携帯メールの効用

今日、ものすごく天気よいね?
テンションあがってきた。
天気って素晴しいなぁ。
ということで今日のブログ2本目。
昨日、携帯メールをして思ったんですよ。
常々、このブログで言っているように、僕は携帯メールが苦手で。
嫌いじゃないんだけど、打ちにくい、というただ1点の理由だけで苦手なんです。
つまり、キーボードが携帯についてたら問題ないんだけど。
だから3文以上の文章はだいたい、PCメールで打って、自分の携帯に転送して
それから、それをコピーして、再度、メールを送るという工程を辿るのです。
そのほうがよっぽど早い。
でも、昨日はたまたま外から携帯メールを返信する必要に迫られて
PCから撃てず、携帯から打ってたんですよ。
で、その時おもった。
このうちにくさ。
つまり、このじらされ感?(謎 あるいは、このうちながら考える時間ができること。「
それって大切じゃないのかなぁ、と思った。
PCなら考えるのと同時に文字が出るから、なんか、つまり思ってるまま書いてますよ。
つまり喋っているのと同じ。
このブログの乱雑さとか、まさにそれを表している。
でも、携帯メールって、喋っている速度ほどには早くないから
どうしても、違う文体になる。
たとえば、考えながら打ってしまったりね。
それってば、PCメールと違う効用があるな、と思った。
携帯メールだと、やたら雰囲気の違う人いるじゃないですか。それってそういう効用があるのかなぁ、と思った。
そういえばPCのキーボードの並び方も、打ちにくさを敢えて出すために作成されたというけど、なんつーか、そうなんだよな、と思った。
そういう、「遠回り感」って意外と大切かも。
あと、さらにすげーどーでもいいんだけどさ。
いつだったかなぁ。
昨年だったかなぁ。なんか、初めて出会った人と必要に迫られて電話番号だけ交換したんだよ。だからメールは知らない。
で、でも、その時、相手からメールが届いて愕然とした。「なぜメールわかった!」と。、でもそれメールじゃなくて、いわゆるショートメール。同じキャリアだけ有効なのかな。電話番号に送れるヤツ。
あれ、存在は知ってたけど、そういうことに使えるという想像力がなかったから感動した。
つまりさ、電話番号だけ聞いておけば、連絡が簡単に取れるというわけですよ。
たとえばね合コンとか、ビジネスでのアンオフィシャルの飲み会とかでさ
連絡先きかなアカン時あるやん
その時、電話番号って数字だから、ききやすくても、メールアドレスってききにくいよね。長いし、うちにくいし。
名刺にいれてたらいいんやけど。
だから、そんな時キャリアが同じだとわかれば電話番号きいて、あとでショートメッセージ送って、そこでメアドだけ聞けばよい。
そういえばこの機能って、携帯メールができる前、関西セルラーかなー。違う。ツーカーだったかな?がやってたんだよね。ショートメール。
わすれたけど、高校2年のころだから、1997年とか?
のころ、このショートメールが始めて登場したんだよね。確か。
それが丁度、この電話番号に紐づけてメールを送れるシステムだった。
いま、まさにそれが復興していると。
多分、こういうのって常識なんだよね?
僕が知らなかっただけで。でも、すげー便利と感動した記憶がある。なんというか合理的。
まぁ、いいや。

三連休の中日は、思い切り寝坊して珈琲。

戦友ゆうちゃんのブログで見かけた一文に痺れた。

DailyTokyo:麻布十番はやくざな町か

こちら。

トーキョーではいまこの瞬間も
いろんな誤解が生まれている

おー、そうだよね。と思った。

誤解ほど世の中にスパイスを効かせてくれる厄介で困難な認知バイアスはなくて。その誤解を解くのに人は言葉に言葉を重ねて、さらに誤解を生産していく。

まさに人とはまさに誤解生産機。喋れば喋るほど、なんだか間違った方向に突っ走る。

コミュニケーションたるや、まさに誤解を前提になりたつわけあるよ。

お互いが分かり合えないのを前提に、それでもなんとか徒手空拳で我らは言葉をつむぐ。結局は行間をため息で埋めていくことになるのだけれど。まさに、浜辺で砂山を作るよう。その様は、砂上の楼閣。

で、そんなことを考えていると示唆フルな一文に再度出会った。

sunnyのブログ
 #リンクしていいのかな。まずかったら後で消そう・・・。

ふわふわクラゲ-私のイキかた。

コミュニケーションが発生するにはそれなりの条件が必要となり
もし、それが発生しない場合に発せられるこの言葉。
これに、私はケースバイ、と同じ軽薄さを感じる。

「そういうつもりじゃ、なかったんだよ」

ケースバイって言葉、私もよく使うから気をつけなかんなぁ。ケースを列挙して、その場合の可能性を提示する場合は良いのだろうか。あるいは、全てのケースを包含するルールを出さないといけないのかしら。なんて。

ふーむ。なるほどなぁ、と、思った。

蛇足だけど、抽象的な文章、あるいは複雑な文章を読む時は、その文言を追ってはならないと思った。それより大切なのは、思考のトレースなんだよ。

つまり、どういう意図でこの言葉がでるのか。自分がこれを書くなら、どういう思考プロセスを得るのか、そういう視点で書かないと、その方々の文章ってのは、きっと読めない。

哲学書とかでもそうだけど。
多分。
そんなことをちょっと思った。

まぁいいや。

世の中は誤解で溢れている、それは正だとするならば。

それを前提で生きていくほうが良いのか、あるいはそれを見てみないで生きたほうが幸せなのか。

ケースバイだな、と思った。

グウェンステファニーねえさんとか?

