本の紹介:やる気の大学

千葉さんが新刊だされたそうですよ!

やる気の大学
やる気の大学

posted with amazlet at 10.05.17
千葉 智之
東洋経済新報社
売り上げランキング: 28951

21日発売予定で、まだ拝読しておらず恐縮ですが、ご紹介まで!

□概要
●ホントはみんな知っている
 試験に受かるには?→必死で勉強すればいい
 今より5キロやせるには?→食事を控えて運動すればいい
 仕事で成果を出すには?→人より深く考えて、すぐに実行すればいい
 「成功」するために何をすればいいのか、ホントはあなたも知っているはず。
 そう、だから問題なのは、「何をすればいいのかわからない」ことではなく、
 「わかっているけどできない」ことなんです。
 本書では、「やる気」をコントロールすることで、
 「わかってるけどできない」から卒業する方法を、あますところなく解説します。
●普通のサラリーマンでも、「やる気」があればこれくらいはできます
 筆者は、世間的に忙しさで有名な企業に勤める普通のサラリーマン。
 ですが、書籍を出版したり、本を年間200冊読んだり、映画を1カ月に10本見たり、
 週刊連載を2本もっていたり、ブログを書いたり、200人規模のイベントを何度も
 主催したり、セミナー講師をやったり、セミナーを主催したり、
 メールマガジンを発行したり、サッカーをやったり、トライアスロンで死にかけたり……
 と、とにかくいろんなことをやっています。
 「普通のサラリーマン」でありながら、そのワクを遙かに超えた筆者だからこそ書けた、
 サラリーマンのための「読むだけで元気になるやる気術」を本邦初公開です!
●気づいたら「デキるビジネスパーソン」になっています
 「やる気」をコントロールすると、
  ・とにかく楽しくなって、
  ・とにかく成果を出せる人になって、
  ・とにかく魅力的な人が集まってくるようになって、
  ・気づくと「デキるビジネスパーソン」の仲間入りをしています。
●本書では、生い立ちや性格に関係なく、だれでも使える
 「やる気をコントロールするテクニック47+3」を紹介します!
□目次
 第1章 やる気とは何か
 第2章 ココロガソリン
 第3章 ヒトガソリン
 第4章 モノガソリン
 終 章 「やる気」高速道路を走ろう

