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不完全な世界

先日、パン屋で店員さんが、おつりを間違えた。
子供の頃、「店で店員さんが、おつりを間違うことなんてない」と思っていた。
それはまるでビッグベンの時計のように正確なものだと思っていた。
でも年を取るにつれ、そういうことは「よくある」ということが分かった。子供の頃は全てが大人であった「働く人」は「そうでない」ということも分かったし、自分が八百屋でバイトをして間違うこともあった。
パン屋でも、花屋でも、おつりを間違えられることはあるんだろう、と思う。
「世界って正確ではないのだ」と気づいた。
それは言えば当たり前だけれど、自分が信じていた前提が崩壊するようなインパクトがあった。
「電車が遅れる」「契約書の日付を間違う」「約束のアポを忘れる」「書類をもっていき忘れる」「メールの宛先をBCCとCCを間違ってしまう」などなど。
世の中は、数多くの間違いが多く発生している、と気づく。
しかし、同時に、その「社会の設計」のすばらしさに気づく。つまり、「ある程度のミスに関しては、コアに影響を与えないような生態系」ができあがっているのだ。
たとえば、あなたが明日、送付予定の手紙を投函し忘れたとしても、社会は殆ど何も変わらずに回り続ける。
これを社会生態学やガイア理論的なものに想像をふくらませるものは可能だが、手に負えないので辞める。
ただ、この「間違いを前提にしたシステム」というものは、非常に興味深いもので。
「世の中にミスはないならば、じゃあ、ミスが起こっても大丈夫なシステムにすればいいじゃん」という意識転換のあらわれなのだ。
では、世の中に世界のプログラミングをした人がいると仮定するならば、なぜこのような「ミス」を発生する個体を設計したか?という問題に突き当たる。
それの答えは明確で「不確実性」に対する処理の高さが環境適応にもっとも適しているからである。つまり「確実性」のものだけだと、進化は限定的になる(このあたりは雌雄同体におけるクローンの進化限定的な話とかになるかしら)。
その不確実性のあらわれがプラスであらわれれば「イノベーション」となるし、マイナスであらわれれば「ミス」となる。
で、このマイナスのミスが発生した場合の対応は、プログラミングでいうところの例外処理、に当たる。
携わった方には釈迦説法になるが、この例外処理というのは想像する以上に厄介で。つまり、あるサービスがある。その上に「ユーザがありとあらゆることを行ってもシステムが変わらず動く」という設計にするには、「ユーザのありとあらゆる行動」を事前に予測しなければならない。
たとえば数字を入れる箇所に「ひらがな」を入れるかもしれないし、「名前を入れる」欄に1億文字を入力するかもしれない。もちろんこれらのイージーな「例外」は、対応パッケージ的なものがあるわけだが、それでも、人間の行動のあらゆるパターンを想定するというのは、想像以上に厄介だ。
それに関して、人間はたとえば「忘却」というのも例外処理の1つになるのかもしれない。
仮に、あなたに恋人がいたとする。その恋人が何か病気が事故で他界してしまった。もし、あなたに「忘却」という処理機能が備わっていなければ、あなたは耐えきれないかもしれないし、他の人との恋愛はもうしないかもしれない。ただ、面白いのはミスも失敗も人間が定義するものであって、客観的なものではない、という点にあるのだけれど。
他に、上場企業のIR資料にも「事業リスク」はたんまり織り込まれていて、「天災」だけに限らず「テロ」「景気変動」「人的ミス」などあらゆる「予想しないもの」が記載されている。
途中だけど時間の都合上、すっとばして結論にいくと、世界において「失敗は折り込み済み」ならば、この例外処理が肝なんだろうね、と思う次第。

幸せは善であるか?

