプキン」のセリフや日本刀の立ち回り、サミュエルL・ジャクソンの口上やティム・ロスのかっこいいオープニング。1度みただけではよくわからない凝ったストーリーにキレキレのセリフ。そして、隠れキャラのブシェーミー(最近でてるのを知った)と、見どころ満載の一作です。ああ、何より音楽も最高なので、こちらも忘れちゃいけないですね。

なお、あまりにもこの映画が好きなので、高校時代は、この映画の台本で英語を覚えたのですが、まったくおすすめしません。Fワードに詳しくなるだけ。

Pulp fictionのFacebookのファンページで、久しぶりに予告編が流れてきたので懐かしくなって、思わず投稿でした

思い出の効用

いつもどおり、録画したビデオを見ながら、ストレッチをしていた

その時、みていたのはゴッドタンだった。

そこで、使われているBGMは、鉄腕ミラクルベイビーズのTalk showだった

ご存知の方はご存知かと思うが、かの名番組「ねるとん紅鯨団」のオープニング曲だ。

これを聞くと、なんというかバブルの匂いを思い出す。もちろん小学生だった自分にとっては後付の記憶でしかないのだけれど、とはいえ、何かしら青春の思い出とともに、この曲は何かしら心をぐっと突っつく曲で。

思い返せばフジテレビの最終面接で「好きなテレビ番組は?」と聞かれ「ねるとんです」と答えたのは、結構、本心だったのかもしれない。

先日、友人と話をしている時に「懐かしいものを言い合うゲーム」をした。自分では忘れていた古い思い出がいろいろでてきた。

一般的に「昔は良かった」という過去を名残惜しむ話をするようになったら、その人の成長は止まっている、終わりだ、という話を聞く。このあいだまでは「そうかもな」とは思っていた

同窓会とかで、昔の思い出ばかりを話している隣のテーブルなどの会話を耳にすると「今はどうなんだ」と楯突いていたり。

しかし、「過去を懐かしむのは最高の贅沢である」という誰かの名言(山田詠美だった?忘れた)にもある通り、懐かしむのは、贅沢なのである

綺麗な海にいったり、唯一無二のホテルにとまったり、美味しい料理を食べるというのと並列に「思い出を遊ぶ」という贅沢はある。

それは、同じ空間を味わった人同士しか楽しめない遊びであり、同時に、その思い出から今までの時間の長さを感じるとともに、愛でるという思い出である。自分がどれだけそこから歩いてきたか、ということをさりげに矜持とともにもてあそぶ遊びである

そういう意味で、美味しいお酒と懐かしい思い出は、贅沢という観点では、合う組み合わせなんではないかと思う

どうでもいい話2

■どうでもいい話1

ある小説を読んでいた。

するとこういう話があった

  • ある殺人事件があって、手がかりはある絵画
  • 刑事は、その絵画が何の絵画かを知りたいのでFBIに問い合わせた
  • FBIによると、今わかったのはそこで使われた染料とかだけ。そしてFBIの仲介者はこういう。「これ以上の情報を知りたかったら、FBIが絵画に喋らせる技術を持たないとできないな。『私グリニッジビレッジの絵描きさんに書かれた絵なの。2年前にね』」
  • それに対し刑事は「そんなこともFBIはできないのか!」と激怒

この小ネタは現実世界でも使えそう

  • ある新規事業を思いつく。たとえば、世界中の手書きのメモをスキャンして検索するようにしよう!、とか
  • それに対して、ツッコミ役は「そんなのGoogleを買収しないとできないよ」と言う
  • それへのさらに返しとして「Googleごときを買収できないのか!」と返す