いやぁ。別段なにがあったというわけではないのだけれど。

人の話ってのは怖いですね。そうですね。いや、人というかきっと自分も含めての人間全般の。

というのもですね、友達と電話やら話やらメッセやらするわけじゃないですか。その時に、「誰々」という第三者の話しもよくでるわけですよね。

で、その誰々というのが友達だったら、まぁ問題はないんですよ。友達なわけだから、まぁ、どんなことあっても大体の想定の範囲内(第三者から聞かされる話としては)。知らない人でも問題ない。『知らないから。

怖いのは知り合い程度。

知り合い程度の人の噂話ほど怖いものないね。なぜならその人のこと顔は知っているけど、よくは知らないから、友達から聞いた話がかなりクリティカルに、その人のイメージを形づくる。

しかもさ、そういう話って、多分9割がネガティブな話なわけですよ(原田観測)。それは、悪口じゃなくて、なんというか、そういう話のほうが話のネタになりそうなんだろうね。

で、つまりは、知らない間に知らない人のよろしくない噂ばっかりが回ってくることになる。いや、これワンダフル。ほんとに。ちなみにしゃべる人は悪くない。むしろ、そういうのは情報格差の均質化に寄与するので問題なし。問題は、噂のネタになるという行為のおそろしさ。あるいは、それを増幅、ないし誇張されてしまうパーソナリティの源泉。

たとえば、誰々が合コンで何々、とか。
誰々がメールでいきなり何々、とか。
彼は/彼女は○○だから○○だ。

みたいな。

いやさ、私もそんな言葉に基本はまどわされたくないっすよ。でも、一回頭に入って形成される先入観って強いのですよ。しかも、それなりに信頼している友人から聞く話だと特に。

そういうのを自分が色々聞いていると、改めて悪いことはしちゃいかんなぁ、と痛感するわけです。悪いこというか、あばかれて辛いこととか。うん、悪いことってより、恥ずかしいことはすると危険だなぁ、と。

いや、こんなこと書いている僕も当然例外ではなくて、きっと他者様へは、ネガティブな話が伝わっていることは多々あると思って、もうその辺は床屋の井戸に向かって叫ぶしかないわけだけどね。

なんつーか。

まぁ、いいや。いわく「陽のあたる道を歩め」というか、なんというか、ね。

まぁいいや。別の話。

先日、作業しながら、MTVをかけていたらグウェン姉さんのドキュメンタリーがあって。これね(↓)グウェン姉さん。

The Sweet Escape

で、ふといろいろ思い出してしまって。グウェン姉さんはノーダウトなわけだが、サンタモニカによく遊びにいっていたころ、車によくかかっていた気がする。

あのサンタモニカの朝の高速の渋滞はありえないわけですよ。カープールさえもナンセンス。1時間くらい時速10キロとかのレベルだったような気もするけど、やや誇張。まぁいいや。

で、グウェン姉さんかっけえよ、やっぱり。マドンナっぽなぁ、と思っていたrあ聞くところによると、マドンナをプロデューサーした人がかんでいるんだとか?