ちょうど最近、「幸せのトレードオフ性を持つか」という話を聞いた。
つまり、自分が幸せになれば、その+になった分の幸せは、ダレカガマイナスになっているというとらえ方で、逆は「みなが幸せ+になることもありうる」という見方である。
これは立脚点をどこにおくかで変わってくるけれど、行動経済学では確か、トレードオフになる(たとえば、皆の給料が100円で自分が80円と、自分が70円で他が60円の場合なら、後者を選ぶ)。
このデータだけをみるならば、人は相対的に幸せを感じると仮定し、そうした場合、幸せはトレードオフとなる。
ただ、もちろんマクロで見れば別の話になるし、幸せをどう数値化するか?という問題もある。たとえば、100年前より寿命は延びているのだから、それを幸せと仮定すれば、現在の方が幸せの総和は増えていることになる。
いずれにせよ、幸せという概念を耳にした。
そして、この幸せという概念がくせ者で。22歳くらいに成人式のテレビをみた。
その時に、その成人たちが一番の夢(目標)が「幸せになること」だった。それを聞いて、腹筋しながら見ていた私は激怒したね。メロスのごとく。テレビに向かってどなったさ。「アホか」と。
何度か書いた気もするけど、幸せは感情であって目的ではない。つまり、結果であって、目指す目標にはなり得ないはずなのだ。
「目標は幸せ」という言葉をきくと「ご飯なにたべたい?」「美味しいもの」という質疑を髣髴してしまう。
もちろん幸せが目標、という価値観が存在するのは理解できる。しかし、それはブレイクダウンする必要があって。たとえば「どういう時に幸せを感じるのか」「その場合を得るにはどうすればいいのか」というステップで考えて、そして幸せの後ろにある目標に落とし込むってのがスジだろう、と(一応フォローすると、細かくいうのがめんどくさいから幸せといったり、具体的幸せがあるけれどわかりやすく幸せという心理的機構があるんだろうけど)。
ただ、ここでふと思い立った。「目標は幸せ」と考える人は、「目標という文言=幸せ」という同義でないと捉えるから、そう回答するわけである。つまり「目標を達成した時の感情は、幸せや達成感、社会的貢献、征服欲、各種欲の達成」といった様々な感情を結果として得る中で、「幸せを欲しい」と言っているのではないかと考える。
しかし、一般的に「目標を達成する」ということは「幸せである」ことではないのかしら。と思った。
わからない。
ただ、そこでふと「幸せ」ということは善である価値観自体を否定できたら面白いんではないだろうか。
冒頭の幸せトレードオフ議論も、「他より良い=幸せ」といった心理があるから、幸せがトレードオフになるわけだ。
よって「幸せでないことが目指すことである」という価値観があれば、世の中はずいぶん生きやすくなるんではなかろうか。
確か、父親が「願わくば我に七難八苦を与えたまえ」という山中鹿之助の名言をよく呟いていた記憶があるが、この価値観は凄いと思っている。
つまり「苦しいこと/大変なこと」を望むという価値観を持っていれば、世の中、恐ろしいものはないのではなかろうか。
これを通称「人生マゾ」と呼ぶわけだが、長距離ランナーも一種のその人種ではないか。というのも、フルマラソンを走ると「よくそんな辛いことするね」と言われるわけだが、その辛いことが楽しかったりするわけだ。
ある種、人生、チャレンジャーの人たちも人生マゾで、場合によってはこれは「挑戦する/闘う」ということにアドレナリン分泌しまくりの通称「平成のサイヤ人」が該当する。「つええ敵におらわくわくすっぞ」という奴である。
また、「たのしければハッピー原理主義者」においては、人生の振れ幅(いつか書いた差分)こそが妙味であって、「辛いこと」「マイナスなこと」もなければ、逆に不幸せという気むずかしい矛盾を内包した存在もある。これは通称、「東京大学物語のなんとか遙」と呼ばれる。
これらの人種は、必ずしも幸せを是としない。いや、是としているのかもしれないけれど、それを善としない。
いや、定義がややこしいな。つまり「一般的に他の人がうらやむこと」に対しての評価を高くもたない、くらいの方がいいのかな。
いやまぁ、何がいいたかったかというと、「幸せてきなもの」を目標におくと、幸せになりにくいのではないかと思うわけだ。つまり、余計な嫉妬やねたみ、うらやみ、自己比較が発生する(これは個別論になるけど、総論としては心理学的に、そのような傾向にある)。
逆に「幸せでない価値観(ネガティブな価値観)」を是とする価値観があれば、それは逆に人生を”幸せ”に享受できるという、すさまじい人生のパラドクスが隠れているんじゃないか、とふと思った次第。