みたいな。

世の中では、ボケに対するツッコミによってボケが生きることがあるけど、ツッコミへのさらにツッコミでぼけるという演舞もあるよなぁ、とふと思った。

ワンツーのストレートに対するカウンターの、さらに宮田君のクロスカウンターというか(謎

■どうでもいい話2

さっき、ゴミをすてにマンションの入り口を通った。すると、男性と女性が入ってきた。

で、女性が過去の恋人に似ていて、一瞬、ドキっとした。とりあえず「こんばんは」とだけ言った。ゴミを捨てた。

帰りぎわのエレベータでこんなことを考えた

  • 女性が主人公。脇役に過去の恋人と今の恋人。
  • 今の恋人の家に初めていくことになった
  • その家はなんと過去の恋人の家だった

みたいな物語は短編小説として少し面白いのではないかと。

この物語のポイントは3つ

・その頃の思い出を思い返してしまい、しかし、封じ込めないといけないという二律の思いのせめぎ合い
・そのマンションで偶然過去の恋人に会ってしまうのか
・今の恋人にそのことを言うか(近くに美味しいパスタ屋がある。彼女はそれを知ってるけど、「知らないふり」をするのか

冒頭は、「もうこのマンションに来ることはないと決めたのに」という一文から始まる的な

行き場のないしょうもないネタ

たまに死ぬほどしょうもないネタを思いつくのだけど、会社でいうわけにもいかず、心の奥底にしまう。しかし、沈殿するその何か(村上春樹はそれを澱と看破した)は外に出してあげないといけないので、以下に王様のロバ的に記す

・ある男が、自分の会社の女性の少なさを嘆いていた。対して友人の会社は女性が多く、特にキラキラ女子ばかりだ。その2人が飲んだ時に、男は友人をうらやましがってこういう。「いいよな、お前の会社は。女の子がたくさんいて。うちの会社なんて女が少なすぎる。今週なんて、1人もトイレで女性と擦れちがわなかったよ」

・「へー、なんで恵比寿に住んでるの?」「エビが好きだから」

・エレベータでは、後に乗り込んできた人が扉のふきんにたつことになる(両面扉の場合でない限り)。ゆえに、目的地についたら最初に降りるのは、後から乗り込んできた人である。仮にその目的地が人気のレストランとかならば、先に降りた人が先に並べる。最初にエレベータに乗った人は奥になることが多く、ゆえに降りるのも最後になり、最後に店に並ぶことになる。この不条理はなんだ。カフカもびびるほど。この不条理を解決する方法があれば、世界はもっと平和になるのに、と思った。現代の闇がここにはあうr

アイドルの名前を知っておくことは現代の教養である

あまりテレビを見ない。ゆえに、タレントや女優の名前を知らない。つまぶき君でさえもこないだ知ったほどだ(恵比寿スカイウォークの広告に出ているから)。

前までは、それでいいや、と思っていた。ないし、恥ずかしいことに「知っていることに何の価値があるのだ。知らない方が尊いのだ」とさえも思う頃もあった(20代半ばまで)。

しかし、最近は完全に思考を変えた。タレントやアイドル、芸能人の名前を知らないことは恥だ、と自分で定義づけている。

なぜなら、それらは、世の中の口上に出ることが多い話題で、ゆえに、それはいわば現代の教養とでもいうべきものだからだ。たしか立花隆だか吉本こうめいが、読書のことを共通のマテリアルと呼んだような気がするが(めちゃうろ覚え)、つまりは、現代のコミュニケーションの共通のマテリアルとして、タレントは非常に有効なのである。

たとえば飲み会で「XXに似てる」、たとえば会社で「タレントのXXさんがテレビでうちのサービスのことをいっていた」、たとえば友達に「XXが好き」というシーンで、それらの固有名詞を知らないのは、いわば、コミュニケーションする言語を持たないことに等しい。

ということで、意識的に覚えようとしているのだが、なんせ、それらの教科書も少なく、また、非常に水物で、なんとも追いかけにくい。さらにいえば、根本的に興味がないので、追いかけるのもあまり楽しくない。いわば、世界史の登場人物の名前と役割を覚えるのと近い程度での業務感は感じている

なんか、そのような「とりあえず今日しっておくべきタレント名」みたいなコンテンツがあれば見るんだけど、あるんだろうか(感嘆)

