富士山に登ろうと思ってから登り切るまでの12時間

先日、富士山に登ろう、と思い立って。5時間後には、五合目の麓についていた。

話を戻すと、ある土曜日の昼下がり、ふと「ああ、富士山に登らなきゃ」と思い立った。

そして、インターネッツという代物で、調べたところ、19時30分に新宿からバスが出ていることを知って。

ああ、ネットって便利。

往復でチケットを購入し、準備に向かう。ああ、カードって便利。

とりあえずドンキホーテ@六本木で、
*雨具(カッパのすごいの)
*トレッキングシューズ
*ライト(頭に付けるの)
を購入(締めて1万円ちょい)

そして、寒いという情報を仕入れたので、冬用のダウン(昔、真冬のカナダに行く時用に買ったダウンでマイナス10度だかに対応したやつ、ちなみに西欧で野宿した時にも大活躍した一品)を詰め込む。

そして、新宿のコンビニで水1リットルとお菓子を購入。

バスの中では爆睡。2時間ほどでバスは五合目に到着。

登り口はいくつかあり、到着したところの情報によると「富士スバルライン五合目(河口湖口/吉田口)」ということが判明。

降りると何もない。さっぱり何もない。街頭もないので暗い!

5人組の男性集団(学生っぽい)が、ストレッチをしているのを眺め、イイナとか思いながら。

腐っていてもしょうがないので、そのまま登山口に向かう(そもそもその登山口の場所さえもよくわからないので警備員に聞く)

そこから6合目は1時間半ほどで到着。疲れは無いものの、朝からジムで走り込みをしてしまった分の疲労がアドオンされ、すでに戦々恐々の状態。少し足が重い。

そこから7合目は勢いで向かうものの、既に乳酸が溜まっているのと、空腹で、カップラーメンを食す(500円。シーフード味)。

しかし、女性が多い。メディア情報によると山ガールが増えているとか聞くけれど、「リアル登山ガール」の数は、男性の2から3倍ほど(当社比)。

富士山でチームで昇る人はどんな会話をしているのだろう、と聞き耳を立てるけれど、「どの野菜が好きか」とかの非常に深遠なる形而上学的トークしか聞こえず、エキサイティング性に欠ける。

あと外国人多し。英語が飛び交ってます。なぜか日の丸のハチマキも多し。

そういえば、ステッキは現地で購入(1200円だったかな)。これは岩場では必須。

ステッキを使って昇るのではなく、ステッキと両足の3点を使って、自分の立ち位置を安定させるのに大活躍。

各山小屋では、この木のステッキに「○合目」といった焼き印をする事業が展開されている。ジェットコースターの写真なみにボロイ商売やなぁ(イニシャルコストがカメラより安い分だけ、もっとイージーかも知れない)と眺め筒。

