サハラ砂漠という地獄を渡るまでの道のり

さぁ。アフリカの話をしよう。
時は2003年に遡る。季節は夏。私はイタリアのローマ空港で買ったミネラルウォーターを飲んでいた。
そこからモロッコのカサブランカまでは数時間。機内食さえも手に付ける必要のないほどの時間だ。これから待ち受ける受難を知ることもせず、ただ気楽に本を読んでいた。確か、南アフリカで買ったAGウェルズの宇宙戦争だ。南アフリカはイタリアの前に行っていたのだ。
カサブランカに降り立ち、迫り来る熱風を全身に受けた。この感覚はどこの異国の空港でも味わう妙な感覚だ。その国の空気が体に染み渡ってくる。ハワイやブラジルなど南米の国では尚更、その空気は重い。
しかし、早速、トラブルに合う。アフリカではトラブルなしに旅を語れない。旅はトラブルの花言葉ではないかと思うほどだ。
何がトラブルだったか?それは私がイタリアからモロッコまでの片道切符しか持って居なかったことだ。普通に旅行をしている場合、ほぼ往復切符を買うので意識をすることはないが、一般的に片道切符しか持って居ない場合、現地の空港で入国をさせてくれないことがある。
なぜなら帰りの切符がないということは、「帰るつもりがない」とみなされるのだ。たとえ陸路で違う国から出るといってもお役所にはそんな言い訳は通じない。もっとも、これも交渉次第ではあるのだが。私自身、同じトラブルをすでにコロンビアで経験した。しかも陸路で。陸路でさえも帰りの切符がなければ入国させてくれなかったのだ。その時もゴニョゴニョとなんとか乗り切った覚えがある。
ちなみに片道切符で入国できる国の情報は、それゆえに貴重である。4年前当時で「イタリア」「エジプト」「タイ」がOKだった。それゆえに、エジプトはパッカーの拠点にされやすいのだ。ちなみにNGの国の場合は事前に往復切符を買うはめになる。そして、突撃してNGの場合は帰国させられるというとんでもない事態になるので要注意である。
日本人だからといって、不法滞在をしないと見てくれないのだ。そんなに世界は甘くない。
さて、今回もゴネルしか仕方がない。ここからイタリアに追い返されたところで泣き寝入りである。コミュニケーションという名のネゴシエーションは旅で求められる。まず言葉がわからないふりをする。適当な国ではそれでパスできる。次に、適当な旅券を見せる。英語で書かれているものだと、相手が英語を理解しない場合、それで通る場合がある。「ほら、これ出国チケットだよ」と。まぁ、でもこれでパスできることは少ない。ただ、某国では、日本の免許書を「ジャーナリストパスだ」といって、入れないところも突っ切るという荒業が使えたので、覚えておいても良いのかも知れない。
次に交渉手段はもうゲンブツである。「ほら、キャッシュこんなけあるやん。出国するってば」と。しかし、それでも、なかなか動いてくれない。奴らとしてはここで私をGOさせることがリスクであり、そんな無駄なリスクを取ることはないのだ。しかし、私とて、交渉しないとサハラ砂漠を渡れない。
次にカード。しかも、靴下に縫いこんだカードを提出。ついでに、ちょっと声を荒げ周りの人たちを呼ぶ。これにより、担当者のリスク分散をしてあげる。そこから待つこと1時間、なんとか入国を完了し、すでにへとへとの私がいた。
これから向かうのはモロッコの南にある町「ダクラ」。ここがサハラ砂漠への拠点となる。ここからモーリタニアのヌアクショットという町まで900キロをランドクルーザーで走りきる。
しかし、ダクラに行く前にすべきことがある。それがビザの申請だ。これも普通に旅行をしている分には意識することがないが、バックパッカーをする場合は欠かせない知識だろう。受験勉強における漢文の書き下し分のように欠かせない一品である。
旅先では旅行者たちが出会えば、まずビザの情報を交換する。なぜなら、ビザの情報は非常に流動的であり、同時に「あやふやなもの」だからだ。そして、さらには大使館によって取り易いビザと取り難いビザがあるのだ。さらには入国地点によっても入りやすさが違うのだ。
たとえば、当時、イスラエルの入国が急に厳しくなっていた。そのため、OKな日本人とNGな日本人が表れていた。また、アフガニスタンへのビザは各国によって取得状況が違う。基本は「隣国は敵だ」という概念は世界でも共通であり隣国でのビザ取得は硬い場合が多い(一般化はできない。印象である。)。そこでアフガニスタンに入るには、トルコで事前に取っておくのがベストだった(あいまいな記憶)。隣国のイランでは、なかなか取得できなかった覚えがある。また、タイのビザなどにおいては遠く離れたトルコが一番取りやすかった記憶がある(これもウロオボエ)。
まさに、ビザは旅における欠かせない通行手形であり、同時に頭を悩ませる呪詛である。しゃかりきに情報を集めて、戦略的にかんがえてこそ、やっと旅の最短ルートを導き出せることができるのだ。
ともあれアフリカでは特にビザが必要な国が多く、もし、取りそこねると先に勧めないというパズルな状況に陥るのだ。冗談ではなく、非常に厄介な話である。想像したまえ。北海道に入ろうとしたら「沖縄でスタンプもらってこい」と言われるようなものである。その数倍のスケールを想像してもらい、陸路が200倍くらい悪路ということを想像してもらったら良いと思う。
かくゆえにアフリカは旅がしにくい。それゆえに手付かずの地域も多くありエキサイティングなのだが。
さて、カサブランカでモーリタニアのビザを申請し、出来上がるまでに数日間、カサブランカで時間を潰すことにする。この日数も厄介で、相手によって代わる。とりあえず頼み込むしかない、という現状である。国によってはエクスプレスパスがあり、金を取られる。やはり、地獄の沙汰も金次第なのだ。
さて、モロッコは日本でもモロッコ料理があるためにご存知の方も多いだろう。クスクスと呼ばれるパサパサの米のような食べ物に土鍋も有名だ。しかし、中には「なんかの肉」が入っており、詳細は不明である。
そしてホテルの広場のテーブルでゴロゴロと新聞を読んでいると、妙齢の女性が話しかけてくる。
聞けばモロッコの女優で英語を勉強したいらしい。たまたま、私がヘラルドトリビューンを読んでいるのを見かけて声をかけてきたそうだ。このホテルには英語が喋れる旅行者がくるので、彼女にとって英語の先生を見つけるための堀なわけだ。
時間があった私は、話にのった。しかし、何が大変というと英語を喋られない人に英語を教えることの難しさである。いくらアラビア語を少しやったからといって、アラビア語で教えるのも一苦労。しょうがないので、身振り手振りも合わせながらヘラルドの記事を解説していく。
「これ新手のつつもたせでは?」なんていう疑惑もありながら、まぁ騙されたところで今は金もないし、という気分で付き合うこと数時間。
夕食の時間になり、夕食に行こうということになった。ついでに彼女の先生を紹介してくれるという。以下、飽きたので略。
そして、無事、ビザをゲットし、一路、南下することになる。バックパッカーにとって最難関の地と呼ばれるサハラ砂漠。そこに待ち受ける地獄も知らないで。
以後、気が向いたら書きます。