メールの不達とツイートと

電子メールは不達の時がある。
たとえば、相手の迷惑メールに振り分けられている時や、相手が今は利用していないアドレスにメールを送った時、サーバのエラーなどだ。
そんな時、メールはどこにもたどり着かず、放浪の文となる。
そして、かなしいことには、自分にとっては、どのメールが不達か知るよしもないのだ。
仕事のメールなら、まだいい。返事がなければ「届いていますか?」や「電話」で対応することができる。けれども、プライベートのメールならば、そしてそれが時に「重たい」メールならば、「届いたか?」と確認することさえ憚られるだろう。
そして、送った方は、相手がメールを返していないという記憶を持ち、相手は読んでもいないのだから、知らないままそのメールは時空の狭間を彷徨うことになる。
なんて悲しい。
そんなことをふとtwitterのDMを見ながら思った。というのも、たとえば当方ではtwitterのDMスパムがけっこうな量になっており(1日30を超えるかも)、そもそもメールの通知も切っている。
だから、もしDMで誰かが連絡をくれても見逃すだろうなぁ、と思ったのだ。
そして、それは決してtwitterだけの話ではなく、メールや時に携帯メールでさえもそのようなことは起こるかもしれない。
見られることを前提としない文章はそれで存在意義があるが、宛先がついたメッセージが誰にも見られないとは、なんとももの悲しい。
たとえば作家のフランツカフカ。
彼は遺書に未完の原稿を燃やすことを記した。しかし、友人はそれらを燃やさず出版した。それらの中には、かの「城」や「アメリカ」「審判」なども含まれている。
もし友人が従っていたら、これらの物語は日の目を浴びることなく世界から消えていた。悲しい。
でも。
でも、たとい時にいくつかのメールが不達で埋もれてしまったとしても、それは何かしら人生の出会いと同じで「そういうもの」なんだろうなぁ、とも思う。
人生で、「たまたまの街角での出会い」があるように、逆に「本来起こるべきだった何か」が起こらなかったということもありうる。
twitterのタイムラインを見ていると、そのような岐路が色々紛れているなぁ、と。
ツイートの流れに「よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし」という川の流れを見たりして。
たららん。

匂いの復権

最近、匂いがなんだか力を増しているような気がする。
というか、単にアロマをよく目にするようななった、という程度なのだけれど。あるいは年齢に応じて、そういうのが目につくようになってきただけなのかもしれない。
中学生の頃は、インセンスだか何だかのアジアンテイストなお香が流行っていた気がする。ヤンチャな人たちは制服にその匂いをたきつけていた。バニラだか、ココナッツだかなんだか。
高校生になると色気づいた人たちが香水を使う。雄な方々もCKのなんだかとか、アクアなんだか、ウォーターなんだかなどさわやかさを求め、馬子にも衣装な形でそれなりに教室には幾分、匂いが漂っていた気がする。
いつからか、アロマのトレンドが増え、蝋燭を筆頭とし、オイルがでてきた。最近はスティック型のものもよく目にする。
今日、雨上がりに外に買い物に出かけた(クリップ)。
雨上がりの匂いが、昔の記憶を刺激して、なんだかおののいた。戸惑った。慌てた。自分がどこにいるか分からなくなるほどの濃い匂いだった。そして不思議なことにその匂いが何に結びついているかは明確でもなかった。ただ過去を意味するような匂いだった。
よく言われるように、匂いは記憶と密接に結びつく。それが妙技たるゆえんは、匂いは記憶として思い返しにくいからだ。
ニンニク程度の匂いだと香りを思い出すけれど、10年前に誰かがつけていた匂いはどこかに埋もれてしまう。
それでも、その匂いを再び嗅ぐとそれがトリガーとなり、同時に記憶がよみがえってくる。その「忘れてた度」と「思い出せる度」の差分が大きいゆえに匂いは情緒的な存在となる。
この所作はあらゆる小説や映画などでも利用されるほど、心理的インパクトは大きい。
時をかける少女ではラベンダーの香りが、辻仁成の「嫉妬の香り 」はタイトルにあるように匂いに纏わるエピソードで、あるいは村上春樹氏がウィスキーの本でその匂いに関して触れている。
個人的エピソードを1つくらいあげるならば、昔、留学時に知人が手紙をくれて、その手紙には香水が振られていた。粋なことをするものだ、と思った記憶がある。
そういう風に香りは人生を時に色もなく彩る存在となる。
とはいえ。
とはいえ、突然街中で過去を引っ張り出すのはかんべんしてよ、と思うです。

思いどおりに働く!―20代の新世代型仕事スタイル

思いどおりに働く!―20代の新世代型仕事スタイル
宮脇 淳
エヌティティ出版
売り上げランキング: 12643

上記の本に取り上げて頂きました。
以下のような内容。

20代の注目すべきビジネスパーソン10人の取材をもとに、これからの働き方のヒ
ントや最新のウェブツールを紹介する実践的な仕事本。

ちょっとした仕事術的なものをお話いたしました。
しかし20代も最後の年になってしまつた。あまり年齢は気にしない生き物なので、便宜的に意識しているフリをすることになるのだけれど。
さて本書、他の回答者の方々がユニークな方なので、是非、お手にとって頂ければ幸甚です。
そして何より宮脇さんありがとうございました!