7合目から8合目が一番キツイ。途中、山小屋がいくつかあるが、「8合目か!」と思ったら、7.5合目などのトラップが多し。

心が折れそうなので、何度か山の途中で眠る。

寒いのも噂通り。特に汗をかいて、その濡れたTシャツと冷えた空気のダブルは相当体力を奪う。

喉もかわくけれどどこのトイレも混んでいるので水をがぶがぶ飲む気にさせない。それも気分を萎えさせる。

8合目辺りで、宿の空き状況を聞くけれど、当然空きなどない分けで。仕方なく、山肌で一眠り。

心が折れそうな時は、iPodの音楽が心の支え。爆音を流しながら、一気に山肌を駆け上る。

なぜか祭りの後I will surviveがよくかかる。

そして、8号目を超えると、一気に気分は楽。

道は混雑するけれど、その分、ゆっくり登りながら、登頂を目指す。岩肌が多くなり、角度も急になる。人もどんどん増えてきて、渋滞。

しかしながら9号を超えると、あとは気分も楽。

そして、登頂に到着したのが、朝の3時半。大体6時間の登頂時間。

多くの人は、そこでご来光を待っていたけれど、そんなマゾなことは出来ないので、おとなしくそのまま直行でUターン。

なお、マチュピチュの隣の山「ワイナピチュ」と比較すると、ヘビー度は300%、美しさはイーブンといったトコロ。

帰り道、4時半頃に、ご来光を眺めることができる。

↑みなで日の出を眺める

一応、昇った証拠に写真でもとってもらうか、ととってもらったところ、全て逆光。当たり前ですが。

その後は、ひたすらダッシュで山を駆け下りる。大体、昇った時の1/3の時間(=2時間)で下山完了。

途中、激しく道に迷って、わけのわからない公道に出たのもご愛敬。

しかし、問題は五合目。

五合目に戻ったのは5時30分なのだけれど、麓に降りる方法がない。

事前にかったバスは10時。タクシーを見つけて最寄り駅までの運賃を聞くも1万円以上。

しかたなく、五合目のレストランでパンを食べながら路線バスの発車をまつこと2時間30分(8時)。

バスに飛び乗り、河口湖の駅まで1時間揺られ、そこから、さらにトコトコと電車に揺られ無事に帰宅。

人生ですべき1000のことのうちの1つが終わって何よりでしたとさ。まる

六本木にて

仕事帰りに六本木を通る。

六本木は、ファンキーな人が多い町である。よって、ファンキーな光景を多々見かけることもある。

たとえば。

たとえば、先日見かけたのは、ある休日の24時くらいの出来事。あるイタリアンの店が閉まっていた。そして、シャッターが閉まっていた。

しかしシャッターには除き穴がついていた。それを覗く人がいる。

カップルだった。男の人が、そのシャッターの中(=イタリアンの店内)をのぞき込み、そして、彼女(らしき人)が、「やめなよ、早くいくよ」と腕を引っ張っていた。

何度か彼女が彼の腕を引っ張る。彼は見続けている。そして、諦めて彼はシャッターの穴から目を離し、道に出ようとする。

すかさず彼女がシャッターの穴をのぞき込む。彼も慌てて、それに追いつき、一緒に穴をのぞき込む。

あの穴の中に何があったのかは知らない。情事なのかもしれないし、新しいピザのお披露目会なのかもしれないし、もしかすると何もなかったのかも知れない。

おまえが長く深淵を覗くならば、深淵もまた等しくおまえを見返すのだ

とのたまったニーチェ先生の言葉の如く、彼らは僕に覗かれていて、でも、覗いている僕は、その彼らが覗いている先のものは解らなくて。

今でも、たまにそのイタリアンの店の前を通ると、シャッターの穴が気になるけれど、マルコビッチになるのが怖いので覗かない。

またある金曜日の夜の話。

またも仕事帰りの25時か26時の頃。ぐでんぐでんに酔っぱらったカップル。西麻布方面だと、実際に寝ている人もいるけれど、そのカップルはまだそこまでは酔っぱらっていない。

男は40から50歳、女性は25から30歳前後。場所と服装を鑑みるに、夜の仕事中の女性とお客の仕事帰りの男性なのだろう。

彼女の手を引っ張り、六本木の地図の看板に彼女を押しつけ、戯言をしゃべる男。まさに「タワゴト」という表現がこれほどしっくりくる場所もない。

そこで彼はいう。「俺の名前は何だ。言ってみろ」と。そして口づけをしている。

なんとも、風情のある言葉である。

千と千尋のラストシーンを髣髴させるような、そして、そこからアニメ繋がりで「美女と野獣」まで思い出し「おお、彼の名前をきちんと言えれば、彼は美男子に戻るのか」という想像までたどり着くこと請け合いである。

あるいはRihanaのWhat’s My NameをBGMにしながら、

hey boy I really wanna see if you can go downtown with a girl like me

といったフレーズがダブって見える夜で。そんなこんな。

恐らく昔の六本木の華やかさとは違うのだろうけど、それでも、なんだか色っぽい町だなぁ、と思う昨今でした。

議論のセクシーさ

数年前のメモを見ていたら「正しさを主張すると色気がなくなる」ということを書いてあった。

誰か周りの人の言葉だったりしたらごめんなさい。出典の記載漏れです。

いずれにせよ、なかなか興味深い観点やね、と思った。

というのも、時に、議論というのは「正しい」「正しくない」という判断基準では収まらないことが多々あるからだ。自明の断りとして。

たとえば、「上が黒といったら白でも黒」だかなんだかという言葉があるように、時に「上が言っているかどうか」が議論の焦点である場合もあり、あるいは「賛同できるか」がポイントになることもある(cf アメリカの陪審員制度を扱ったハリウッド映画)。選挙の場合は「どれだけ多くの人がYESといっているか、でもある。