ネットで人生、変わりましたか?

ネットで人生、変わりましたか?
岡田 有花 ITmedia News
ソフトバンククリエイティブ (2007/06/01)
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業界では知らぬものはいないIT戦士とは「ゆかたん」こと、岡田有花氏のことには間違いない。
そのゆかたんさんの今までの記事は総結集。ITで人生変わった人々がこれでもかと、ゆかたんさんが紡ぐ春の調べに乗って語られています。田口さんも書かれていましたが、インタビュー術を学びたい人にとっても間違いなく有効なのではないでしょうか。
メンツは、はてなの近藤さんや家入さん、ギャル社長、字幕inの中の人、ブサイコ、GREEの田中さんなどてんこ盛りで今にもあふれんばかりの躍動感ではちきれそうです。恐縮ながら、わたくしめもチラっと掲載して頂きました。
そしてもちろん1人Xmas特集も必見であり、これを逃すと人生を損をする。
まえがきには「本書はネット礼賛本ではありません」と書かれているように、ネットは負の部分もありながら、それでもやっぱり大きな力を持つネット。その意味を個人という視点から解き明かしてくれる一冊です。
まさに「ネットとは何なのか」という言葉に集約されているような。そして以下。

ネットのない時代にはもう戻れません。だから「ネットのせいで世の中が悪くなった」と嘆くことはしたくないですし、それにはあまり意味がない。

ここを読んで思い出したのが、宮部みゆきの「龍は眠る」。確か主人公の女の子は超能力者で、運命と戦うわけでございます。そこで戦いまくってへこみそうになります。で、なんか、負けるのが運命という流れになったのかな?そこで、彼女が自分に呟いたのが「運命なんて戯言だ。それじゃ生きてる意味がない」という言葉。解説ははしょりますが、非常に深いセリフです。
それと同じように、ネットは「悪」とか「すごいとか、あるいは「だめだ」とかそんな言説っていうのはやっぱりあまり意味をなさなくて。あくまでも、自分にとってネットとどう向き合うのか、ってのがやはり大切なんでしょうなぁ、とか改めて思った次第で御座いました。
以下もどうぞ。

人生に期待しすぎなんじゃない?