走る男

毎週、決まった曜日に走る人がいた。
そして、毎回きっかり同じ距離を走る。5キロ程度を30分くらいで流す。距離はわからない。コースが一定、というだけだ。
かれこれ10年近くになる。
昔はタイムを付けていた。すると風邪を引いている時でも、体調がいい時でも時間は3分以内の違いに止まった。雨であろうと、真夏であろうと3分以内の誤差だった。
ある習慣化された出来事というのは、その行為者のコンディションや環境に左右されず、愚直に邁進していくものだ、という哲学を彼はひっそりと心に閉まった。きっとそれを口に出して言えば、反証や例外が出されて、彼が持つささやかな走る哲学は少し濁ったものになってしまう。
自分の哲学というのは信じるために存在するものだ。それは一種の信仰にも近い。学問としての哲学は議論によって洗練を身にまとうが個人の哲学は真冬の指先を温めるアンカのように、ひっそりと存在すべきものなのだ。
その曜日に彼は走ることを欠かすことはなかった。雨の日は音楽再生機をタオルに巻いて走った。スニーカーは3度代わったけれど、それも彼のタイムを変えることはなかった。
走り終えると、定期的なエクササイズを行う。20パターンのストレッチと腕立て・腹筋・背筋の20回を3セット。きっかり行う。これを終えないと走るという行事は終わったことにならない。正月におみくじが欠かせないように、走るという行為には適切なエクササイズが欠かせないのだ、というのも彼の信仰の1つだった。
「痩せてるね」と言われることがあるかもしれない。でも彼は「走っているから」とは言わない。「そう?」と返す。走るという行為は彼の聖なる儀式であり、それと体系や体調と切り離して考えているからだ。
雨の日やクリスマスに誰かが言うかもしれない。
「雨の日くらい休んで、明日、走れば?」と。
あるいは「クリスマスなんだから振り返れば」と。
「そうね」と彼は応えるかもしれない。でも、黙って走りに行く。いつも通り、音楽再生機を右手に、左手に鍵を。
「そういうことじゃない」と彼は自分に呟く。「この曜日に走る」と決めたら、走れる限りは走ろうと思う。もちろん天災や外部要因によっては走れないこともあるかもしれない。でも、走れるうちは走るのだ、と決めている。
「やるところまでやって、だめだったらその時考える」という別の信仰を彼は持っていた。とりあえず走れるなら走るのだ。
もっともその曜日に海外に居たり、仕事の都合でどうしても走れない時は、すぱっと彼は走るのを辞める。ただ、走れるならば、とことん走るのだ。
コーヒーを飲む時も彼は信条を持っていた。
1杯目は、入れ立てのコーヒーをブラックで飲むというものだ。ポイントは「入れ立て」という点だ。
それは、どれだけ熱くても入って1分以内に彼はそれに口をつける。「アツッ」と決まった台詞のように彼は呟く。
しかし、そろそろと彼は熱いコーヒーを口に運ぶ。
「さましてのんだら」と誰かが言うかもしれない。でも、彼は「そういうことじゃない」と独りごちる。これはもはや、コーヒーとの対峙なのだ。コーヒーが熱くあるならば、彼はそれを受け入れようと思う。
熱がるのはこちらの都合で、コーヒーが熱いのは当たり前だ、と思う。
「ミルクを入れたら」という人もいるかもしれない。
「そうじゃないんだな」と思う。ただ「できだけのコーヒーを熱いうちに飲む」という哲学は、多分そういうことではないのだ。
※この物語はフィクションであり、かつ寓話であろうとする話です。

内在する戦争

以下のニュースを見かけた。
» 「あけおめ!」イランがイスラエルに新年挨拶メールを誤送信 イスラエル側も返信「ことよろ!」:アルファルファモザイク
いい話だ、と「後で」思ったが、その前に「そういうこともあるのか」と思った。
というのも、イスラエルとイランだからだ。説明するまでもなく、深い深い溝を持った国同士。幾多の血が流れてきた歴史を持つ国。
戦争というのは、現代の日本においては、「海の向こうの話」という意識が強いから、どうしても希薄になるのだけれど、戦場は現代にも存在する。
私の拙い経験でも、やはり中央アジアや東アフリカ、イスラエルなどでは戦争があった。それが戦争という言葉で表現できるものか、あるいは、内戦という言葉で隠匿されているものかなどの違いはあれ。
血は止めどなく流れるし、死というものが日常にある。
蛇足だが、以下の村上龍氏の「海の向こうで戦争が始まる」というタイトルは秀逸だ。村上龍氏はネーミングセンスが素晴らしい。