てかマドンナいいよねえ。いつまでも現役。凄すぎる。こないだ雑誌で見たけど毎日2時間とか運動してるんだっけ?女版シュワルズネッガーか。

ということで、グウェン姉さんの会心の一作。はらじゅくガールズも登場です。

動画で思い出したけど、だいぶ前にかんちゃんに教えてもらった動画。


これ。

面白かったー。ショートフィルムなめちゃいけねえと思った。長いので作業しながら聞きながら見るのが吉。

で、動画といえばニコニコ動画。かなり古いいまさらな話だけど。一応おいておきますね。面白いね。

ニコニコ動画(β) | 粉雪 (YouTube)
ここで一番有名な動画?でも大分削除されていた。

ニコニコ動画(β) | リアル ストリートファイター (AmebaVision)
スト2もかなり削除されていた。しょうがないのでリアル版で。

philosophia de nada

情報っていうのは知っているだけでは価値がないのである。
それは別段、どこぞの本でありふれて語られているような「知恵」と「知識」は違うんだ、みたいなことを言いたいのではない。
情報というのは使うことに価値があるのはAgreeされるか。ならば、その運用方法に価値があるということも当然の理。
たとえば。
たとえば、ある株が上がると解かっていてもその株を買わなければその価値はないように(勿論情報垂れ流しとかあるいは別の株で儲けるという手法とかもあるけどまぁ、それは誤差の範囲)。
つまりだね、たとえば、そうだなぁ。
「人生はこうである!」みたいなものすごい真理を知ったとする。
でも、本当にその真理を理解できるのは、あるプロセスとある条件下において可能なわけであって、誰しもがそれを体得できるわけではない。
つまり、一週間で出来るPHPや3日でマスター英会話を読んだからといって、万人が同じ結果を持たないのと同じ。
つまり、問題は是が何を意味するか、ということである。
それは、「情報は惜しみなく出せ」という哲学の価値が再検討されてしかるべきなのである。
つまり、情報を出したがらない人というのは、「この情報は人に知られたら、自分が損するから(あるいは他人だけが得するから)」とかで出さないことが多い。他の理由もあるけれど。
しかし他の人がその情報を知ってもあなたと同じように運用できるとも限らないわけである。
少し話をずらす。よく本や講演や人の話なんかで「情報は惜しみなく出せ。出す人に情報は集まる」という話をよく聞いていて。
まぁ、それってばわからないでもないのだけど、「なぜ」というのがわからなかった。
基本的に原理が理解できないものは信用してはならない、というのもひとつの哲学。
情報出すと集まるというのはわかるけど、それが即ち他の人にとっての情報の価値を下げるわけではない、ということは、時に情報を出すことによって、自分が相対的に損をする可能性もあるわけである。
勿論、+がそれを補う程度あればいいのだけれど、それは非常にケースバイであるから、そこには常にリスクが存在するということになる。
そう考えると、何かしらの条件下、あるいはルール下においての情報価値にはリスクフリーの常にポジティブのリターンを得られる価値があって、そうでない場合は、一概に適した手段とは言えないのではないか。
というのが原田の思いだったわけです。
しかし、上記のように、情報の価値というのは須らく等価ではないという前提にたつと、その情報を公開することで得るリスクは非常に限定的になるのかなぁ、と思った。もちろんゼロではないけれど。
つまり、情報って、生ものなんですよね。有名だけど。
運用しなくちゃ意味がない。価値がどんどん下がる。
そう考えると、へこむ(マイナスになる)ことがあっても、それ込みで運用した方が結果的にはリターンの方が大きくなるような気がした(なぜならそこでのマイナス分はフィードバックという点で+の効果もあるから、マイナスはある程度、相殺される。逆に+は、それの再投資による相乗効果がある。この効用から見ても長期的にはリターンの方が多くなる:前提としてプラスマイナスになる可能性が5割の場合)。
そういうことで、情報は惜しみなく出したほうが良いわけです。

人に惹かれるということは。

ふと思っただけなのだけれど。
人が人に惹かれる、平たく言うと好きになる、丸めて言うと恋する、って状況のトリガーの話。
きっとそのトリガーにはいくつか種類があって。たとえば、生理的なものもあれば、種の保存的なものもあるだろうし、あるいは性癖(後天的なもの含む)もあるだろう。
その1つとして、相手が理解できないから好きになる、という状況もあるのではないかと思った。
某アルハブロガーの下記の一行でインスパイアされただけなのだけれど。(ちなみに頭おかしいのはこの人です。確かに)

 頭おかしい。惚れた。

つまり、「頭おかしい=理解できない→惚れた」の構図。
これは付加逆で、惚れたからとて相手が頭おかしいとは限らない。
たとえば。
たとえば、村上春樹のピンボール(風のうただっけ?)で「月へ帰りなさいぼうや」と主人公は言われる。それは主人公の現実感のなさ、あるいは不可解さを皮肉ったものだ。
しかし、女はそれでも主人公と共にいる。不可解さが魅力なわけだ、多分。結局、結婚には結びつかないので、悲しいのだけれど。
ともあれ、こういうのってば、世の中に往々にしてある。
自分自身を思い返しても、それが恋愛感情ではないにしろ、理解できない人には、強烈に惹かれてしまうのは、世の理である(男にしろ、女にしろ)。
ただし、条件つきでそれが安全側に倒れた「理解できない」場合に限り(これは森さん独特の表現。安全側というのは、人間が対象をバイアスをかけてみてしまう場合に2種類あるのだが、それが安全側ということ。もう一つは危険側。つまり過大評価が危険側で、過小評価が安全側と考えるとわかりやすい。自分にとっては過小評価されているほうが安全、という意味)。
最近トレンディな(悪い意味で)、ドメスティックバイオレンスも、こういうのと関係しているのかな。全然はなしが違うような気がした。物凄い勢いで。
その理由を考えてみる。
なぜ、人は理解できないものに引かれるのか。
それは多分、人間の生存本能ではないか。人間はとりあえず目に入るものは理解しておきたいという願望がある。だから、理解できないものは、理解しようとしたくなる。
そんな歴史の積み重ねににより、今、人間は河豚が食べれるし、キノコも食べれる。いわば怖い見たさ、ってのがあるのかも知れない。
自然は畏怖すべき対象だけれど、そこに身を投じるのは恍惚でもあるわけで。でも、それは対象を理解しようとするからなのだろうか?ちょっとそれはまた別で、どちらかというと心理学でいうタナトス辺りにかかってくるのかも知れない。あるいは、フロムの自由の概念あたり。権威には、人間はお手上げちゃん。
じゃあ、恋はまた別だな。
護衛本能ではなさそうだな。理解しにくいものは、遠ざけたほうが良いから。
人間のあらゆる行動は、ミーム的な意味での種(時に固体)の保存の原理に基づいているわけだから、きっとそこから解き明かせるはずなんだよな。
あ!そうか。自分が犠牲になったとしても、種(グループ、種族など)としては、対象を理解できるから、問題ないのか。これってば、そういえばザッキーさんが卒論でそういうのを研究していなかっただろうか。
村社会では、キチガイを作ることによって、その村の求心力を高める、というような。つまり、外部があってこそ、初めて内部が生まれるというようなパラドキシカルな構造。
つまり、そう考えると理解できないものを愛するのは、人間全体にとって、それが有意義だからか。
なるほど!心得た。