これもなぜかリストに書かれていた。
これって僕が書いたのかしら?あるいは誰かに言われたのかしら。誰かに言われるにはいささかヘビーすぎる言葉で、そうそう忘れることはないので自分で書いたのかもしれない。引用かもしれない。
少なくとも1年以上前に書いたものだ。
さて「人生に期待しすぎなんじゃない?」という命題はなかなか興味深いお題である。
さて諸君。諸氏は人生に期待しているだろうか。あるいは夢見る頃は過ぎてしまったろうか。
何か困った時、人生は絶妙な按配で、絶妙の采配を下す。信じられないような「奇跡」とでも呼ぶべき僥倖により救われたり、結局何も起こらず寧ろ泣きっ面にクマンバチの状態か。いずれせによ、つまりは確率の問題の領域を出ることはない話。
ともあれ、しかしそれと人生に期待することとは別の事象として存在する。人生で何が起ころうと、あるいは何も起こらないとしても、それはあなたがどう考えるかとは別の次元の話なのだ。
人生は期待すべき価値のある対象か、という命題も派生して興味深い話である。人生が陳腐でちっぽけならば、期待すべき対象ではないけれど、そもそも人生が雄大で広大で壮大だったとしても、そもそも人の期待なんて何かを期待するものを持たない動詞なのかもしれない。いずれせによ、これは検討するプロセスは興味深いとはいえ、結果が面白いものにはならない。期待すべき対象であろうとなかろうと人は生きていかねばならぬのだ。結果によって行動が変わることない命題は答えを出すべきじゃない。そんな人生短くない。
さて話を戻すと「人生に期待しすぎなのか?」。ここで興味ぶかいのは「しすぎ」という言葉である。つまり、節度の保たれた期待ならば、それはそれで期待しすぎとはならない。臨界点を超えてこそ、やっとその期待は成り金となれる。これを検討するには別のアプローチから考える。
「したいことをして生きられるのが幸せだ」という言説を最近、いろいろなところで目にして。これはある種の期待である。それが幻想かも知れない可能性は認めない。そもそも、実現可能性を検討しないままにそれを受け入れることも期待である。
結論としては人生はそんなに甘くない、というのが共通見解だろう。誰がなんといおうと人生は甘くない。これは自明の理でありギリシア時代から自然界三大前提の1つである。疑ってはいけない。さりとて「人生が甘くない=したいことをして生きる」是非はまた別だから話はややこしい。個人的には最近、これに懐疑的で、人生とはしたいことをして生きるほどもったいないものはないという気がしている。人生とは、やはり「すべきことする」の方がとてもしっくりくるのだ。それはしたいことではなかったとしてもすべきことであればすべきである。そういう心持が強い。もっともこれは主観であり、なんのファクトでもない。
ただそのスタンスで見れば、人生に期待することはない。なぜなら、期待しようとも期待をしなくても、結果が変わらないからだ。すべきことをする以上、人生が優しかろうと厳しかろうと、そんなの所与条件としてとっぱらっちまえ、となるわけである。
ふむ。つまりこれは主観をベースにした人生に期待の無効化とでも言おうか。それにより落胆のリスクヘッジというかモーターサイクルダイアリーズというか。
完全に個人のメモ書きになってしまった。

もうすぐ夏だ

あの頃はまだ知らなかった。湿った木の生い茂る神社の裏側で、僕はただ無能に夏の日差しを浴びていた。木に打ち付けられた紙の「わら人形」が何をするかなんて意味を知らなかったし、その子供にとっては知ったところで何も人生に寄与する話でもなかった。ただ、永遠に続くような蝉の鳴き声。そして、もはや町中に立ち上る蜃気楼。くらくらしても、水なんていらなかった。声をからしてボールを追いかけまわっていた。無論、そんな時間は長くは続かない。世の理の如く、時は流れ、人に死に、夢は霧散する。木っ端微塵。それでも、子供ゆえの傲慢さと、そして怖いもの知らずの単細胞。その歯車が回っている限り世界は自分の手の中でまわっていたし、彼にとっては実際そうだった。まるでざりがにを釣り糸で釣るように、世界はチャチで飄々としていた。悪くなかった。
 夏がいつの日からか顔を変え始めた。朝顔という言葉を聞かなくなって久しくなってからだ。朝顔の水遣りに言った日々を今、懐かしく思い出す。もはや池とは言わない干からびたデカイ穴をただ、友達と眺めていた。時々石を投げながら。恋という言葉さえも知らず、知っていたところで彼らにとっては邪魔なものだけだった。世の中の万事は適材適所で動いている。あなたが知ろうと知らまいと。誰が転校してきても、誰かが転校していっても吉本隆明が転向しようともどうでも良かった。そんなの3日と持たない刺激。刺激を求めて犬を追い掛け回し、こおろぎを飼う様な。そんな夏はいつしか水着とビールの夏になる。カブトムシはもういない。かたつむりもいなければ、カブトガニだっていない。道頓堀にも、筑後川にももういない。稲穂が色づくころにはそんな夏も色あせて来るべき冬の憂鬱さと見たこともない空の重さ。そんな日々の中で夏の思い出は磨耗してゆく。
 夏が全てだったとは言わない。しかし天主が作った造形物の中では秀逸なるものなのだろう。夏を造形物といわないのかもしれないが。いずれにせよ太陽は罪なるもの。そして神の共犯者。愁嘆、悲嘆、嗟嘆と人の嘆きと鬼胎を屈託することもなく狼火をあげる。根本から震源から禍根さえも燃えつくすような情熱で底なしの時間が平々凡々な日々に上乗なる時間を上乗せする。六日の菖蒲と目ぼしいものなんて肝心要のベンベルグ。
 それくらい夏とは雄大だった、てことだ。

20年間、歌を聴かなかった人は歌を理解できるのだろうか?