海の向こうで戦争が始まる
村上 龍
講談社
売り上げランキング: 17422
おすすめ度の平均: 4.5

5 全てが淡々と並列
5 神経にピリピリくる描写にしびれる
4 技巧的には作者のキャリア・ハイか。
2 ビジョン
5 水墨画と詩人

そして、戦争という言葉で思い出す。

経営とは戦争だよ

という言葉。これは古来から言われているし、また、何人かの先輩からも耳にする。
実際、これは、戦争の定義をどうとらえるかによるけれど、戦は戦であろう。
ただ、それよりも問題は、今、日本に内在する見えない戦争である。
上記の「経営は戦争だ」という理論を国に当てはめてみれば、当然「経済戦争」という現実は、不適当な例えではない。
国を挙げて、経済の総力戦で各国が争っている。
戦争といえば、武器があり、主権同士の闘いがあり、または血が流れる。そのようなイメージとは違うから、気づきにくいけれども、日常で、国同士の戦いは常に生まれ、そしてどんどん進捗していく。
帝国主義時代のように領土をとられることはないけれど、お金を生命線ととらえるならば、そのお金が外に出て行き、また、戦力のKPIである頭数が減っているという現状は、戦争のメタファーから考えるにやぶさかではない。
ただ、これは今更言うまでもないことだし、日本の栄光の10年からその戦争問題は繰り返し議論されてきた(車の貿易戦争やタイムズスクエアを筆頭とする企業の買収戦争等など)。
しかし、ポイントは「そのような経済戦争は問題として正しいのか?」という思いである。
個人的に、国同士の闘いの正当性がいまいちわからない。政治学を学んだ1人として国の存在価値や、その「国民の利益を最大化するという理念」から考えれば、国をよりどころとする人々が、その帰属意識を高揚させるのは理にもかなったことである。
しかし、同時に国というのは、生まれながらに付与されてしまう所与条件であり、そのような先天的な条件をベースに戦をするというのは、なんだかフェアではないような気がする。
少なくとも個人のイデオロギーが国の総論でない以上、いくら前提条件が民主主義の制度によって国の総意が国民の総意と同義されていても、実質問題としては、建前でしかない。つまり、ベストプラクティスとしては、「人は自分のイデオロギーに沿って、自分の帰属を決定できるべき」という選択肢がある以上、上記の建前は、ベストエフォートでしかない。
つまり、「たまたま日本に生まれた」からといって、その国をベースに、経済戦争を闘うというよりどころがイマイチわからない。
スポーツを考えてみると、「チーム」は、自分の意思で決めることができるものであり(大枠は)、生まれながらにチームに所属するものではない。
とかくで、私は「国をつくる」という夢を叫ぶに至っている(端的にいえば、後天的に選択できる国籍による、帰属意識のポートフォリオ分散)。同時に私のライフワークであるブランド国家論も上記の経済戦争の問題をヘッジする方法の1つとしてしているに至る。まぁこれも別問題。これらは理論であって、現実問題はそれはそれとして別で考えなければいけない。
いま、我々が生きるのは現実であり、建前や理論の世界ではないからだ。
そこで、話を戻すと、「経済戦争が起こっている」という点は事実で正しいとする。そして、それの是非を議論するのは、別問題なので(価値観の闘争は神々の闘いに回帰するといったヴェーバー先生の箴言の通りに)、それも所与条件とする。
その上で出すべき問いは「戦争の相手は他の国なのか」あるいは「それ以外なのか?」という点である。
つまり、日本が経済で勝負しているのは、仮想敵国としては中国やアメリカをベンチマークしているような気がするけれど、それは正しいのか?という点である。もちろんこの前提に異論もあるだろうけど、大枠はそのような流れのような気がする。この辺りになってくるとマクロ経済学なので私の専門領域を超えてしまうのでツッコまれどころが増えるのだけれど、確か、国際経済は必ずしもトレードオフの力学ではなかった記憶があるが、そうならば、必ずしも敵国を想定する必要はないはずで、いわば奪いあうべきパイはかつては領土だったゆえに、排他性を持っていたけれど、経済や豊かさ、幸せなどは、不思議なことに、排他性を持っていない。もちろんある程度の排他性のメカニズムは働くけれど、それはもはや心理学の分野なので、ブータンのGNHを参考にすべし、という言葉で逃げる。