そんな折「その立ち位置がセクシーであるかどうか」という軸もあるような気がしている。

そういえば関係ないけど、マーケの大家ゴーディン氏も「トム・ピーターズのサラリーマン大逆襲作戦〈2〉セクシープロジェクトで差をつけろ! (トム・ピーターズのサラリーマン大逆襲作戦 (2))」で、セクシーという言葉を使っている。

「セクシーなプロポーザル」というのは、いわば、「ぐっとくる」軸を攻めた立ち位置であり、それは「正しさ」を度外したところに価値がある。

それが冒頭の表現で言うと「正しさを主張すると色気がなくなる」とも繋がる。

いわば「正論を貫いても物事は動かない」ということにも似ているかもしれない。世の中には「正論」原理主義の方もいらっしゃり、「べき論」を多様される。

で、それに対しては「正論では物事が動かない」という意見も、「それを踏まえつつも、正論は貫き通すべきだ」という意見もあるだろう。

いずれにせよ間違いないのは「正論」にはセクシーさがないのだ。いわば、ヒンドゥー教とイスラム教、ファンダメンタルとテクニカル、グリーンピースと捕鯨業者、ドラクエ派とFF派、男性と女性、これらのポジショニングトークの響きのような。

もし正論を貫くならば、「正論を落とし込む」ところに色気を振りまくべきであって、「正論の正論性」に力を注ぐのは、「数字の2は1より大きく3より小さい」と声を上げているように聞こえる、気がする。「So what」となるような。

誰かの話で、「寿司好き?」「温泉好き?」と女性に聞くのは愚問である、という話を聞いたことがある。いきとしいける女性はおしなべて「温泉」と「寿司」が好きだからである。

ゆえに「寿司好き?」の質問は「So what」ではなく「Shall we」であるべきであり、そういう意味において「べき論」よりも「たられば論」の方がセクシーである。もしもあなたが「寿司が好きならば」みたいな。

ちなみに2011年は「「セクシー素数」の年」だそうだ。さらに、蛇足すると森博嗣の「すべてがFになる」によると、孤独な数字は 7である。よって、孤独さ(7)とセクシーさ(6)は、隣り合わせ。

なんて。

遠藤ちひろ大先生の多摩市議選立候補

以前から何度かこのブログでご紹介いたしておりますが、遠藤さんが、多摩市議選立候補されるとのお知らせです。

ホームページより下記抜粋。

投開票の多摩市議会議員選挙に向けて、みんなの党多摩第一支部長として再起動いたしました。

決戦は2011年4月24日とのこと。

また下記ホームページでは今回の震災後の情報なども記載されておりますです。

» ホームページ

寄付なども上記からどうぞ!

過去の参考URL

» 【関係者注目】遠藤ちひろ御大がいよいよ! (いけいけどんどん)

2010年面白かった小説10冊

さて、年末なので今年読んだ本のおさらい。

バックナンバーは以下。

母数として、今年読んだ小説は100物語、前後。移動が多かったので(海外/大阪等)、その時に5~10冊をまとめ読み、みたいな感じでした。

以下、記憶に残っている「面白かった」ものを並べてみました(記憶から墜ちているのも多そうだけど・・・)。傾向としてはやはり「青春系」「文章上手系(構成よりも)」に惹かれる模様。

10位:石田 衣良:愛がいない部屋

愛がいない部屋 (集英社文庫)
石田 衣良
集英社
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私の中で「恋愛小説を読みたい時に手に取ってしまう作家」の位置づけである石田さん(辻仁成氏からリプレイス。女性版は山田詠美氏)。