「直す」ことの良さを考えてみたのだ

先日、ベルトのバックルが外れた。
それで修理に出そうと思い調べたら、近所に修繕に強いお店があることがわかった。
その名は「スピカ(Spica*)」。なんだか響きがいい、と思い、この店で訪ねてみることになった。
電話をすると「現物をみないとわからない」ということなので、伺うことに。自転車で3分くらいの距離だ。
フードマガジンの横の細い通路をさらに元麻布側に入ったところにそこはあった。
商店街からすぐなのに、とても静かで(そしてわかりにくい→けど、それがまた情緒があっていい)場所にその店はあった。
建物からして雰囲気に溢れていたが、中に入るとさらに雰囲気が溢れていた。
4.gif
↑ このような店内
靴の裏を修理していた女性が出てきてくれた。
「このベルトを直せますか?」と聞いたら「ちょっとまってください」と奥に消えた。
私は本を読んで待つか、店を眺めて待つか、という選択肢で後者を選んだ。
修理された靴が展示されており、靴の年季性になんだか、もののあはれを感じていた。
数分たって「治りましたよ」と女性がベルトを届けてくれた。
お代はいらない、という。渡そうと試みたものの、あまりだと野暮なので、今度、また何か修理にもっていこう、と思った。
修理っていいな、と思う。
それは単に、資本主義経済の副作用「消費社会」に嫌気が差しているわけではなく、たんに「直す」ということがなんだか良かった。エコやリサイクルのコンセプト抜きで。
そういえば、ある方がtwitterでYシャツのボタンの修理の話をツイートしていたことを思い出す。その人はYシャツで取れたボタンがあり、そのボタンの代わりがなかったため、全てのボタンを付け替えた。ちょっと小粋なボタンで(想像)。
また、「100回泣くこと」でも、バイクを修理するエピソードがあり、それが物語の骨子ともなっている。
また、祖母の形見の着物をリメイクして、ハンカチなどにする人もいた。
形が変わっても、受け継がれるもの、というのは、何だか良い気がする。
というのも、「物に物語性を」というコンセプトの事業を一時期考えていたことがあった。
いまは物は量産され、画一化されている。ゆえに、物を売る時の差異化は「値段」がベースになる(アフターケア/位置/郵送などもあるが)。
それは寂しい。
そこで、各物に、物語を付与することによって、画一物質の復権が可能ではないか、なんてことを妄想していた。
ただR不動産だってその1つとも言える。一部では著名なこの企業は、お気に入りの不動産だけを詳細な物語つきで説明してくれている。
それによって今まで「間取り」などの客観的情報が全てであった不動産情報になんと奥行きがでることか。
最近、龍吾のツイートでみかけた「リノベーション,デザイナーズマンション」のサイトも凄くいい。そのままだがリノベーションされた物件を物語りとして見せてくれる。
徒然なるままに思考を続ける。
最近、世界で注目をあびている「Etsy 」は、ハンドメイドの商品のECサイトだ。これも「画一商品」のアンチテーゼとも言えるかもしれない。
無料公開された「五木寛之「親鸞」」だって、一種のリノベーションだ。
過去の物語を現代に焼き直す。そして、そこに流れるコンセプトは代わらない。これは、吉川英治の三国志、そして北方謙三の三国志だって、そう言える。
このように「直すって良いな」と思う。
ここで終わらせるのも可だが、せっかくなので「なぜ良いと思うのか?」を考えてみた。
物は万事、朽ちていく定めにある。
森羅万象の万物流転、諸行無常である。国破れて山河あり。
でも、その朽ちることに対する抗い。つまり、時というものに対峙する姿勢が良いのかもしれない。
あるいは、朽ちるのが「当たり前」だからこそ、その当たり前を打破する動きというのが反骨的で良いのかもしれない。ある意味ロックだ。
あるいは、前述のように「物語」がそこにうまれるから良いのかもしれない。
物語は良い。なぜなら、そこには語られることを待つものがあるからだ。
一角獣たちの頭蓋骨が語られるべき夢を持つ続けるように。
だから、直すってことに見える物語に心が動かされるのかもしんない。

自己完結の全力疾走は祈りにも似ている

一番最後に全力疾走した時のことを覚えているだろうか。
高校の体育の時間?面接に遅刻しそうになって?マラソンのラストスパートで?
人生において、全力疾走をする機会はあまりない。
そんな時、「全力疾走」という言葉で思い出すのは、友がみな我よりえらく見える日は という書籍の中の1ストーリー。
うろ覚えだが、このような話だった。彼は1度、小説の賞をとったことのある作家だった。しかし、彼は商業作家というよりも、哲学者的な作家だった。ロシア文学のような全てを包括するような物語に挑んでいた。そして、挫折していた。
食い扶持に困り、奥さんは出て行った。子供を連れて出て行った。
彼はコンビニの弁当をあさりながらも、家で小説を書き続けている。日の目を浴びる機会が失われた後も。
そして、彼は時に、分かれた子供のことを思い出す。叫びだしたくなる。
そんな時は、近くの川べりに行って、叫びながら、草をむしって意識を紛らわせる。
そんなエピソードがあった。
全力疾走という言葉を聞くと、この川辺で草をむしっているディオゲネスにも似た小説家を思い出す。
たしか、学生時代、京都のR氏と話していた時だったか、水泳(マラソン)の一番の良い点は「泳いでいる時は何も考えないで、済むからだ」という共通認識を得た記憶がある。
また、前回、ブログに登場した別のR氏も走る人間。彼はランニングの最後のスパートを全力疾走するという話をしていた(もう7年くらい前の話になるからうろ覚え)。
走り続けた最後の数メートルを、体力が尽きるまで全力で疾走する。
全力疾走。
それは、言葉で言うとシンプルだが、生を脅かし、また生を鼓舞する力を持っている。
走り出した時はまだ身体にはエネルギーが溢れ、足は軽やかに地面を蹴る。思ったよりも早く回転する足と、遠くに飛べるつま先の跳ね具合に自分でも驚くほどだ。
横を走る車よりも速い気分になり、フォレストガンプの全力疾走を想起する。
そして、足首がぶれてくる。足と脳が乖離していく。足が空回りしているようにも感じてくる。足の感覚は鈍くなり、地面をつかむ感覚が薄れていく。
そして、肺が悲鳴を上げ出す。口から取り込める酸素量の限界を超え、体中の細胞が酸素を欲し出す。
首が上を向くようになり、前傾した身体が垂直になっていく。しかし、それでも必死で腕を振り、足を出し、身体を倒す。
肺が焼け付くようになり、喉に痛さえ感じる。脳がきしむような気がして、足は最早かってに動いている。
もう無理だ、止まれという信号を無理矢理押さえつけながら腕を振り続ける。それに呼応するように足が連動する。
そして、砂時計の砂が落ちきる瞬間のように、いつかプツンとエネルギーが切れる。
慣性と惰性で身体は前に動き続け、肺は悲鳴を止めない。倒れるか倒れないかのギリギリのラインで、マンションの扉にたどり着く。
走っている間は何も考えらない。身体は一瞬だが限界というものに近づいていることを感じる。生というものを少しつかめそうな気がする。そして走り終わると、何かが抜けていることに気づく。たとえば。
それが全力疾走、というものなのだ。
悩んでいる暇があれば、全力疾走しろ、と僕はメロスから教わった。