元来、アメリカは、仮想敵国をベースに成長してきた。たとえば、「フロンティア」であったり、「石油」であったり、あるいは「経済戦争」であったりした。またハリウッド映画でお約束の宇宙人や災害も、「外敵」を作ることに力を入れてきた。でないと、アメリカという人種のサラダボールはまとまらないからだ。そして、昨今は「エコ」を掲げ、「そのようなもの」に対する取り組みを国家プロジェクトで行うことで国民の共同幻想を作り出してきたし、また、それによる経済進捗を生んできた。
こんな馬車馬のような国は敵を必要とするのはわかるのだけれど、日本は、従来、農業で自分の食い物を育ててきた民族だ。ゆえに、必ずしも、戦争相手を外部に設定する必要はないのではなかろうか。もちろん、競争や相対化は学習の基本的なインセンティブのため、設定した方がイノベーションは生まれやすいから、それを否定するつもりはないけれど、もっと別の座標軸を持った方が日本らしいのではないか、と思う。
思い切り、脱線するけれど、昔から気になっているのが「お金の源泉とは何か?」という問題がある。
つまり、古来は「食べ物」がお金の変わりだった。それに貯蔵の技術が生まれ、そして、代替性として貨幣が生まれた。ここまではイメージしやすい。お金の源泉とは、農業である。
しかし、昨今は、食事をするだけならば、かなり低いコストで生きていくことができる。そう考えると、お金の源泉は農業ではない。
つまり、何を言いたいかというと、今、バイトを探せば何かはみつかるだろう(選ばなければ)。それで800円だかをもらうことはできるだろう。しかし、その800円の仕事を10億人がしたい、とすれば、その800円の仕事はなくなる。
つまり、800円の仕事の総和は限られている。では、800円の仕事の総和を増やすにはどうしたら良いか?800円の仕事をより増やすしかない。それをするには、資本家からの視点でみれば、800円の投資が800円以上のリターンを生む公式が成り立っていればよい。
よって、800円の仕事を1増やすには、800円以上の仕事を1増やす必要がある(もちろん、赤字を出す場合もあるから、実際問題は違う時もあるが、原則論はこうでないと経済が成り立たない。経済は合理的人間を前提に考える学問だ!)。
そうすると、800円以上の仕事1を増やすには・・・とエンドレスでそれは続く。よって、経済は、常に膨張を求める(ないし、労働人口の減少を必要とする)。エントロピー増大の法則みたいだ。まぁフーバーダムから言われていることだけど。
そう考えると、経済の源泉というのは「消費を創り出すこと」になるわけで、消費ってのは、競争力なんだっけ?(つまり、それは武器の代替品となるものなんだっけ?)という話に行き着く。
よって、ここでも経済戦争の問題って、何すれば誰が嬉しいの?という哲学的な問題にたどり着く。それは別段、「経済成長って善なんだっけ?アフリカの民族みたいな暮らしをしていた方がよかったんじゃね?」という牧歌的な問いかけではなく、競争力のコアって何だったけ?という素朴な疑問である。
企業でいうとコアコンピタンスだのの言葉で言われるコアな部分は定められているけれど、国レベルではそのようなものは設定されていない(国のグランドデザイン云々はあるものの、明文化はされていないし、原則的に、そんなアジテーションは企業の合理性と結びついた時にだけ有効なのであって、だからこそ政府と企業の癒着が起こるのは必然である)。
そもそも論でいえば、日本の国益さえも確か定義されていない。国の存在意義が「国益を守ること」なのに、「国益ってなーに?」とお子様に尋ねられると、日本人は誰も答えられないのだ。決まっていないんだもの。
よって結論としては、「日本の経済の敵ってなんだっけ?」「そもそも競争力の源泉ってどこに軸があるんだっけ?」というのが、最近、定義づけた質問でした。
質問が正しければ、回答はおのずと決まるという大江健三郎氏の名言に従うと答えは出ていない以上、質問の問いが悪いのかしら。ただ少なくとも1つの解は「国をつくる」のつもりだけれども。
そんなこんなをふと考える新春でした(いつぞやか「国つくる」の話をする機会があったので、ふと思い立って、一筆書きで書いてみました)。