これはマンションをベースにした短編集。

他にも今年は、40、オトナの片思い(アンソロジー)など相変わらず手に取ってしまう石田さんの本。

なお、上記は「マンション」を軸にしているけれど、吉田さんの「初恋温泉 (集英社文庫)」は温泉軸。

温泉がテーマの小説は珍しく、楽しく読めた。

9位:グロテスク:桐野 夏生

グロテスク〈上〉 (文春文庫)
桐野 夏生
文藝春秋
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桐野さんの本は、いつも「読むの重い・・・」と思いながらも手を取らずに得られないという不思議な魅力を持っている。

内容も暗くてヘビーなのに、ぐいぐい読んでしまう。これはお嬢様校出身の女のコの堕落論的な物語。

正確に言えば、過去に話題になった東電OK事件を元にしている一冊。これが面白かったら会わせて「東電OL殺人事件 (新潮文庫)」を読まれることもオススメします。

なお、他にミステリーとしては「冷たい校舎の時は止まる (上) (講談社ノベルズ)」は楽しく読んだ。似たミステリーとしては「イニシエーション・ラブ (文春文庫)」もそれなりに面白かった。

8位:ザ・ドロップアウト:高崎 ケン

ザ・ドロップアウト (アルファポリス文庫)
高崎 ケン
アルファポリス
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小説というか自伝。概要を引用すると

一流大学を卒業し、一流企業に就職。絵に描いたように順風満帆な人生…のはずだったのに、現実はどうだろう。金のために、夢や自由を捨てて、意に沿わない仕事に従事する日々。本当のオレはこんなじゃない!がつんと上司に退職願いを叩きつけ、新たな一歩を踏み出したものの、待っていたのは厳しい下流生活だった!ホスト、AV男優、テレビAD、バーテン、そして派遣社員としての地獄のような毎日…勢いに任せ退社した男が歩んだ屈辱と再生の道。―これは、もう一人のあなたの青春物語。

な感じ。高橋歩氏を少し髣髴させる(ベクトルが違うのであくまでも少しだけだけど)。

7位:虐殺器官:伊藤 計劃

虐殺器官 (ハヤカワ文庫JA)
伊藤 計劃
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けんすうに教えてもらって読んだ一冊。

今は文庫化?され平積みになってますね。

SF小説で、ガンダム/エヴァ+ミッションインポッシブル/メタルギアソリッド的な。マッチョな一冊。

ただ、散髪屋のお姉さんに「おすすめ本は?」と聞かれて紹介したところ、それなりに楽しんで読んだそうなので、女性も好きな人はいるかも知れない(大きいくくりでは西尾維新に近い?)

ただ、夭折されてしまったそうで悲しい限り。

6位:アッコちゃんの時代:林 真理子

アッコちゃんの時代
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林 真理子
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田口さんの記事きっかけで読む。

バブル期の女性が主人公(実在の話をベースに)。古き良き時代の六本木等の話も多く、なんだか切なく読んだ。

関連(六本木繋がり?)としては甘粕さんの「みちたりた痛み 」や家田さんの「縄張り―死の六本木抗争 (祥伝社文庫)」なんかも面白かった。

5位:月曜の朝、ぼくたちは:井伏 洋介

月曜の朝、ぼくたちは (幻冬舎文庫)
井伏 洋介
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青春モノ。学生時代の友人たちが30前後?になった時の物語。

転職あり、結婚あり、起業ありなどなど。自分との年齢の親和性からか面白く読んだ。

この作者の本は初めて。他何か有名なのあるのかな?

4位:夜は短し歩けよ乙女:森見 登美彦

夜は短し歩けよ乙女 (角川文庫)
森見 登美彦
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森見 登美彦氏は、2007年に「水曜の朝、午前三時」をピックアップして以来。

森見ワールド的な世界観と癖のある文章(パクチー的な)は、ハマルと楽しい。
※個人的には「四畳半神話大系」 はピンと来ず。

また、蛇足だけど、「歩く関連」としては、恩田さんの夜のピクニック (新潮文庫)、奥田さんの「真夜中のマーチ (集英社文庫)」はピンとこなかった。

なお、似た作風として揚げられることが多い万城目氏ですが、鴨川ホルモー (角川文庫)は個人な趣味ではなかったのだけど、話のネタにはちらちら出た一冊。映画化の関係かな?あとインパクトのあるタイトル。