世界に平和を。

いつかの話。
初詣の話になった。そこから派生して、神社に行くと願いごとをするかどうか、という話になった。
その方は「願いごとなんてしたことがない」という。
びっくりして「どうして?」と聞いた。

「もしも願いが叶ってしまったら、その神様にお礼に上がらなければならない。そんなの面倒くさい」

ということ。
その哲学に、私は腰を抜かすほど驚いて。その律儀さに。あるいはその本末転倒な哲学に。
しかし、それはそれとて立派な自分なりの哲学。すなわち誰にも借りは作らない、ってなものだ。
でも、私が言い返した。

「僕は、いつも世界が平和になりますように、と願ってるのはアカン?」

と。
これはマジメな話で、僕は何か願いごとをしなければいけない状況になった時、あるいは、オプションで願いごとを願っても良い状況になると、決まってこのお願いごとをしていた。多分、ものごことつく前からだから、小学校前とかから。謎に仏壇の前でも、こんな呟きさえしていることがある。くわばら。
多分、なぜこんなナンセンスな願いをしているかというと、多分自己の願いは自分で成就させるものだと思っていて、相手がいくら神様であろうと他人任せにするのは癪だったからだと思う。小さいころの自分は。
もうひとつは、惰性で続いてしまっているのだろうね。
ともあれ、そういうと、相手の人はこう言った。

「ああ、その願いごとなら願っても大丈夫だよ」

と。
「なぜ?」と聞き返すと、相手の方はこう言った。

「その願いが叶うことはないから」

なんだか気になる言葉

先日の話。
多分、誰か・・・友人なのか知り合いなのか誰か忘れてしまったのだけれど、いっていた言葉がある。

「電車でね、横の人が携帯で・・・」

という話だった。
その後の言葉は覚えていないし、どんな文脈だったのかさえも覚えていない。
でも、僕はそれを聞いて、なんだかとても気になって、それを無印のメモ帳に書き留めておいた。今日、部屋を片付けていると、そのメモが出てきた。すっかり色あせて、記憶も色あせている。
でも、だからこそ、その言葉に強くひっかかった。隣の人は携帯で何したかったんかなぁ。
「電車で隣の人が携帯で」何をしていたのかが気になったんじゃない。もっと言葉にならない何か。がんばって言うならば「見ず知らずの人と、場所を同じにしたというだけで、コミュニケーションが生まれたという不思議」というような。
SNSやWeb2.0ごにょごにょと今後のコミュニケーションを考えていたので、そんな友人の何気ない一言が物凄く気になった。
いわば、サスペンス映画の最後の辺りにフラッシュバックするシーンみたいな。心臓ドキドキするよ、みたいな。シックスセンス参照。
でも、この「電車の中で隣の人が携帯で」ほにゃららという事を友人から聞いた僕はそれをブログに書いているわけで、よく考えると「今の読者」「僕」「僕の友人」「友人の隣に座った人」「隣に座った人が携帯で連絡を取った人」の連鎖が生まれているわけである。5degress!!!
六人で世界が繋がるならば、あと1人いれば世界がつながりますね(※ sixdegreesはそんな意味ではない)。ともあれ、しかも、それが実はたった一瞬で起こったんですよ。その友達と隣の人が座った瞬間。その一瞬が、結果的には、5次元のコミュニケーションを生み出した。
物語はそこに何も起こっていないのにも、関わらず。つまり、語られるべき内容がないのに、形式だけが右から左に動かされる。
なんだかとっても不思議だったのです。

筒井康隆御大のお言葉

第16回三島由紀夫賞選評
はてブより。2003年だかの記事らしいけど。
三島由紀夫賞の選評です。「阿修羅ガール」という本の。

書くことが他にないのかと思えるほど男女の愛やデートやセックスの話ばかりであり(何度も言うようだがセックスとは書くものではなくするものだ)

キッタコレ。筒井御大節。

 近年、某社からやたらに若い女性の書き手が登場するが、本来的に二十歳以前の文学は無理なのである。

しかし、あの後も女流作家はどんどんでてきていらっしゃいますよ!
最近は、オナコーラというファンキーな人まで!本は面白かった!
タイトルは「私のセックスを笑うな」。何がよかったかって、高橋さんのあとがき!