シネマグラフが好きだ

写真の一部分だけ動かすアニメーションGIFをシネマグラフと呼びます。以下みたいなもの。

cinema

このシネマグラフがなぜかめちゃめちゃ好きで。見ていると癒されたりします。まるでクラゲを見るが如く。

DIOの時を止めるスタンドを思いだしてしまうかもしれません。そういえば、あのシーン(学生ボタンだけ動くシーン)がシネマグラフで再現されてもおかしくないのですが見かけたことはないですね。

cine2

cine3

他にも上記のようなシネマグラフがあります。以下の記事から引用させてもらいました。リンク先にはたくさんのシネマグラフがあるので、ご興味のある方はご覧ください。

»Amazing Animated gif’s for your inspiration | CGfrog | Graphic, Web Design, Photography, 3D, Inspiration, Photoshop, Fine Art

雨の日の日曜日の昼下がりに見るに適した物憂げさを宿したシネマグラフたちです。

身体と対話できるようになったよ

身体と対話ができるようになったのは30歳前後くらいからだと思う

それまで、僕は身体の言うことは聞かなかった。身体には悪いことをしたと思う。

睡眠不足があり、筋肉痛にムチうつこともあり、あるいは疲労感を見て見ぬふりして走ったり。

しかし、最近はちゃんと身体の言うことに耳を澄ませている。

たとえば

  • 身体がだるい時は無理しない。栄養ドリンクを飲んで睡眠時間を多くする
  • 筋肉痛がひどい時はストレッチをしっかりする。肩こりがひどい時も汗をかくくらいストレッチをする
  • 眠い時は昼寝をとる
  • 気分が優れない時は、きちんとした食事を取って汗を流す。バッティングセンターでバットを振る。夜中の港区を走り回る
  • ネガティブな思考な時は風呂に潜る、ないし、うまいものを喰う

などなど

もしかしたらこのような身体の対話は女性にとっては当たり前なのかもしれない。いわゆる「お化粧のノリが悪い」「今日はクマがひどくて」「足がむくんで」といった形で女性は身体の意見を代弁する。正直いって、30くらいになるまで、「女性は超能力者か」と思っていたほどだ。それほど、自分の身体の変化をくみ取れるなんてスタンド使いでしかありえない、と。

しかし、年を取ると共に(人によっては年に関係ないけど)、身体の意見を尊重できるようになってきた。

ただ、これは年も関係しているんじゃなかろうか。今までの「こういう体調だった」。そんな時は「こうなった」という因果関係を幾度も経験して、その結果、帰納法的に、「こうなったらこうなるな」と推測できる。そうできるには、それなりに時間がかかるような気がする。

そういう意味で、今は大分、体調はコントロールできているのではないかと思う。体質的に簡易な熱はよく出すのだが、会社を休まないといけないほどの熱は出た記憶はほとんどない(社会人になって体調不良で会社を休んだのは1回くらいしか記憶がない)。僕の身体はだいたい20時を越えてから熱を出すシステムになっているようだ。

昔から「身体は資本」と言われていたが、若い頃のこの意味はほんとにわからなかった。多分、ドラゴンボールが影響しているんじゃないかと思う。

「サイヤ人は死の淵から蘇ってこそ強い」というセオリーを信じていたので、身体は酷使するものだと思い込んでいた。学生時代の一時期は睡眠時間は3時間をきっていたし、1ヶ月で10キロの体重を落としたこともあるし、練習なしで100キロマラソンも走ったし、東京から大阪まで歩いたし、2年程ベジタリアンをしていたし。

しかし、やっと「身体は資本」という意味がわかってきた。ビジネスと同じで資本は無駄に使ってはいけない。丁寧にリバレッジが効くようにしないといけない。下手な負債を抱えてはいけない。

ということで、身体に感謝をしながら今日も寝よう

モバイルSuicaは世界を救う

毎朝、駅の中のパン屋さんで決まったパンを買う。

ツナサンドだ。大抵2個くらい残っていて、1つを買う。正式名称はツナポテトなんとかサンドだが、ツナサンドと言う。

お店の人は「ツナポテトなんたらサンドですね」と復唱する。僕は「はい」と答える。

お店の中には2人いる。1人がパンをとって、1人が会計をする。

ゆえに、この店でさくっとパンを買うには、2つのアクションが肝だ。

1.パンをオーダする
2.支払う

1つ目はいわゆる「何のパンを買ったら良いかわからない」という人がボトルネックになる。コンベアを詰まらせる。GOALを遅れさせる。とはいえ、しょうがない。初めてパンを買う人はしょうがない。たまに「先にどうぞ」と言ってくれるし。