なお、森見さんと舞台も文体もなんか似てると思ったらホゲホゲという話を聞く。

3位:ストーリーセラー

Story Seller (新潮文庫)
Story Seller (新潮文庫)

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アンソロジーを選ぶことは滅多にないのですが、この一冊は印象に残っているため。

というか具体的には有川さんの「ストーリーセラー」が傑出。あと米澤穂信氏「玉野五十鈴の誉れ」 、ストーリーセラー2の「伊坂幸太郎の合コンの話」の3編が白眉。

2位:不毛地帯

不毛地帯 (第1巻) (新潮文庫 (や-5-40))
山崎 豊子
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テレビ化された影響で読む(ドラマは見てないから解らない)。高度経済成長期の商社の話。

この影響で山崎氏の「沈まぬ太陽」「白い巨塔」「華麗なる一族」も読んだが、全てレベル高くて驚愕。

さすが元記者。ドキュメンタリーとして読める。今まで喰わず嫌いだったのを猛省。

1位:水滸伝:北方謙三

水滸伝 1 曙光の章 (集英社文庫 き 3-44)
北方 謙三
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ぶっちぎりの面白さで貪り読んだ。全19巻。

中国の「水滸伝」を下敷きにしてふくらませた一冊。ストーリーの面白さに加え、北方節が全快でぐいぐい読ませる。

氏の三国志も面白いが、水滸伝は三国志よりも自由に書いており、また三国志の経験を踏まえた文章が力強く、こちらがマッチベター。

梁山泊というと日本だと社名を思い浮かべる人もいるかもしれませんが、これとそれは全く関係なし。慣用句でたまにでる「水滸伝」の元ですね。

ストーリーはWikipediaによると

時代は北宋末期、汚職官吏や不正がはびこる世の中。様々な事情で世間からはじき出された好漢(英雄)たちが、大小の戦いを経て梁山泊と呼ばれる自然の要塞に集結する。彼らはやがて、「悪徳官吏を打倒し、国を救う」事を目指すようになる。

108人が結集していく様子は、ギリシア神話からドラゴンボールなどにも流れている英雄奇譚的な骨子。

なお続編の楊令伝も最近、完了したとか。その後はさらに第三部もあるという長編。

トマトはドM

トマトはドMだそうである。

どういうことかというと、トマトは厳しい環境下で育てた方が、よりしっかり育つそうだ。

そんな話を聞いて、厳しい調教を受けているトマトを想像する。

村上春樹の小説で「明治屋の野菜は、夜中、調教を受けている」というようなフレーズがあった。実際、明治屋の野菜価格プレミアムは、そのような特殊な技能による価値なのかもしれない。

そもそもトマトの赤みが猥雑ささえも持っているように誤認してしまう。そしてあのキッチュな赤色とあの卑猥な曲線との組み合わせは、アールヌーボーとポップアートの邂逅かとまで勘ぐってしまう。嘘だけれど。

いずれにせよトマトはもっと評価されてしかるべき食べ物である。

たとえばカプレーゼ。あのトマトのシンプルかつパンチの効いた効用は、トマトでしか果たせない大役である。そして何よりモッツァレラとの絶妙なる色の配合は最早、自然の神秘とでも言えよう、とか云々。

そういえば、最近、トマトに関する本を読んだ。

確か、ブラッディマリーに関する物語だ。

ブラッディマリーは、ご存じカクテルの一種。ウォッカとトマトジュースの配合で、タバスコをプラスアルファ。

そのカクテル名「ブラッディマリー」に関する物語。

そうそう。Story Seller〈2〉 (新潮文庫)だ。この中の沢木さんの物語。

蛇足だけど、このSutory sellerの1を友人から進めてもらって読んだのだが、めっぽう面白かった。

有名作家の中編集だが、どれもパンチが効いている。その中でも、有川浩の「ストーリー・セラー」 がオススメと伺ったのだが、これがまた何とも秀逸。是非、ご一読下さい。

話を戻すと、そのブラッディマリーの名前には、ブラッディ(血)のメタファーがトマトに使われている。いわば、トマトは血を表すのである。

だからこそトマトは何かしら妖艶さを持っているのかもしれない。

よく考えると料理にトマトってよく散在しているような気がする。

オムライス(ケチャップ)、カレー(生トマト)、パスタ(トマトベース)、ピザ(ソース)etcetc。

ああ、イタリアンや洋モノには活躍するってことか。そういえば、世界三大祭りといえば、リオのカーニバル、岸和田のだんじり祭り(嘘)、スペインのトマト祭りですが、そう考えると、まだトマト祭りだけ参加できておらず、一生のToDoに入っています まる