Checkpadでブログのネタというリストを1つ作っていて。ブログに書きたいことを思いつきでメモっている。
その中でこんな一文があった、「20年間、歌を聴かなかった人は歌を理解できるのだろうか?」と。
これは自分で思いついて書いたのか、どっかからの引用なのかわからない。いつ書いたかさえも覚えていない。
でも、土曜日の朝もやけの中、なんだか気になる一文だった。
20年間、歌を聴かなかった人は歌を理解できるのだろうか?
なんだか枡野浩一の詩みたいだ。
どうなんだろう。有名な話では、外国人は「虫の音」を理解できないとのこと。いわゆるこおろぎとかの虫の音(むしのね)と呼ばれるものね。
なぜなら、そんな風に聞くことを習ってきていない、あるいは聴いて育っていないから。彼らにとってはノイズにしか聞こえない。
それを応用するならば、きっと20年間歌を聴かない人は歌を声にしか聞こえないのかもしれない。
ロックを殆ど聴かない人がロックを理解できないように。あるいはヘビメタだってジャズだってクラシックだって構わないけれど。そういう音楽ってのは慣れることによって理解できる。伊坂さんの「砂漠」でもそういうフレーズがあった。
ではこれを応用しよう。
20年間、恋をしなかった人は恋を理解できるのだろうか。
これは非常に難しいテーゼである。
恋はすべからく普遍的で平等たるものなのか、あるいは相対的なもので自分の鏡となりうるのか。そんなもの論証できないが、ただ人間の生物としての偉大さを考えれば、恋=生殖活動と考えるならば、前者なのかもしれない。
ではでは、さらにこれを応用しよう。
20年間、死ななかった人は死ねるのだろうか?
これはジョークでもなんでもない。これの意味するところは「20年間、死というものを意識しないで生きてきた人が、いざ死ぬときに、その死をちゃんと受け入れられるのか?」ということである。
春樹大先生曰く、「死とは生の対なるものではなく、生に含有されているものなのだ(うろおぼえ)」である。つまり死は行きながらこそ、それをちょっとづつ身にしみこませていくのである。良かれ悪しかれ。
しかし、その死について考えなかった人は自分の最後をそれはそれとして認識できるのか。もっともこの問いを考えるには、そもそも死を身近に考えていたところで、死ぬときはやはり死を理解できないのと同じことで、どちらにせよ結果は同じ、という問題もあるのだが。
興味ぶかいジョークとして、このようなアイロニーがある。
「この世の中で、死は存在しない。なぜなら死んだ人の話を聴いたことがないからだ」というものがある。
これは真である。臨死体験とかはあるが、それはあくまでもも「死の一歩前にいっただけ」であって、死とは「帰ってこれないこと」である。つまり、死んだ人は存在しないのは、定義上、必然なのである(死と「帰ってくる」はいわば背反関係にある)。
そう考えると、死を理解するのはそもそも不可能で、せいぜい体験できるのはキルケゴール先生のいう死の香りがする絶望くらいである。
そう考えると死について考えるのは、いささか厄介な話になってくる。なぜならその効用が見えないからである。効用が見えないものは、諸刃の剣である。いつしか自分にその「無化」された行為が帰ってくる。つまり、「私は一体何をしていたというのか」という自省がその一端だ。
では考える必要ないかというと、それはいわゆる価値観の問題なので、答えはでない。しかし、考えるということはその行為を自分で取り込むということである。いわゆる最近、明らかになった「モノマネ細胞(通称)」の存在をみよ。たとえば、ピアノを弾いている人を見ると自分がピアノを弾いている状況と同じになるように(脳波などが)、考えること、見ること、想像することは、すなわち行為を疑似体験するということである。そう考えると、やはり、考えたところでそこにたどり着かないとしても、少しは近づけるのではないか(これは仮説である)。
そうすると、逆に考えれば死を考えすぎることは、死んでいくのと同義。それは固体の維持という人間の本能から考えて避けたいところ。じゃあ、どうすればいいかというと、どうもしなくていいわけで20年間夢を見なかった人でも電気羊の夢は見る、多分。

個人的に好きな動画をいくつか

先日、ちょっと動画を調べる機会があって。で、わたくしめの最愛の広告であるApple、ThinkDifferentのかのCMを見つけた。
 
 CF クレイジーな人々へ (いけいけどんどん)
いままで外国版(本家版)はあっても日本語の奴がどうしても見つからなかったので欣喜雀躍エビぞりぎみに喜んだわけでR。いやー、このときほどYouTubeに感謝したことはないよ。
ということで、ついでなので個人的に気になる動画を自分用のメモとしてまとめてみた。たまにみかえしちゃうんですもの。では以下より。今回は主に泣ける動画系。
■テンションを上げたい時に:Appleの伝説のCM

こちらがかの伝説のCM。見たもののアドレナリンを爆発させ日本を混乱の渦に陥れたと言う(嘘)。でも衝撃だったなぁ、見たときは。でも、改めて日本語版を見ると本家版の方が良いかも、なんて思ったりして。LAでお世話になったパンチョさんはこの声をWindowsのたちあげの音声ファイルにしてはったような。
■人生に疲れたときに:あるダンサーの一生

これもYouTuberの中ではデフォルトに有名な動画ではないかしらん。違うかったらごめん。でも、しばしばそこらで紹介されているのを見かける。ただ踊っているだけの動画。たしか、家入さんがこの動画に関して「涙がでる」とブログで書いて張ったが、強く同感。ハハという笑いから、えもしれぬ慟哭が襲ってくるのだ。
なんか「がんばって生きよう」と強く思わせてくれる一品。疲れたときに見ると元気がでる。
■号泣したい時に。:世界一強いパパ

これは参った。涙腺叩きつけられた。とはいえ、この動画がピンとこない方もいらっしゃるかと思うけど。個人的にこういう寡黙なハードボイルドに弱い。いや違うな、何なんだろう。この動画が伝えるのは。これも形容しがたい感情が刺激されるのかも。音楽も素敵。
■親子愛関連:ありがとう