問題は2つ目である。2つ目は、人によっては「カバンから財布を出して、財布から小銭を出して、そして、渡す」。この過程が30秒くらいかかることもある。

朝の通勤での30秒は、小学生の夏休みに換算すれば2日分くらいに相当するだろう。それほど貴重でプレシャスでプレシャスで貴重である。

しかし、そんなのでイライラしてもしょうがないので、できるビジネスマンはスマホでニュースを読んでまつ。

しかし、後ろにも行列はできる。

僕はモバイルsuicaで払う。先方もさすがJRの構内で働いているだけあってSUICA信奉者なのであろう。対応も早い。

タクシーでSUICAを使おうとすると10秒くらいの時間がかかるが、このパン屋では多分1秒を切っていると思う。

なんなら僕の顔を覚えてくれているので「SUICAで」と言わずに対応してくれている。僕は、携帯でそれまでニュースを見ていたわけだから、その胸元にその携帯はあり、それをレジ横にスライドさせるだけで、いわばノーモーションのストレートを繰り出すようにSUICAを出すことができる。およそ1秒。

つまり、小銭を払おうとする人にとっては30秒。SUICAで払えば余裕を持って1.5秒。この28.5秒は大きなインパクトになる。

僕が使う駅の1日の利用者数は13万。そのうち1%の人がパンを買うとすると、1300人。この1300人に28.5秒をかけあわせると617分。つまり10時間に該当する。

サラリーマンの時給を2000~3000円と聞いたことがあるので、仮に1500円とすると(パン屋の客には働いてない人もいるので)、1500円×10時間=1.5万。月に換算すると30万

モバイルSUICAを使えば、世界から毎月、30万円分の労働力が捻出できるのである。

ということで、みんなモバイルSuica(ないし、Suica)を使えばいいのにと思ったよ。

「市議会議員に転職しました」が多くの人に読まれることが大切だと感じましたー

大学時代からお世話になってる遠藤さん(遠藤先生が書籍を上梓されましたん。おめでとうございます!

市議会議員に転職しました。: ビジネスマンが地方政治を変える
伊藤 大貴 遠藤 ちひろ
小学館
売り上げランキング: 14,639

冒頭で以下のように書かれています。

l地方議会にもっと若手議員が増えれば、自治体に持続可能な経営感覚を持ち込むことができるはずです。市議会議員の8割が50歳以上というニッポンの現実。市民の代表者たる議員たちの年齢が、実社会の年齢バランスと著しくかけ離れていることは健全とはいえません。生活にいちばん近い地方自治体の議会にこそ、もっと若者世代が必要なんだというのが一つめに届けたいメッセージです。

つまりこの本は自伝といったニュアンスよりも「もっと若い人に市議会議員になってほしい」という目的のために書かれているものです。

そのため
・実務内容
に限らず
・どれくらいの給料か
・どういう流れで当選するのか
・どうしたら慣れるのか
といったことが率直に書かれています。

おそらくその意図を反映して、本のタイトルも「市議会議員に転職しました」というものになっているのだと思われます(転職という概念でパッケージング)。

文章も、論理的に分析されており読みやすく、同時に生々しいです。たとえば、「会議で使われる業界用語」などは笑いながらも、その生々しさに笑いも収まってしまいます。

内容は、特に「ビジネス経験が活きる」という点が強調されており、この本を読んで「市議会議員を目指そうかな」と思う人は少なくないのではないかしら、という印象を受けました。

言うまでもなく、今の「選挙者」が若い世代が少ないのも問題だとは思っていますが、同時に「被選挙者」も若い世代がいないことは大きな問題です。同時に、ビジネスセンスを入れて行政を行っていくということも非常に重要だと思われます。そのため、この本が売れて、若い世代&ビジネス感覚をもった人がもっと市議会議員になるということは、非常に健全なことであるかな、と感じた一冊でした。