あとフルーツトマト。あれは最早、トマトの領域を凌駕して、次世代トマト領域に入ったのではないだろうかと日々考えている。

野菜なのにフルーツという二律背反を違和感なく両立させてしまうハレンチさは、トマトだけが許される横暴なんではないだろうか。

とかなんとか阿呆なこといってないで寝よう。よきトマトライフを。

めんどくささの美学

最近になって「めんどくささの美学」とでも言うようなものを理解できるようになった。少しづつだけれど。

どういうことかというと、人は元来めんどくさがりやである。あらゆるものは理路整然と綺麗に効率的に並べられている方が好まれる。オペレーションエクサレンス。ロジスティクス最適化。

たとえば、机から手の届く範囲に本棚があると便利だし、システムキッチンな合理性、ないし、帰社時にあるコンビニの便利さ、とかとか。

で、個人的にも従来は、そのような効率性原理主義でした。

でも、最近、ふと「めんどくさい(遠回り/手を煩わせる)」ということが大切な時もあるような気もしないでもない、と思う時がある。

たとえば。わかりやすい例で言えば収納。

机の周りに全てをおいておけば便利である。しかし、そうすると机の周りがモノだらけになる。

あまり使わないものは、戸棚へ。あるいは収納へ納めておく必要がある。

あるいは靴。靴をメンテする人がいる。

汚れを落として、ワックスを塗って、ブラシで磨いて。

これって、使い捨ての靴には必要ない。メンテはめんどくさい。でも、このメンテが楽しかったりもする。

あるいは、手巻きの腕時計。毎日まかなければいけない。非常にめんどくさい。

でも、その巻くことが自分にリズムを造り、ロイヤリティを高める。

このような「手を煩わせる感」というのが、味があるというかなんというか。

これってば、心理学的に言えば、恋愛にだって(わがままを評価する)、買い物にだって(手に入らないものほど欲しい)起こりうる。

もちろん物語(映画/小説などなど)だってそうだ。障害がある方が盛り上がる。

料理だって、「手の込んだ」という前提が、味という本質よりも価値を持つ場合があるし旅行の「行くのが大変」というプロセスに重視をおく人もいる。

こうかけば当たり前で、だから?となるのだけど、効率性原理主義者としては、実はこういうことが「なるほど」という発見だったわけです。

A地点からB地点までをタクシーと自転車でどっちが早いかを考えるよりも、時には散歩することの方が価値がある、ということにやっと気づくような(誇張あるけど)。

もっと言い換えるならば、不便性の美学というか。

たとえば、モノって多くを持っている方がいいわね、と考える価値観が戦後とかはあったかもしれない。

でも、これだけモノが溢れる現代では「モノがない」ということの方が、実は尊いんじゃないか、なんてことを思ったりする。

たとえば、どこまでモノを減らせられるか、というような。あるいは出来るだけ少ないモノで効率的に多くの用途を満たせるかというような(例:十徳ナイフ)。

そんなことを思いながらモノをどんどん減らしていったりする。本ってないのは不便だけど、iPadで代用できるならば、そっちを取るというか。

カロリーだってそうだよね。陳腐な例だけど、平安時代などはふくよかな方が美しいとされていた(最近までだっけ?)。でも、過食(手垢にまみれた表現)の現代においては、逆にカロリーコントロールできた方が素敵な感じとされることも多い。