これも泣ける動画として有名なCM。明治安田生命。小田さん素敵。このCMを見た人は7割の確率で、この唄を口ずさむ(原田調べ)。上のパパさんと同じ系譜か。
■恋愛したくなる系:君を待つ

たまたま見つけた動画。ミュージッククリップなんだけど、動画素敵。なんか恋愛っていいよね、というかなんというか。ボーイズビーというか。アニエスベーというかなんというか。唄に関しての評価はいちおう差し控えさせて頂きます。
■スポーツ好きな人へ:ジョーダン

だーいぶ前にサニーかの日記で知った動画。上を見てから下を見るとベストとのこと。えせバスケットマンだった原田としては思うところ多し。そういえば2年くらい前にスラムダンク全巻を大人買いして一気に読んだけど、今でも余裕で泣けた。すげえ。

■クールっていう形容詞を学びたいときに:ミリオネア

これは、はてぶとかで有名になっていた動画。改めて。アメリカ(イギリス?未確認)版のクイズミリオネアの1シーン。かっこよすぎる。映画みたい。と、ありがちな感想。
というわけでメモでした。

西尾維新の「戯言シリーズ」を今更ながらに全部読んだ

いや、申し訳ない。西尾維新フリークとしてお恥ずかしい限りなのだけれど、戯言シリーズをやっと通読した。今まで、断片的に読んでいて歯抜けがあったのだけど、今回、やっと全部読みきった。

CF
2006年、原田の眉間を刺激した小説12冊 (いけいけどんどん)

しかし、メモを全部実家においてきてしまったので引用できず。無念。

で、この西尾氏は「ゼロの波の新人」の1人と言われているだとか。もう2人はこのブログでも何度か紹介した舞城王太郎氏、そして佐藤友哉氏。個人的には佐藤友哉氏の本はいまいち肌に合わない。全員、メフィスト賞受賞だっけ?違ったらごめん。いわゆるミステリの若手。2000年以降にデビューした人たち(で合ってる?)。

高木氏いわく「物語中に重要な人物がすぐに死ぬのが凄い」と2年くらい前に言っていたのが改めて実感。「え、なんでこの人しぬん?」というようなシーンが多発。ある意味、文学に挑戦しているという意味では、メタ文学。

主人公成長物語としては、ドラゴンボールの系譜に入れてもいいのかもしれないけど、まったく違うのは、その容赦なさ。ざくざく死ぬ。えげつないくらいに人が死ぬ。それは爽快でもあり、同時に、なんだかすごい違和感を残すという点では、新しいインパクトがある。

で、西尾氏自身が言っているように森氏の影響が垣間見える気もする。天才大好きなところとか。あと、ジョジョの影響がいたるところに散見できる。登場人物の形容詞に「ディープパープルみたいな人」という言葉は小説で始めて見た。あと、「幻影旅団」の名前とかも、にやりとされる。うまいよなぁ。この辺のサブカルじゃないけど、なんつーか、カルチャーごった煮?「わかるよ」みたいな。どうでもいいけど、富樫氏のレベルEでも、筒井康隆氏のオマージュが含まれていたのが懐かしい。ちなみにジョジョの荒木氏も筒井氏が好きとなんかで公言していた。

こう考えると、宮部みゆき氏の偉大なる箴言「僕らは時代の子だよ」という言葉に首を垂れるしかない。いつだって我々は、知らない間に、巷に溢れる文化に埋もれていきているんだ。それこそガンダムだったり、ドラゴンボールだったり、ドラゴンクエストだったり、ロードオブザリングだったり、宮崎駿だったり。

今更僕が言うまでもないけど、ミステリ好きの人は必読ではないだろうか。今後ますますファンは増えるのかしら。もうピークは過ぎたのかなぁ。個人的に「りすか」はイマイチ肌に合わないのだけど。

これを新しい文学の潮流と呼べるのかしら?それは専門家に任せたいところだけど個人的には気になる。というか文学はどこまできているのかしら?浅学なものでわからないや。近代文学史はあれだよね。戦後でひとくくりにしちゃっているよね。国語辞典とかは。で、60年代で思想系はひととおり終わったんだっけ?その後にはもう荒野になっちゃったところにW村上だった?ああ、大江健三郎インパクトがその前後にあったんだっけ。ふーむ。わかんないのに言うのはやめよう。赤っ恥をかく。

ああ、個人的に「エンターテイメント小説」の王とあがめる「伊坂幸太郎」氏「石田衣良」氏にならぶ「エンターテイメント」を提供してくれてはるのが西尾さんということも付け加えたい。全力、おもっきりの主観としては。どういうことかというと、もう受けるターゲットをここぞというまで狙い済まして、そして、どまんなかに狙い通りのものをぶち込める人々です。特に伊坂氏と西尾氏に共通するのは、あきれるくらいの伏線。シリーズを超えてのね。それはなんつーか、もう小説とかの括りを超えた芸ではないかと、そう思うわけでありますよ。

ともあれ、パンチの効いた小説を読んでみたい方はいかがでしょうか(注:嫌いな人は大嫌いだと思う。特に読めないと思う。ジョジョ好き、メフィスト好き、ゲーム好きの人ならきにいりはるかも)。