マラソンする人に悪い人はいない

いつだか「マラソンをする人に悪い人はいない」という言説を耳にした。
そういう見方もあるかもしれない、と思った。
それは恐らく、「その人の周りでマラソンをしている人に悪い人がいない」という帰納的な判断と、もう1つは「あんな苦しいことを好きでやるなんて、おかしい。よって悪い人ではないかもしれない」という演繹的な判断があるのではないか。
もちろん、万事には例外があるもので、たとえ、ユナボマーがマラソンをしていても、別段、驚きはしない。
ただ、人は、人を判断するにあたり「絶対性」を求めるのではなく「仮定性」を求めるものである。
つまり、相手がどんな人なんかなんて、究極的には一切、わかるはずがない。自分でさえも分からないのだから。
よって、人の見立ては「いろいろな要素を組み合わせて、その人がどうである」と同定していくしかなく、そして、それは流動的に変化するものになる。いわゆる「いい人だと思っていたけど違った」というようなものや「悪い人だったけど、こういう面もあったんだ」的な話である。
同じ話は、マラソンに限らず「血液型」「話方」「表情」「目つき」「年齢」「出身地」「勤め先」「趣味」「学歴」「好きな音楽」「休日のToDo」「好きなブランド」「体系」などなどあらゆる要素で、人は、その人を判断する要素とする。
よく聞く例としては「新潟美人」「AB型だから変わり者」「食べるのが早い人だから、○○も早い」「アムステルダムとイスラエル、ラオスにいってるからあの人は○○だ」「携帯で絵文字を使いすぎる人は○○だ」「目が3つあるから邪眼だ」のように、人は「クラスターの傾向」を利用して、人を判断する。これは、良い悪いなく、そういうものだ。
個人的には「水族館(特にクラゲ)」「ロシア文学」「ヒューグラント」「パッカー(特に山)」「深爪」「自転車」あたりの属性を持つ人は「いい人評価」をしてしまう傾向にあります(当方バイアスによると)。
そして、「ビッグイシュー」をホームレスの方から買う見知らぬ人を表参道交差点で見かけて「へえ」と思ってしまうのです。良かれ悪しかれ。

