以下のツイートを拝見し、ふと思ったこと。
たしかに、今までは「経済成長」と労働力は相関がある時代だった。人が多い方が、より労働力になり、より経済成長をうむ。
経済大国のUSでも、中国でも、人口はかなり多い。インドの今後の可能性も、人口を元に考えられることが多い。
よって、最近では日本でも「少子高齢化における日本では、労働力としての移民が不可避」といった議論も行われる(ちなみに、この論点自体は、大学時代にも研究をしたことがあって、その場合、日本がもっているソーシャル・キャピタルの観点も踏まえて考える必要があるという学びをえた)。
しかし、今後のロボティクスやAIが普及した世の中では、労働力と経済力が比例しないタイミングがくるかもしれない。実際、イタリアではファッションなどのブランドものの産業が大きくこれは労働力と比例しないモデルが存在していて、別におかしい話ではない。しかし、テクノロジーが一層、その労働力と経済のモデルを変える可能性を持つ。いわゆる「パラダイム・シフト」と古典用語で呼ばれるようなものがくる。
昨今のベーシックインカムなども考え方は近い。ベースになる活きるのに必要な費用は、他の生産性向上によってなりたつのではないか、という問いが重要になってくる。
ちょうど以下の記事でもそのようなことを聞いた。
私は、労働人口が減っても、生産性は下がらないと考えています。それはAIなどのテクノロジーによって生産性を上げられると考えているからです。
»メルカリの組織は達成型?ティール型?これからの社会における組織開発とは – メルミライ – 未来を見るメディア
これを考えるに、おもいあたるのが「価値(お金)というものの源泉はどこか」という問である。
つまり、あなたがコンビニで働いた時に得られる時給1000円は、どこからくるのか?というものである。まず、明確なのはそのコンビニの売上の販管費という考え方である。いわば、安くものを仕入れて、高く売る。その差分がコンビニの粗利であり、この「高く売る」ための仕組みを成り立たせるのが、コンビニの立地であったり、売る人である。
これは理解できる。しかし、そうした場合、そのコンビニのものを買った人のお金はどこからくるのか?たいていは給料だろう。では、給料はどこからくるのか。給料は各産業の売上の販管費として存在する。
このようにしてお金は循環する。しかし、仮に世の中の人の給料が1/10になった場合は、どうなるか。倒産する会社はでてくるだろう。飲食店には人が入らなくなるし、エンタメにお金を使う人も減るかもしれない。人は最低限、生きるためのことだけにお金を使う。そこで削減されるのは、いわば経済の「付加価値」であって、価値の根源的な源泉ではない可能性が高い。
そういう時に最後に残るのは「衣食住」といわれるように人間がいきるのに欠かせない産業となる。「食べるもの」「きるもの」「すむところ」。特に食べ物が最後に残るだろう。裸でもいきていける。家がなくてもいきていける。しかし、食料は食べないといきることができない。
そう考えた場合、価値の源泉は「食べ物をつくる、とる、運ぶ、整理する」といった産業になるのではないか、という仮説にいきつく。
価値の食物連鎖で考えた場合、「食産業」が一番上にきて「着るもの」「住むところ」がある。これがいきるのに必要な産業であり、ベーシックインカムの対象となる分野である。あるいは「治安維持」に関するものも命にかかわるものなので必要になってくる。あるいは医療も必要なものかもしれない。その下に、本能に近い「性産業」などもくるかもしれない。そして、それ以外は、基本的に付加価値のビジネスとも整理できる。ゆえに、極端にいえば、この産業は0になっても、人類はいきていける。この産業がAiやロボティクスで効率化されれば、確かに、「ベーシックインカムはテクノロジーによって担保される=働かなくてもいきていける」という世界は成り立つ。
そう考えた場合、この「なくても人はいきていけるけど、あると便利だからなりたっている産業」は、まさに「働きたい人が、自己実現のために働く産業」になるのかもしれない。
そんなことを昨今の移民の議論などをみていておもいましたー