ちなみにシリーズ一冊目はこれ。
クビキリサイクル―青色サヴァンと戯言遣い

ALONE TOGETHERを読んだ

なんか最近、書評多い疑惑。まぁいいか。いつも通り、本多さん。思ったけど、春樹に似ているところ御座いませんか。

ある男性が主人公。終電を逃して泊めてもらおうと彼女の家に行きました。すると彼女にこういわれます。

「今日はどうしたの?」
「人と会ってて終電がなくなっちゃったんだ」

「人?」
「女の子」
「可愛い子?」
「まぁまぁ、かな」
よしよしとうなずいて熊谷は笑った。

そして彼女はこう言います。

「可愛くもない女の子と話しこんで終電を逃すような間抜けはうちに泊めたくない。

ふーむ。

で、次。春樹さん的に言うならばダンスダンスのユキ的な女の子のセリフ。

知らないの?人生って綱渡りなのよ。

タイトロープダンシングって奴ですね。人生が綱渡りかどうかの検証はなかなか興味深いような気がする。まぁ、本人の価値観次第にはなるけれど。でも、綱渡りよりもロシアンルーレットのほうがいいなぁ。

「子供は三歳までであらかたの親孝行を済ませているという考え方もあるそうです。」
「つまり?」
「つまり、3つまでの可愛さで親は十分に喜びを得ている。だから、その後、どんなに子供に苦労させられても、その記憶を頼りに子供を愛する事ができる。

この概念かなりヒットした。すでに2回も他のところで使ってしまった。

~諸事情により略~

「することが変わるわけじゃないでしょ」とサクラは言った。

もっともな意見だったがそんなことを言ってしまえば大概の物語と音楽と絵画はその存在意義をなくす。

あれですよ。「もののあはれ」「をかし」は、もしかするとメタファーから来ているのではないか。あー、そうだ。どっかで引用しただけど、で、いま調べた。あった。「本の読み方 」で書かれていた以下の文。

比喩がきまっている、というのは、提出されたイメージが例えられるべき現実に重層的に対応しているときである。

うむ。つまり、やりまくりたいという言葉を使うならば、それに応じたストーリーが必要だな。それが出来るとそれが芸術になるのではないか。

空の青さに涙を流していられるほど大人は暇じゃないんだ。

そして、涙を流されて困るほど子供でもないんだ(嘘

で、以下はその女の子が下着をデパートに買いにいくということで、ついていかされた主人公の独白。

「正論ですね」と 僕の声はいった。
「けれど、僕の知る限り、人は正論では動きません。

そこが問題。では、それを課題とすると、正論を言い続けると人は動くのかどうか?1つは言葉への耐性が出来るので、もはや効用は隠遁するという説。もう1つは、蓄積された言葉がいつか臨界点を超えるという見方。個人的には後者を信じたいけど、これもケースバイだね。というか、毎回同じ正論を言ってちゃ人間の生理的に耐性が出来るのは間違いないから、手を変え品を変え言葉をかえなあかん。ちょうどこないだ読んだこの本に書いてあったことが以下。ヘミングウェイの話。