だいたい井伏鱒二やトオマス・マンが毎年ふたりも三人も出るわけがないのであって、売り出すとすればまさにその年齢でしか書けない感性によるしかないのであろうが、そんな才能だけでいつまでも書けるわけがなく、大学に入ってからの文学修業など知性の末端肥大や混乱を招くだけであって、彼女たちの将来を考えればティーンエイジャーの文学デビューをここいらで打ち切りにした方がよいと考えられる。

これってあれか。
蹴りたい背中のこと?あるいは金なんちゃら何がしの蛇とピアス?

出版社はホリプロではない。ティーンエイジャーの女性文学者だけで「モーニング娘。」を作ってどうするのか。大人の読者を馬鹿にした所業としか思えず、架空の想定による彼女たちの追っかけめいた若い文学愛好者など当てにしてはならない。

この断言かっこいいなぁ。
うん。実際、わたやりささんの本は紀伊国屋で立ち読みしたけど、何がいいのかこれっぽっちもわからなかった。

彼女たちのデビューを邪魔しようとするものではないので、彼女たちに相応しい別ジャンルでの活躍は大いに望まれるが、少なくとも文学を標榜することは慎んでいただきたいものである。

きゅぁかっこいい。てかここまで引用しすぎて大丈夫かしら。
だろ。
師いわく、小説家になるのは30歳でも早すぎるのだ。40歳からっていってたかなぁ。忘れたけど。サラリーマンせずに小説がかけるか的な。
ちょうど、先日、阿修羅ガールについて書いたところだった。蛇足だけど。
2006年、原田の眉間を刺激した小説12冊

いわく、佐藤 友哉と西尾いしんと舞城 王太郎。だったよね?嘘だったらごめん。ノベルスの王者か。メフィストの3人集だった?まぁあやふやな記憶。

いやさ、僕も文学なんかいう気高い言葉を使う気はないけどさ、うなんか、ふわふわしたよくわからんので賞とりはると、「本の底力」ってのが見くびられてしまう恐れがあるのではないかとオムわけだよ。そうすると先達たちへの冒涜になるわけだよ。だから、やはりここは一線をかす必要があるわけですね。
「あれは単にブームでした」というような。
確か、これも筒井さんの言葉だったと思うのだけどね。
SFショートショートの書評で。
「アイデアだけは抜群にある。しかしアイデアだけで本はかけんのだ。基礎ができていないと話にならん」と。なるほど、と思ったことよ。
ほんで、また別のところで、1999年くらいだったと思うのだけど。もう少し前かな。
「今は、小手先だけ上手い人が増えた。しかし、文学というのは、そういうものではない」と書いていて。おおなるほど。と。
これってば、多分、**のときの**さんのことを評してはったんだと僕は認識したのだけど(ともあれ、それは当時のことなので現在の平野さんとは別問題というか、原田は関知せず)。
まぁ、しかし、あれだよ。
セックスは書くものではなくてするものだよ。村上龍御大にいっておいてあげてください(いい意味で)。
しかし、友人いわくセックスはするものではなく、持つものだ、という深い名言はある。
さらにはセックスはアンカウンタブル(不可算名詞)なのに、回数は数えられるという不思議な単語。ゆえにI have a sexではなく I have sexだった気がするけど、これ回数の場合は?timesがつくのね。なるほど。
あと幸せも望むものではなく感じるものです。

2006年、刺激した小説12冊

さて毎年恒例(嘘)の本紹介です!
本がないといきていけまっせん!今年もなんだかんだ100冊くらい読んだでしょうか(多いか少ないかは別として)。社会人なって読めなくなるかおもたけど、仕事で疲れたら、逃げるように読書していた記憶がある。
ということで2006年読んで面白かった本10冊(発売日が06年ではなく原田がよんだだけ)。
去年はこうでした。
2005年、原田の脳髄を刺激した小説12冊
こんなのも書いたなぁ。
最強の現代青春小説 12冊
ちなみに、一作家一作品に縛りました。でないと、伊坂さん、石田さん強すぎる。
ほんでは。


■番外 模倣犯

模倣犯1
模倣犯1

posted with amazlet on 07.01.09
宮部 みゆき
新潮社
売り上げランキング: 48932
おすすめ度の平均: 5.0

4 覚悟を持って読んでください 二三日徹夜が続きます
5 渾身の大作 破壊された人格が生む悲劇
5 大作

番外にしたのは1月くらいに読んだから感動が薄れていて、順位に入れにくかったから。
あと、壮大すぎて評価難しい。面白かったという記憶はある。ミステリーの女王、宮部みゆきここに健在。
でも江戸ものばっかりかかんと、たまには龍は眠るとか、レベル7とかみたいなの読みたい。ドラクエしすぎだ。