いつかどこかで待ち合わせ

わたくしめ、待ち合わせには強い人間でして。自分で言うのはアレですが、自分しか言ってくれる人がいないので言いますと、多分、待ち合わせの遅れる率の少なさ偏差値は67くらいあるのではないかと思っております(とはいえ、否応なく遅れることもありますが平均値として)。
だって、「待っている時の時間」って、「楽しみにしていた映画の、本編が始まる前のCM」に似て、非常に貴重で尊ぶべきものだと思うわけです。
逆に遅れて急いでいくと、そのPreciousな価値が台無しで。
遅れることに対して、特に感情はまったく抱かないのだけど(主観ですが、世の中の8割くらいの人は、待ち合わせ時間に遅れることがマナーとさえも思っているのではないかと思うふしがある)、その「まつ時間」を知らないのは、勿体ないと思っている。
もちろん、手持ち無沙汰だと、待つということは唾棄すべき対象なんだけど、本が一冊あるだけで、待つという守りの行為は攻めの体制になることができるわけです。「人がくるまでにどこまで読めるか」的な。ゆえに、待つということは、基本的には苦手ではない(好きかキライかといわれると、程度によると答えるが)。
で、これが前フリ。
ちょうど、打ち合わせから帰り。最寄り駅でおりて改札を出ると、誰かを待っている女性がいた。
たまたま、私の背後あたりに、待ち人がいたらしく、その人の待っている時の顔が「待ち人を見つけた時の顔」に変わった。
ただ、面白いのは、その後、さらにもう一度「クールな顔」に戻った。
それは恐らく、心理を想像するに
1.待ち人を待っている。くるかどうかの一抹の不安を抱えながら待っている
2.待ち人発見。無意識に嬉しくて、顔がほころぶ
3.でも、嬉しそうな顔をするのが悔しいのでクールダウンさせる
というようなものなんではないかと、勝手に邪推した。いずれにせよ、それほど、表情が変わった(一瞬しかみえなかったけど)。
「待ちあわせをして人がくる」というのは、おおむね当たり前のことなのに。もちろん来ないことはあるけど、少なくとも、ホセカルデンのフリースローの成功率ほどには来るはずで。
そんな「きて当然」の世界の中で、「来るということに喜ぶ」という人がいるという事実を目にして、「おお、人は待ち合わせをすることで、社会の幸せの総和を増やしているんじゃないか」とさえも思った。
また、待ち合わせの場所でも情緒は違うような気がしていて。たとえば、本屋で待ち合わせをして、後から着いた場合、先にきた人が本を眺めているのをみるのは、あるいは、何の本を見ているかを見るのは、それはそれで味がある気がしないでもない。もちろん、ツタヤのDVDでも、六本木ドンキの熱帯魚でもいいのかもしれない。たとえば、だけど。
個人的に印象深い待ち合わせとしては、オーストリアでの盟友R氏との待ち合わせだ。
私は旅行の最中で、彼も欧州を回る旅に出るタイミングだった。事前にメールで日程と時間、場所をあわせた。ウィーンのステファン寺院の前、というアバウトな待ち合わせだった。
2人とも、そんな場所にいったことがないのだから、勘で落ち合うしかない。で、想像したよりもステファン寺院はでかかった。
そして、待ち時間に30分たっても落ち合うことができない。そして、最終的に一時間後、彼が座っている私を見つけてくれた。彼も近くのベンチで座り、私もベンチで座っていた。
観光客が通り、ハトが飛んでいた。なんてことはない待ち合わせだけど、異国で、そして、半年以上ぶりに知り合いにあうということがとても嬉しくて。
ということで、なんか待ち合わせって、もう少し社会的に評価されてもいいような気がした駅の改札出口でした。