「老人と海」を2000回も書き直し、「武器よさらば」の結びを44種類書いたといわれる。少しづつ異なったアプローチを続けること。しかし、やり続けることである。

これだな。

才能というものが自分の力を信じきることできる能力だとするなら、彼女にはそれが賭けていたのだと思います。

深遠なるお言葉ですね。

(どうでもいいこと:自分メモ)目標設定の是非

なんだか、昔を振り返る機会が2連続であった。昨日。
1つは「学生時代の頃の話をしろ」というのだった。もう1つは、OB訪問として大学生3年4年のころの話をした。その延長として自分の過去も色々思い出された。
普段は、めくらめっぽう目くるめくメロリンQな日々で過去を思い出すことなんてまぁないのだけれど。ふと、色々と。
で、思ったのだが、やはり、過去と現在、あるいは未来ってのはそれなりにリニアなのかもしんない。いや、これは見方によっては、いくらでもケイオスになるし、リニアにもなるのだけれど、個人的な感覚としては。
やはり、大学までやってきたことと、大学時代にやったことと、そしてそれと社会人への方向性、そしてその後ってのは、やはり、それなりに「つじつまあわせ」が行われているもので。
とはいえ、それってば人間の本能で上手く「過去を捏造している」や「現在を思いこんでいる」ところもあるから、簡単には言えないけれど、大枠の部分で。
とはいえ、要素要素は、かなりアットランダムである。それこそ、ちょうど昨日読んだ本に書いてあったけれど「量子力学の世界においては物質は突然生まれるものであって、じょじょに誕生するものではない」とかが、なるほどなぁ、と腹落ちするような(ただし、ここでいう量子力学のソレが何を指しているのかしらない。あんまり検証する必要を感じなかった)。つまり、要素要素は、かなりの不確実性をはらんで起こっているのだけど、やっぱり総体で見ればまっとうに進んでいるというか。
いわば最近流行りの「みんなの意見は案外正しい」説に合致するような気もしないでもない。
まぁ、これは当たり前のことを言っているに過ぎない。自分に有る程度の方向性があれば、人生におこるあらゆる選択肢において、その方向性に合致した選択肢をとるわけである。そうすると、ミクロではわけわからんことになっていても、マクロでは直線が引かれている。
ただし問題は、方向性があるかないかである。これこそ、昨今、いくらでも巷で語られる「夢」や「目標」の話になってくるのかもしんない。そういえばこないだ読んだ本で「目標は実現できるもの。夢は実現できないもの。両方設定しておかなくてはならない」と誰かが言っていた。これも、考え方の1つとしては、ありだな、とか思ってみたり。
で、方向性がない場合は、前提が成り立たない。つまり、選択肢の解決方法はその場その場での重み付けが行われる。「イージーである」「金銭的リターンが大きい」「なんとなく」などなど。その結果、マクロの線は別の形を描くようになる。この場合は、目的への最短距離の線ではなく、もっと性格などの揺らぎが反映された線になる。
つまり、ここはある程度、三次元になるのかな。目標という平面でのベクトルはないので、線は点になり、いわばでこぼこしたグラフになる。しかし、別の側面で見れば、例えば性格を反映したグラフで見れば、それなりに年齢に応じた比例のグラフが出てくるようになる。もっともこの場合、縦軸に何をとるかは難しいところだけれど。まぁ、なんというか、そのあ、わかった。性格の面なんだから性格を縦軸にとれば良いのだ。そうすると、年齢に応じて自分の性格を強化付けされていく図が見て取れる。ただし、何かしらの目標を設定して加齢していく人は性格の面においてはランダムな動きを見せる。うむ。
で、これは性格は1例であり、他にも「縦軸を金銭」にしてもいいし、「自己満足」でもいいと思われる。とすると三次元に限らないな。つまり、その人専用のグラフが出来上がるということか。
じゃあ、実を言うと目標ってば単なるグラフの1つであって、別に他のグラフを描きたい人にとっては目標とかいらんじゃない?とか少し思ってみた。ただし、これはどこに視点を置くかで意味が全然変わってくるので、注釈すると、社会的、あるいは歴史的、あるいは日本的、あるいは、資本主義的に言えば、何かしらの目標ある人生のほうが相対的には良いと信じられている。でも、これも今、書きながら思ったけど嘘だな。良いの判断基準がわからないもの。そうすると、ああ、そうか。うむ。そうだ。「目標達成をしたいならば目標があったほうがいい」というテーゼだけが正しい気がする。
つまり、「人生を幸せに生きるならば、目標設定をしたほうがいい」というのは論証できないのでは。まぁ、帰納法でやれば可能かもしれないけれど。だって、さっきのメタファー使うならば、「幸せ」グラフを使って、常に自分がハッピーな選択肢を撮っていけばハッピーになるのでは?あ、嘘だ。これも一概にはそういえない、定義による。たとえば「50年後にハッピーになりたい」という前提をおくならば、「50年後にハッピー最大化」となる目標が設定されるわけで、そうすると、アドホックなハッピーの選択肢が、その50年後の効用を最大化するとは限らないわけだ。なるほど。
ああ、そう考えるとターゲティングは重要ということになるな。なぜならミクロでの選択肢の積み重ねは、常に最大のリターンを得るとは限らないから。そうすると、やはり戦略が必要になってきて(ここでの戦略の定義は、目標達成における選択肢の検討というくらいの意味でいいや)、そうすると、やはり目標がなければいけないのか。ふーむ。こまった。当たり前の結論になった。
んー、なんかないかな。ミクロの決定が常にマクロでの最大効用を産むというような価値観。んーんー。親孝行とかってどうだろう?「自分の人生は親孝行の最大化である」という前提で始めれば、20年後に親孝行最大化するよりも、日々の親孝行の方が親孝行最大化が出来る?いやー、これも論証不可能だな。だめだ。
話を変えよう。
てかねむくなってきたのでまた。

クリエイティブ・クラスの世紀を一気に読んでみた

微妙に話題になっている一冊。

賛否両論あろうが、まぁ、見方の1つと捉えれば有益なのではないだろうか。データの計測方法に疑問は残るとはいえ、あくまでも概念の1つとしては。ただ、クリエイティブクラス、という造語(?)が適しているかは疑問が残る。日本でいう「クリエイティブ」とは少し概念が違うので。思わずネグリの「帝国」論を彷彿させる。ミスリーディングの恐れ。

ここで言うクリエイティブは、ホワイトカラーの一部のクラスターを指す。具体的に定義はイマイチされていない。しかも日本のクリエイティブクラスの例がトヨタだけという無謀試み。これも「帝国」論を彷彿させる。定義が曖昧。いや曖昧じゃないのかもしれないけど、なんか説明しにくい。

とはいえ、一般的なクリエイティブ、つまり「芸大系」とでも言えばいいだろうか。「右脳系」とでも言えばいいだろか、というトレンドも日本では起こっていて、それとシンクロする。ただし、ここでのクリエイティブはこのクリエイティブとは異なる。まぁ、しかし、延長上線には重なる部分もあるのかも。