■10位 流星たちの宴

流星たちの宴
流星たちの宴

posted with amazlet on 07.01.05
白川 道
新潮社
売り上げランキング: 93860
おすすめ度の平均: 4.0

4 狂った時代に踊った日々
4 ブラックマンデーの翌朝は?
5 バブルの裏側で繰り広げられていたドラマ

広告代理店出身の作家って有名なのは3人くらいしかいなくて、1人が、なんちゃらという人。萩原浩?
ともあれもう1人が、あれだよ いおりさん。藤原伊織。あと、あれだ。この人、白川さん。だよね?嘘?
まぁ、ともあれ。面白いよ。バブル前の、株の世界に飛び込んだ男の物語。半分実話だとか。ヤクザとの絡みとかサンクチュアリを思い出して面白かった。
この人は短編で知ったなぁ。なんちゃらグラスっていう短編がよかった記憶が。

■9位 阿修羅ガール

阿修羅ガール
阿修羅ガール

posted with amazlet on 07.01.05
舞城 王太郎
新潮社
売り上げランキング: 8255
おすすめ度の平均: 3.5

4 すごいとは思う
4 どーん!
2 純文学?

なんだっけ?現代の新鋭3人集の1人。
いわく、佐藤 友哉と西尾いしんと舞城 王太郎。だったよね?嘘だったらごめん。ノベルスの王者か。メフィストの3人集だった?まぁあやふやな記憶。
ともあれドッタバタが面白い。
メモを見たらこう書いてた。

後半が、カオスに向かって加速しすぎ。
リミッター振り切っている。

■8位 ゆっくりさよならをとなえる

ゆっくりさよならをとなえる
川上 弘美
新潮社
売り上げランキング: 71072
おすすめ度の平均: 4.5

5 ゆっくりさよならをとなえる
4 さびしさがうつるけどたのしい
5 かっこよくて憧れる!

なんか内容ちっとも覚えてないのだが、すげー面白かった記憶がある。
それから川上さんに傾倒して文庫はかなり読んだ。
どうせ○○のようなヌルイ小説だろ、とか思ってたんだけど、独特の世界は凄い。いや、凄いっていう形容詞って、非常に語彙が貧困な感じがするけどあれですよ。じゃあこういえばよいかな?
河童とシリトリしてまけた時の心境?
そんな感じ。
難しい言葉で言えば、四角定規。

なにしろ小説を書くときには、
なるべく直接な説明というものをしたくない。「悲しかったです。」と書く代わりに、「空がとても青くてジェット機も飛んでいて、私はバナナパフェ
が食べたかった」などと書いてしまうのが、小説である(多分)。

■7位 上海ベイビー

上海ベイビー
上海ベイビー

posted with amazlet on 07.01.05
衛 慧 桑島 道夫
文藝春秋
売り上げランキング: 125991
おすすめ度の平均: 3.5

4 色々な単語が思い浮かんでくる
1 日記
5 表現がとてもキレイ・・・

これ前のエントリーで書いたから説明省く。
上海ベイビィ

■6位 MISSING

MISSING
MISSING

posted with amazlet on 07.01.05
本多 孝好
双葉社
売り上げランキング: 105257
おすすめ度の平均: 4.0

3 MISSING
4 結構好きです。
5 痛々しい程・・・

本多さんはめっけものだったね。
06年に出会った一番良い作家かも知れない。短編が多いんだけど、なんつーか、雰囲気がいいんだよ。春樹系?ちょっと違うかな。
でもウィットが聴いていて。事件はおこらないんだけどね。なんつーの?土曜日の転寝からめざめたあとの布団のぬくもりというような嬉しさ?
この短編の瑠璃っていうのが珠玉。
下記も原田ライブラリより。
この比喩、すばらしすぎないですか?これに共感してくれると嬉しいなぁ。嫌いな人は嫌いだけろうけど。

一ヵ月後に訪れたその年の夏は暴力的とも呼べる暑さだった。
「文句あるなら言うてみいや」と太陽がなぜか関西弁で啖呵を切りながら空を独占していた

女の人は警戒した顔つきで聞いた。パーマのかかった髪を乱暴に後ろで結びワンピースを着ていた。べつにどうでもいいんだけど、裸ってわけにもいかないし、という感じの着こなしだった。
ご飯とおかずが一緒になっているという理由でオムライスを好むタイプだ。

「ダースベーダがきたことにしよう」と僕は自分に言い聞かせた
「夜中にダースベーダがやってきて、ライトサーベルで車をむちゃくちゃに壊したんだ」
「どうしてダースベーダが車を壊すのよ」
散歩中の犬と飼い主とをまとめてひき殺しそうになりながらルコは僕に効いた
「きっとそこにルークスカイウォーカーがいると思ったんだ」と僕は答えた。

■5位 運命の息子

運命の息子〈上〉
運命の息子〈上〉

posted with amazlet on 07.01.05
ジェフリー アーチャー Jeffrey Archer 永井 淳
新潮社
売り上げランキング: 73355
おすすめ度の平均: 3.5