満員電車ってなんなのあれ

いや、ちょっと聞いて下さいよ。
先日、久しぶりに満員電車に乗ったんですよ。
なにあのハレンチ。
あんなに身体密着するって、色々おかしいんちゃうの?
対人距離によると密着距離でさえも50センチ前後は離れているのに、満員電車だと、くっついてますよ?
しかも、知らない人と。さらに言えば、電車ごと、前後左右にシェイクされて、なんでしょう、あれ。卑猥すぎる。
あんな乗り物に世の中の方、毎日のってるの?社会的に、あれは許されるの?
モザイクとかの前に、ああいう満員電車規制すべきだよ。
ああ、だから女性車両できたのか。
でも、男性を好きな男性の方にとってはどうなるんだろうか。
いや、でもよくないよ。あれは。
え、なんで皆すました顔でくっついてるの。また、本とか携帯までいじっちゃって。身体が浮くくらいの満員度でも?
身体くっついているのに「さもくっついていません。気のせいです、私は固形物です」みたいな素知らぬ顔していて。なにこれ怖い。
海外だと、あんなことになったら、もはや暴動ですよ。というか猥褻すぎる。
なんなんだ、あれは。
あれはいかん。あれは子供への教育上よくない。
はうあー。
ってことを、改めて思った。

ニースのマクドナルドで待ち合わせ

日常で生きていると、街で知り合いに会うことがある。
それは渋谷の歩道橋かもしれないし、数寄屋橋の交差点かもしれないし、はたまた青山の地下道かも知れない。
偶然の邂逅。
そして、それは日本に限らずとも、世界でも起こりえるかもしれない話。もちろん確率は数万倍以下になるのだろうけれど。
2003年のことだ。その秋に私はパリにいた。
そこからシャガール美術館に行きたくて、電車でニースに向かった。
南仏らしく太陽の日差しはパリと違い地中海の照り返す光が暖かく、秋でもTシャツで歩いていた。
朝着いて、お腹が空いていた。メイン通りを歩いていると、マクドナルドが見つかった。いつも通り、オレオのバニラスムージーを頼むために、そこに入った。
並んでいると、「カズ君じゃん」と声をかけられた。
おお、と思ったら、パリで再会した友人だった。パリで再会、という説明を詳しくしたい(過去に描いたことあったらごめん)。
彼とはジンバブエで出会った。
ジンバブエとは南アフリカ共和国の少し北にある国で、アフリカで言えば南アフリカ地域に属する。
そこで、パームロックビラというドミトリーに泊まった。その部屋に相部屋だったのが、彼だった。
しかも、話をすると、同じ大学の同じ学年で、彼も休学中だった。そのような縁から、私は、それまでのアフリカの疲れが癒えるまで、ジンバブエのハラレで過ごすことになった。
全部で10日ほどいただろうか。彼とはビリヤードをし、マーケットに買い物にいき、過ごした。
そして、分かれた後、彼と再会したのは、ハンガリーだった。
ブダベストの宿に私が訪れると彼がそこにいた。話を聞くと、マラリアに感染し、ヘリコブターでハンガリーまで輸送されたとのことだった。そこでの再会を楽しみながら、すぐに旅立つ必要があった私は、そのブダベストを後にした。その後、アムステルダムで再会し、さらにパリでも落ち合った。
それから、偶然のニースでの再会に繋がることになる。
そんなニースの話を、一昔前に友人にした。
すると、なんと、その人もニースのマクドナルドで友人と再会したことがある、ということだった。
へえ、と思った。
友人と海外で偶然再会することはあれど(特に日本人パッカーはルートがあるので、会いやすい)、同じ場所で再会したという話を聞くのは珍しい体験だった。
そして、ニースの遠さを思った。そのマクドナルドで今も生まれているかもしれない再会を思った。