まぁ、ともあれいつもどおり引用でも。ほぼ自分メモですがご容赦。

アメリカのトップ500社のうち少なくとも50社のCEOはアメリカ以外で生まれている。

ほぅ、というデータ。でもアメリカの人口でアメリカ以外で生まれた人が1割以上いたら笑う。これぞ統計のトリック。まぁ、違うけど。

90年代にシリコンバレーで起業された会社のうち移民が企業したものは30パーセントに達し・・・

ふむ。

「グローバルな才能の磁石」=ロンドン、アムス、トロント、バンクーバー、シドニー、メルボルン

カナダ頑張ってるね。

「グローバル・オースチン」=バンガロール、テルアビブ、シンガポール、台北、北京、上海

テルアビブか。確か行った。嘘かな、結局いかんかったんだっけなぁ。@イスラエル

今後増える職業
・専門的思考
 クリエイティビティや専門的な問題解決力が必要な職業。新しい製品のデザイン、疾病診断、創作料理。

・複雑なコミュニケーション
 デザインやイノベーションといった分野、F2Fで相手にモチベーションを与え管理するといった分野の所得の高い職業。

凄いざっくりしすぎて、あんまりピンとこない。これをもうちょっと分解してくれると面白いデータになりそうなんだけど、多分、作者も思いつきで書いているんだろうなぁ、と邪推。

私たちは潜在的なクリエイティブ資本をせいぜい10%程度しか引き出せていないと見積もっている。

この憶測が入っているのが謎。

移民は概してアメリカ生まれの市民を補完するスキルを持っており「たとえ同じ教育レベルでも問題の解決方法や発想、適応の仕方がアメリカ人と移民労働者では違うので、互恵的な学習が起こりやすい」

ふむ。移民大事。

立地優位性 ロジャーマーチン
 企業が立地による強みを認識し、その強みを発揮する時の方法論に焦点を当てた。

これって社会学、都市学とかで前から言われてなかったっけ?

クリエイティブな人はお金持になりたいがために一生懸命になるのではなく単純にそう理解するのははっきり言って正しくない。クリエイティブな人々をその気にさせるには金銭よりも内発的な報酬のほうがはるかに大事である。これはこの分野における大多数の研究によっても支持されている。

これも前回書いた「すべきだからするのではなく、やりたいからやっているんだ論」に似ている。

90年代半ばまでに科学論文の世界一の生産地域はアメリカを越えてEUが担うようになった。西欧の研究者は22万9000件の論文を書き、アメリカは20万1000件、日本は5万7400件、日本以外のアジア全体で4万2700件であった。

うーむ、どう見るべきか。

グローバルクリエイティビティインデックスによると日本は2位。1位がスウェーデン、3位がフィンランド、4位がアメリカ、5位がスイス。

北欧凄い。日本は一部データがなかったはず。本書参考。

個人的メモ。P.204 ブランド国家論の参照

で、これに続いて、同じく「クリエイティブクラス」の特集を組んでいたハーバードビジネスレビューを読んでみた。ざっと知りたいだけなら、この雑誌で良いのかもしれない。

Harvard Business Review (ハーバード・ビジネス・レビュー) 2007年 05月号 [雑誌]

国連の人間開発指数を見ると日本、アメリカ、スウェーデン、ノルウェー、オーストラリア、カナダなどが上位に並んでいます。177カ国の中で中国とインドは81位と126位です。それだけ問題や貧困を抱えているということです。彼らが本質的に競争相手になるにはまだまだ時間がかかります。

これはブランド国家論用のデータ。今日、1年ぶりくらいに「国を作る」夢の理論的裏づけ(そこまで大したものじゃないけど)を話して、色々思い出した。やっぱり、こういう空中戦も好きだなぁ。

Q.日本で自己表現の高まりは見られるでしょうか?

若者の文化やゲーム産業の隆盛を見る限り、かなり自己表現が行われているように思います。

ちょとちょっと、もうちょっと真面目に分析してよ!ここからは「ゲーム産業を見てそう思ったよ」としか読み取れないよ!少なくとも、若者の文化に突っ込めよ記者!モバイルやブログ文化かなぁ。

藤本隆宏氏が指摘しているように、日本はモジュール生産のような分業型事業よりも、「すり合わせ(インテグラル)型」の事業に強く、これが国際競争力の基盤になっていること。

ほう?これの概略はたしかはしょられていた気がする。あ、これって、単に加工貿易のこと?違うよね。マッシュアップ型事業ってことかな。ちょと気になる。

日本版LLPの特徴は3つある。「有限責任」「内部自治原則」「構成員課税」

最近、LLPが微妙に気になるお年頃。

このようなeランスエコノミーはとっぴな仮説どころかすでにさまざまな形で現実化しており「リナックス」の開発はけっして特殊な例ではなく、インターネット事態の発展と共に一般化していくだろう。バーチャルカンパニーの登場、アウトソーシングや在宅勤務の増加、フリーランスや臨時労働者の急増も顕著であり、また大組織の内部における臨時プロジェクトチームの重要性の高まり、社内起業家の増加、事業ユニットの独立なども1つの現われなどと言えるだろう。

データが欲しいところ。まぁ肌感覚ではわかるけど。

このような集団はコーホートと呼ばれる。顧客のエイジングに合わせてブランドを変えながら絶えずコーホートのニーズに合致させていく。我々はこのアプローチを読者と一緒に成長していく魔法使いの少年になぞらえて「ハリーポッター型マーケティング」となずけた。

だそうです。

結論としては、話のネタにはいいかもね。でも、この論文だけで、政府が動くには、まだデータが良い気がする。ゲイが多いのと都市の発展性ねえ・・・。カナリアインデックスみたい・・・(鉱山のカナリア数で云々ってやつ)。

ほな