なぜあの人は別れたのだろう?という問いに対する答え方

たとえば、友人Aと食事に行く。すると、共通の友人Bの話になる。友人Bは、最近、恋人と別れたばかりだ。
そこでたとえばこのような問いがでる。

どうしてBは分かれてしまったんだろうね

と。
この問いに対して、回答する人の傾向は2種類に分かれる。
1つは、「理由は○だよ」と明確な回答を答えたがる人。
もう1つは「理由は○○なんじゃない」と推論を重視する人。
もちろん前者は回答を知らないと出来ない回答だから、回答比率として推測が多くなるのは当然なのだけれど、傾向としては、前者の方が多い気がする。
つまり「本人がいたら聞く人」と「聞く前に仮説を立てる人」のような。
他にもたとえばこういうこと。
友人と食事をしているとする。その店の利益を知りたくなったとする。
その場合、推測が始まるわけだが、その個々の要素(賃料/人件費/回転率/顧客単価/収容人数/原価などなど)の「本当の数字」を知りたい人と「仮説を置いて推測したい」人の2種類いるような。
こういうたとえ話を聞いたことがある(前にも書いたかなー)
あるパーティでテーブルの上にのったワイングラスが倒れた。とある推理小説家は、「そのワインがなぜ倒れたかを推測」する。しかし、あるSF作家は「そのワインがどう倒れたら面白いか」という着眼点で考える。
つまり、何が言いたいかというと、会話で「ファクト(事実)」を求める人と「プロセス」を楽しむ人のようなくくりでわかれるのではないかと。
一般的に、会話において、男性は「結論」を求め、女性は「プロセス」を重視するという。そのため、女性のとりとめもない会話に男性は辟易することになり、女性は男性の剛直な結論への意思に飽き飽きするという(伝聞推定)。
いずれにせよ、この会話の嗜好性はけっこう重要な差な気がしていて。この指向性が違うと、会話で色々ミスマッチが起こりそうな気がしないでもない。

シンプルさと寒さ

書くネタがなかったので、とりあえず時候のネタをピックアップしてみた。
クリスマスねえ。なんかあるかな。そうだ。
中学生の頃のクリスマスのお話。
その頃は学生で。学生は平日も祝日も関係がないから、クリスマスは平日であろうと祝日であろうと、セレブレートされるべき存在だった。
1年生の頃だっただろうか。友人たちとクリスマスに出かけることになった。いわゆるグループで、そこには女性もいて。
1人は男勝りな人で、もう1人は勉強が出来た女性だった。
大阪に出来た南港というモールのようなところに行った憶えがある。学校がどうだったのか憶えていないが、朝早くから出かけたと思う。朝の寒さだけがうっすらと記憶に残っている。多分、8時なんかに家を出たハズだ。
休みの日に8時からどこかに出かけるなんて、若さゆえだろう。10時以降がデフォになって大きな年月が過ぎてしまった。
いずれにせよ、男性3人、女性2人のそのメンバーで、南港をぶらぶらした。中学生が、モールなんざいってもすることはない。それに今思い返すと、なぜ「3対2」という組み合わせなのかイマイチよくわからない。その辺の法則さえも無視するような頃合いだったんだろう。
写真を撮るのを楽しんで(使い捨てカメラだったように思う。その頃は、プリントに出すという伝統的な文化が重宝されていた時期だ)。そして食事をしてゲームセンターをいって、もしかすると映画くらいは見たのかもしれない。天使にラブソングはその頃だったろうか。
そして、帰宅してメンバーの1人の家でわいわい話をした。その頃、事件が起こった。
とある発言により女性が怒り、家を飛び出してしまった。
私がその人を追いかけることになった。中学生らしからぬ、思いやりである。
自転車で出かけたその人は家の外にはいなくなっていた。その頃の自転車と今の自転車は多分、自転車の持つ意味合いが違うような気がしないでもない。その頃の自転車はいわばジュディーアンドマリーの曲にある自転車だったのだ。
いずれにせよ。
そして、私も歩いてそこかしらを探した。結局、見つけられなかった。多分5時間くらいは探しただろうと思う。
いる確率が1%を切っている場所を延々と探すのは、なかなかタフな仕事だった。ただ、その「行為」が恐らく大切だと感じていた私は、徒労という言葉を踏みつぶして歩いていた。寒い1日だった。
部屋に残された友人と女性はしらけて、適当に散会したようだ。携帯電話もない時代で、連絡も取れず、ひどいクリスマスだったように憶えている。
全てが回りくどく、厄介で、4文字熟語である「紆余曲折」という言葉を邁進するような出来事だった。
その女性がなぜ怒ってでていったのか、今でもイマイチ理解できないし、理解する努力もしていないのだが、多分、それは、そういう時期だったんだと思う。
村上氏の言葉でいう「台風がきたら、じっとして通り過ぎるまで待つんだ」というような。
でも、その頃は村上氏の書籍はしらなかったし、そもそも、世の中が複雑だなんて知るよしもなかった。
その頃に比べて物事は幾分シンプルになったような気がするけれど、この時期の寒さだけはずっと変わらぬまま年をとっていく。