2 ラストで台無しに・・・
4 運命のいたずらに翻弄される双子の兄弟の話
3 もうそろそろ飽きてきた。

ひさびさにアーチャー読んだよ。
牢獄なげーよ、オッサン。
中学校のころからだから、かれこれ10年以上も溺愛する作家。
いろんな意味でイギリスを代表するオッサン。短編が強いけど、独特のアーチャー節の長編も有名という両方できる鬼な人。両方できる人ってあんまりいないよね。
こんかいは後者。いわゆるアーチャー的物語。立志伝?
成長物語っていうんですか。いわゆるドラゴンボール的。ちっひーとかに是非とも読んで欲しい。
あと政治関係の本としては昨年、「ダイスを転がせ」も読んだけど期待していたわりには、超いまいちで泣けた。

■4位 秋葉原@DEEP

アキハバラ@DEEP
アキハバラ@DEEP

posted with amazlet on 07.01.05
石田 衣良
文藝春秋
売り上げランキング: 38933
おすすめ度の平均: 3.5

4 漫画のような読み易さ
1 ラノベ?
2 専門家にはオススメしきれない

いやーなめてたよ。てかさ、石田良衣さんってさ、何からよんだったんだっけなあ?なんか初めて読んだ本がイマイチな本で、ちょっと苦手な印象があったんだよ。
でもさ、この本を友達が読んでいるのを見てためしに読んでいたら感動した。泣けた。
なんてここまで完璧なエンターテイメントを書けるのだ、と。いやラストに関してはみなまで言うな。やむなし。
それから、14と娼年を再読。さらに、ウェストゲートパークまで読んでしまった(ドラマ化されて毛嫌いしていたのに)。
いやー、エンターテイメント性を批難する人もいるかしらんけど、ここまで完璧にドラマトゥルギーを書き切れたらそんなの凌駕しますですよ。R25のエッセイもちゃんと読むようにしよう。
このベタさ加減がかっこいいんだ又 ↓。

わたしたちは本源的な予測不可能性を指して未来という

■3位 ダブルダウン勘繰郎

ダブルダウン勘繰郎
ダブルダウン勘繰郎

posted with amazlet on 07.01.05
西尾 維新
講談社
売り上げランキング: 56122
おすすめ度の平均: 3.5

4 西尾が
4 一番『楽しめた』一冊。
5 とてもよかったです

西尾さんいいよねー。天才だよねえ。森さんいなき今(います)、もうノベルスを背負うのは彼しかいない(そんなことはない)。
でもちょうど「彼がいなくなったら、小説界つまんなくなるよなぁ」と言っている友人がいて、なかなか同意。○談社の○藤兄とも意気投合した覚えがある。
まぁ最高傑作は戯言シリーズという向きもあろうが、僕は全部読みきれてないので(3作目あたりまで、たしか。くびきりハイスクールまでだったかな)、ともあれ、これよかったよ。
あと、なんだっけ?「りすか」もさー、「またシリーズものかよ」と思ったけど、さすが維新。すげーよ。泣けた。あの筆力とこのスピードハンパない。てか、彼って僕より年下だったのでは?違う?
ともあれ、これは清涼院流水と組んでいるとかんでたけど、登場人物が流水さんの人なの?知らないんだけど。これもつい先日仕入れた情報なので未確認。流水さん本なげーよ。挫折した記憶がある。
ともあれ、これかっけーよ。
ベタだけど、ベタにかっこいい引用。

カールマルクス曰く最後の言葉なんてものはいい足りなかった無能のためにある

■2位 四季 春

四季 春
四季 春

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森 博嗣
講談社
売り上げランキング: 3140

森さんは四季で才能を使い果たした説もあり(友人曰く)。
スカイクロラシリーズが好きな人はいいんだろうけど。こないだ読んだなんちゃらも泣けるほどぱっとしなかった。でもエッセイはやはり今でも読んでしまう。
ともあれ、でも、この四季だけでも、なんというかそこら辺の小説家をなぎ倒すほどの力があるような気がする。
いわばM&Aと、なんちゃらシリーズ計20冊前後の集大成にあたるこの四季。四巻セットだけど(春、夏、秋、冬)。
てか、やっぱり、森さんのこのシリーズは、「すべてがFになる」から全部読んで欲しいですよ。この伏線に感動しますよ。20冊以上の物語が絡まって1つになる瞬間は鳥肌もの。さいかわ先生萌え。

■1位 重力ピエロ

重力ピエロ
重力ピエロ

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伊坂 幸太郎
新潮社
売り上げランキング: 2989
おすすめ度の平均: 4.0

4 うらやましい兄弟愛
5 春が二階から落ちてきた。
5 未知・悲壮・繋がり

これもいつぞやか引用したけど、やっぱり伊坂さんすげーよ。
も引用したけど。

「本当に深刻なことは陽気に伝えるべきなんだよ」
春は誰に言うわけでもなさそうで噛み締めるように言った。
「重いものを背負いながら、タップを踏むように」
「ピエロが空中ブランコから飛ぶ時、みんな重力のことは忘れているんだ」