不確実な世界へようこそ

先日、「明日の予定なんだっけかな?」と考えた時にふと思った。
「不確実性の魔力」というものに。
世の中には「確実なもの」と「不確実なもの」がある。たとえばサイコロを振って「何かの目がでる」というのは(ほぼ)確実だが、「3の目がでる」というのは不確実である。
仕事にもこの2区分がある。「明日のすべきことは今日と一緒」という場合と「明日のすることは初めて」という場合。
資産運用もそうだ。「銀行に預ける金利」と「株の変動」のような。専門家はそれを「リスクとリターン」の程度で表すけれど。
で、人の性癖として「確実性」を好むものと「不確実性」を好む人がいる。
リスク志向性といってもいいかもしれない。しかし、平均値をとると「不確実性」に人は楽しみを憶えるのではないだろうか(行動経済学でもそんな感じだった気がするけどうろ覚え)。
一例が宝クジである。
財団法人日本宝くじ協会によると、7割以上の人が宝クジを購入したことがある。
1度キリの人や付き合いの人もいるので、このデータをベースにするのは危険だが、これを少し補助線とする。
宝クジというのは基本的に「損をする賭け」である。しかし、人はそこに「もしかしたら」を夢見て購入する。
パチンコだって、株だって、競馬だって、トトカルチョだって、カジノだって何でもいい。周りを思い返せば、それらにハマル人は少なくない(1回始めると、熱くなる程度の意)。
海外旅行に行く人が多いのも「知らない土地だから」「スノビッシュだから」「ショッピング楽しいから」といった理由は数あれど、もしかすると、そこには「日本とは違った知らない世界があるから」の期待に人は引き寄せられるのかもしれない。
昨今のソーシャルゲームだって「不確実性」がユーザをはまらせる。ポーカーゲームや牧場のくじ引きや、マフィアウォー的なバトルや。
負けたら「次は勝つ」として勝負をかける。そして、人がそこに熱くなるのは「不確実性」があるからだ。たとえば「勝つ」と分かっているゲームは人は恐らく楽しめないだろう。たとえば「一人でする桃太郎電鉄(CPUがゼロ)」や「1人でする人生ゲーム」のように。
昨今の「婚活事情」だって、このメタファーで語れるのかもしれない(適切かどうかは別としても)。「いつか白馬に乗った王子様が」という不確実性に期待をして人は生きる。
そう、人は「不確実性」を楽しむだけでなく、時にその「不確実性」が生きる糧となる。
「もしかすると、がんばっていればいいことがあるかもしれない」というふたしかな未来に思いを託して人は今日をやり過ごす、という人もいる。
あるいはキリスト教的な「がんばれば救われる」、仏教の「生まれ変わる」といった不確実な未来への期待と考えてもいい。
もし、自分の人生が全て見えていれば、多くの人は自殺してしまうほどなのかもしれない、とふと思う。というのも故人がいった「死に至る病」とは「絶望」だからだ。
「絶望」とは望をたたれる、と書く。そして、逆は「望を持つ」ということだ。そして「望みを持つ」ということは言い換えれば「期待をする」ということで、この論旨でいう「不確実性に賭ける」というものである。
イマジン。
「そこそこ幸せだけど、何が起こるか全てが分かっている人生」と「平均値はそこそこ幸せだけど、失敗も成功も振れ幅が大きい人生」のどちらを選ぶだろうか、というような。
ただ、反証も考えよう。
よく云われる「公務員」を選ぶ人は「リスク志向性」がひくそうに見えるが、仮に「空き時間が何もない公務員」だった場合はどうだろう。「公務員」は空き時間が大きく、そこに人生の余暇をいれれるから、楽しいのであって、時間がなければ公務員の安定性の人気は別のものになるんじゃないかしら、とも思う。
あるいは「ゴルゴ13」的な物語は大筋は決まっている。「最後は勝つ」のだ。それでも人は楽しむ。それは「不確実性」への楽しみとは別のものではないか?とも考えられる。それはその通りで、それは「物語」を楽しんでいるからである。これは「構造主義」を引っ張れば、「世の中の大抵の物語の骨子はギリシア神話時代に出ている」という話を考えるだに難しくない。そもそもゴルゴ13が死ぬようなことがあると、単純に連載が続かないのだ。それは構造的に困る。
よって「構造的に許される中で、不確実性の最大化」がポイントなのかもしれない。たとえばドラゴンボールの「生き返り」やワンピースの「裏切り」のような。
何が言いたかったかというと、「不確実性」を提示することが、1つの面白さになるんではないかな、ということです。
それはサービスにおいても、人生においても、はたまた物語においても。

日本は1000年後も存在し続けているか?