つまり、「めんどくささを除外すること」に文明が進んでいるからこそに、その逆行の方が尊いという見方もあるというか。

なーんてことを思って、今日はトランクを捨てた。

安上がりの幸せ

今日、靴下を干すハンガーを新調した。
元々はプラスチックのものだった。引っ越しした時に、とりあえずで買った一品だ。色もイマイチだったがリニューアルまで至らなかった。
しかし、先日、太陽の光を存分に浴びたソレは、いつしか朽ちていった。パラパラとつまむところが落ちていった。
こりゃいかん、と新調した。
ステンレスのシルバーの一品。雨にも強いし、色も、タオルハンガーと同じだ。気持ち良い。
これで靴下を干すのが少し楽しくなった。
小さな幸せ。
村上春樹は「小確幸」という概念を提唱していた。
「小さな、確実な、幸せ」ということで、例示として「早朝のまだ誰もはいっていない、静かなプールで泳ぎだす一瞬」などを上げていた。
そのような小さな幸せは、時に静かに人生を色付ける。
大きくはないし、イベントではないし、人と共有するものでもない幸せなのだけれど、そういうものたちが人生を結局のところ彩るのだ。
毎日結婚式が行われるわけではなし、毎週運命の出会いがあるわけではなし、毎年家を買うわけではなし。
そうではなく、日々に埋もれる小さな出来事の総体を人は人生と呼ぶ。
たとえば、個人的には(前も書いたかもしれないけれど)、休日に朝シャワーを浴びて、外に出ると、初夏の風が吹いていて、そして太陽がまだ強く差さないけれど暖かく降り注ぐ頃の光を浴びるということが好きで。
あるいは、ブランチのコーヒーの匂いや土曜日夜のカウントダウンTV(最近は見ることもなくなってしまったけれど)や、映画の予告編やそんなものが小さな幸せだけれど、欠かせない幸せだったりする。
そして、どれだけそのような小さな幸せをかき集めることができるかが、モチベーション管理にも繋がるのではないかなぁ、と思ったりする。
宝クジで1億円をあてる幸せを願うより、朝食べるフルーツトマトの冷たさに幸せを感じる方がなんだか健全だ。
よく考えれば、私がマラソンを続けているのも、終わった後に飲む水のうまさのお陰かもしんない。

乾杯

かつて、とある人たちとお酒を飲む機会があって。
その時に乾杯を「サルー」と言う人がいて。
「スペイン語だ」というと「常識だ」と仰る。
「イタリア語と英語は?」と聞くと「cin cin, Cheers」と言う。
「凄いやん」というと「常識だ」と仰る。
よく聞いてみたら、六本木の高級飲食店でサーブをしているそうだ。
得心した。ネタを明かせば枯れ尾花。
それで、乾杯に関するコネタを思い出した。
ドイツ語で乾杯は2種類ある(3種という人もいる)
「Prost」「Zum Wohl」の2つ。で、ニュアンスももちろん違う。
そこでこのエピソード。
ある日本人の女性とドイツ人の男性がいた。Webで出会った2人で、ドイツ人は初めて日本にきた。観光だ。
リアルで初めてであった彼と彼女はいい感じで交流した。しかし、お互い、お互いの気持ちはわからない。
帰り際、最後の晩餐でドイツ人と彼女は乾杯をした。
ドイツ人は「Zum Wohl」といった。乾杯は「Prost」だと思っていた彼女は「何が違うの?」と訪ねた。
彼は回答しなかった。
ドイツ人が帰った。彼女はその意味をわからなかった。
しかし、その後、彼女は教えて!gooで違いを知る。
以下のような違いを。

PROSIT は豪快な感じなんです。
大きなビアジョッキをカツーンとぶつけあって太ったドイツのおじさんやおばさんがガハガハと笑いなが
ら陽気に飲み合う感じ。
しかし、灯りを少し落としたムーディな場所でステキな異性とのデートのような時にはおいしい白ワインでしんみりと恋を語りたいものですからそうした場合にはZum Wohl  なんです。
この場合は、チン!とグラスを鳴らしあった後、かならず相手の目を見詰め合って(恋人や異性でなくても)にっこりと微笑むのがマナーです。