まず、どの小説もほぼ平均以上のクオリティがある。
重力ピエロを筆頭に、砂漠だとか、オーデュポンだとか、陽気なギャングだとか全て死ぬまでに読んでおきたい一冊。ただやはり青春ものか。
前までは、友人に「何の本おすすめ?」と聞かれたら、安全牌として「村上春樹」「ポールオースター」「村上龍」「宮部みゆき」「山田詠美」あたりを相手の嗜好にあわせて勧めていたのだけど、最近は伊坂いちおし。
さてさて。
昨年内にしようとしてたのに年が明けてしまった。
なんかおもしょい本あったら是非とも教えてくださいまし。
さて、本年もがんばりませう。

上海ベイビーをやっ

上海ベイビーをやっと読了した。
読み始めてから1年もかかってしまった。
詰まらなかった、だとか
分量が多い、とかではない。
ひとつは、読むのにあまりにもパワーがいる小説だったこと。
もう一つはゆっくり読みたかったから、時間がかかった。
筆者は、衛 慧という。
weihui、なんと奇麗な字面、そして音。
上海では、この衛 慧の別の作品を翻訳している方と
お会いする機会があった。
あれは何というホテルだったろうか。
そこから連れて行ってもらった食事亭は、非常に味のあるものだった。
民家の中にテーブルをおいただけのようなところで。
実際、夜中になると、テーブルがどかされ、そこに布団が引かれる。
トイレは公共のトイレを使う。
でも、食事の味は絶品で、炒飯がとても美味だったのを覚えている。
そして麻婆豆腐と。
さて上海ベイビー。
この小説は、村上春樹におけるフィッツジェラルドのような意義が
私にはあるように感じた。
村上は、グレートギャッツビーを評してこう言った。

いつ読んでも、どのページを読んでも無駄な一行がどこにもない。
気が向いた時にぱらっとページを捲って、目に入った行をゆっくり読むんです

というようなことを(記憶なので曖昧)。
つまり、いわば、最初から最後まで時系列で読む必要はない。
ぱらり、とめくって、そのページを読むだけでも楽しむことが出来る。
世界には、そういう小説は数多くない。
そして、どのページにも一行は珠玉の一行が含まれている小説なんて
尚更ない。
多分言葉の美しさに惹かれたのかも知れない。
例えば。

創作こそが私を唾棄すべき凡人たちから分け隔てうるものなのだから、私をボヘミアの薔薇の灰燼のなかから蘇らせるものなのだから

ボヘミアの薔薇の灰燼ってば、そんな言葉、よく出てきたねぇ、とか。
あと、非常に山田詠美と印象を似ているように思った。
例えばこのようなところ。

冷たい態度にはそれなりの態度で応じなければ不公平だ。
私はそうやって自分を守る

山田さんのどっかの小説でも同じフレーズがあっても何もおかしくない。
詠美好きな誰々さんとかは、きっとこの小説気に入るだろうなぁ、とか思ったり。
あと個人的には、この辺の一文では、ジャンフィリップトゥーサンを思い出した。
そのままだけど。

彼にとってお風呂はすべての面倒を解決するために真っ先に行くべき場所であり、
浴槽は母親の子宮のように暖かく安全で幸せな場所だった。
清らかな水で身心を洗えば自分が夜の塵粉から離れ、
うるさいロックミュージックからも離れ
やくざやチンピラやごろつきからも離れ
自分を痛めつけるいろんな問題や苦痛から離れることができるのだ
ともあれ、それで、上海の事を色々思い出した。
思い出していると携帯が鳴り出した。
そこで、さらに、上海で携帯電話を無くしたことも思い出した。
そう考えると、上海の一ヶ月は携帯電話なしで過ごしていたのだ。
無論、海外旅行行く人のたいていはそうかも知れないけれど。
でも、やっぱり日本にいて、携帯がない生活というのは
なかなかイメージしにくい。
携帯がなければ、友人の日々のコミュニケーション云々は
PCメールや手紙やメッセンジャーで代替できても
待ち合わせや、仕事の段取りなどは大きく支障をきたすだろう、と。
それに携帯を持っていて鳴らないならばならないなりに
携帯の効用がある。
それは、世界は須らく予定通りに回っているということを知れるからだ。
誰かが事故にあったわけでもなし、
あるいはあの予定がスケジュールされるわけでもなし、
または、親が他界したわけでもない。
携帯がならないことで、我々は、世界が平穏だということを知ることが出来る。
その点においても携帯の効用は大きい。
でも。
でも上海ではその携帯さえもWorkしなかった。
親は僕に連絡を取ることは出来なかっただろう。
そして、唯一外界との連絡網は、すぐに切れる大学寮のPCだけだった。
陸の孤島というには、あまりにも人民広場から近い大学だったけれど、
それでも、今、思い返せば携帯のない生活は
やはり悪くなかったように思う。
上海ブギウギっ