最近、「海外」だの「日本の将来が云々」だの話をよく聞く。
そこで、そういふものについて考えた。
仮定を置く。「1000年後、世界に10カ国しか残っていないとするならば、そこに日本は入っているか?」という問い。
どう思われるだろう?
つまり、この問いで言いたいのは、「日本は今後、社会にとって価値を提供し続けられる国であるか」という問題である。
もちろん、私も日本人である以上、何より、この日本のブランドに関して10年近く学んでいる以上、「YES」と言いたい。
しかし、客観的に見る必要がある。
自然淘汰による進化論を国に当てはめていいかもしれない。日本は世界の環境変化に適応できるのだろうか。
日本は独自の文化と言われるが、逆に言えば、環境適応には弱い可能性がある。もっとも模倣文化の強みを考えれば、いざという時に強いのかもしれない。
次に企業のメタファーを当てはめて考える。世の中で存在している企業は、経緯はいずれにせよ「社会に価値提供」をしている企業である(ことが多い)。
よって、「日本が社会に価値を提供し続けられる国」ならば、今後も残っていくだろう。ただし、それは他の国が提供できない価値である点や、ないし、相対的に「提供価値の量が膨大である」という点を鑑みた上での「価値」であり、たんに「少しの価値」であれば、どの国も提供しうるだろう。
ここで、日本にいるとよくはまってしまいがちなのがバイアスである。日本で触れている海外の評価や、日本の強みは、世界レベルで見ると、そうでないこともある。
たとえば「日本の文化の独自性」「日本人の良さ」は、確かにそうであっても、それが「世界に対して、評価されうる価値なのか」には検討を要する。
客観的に見る場合、世界に展開できている企業から考えるとTOYOTAやSONY、任天堂などのメーカー企業が代表的だ。
このあたりは、それなりの売上をあげていることからも、価値は把握しやすい。
あるいは、アニメや漫画などを上げる人もいるかもしれない。しかし、アニメや漫画の海外の市場における日本シェアがわからないので、そこは私は判断できない。
(追記:マンガのシェアは6割くらいという情報を頂きました!ありがっす)
つまり、これを数値化するには
「海外のエンタニーズ市場×そのうちのアニメ・漫画市場の比率×そのうちの日本シェア」で算出した上で規模をはかった上で、その「代替不可性」、「ニーズ度の高さ」を鑑みる必要がある。
たとえば、「衣類は中国で生産」されていることが多いが、かといって、中国の衣類が中国の強みであるとは限らない。なぜなら、衣類の生産は他国でも代替可能であるからだ。現状は規模とコスト面から必要があるが、もし中国が衣類扱いません、となっても、その場合は他国が代替を提供するだろう。
他は何があるだろうか?探せばもっとあるだろう。
ただ、世界における日本の売上シェアが落ちている場合、それは国力の低下、ではなく「日本の必要性の低下」を意味する。
つまり、「日本が社会に提供している価値が減っている」ということになる。
このあたりを最近、考えている。
従来は「力」で国が存続していた。戦争で勝てば、その国は領土を得ることができたし、あるいは、対価を得ることができた。しかし、昨今はイデオロギーと経済の社会である。いわゆる「ソフトパワー(定義は多様だが)」の重みが増してきた。
そう考えると、単なる強みで国は生き延びるわけではない。
極端に言えば、いくら武力を備えていても、人口が激減し、輸出がほとんどなければ、その国は他国を吸収合併しないと、そもそも立ちゆかなくなる。そして、現在の世論は吸収合併を許さない。世界の憲兵が黙ってはいない。
ゆえに、「国の価値提供」が、今後の日本にとって、必要な事項なのだ。
かならずしも「人口」が増えれば解決する問題ではない(内需が増えれば、経済はまわるにせよ。あと相関関係はあるにせよ。因果関係かも)。
ちょうど、ここ数年、三国志やローマ人の物語を目にする機会があったのだが、「国は簡単に移り変わる」のである。
もっともそこには100年や200年の年月というスパンだけれども、とはいえ、今のアメリカの覇権はまだ100年もないものだ。そう考えると、まだまだ国は新陳代謝を興す。
また、EUの動きや各種の国際協調、国際間の経済動向の動きを見ていると、古来の合従連衡を思い返す。
外部に敵がある場合、国は集まり出す。実際、日本でも市町村の合併はすすみすすんでいく。ブランド国家論はそのような中で出てきた「個性」を出そうとする動きだ。
このような流れでは、数千年のスパンでみれば、国はどんどん少なくなる(もっとも、国という概念は変わるが)。
そうした時に、日本はどのような価値を世界に提供できるのかしら。
最近、このような問いが頭にまとわりついています。