乾杯の言葉の違いで、ちょっとした思いを伝えるってのが小粋だと思ったわけですが。
なお、こちらの挿話はここで見かけたネタを脚色してアレンジさせてもらいました。
ポイントは「乾杯の言葉の違いが見方の違い」って面白いわね、と思った。
ちょうど、「男性が自分に対して興味があるかどうかをアンパイに調べる方法」という命題を2件ほど別々で耳にしたことがあるので、こういうことをふと思い出しましたとさ。
あと、そういえば、先日、満員電車の「記事」を書いた後で、「男性が痴漢のえん罪に」というネタを耳にした(映画にもなったよね)。
で、現状、男性がもし疑惑をかけられた場合、自己の潔白を証明する方法は第三者の証言以外はほとんど難しい。
で、そこで「何かないのかな?」と考えていたところ、こういうことを思いついたのですがどうでしょうか。
痴漢をしている人は性的興奮を覚えていると仮定する。
そして性的興奮を覚えている人は平常時と異なった何かがあるとする(それが前後3分くらいは継続すると仮定)。
ならば、「痴漢です!」と言われた人で、黒の場合とシロの場合で、その差分をチェックすればいいんじゃなかろうか。
たとえば「ドーパミン」とか(可視化できなさそうだけど)。もっと分かりやすい方法もあるけどうやむやにして終わらせる。

音楽に泣くということ。

昔、音楽を聞いて、涙を流した人がいた。
それは歌詞の力だった。初めて聞く曲なのだから。
でも、それを見て「音楽は力を持っている」と思った。
またある時。車に乗っていた。
週末の六本木通りだった。ラジオから音楽が流れた。
Day Dream Believerだった。個人的にとても好きな曲だった。
横に座っている人がそれを口ずさんだ。
なんだか今度は自分が涙腺が刺激された。
別の話。
坂本龍一が若い頃は、邦楽をほとんど聞かなかった。
でも、ある時、北海道だかどこかに仕事にいってゲームセンターにいる時のこと。
音楽が流れ出した。それを聞いた坂本龍一は涙した(確か)。
中島みゆきの曲だったそうだ(うろ覚え)。
音楽は、記憶を揺さぶる。
それは時に歌詞によって。あるいは、海馬に埋め込まれていたメロディによって。はたまた、遺伝子に組み込まれたリズムへの同調によって。
その時、僕はモロッコのカサブランカにいた。
宿で出会った人が英語を学ぶモロッコ人の女優だった。彼女に連れられて、同行者と「その人の師匠」がいるホテルに遊びにいった。
上海の浦江飯店のような伝統と古さがこびりついたホテルだった。フロントの前には、大きなフロアがあり、そこがバーになっていた。
ピアノの生演奏があった。そこから、Let it Beが流れてきた。
遠く異国で聞くその曲は、それはそれでいつもと違うシナプスを刺激した。
またアフリカのガーナにあるケープ・コーストという場所にいた。
エビが美味しい街だった。海辺だった。奴隷時代の面影を残した街だった。
そこで、夜、マラリア蚊を気にしながら道を歩いていた。
すると、道ばたで踊っている人たちがいた。
道にウーファーを出して、がんがんに音楽をかけて、渾身の笑みで彼らは踊っていた。巨体を揺らしながら、そして太鼓を叩きながら。
村上春樹のスプートニクの恋人に出てくる太鼓はこんなリズムだったんじゃないかと思えるほど誘われるような響きだった。
遠目に長めながら、私はその光景を7年後の今思い返す。
小説でいえば、伊坂幸太郎の小説に「ボブディラン」のBlowin’ In The Windが使われていたものがあった。
その曲を一時期、帰宅途中に集中的に聞いていた。今でもこの曲を聴くと、六本木一丁目から六本木に抜ける坂道を思い出す。
アメリカにいる時に同級生に台湾の方がいた。
その日は初夏の気持ち良い日で、カリフォルニアの光が教室に差し込んでいた。控えめにいっても、とても気持ち良い午前だった。
卓上には、カフェテリアでいれたコーヒーと、幅の広いルーズリーフが置かれていた。先生を待っていた。
突然、彼女が「夏の思い出」を歌い出した。
夏が来れば思い出す遙かな尾瀬遠い空、と。
なんだと混乱しながら、その素朴なメロディが頭にこびりついて、今でも離れない。
音楽って素敵だわね、と思う。