毎日ベッドで横になり普段はあまり気にしないけど、朝はガミガミとわめき散らすもの

件名の答えは「目覚まし時計」なんだけれども。
何が言いたいかというと、世の中の「コト」「モノ」というものは、「端的に言える」存在であることが多い。
たとえばニュース。ニュースは「件名だけで内容を把握する」ということが多い。それは古来から新聞の見出しの力としてもそうだったし、ないし、昨今はWebのニュースのタイトルもそうだ。
「○○容疑者が逮捕された」というニュースは、その一行が全てを表していて、内容はその説明や詳細となる。いわゆる「釣りタイトル」だと、そのタイトルと内容が乖離するが、これは上記の「タイトルの総括性」を逆手にとった仕組みなので、包括的には、上記の法則に則っている。
何が言いたいかというと、物事や出来事は、本来、とても「シンプルで在る」ことができる存在なのに、いろいろな説明や背景や修飾や形容により、時に複雑になり、時に重奏となる。
それはそれで何も悪くないし、それを否定すると世の中では「物語」というものが存在しない。
ユリシーズだって「人の思考をトレースした前衛的な物語」で終わってしまうし、失われた時・・だって「マドレーヌの挿話が有名なあるフランス人の長い話」で終わってしまう。「アンナカレーニナ」だって、「恋愛小説」の4文字でポイントは押さえられてしまう。もちろん、そこに「ロシア文学を代表する冗長ながらもその冗長さが癖になる濃厚小説」という形容を付け加えてもいいし、あるいは「最後悲しい物語」というサブタイトルをつけてもいい。
※一応注釈しとくと、上記はある種の諧謔であり、本来は上記の一行で表せるものではない
ただ、物事は「シンプルなポイント」と「そのポイントを拡大したその他全て」の2つから成り立っているような気もする。共産主義を理解するのに「必ずしも資本論」を読むことを必須としないように(そりゃ読んでるに超したことはないけれど)、あるいは、物語を書くのに百科事典を全て頭に入れておく必要がないように、物事は「必要なポイント」があり、それの付加情報で成り立っている。もっとも、その必要なポイントは人によって異なることが多いゆえに、物語は常に長くなっていくのだけれども。
昨今のミニブログと呼ばれるtwitterなどの隆盛は、そのような「ポイント」と「その他」の文脈で考えてみると面白い。140文字以内での投稿という制約は、必然的に人に「ポイントだけを述べよ(What’s the point?)」ということを強いる。英文が、最初に総論を述べることを強いるように、時に日本人にとっては、その「ポイントだけ述べる」という行為は新しい思考を求めるかもしれない。
というのも、日本語や、あるいは日本のカルチャーは往々にして、「まどろっこしい」ことが美徳とされることがある。たとえば「京都のぶぶ漬け」や「本日はお日柄も良く・・・(時候の挨拶とかも)」、「いやいやよもスキのウチ」「これでよろしかったでしょうか?」などなど例示にはいとまがない。
多分、それはそれでとても尊いもので。少なくとも、世界が「ポイント」だけで済んでしまうならば、そもそも「人生」でさえも、余剰のたまものであることを考えると否定すべき存在になってしまう。
でも同時に「ポイント」も重要で。たとえば、こういう世界だろう。海外に行ったときに「知っている語彙だけで会話する」というような。「私 これ 欲しい」「私 ここ行きたい」「高いよ」「買わない」といった簡潔で明瞭な言葉だけがコミュニケーションを支配する。それはそれでシンプルで何か気持ちの良いものだ。つまり、シンプルさはコミュニケーションを豊穣にする。日本では、「重厚なる文章」が高貴とされているのに対し、アメリカでは「より平易でシンプルな文章」が重宝されるのにも似ているかもしれない(一元化は危険だけれど)。つまり、わかりやすさは、より多くの人との意思伝達を可能にし、そして誤解を減らすことになる。
「妹の父親を育てた人の奥さんの孫」という説明よりも「私の妹」と説明できた方が、時には便利であるように。