不完全な世界

先日、パン屋で店員さんが、おつりを間違えた。
子供の頃、「店で店員さんが、おつりを間違うことなんてない」と思っていた。
それはまるでビッグベンの時計のように正確なものだと思っていた。
でも年を取るにつれ、そういうことは「よくある」ということが分かった。子供の頃は全てが大人であった「働く人」は「そうでない」ということも分かったし、自分が八百屋でバイトをして間違うこともあった。
パン屋でも、花屋でも、おつりを間違えられることはあるんだろう、と思う。
「世界って正確ではないのだ」と気づいた。
それは言えば当たり前だけれど、自分が信じていた前提が崩壊するようなインパクトがあった。
「電車が遅れる」「契約書の日付を間違う」「約束のアポを忘れる」「書類をもっていき忘れる」「メールの宛先をBCCとCCを間違ってしまう」などなど。
世の中は、数多くの間違いが多く発生している、と気づく。
しかし、同時に、その「社会の設計」のすばらしさに気づく。つまり、「ある程度のミスに関しては、コアに影響を与えないような生態系」ができあがっているのだ。
たとえば、あなたが明日、送付予定の手紙を投函し忘れたとしても、社会は殆ど何も変わらずに回り続ける。
これを社会生態学やガイア理論的なものに想像をふくらませるものは可能だが、手に負えないので辞める。
ただ、この「間違いを前提にしたシステム」というものは、非常に興味深いもので。
「世の中にミスはないならば、じゃあ、ミスが起こっても大丈夫なシステムにすればいいじゃん」という意識転換のあらわれなのだ。
では、世の中に世界のプログラミングをした人がいると仮定するならば、なぜこのような「ミス」を発生する個体を設計したか?という問題に突き当たる。
それの答えは明確で「不確実性」に対する処理の高さが環境適応にもっとも適しているからである。つまり「確実性」のものだけだと、進化は限定的になる(このあたりは雌雄同体におけるクローンの進化限定的な話とかになるかしら)。
その不確実性のあらわれがプラスであらわれれば「イノベーション」となるし、マイナスであらわれれば「ミス」となる。
で、このマイナスのミスが発生した場合の対応は、プログラミングでいうところの例外処理、に当たる。
携わった方には釈迦説法になるが、この例外処理というのは想像する以上に厄介で。つまり、あるサービスがある。その上に「ユーザがありとあらゆることを行ってもシステムが変わらず動く」という設計にするには、「ユーザのありとあらゆる行動」を事前に予測しなければならない。
たとえば数字を入れる箇所に「ひらがな」を入れるかもしれないし、「名前を入れる」欄に1億文字を入力するかもしれない。もちろんこれらのイージーな「例外」は、対応パッケージ的なものがあるわけだが、それでも、人間の行動のあらゆるパターンを想定するというのは、想像以上に厄介だ。
それに関して、人間はたとえば「忘却」というのも例外処理の1つになるのかもしれない。
仮に、あなたに恋人がいたとする。その恋人が何か病気が事故で他界してしまった。もし、あなたに「忘却」という処理機能が備わっていなければ、あなたは耐えきれないかもしれないし、他の人との恋愛はもうしないかもしれない。ただ、面白いのはミスも失敗も人間が定義するものであって、客観的なものではない、という点にあるのだけれど。
他に、上場企業のIR資料にも「事業リスク」はたんまり織り込まれていて、「天災」だけに限らず「テロ」「景気変動」「人的ミス」などあらゆる「予想しないもの」が記載されている。
途中だけど時間の都合上、すっとばして結論にいくと、世界において「失敗は折り込み済み」ならば、この例外処理が肝なんだろうね、と思う次第。